56-影


 椒図の力が解けて開いた宵街の中は、常と同じように存在していた。上下に続く石段、そこに沿って並ぶ赤い酸漿提灯。上へ行くほど暗く、足元には蔦が絡まる。まるで下から来る者を拒んでいるようだった。

 しゃんと鈴を鳴らして杖に乗り、鵺は科刑所へ向かった。隙があれば罪人の烙印を解除する解除印を狴犴の部屋から持ち出すため、何も知らない振りをして狴犴に会いに行く。何も知らなければまずは、閉じて出入りできなかった宵街を不審に思い、狴犴に尋ねるだろう。

 以前狴犴は椒図に閉じてもらうなどと言ったことがある。脱獄した椒図について何処まで推察しているのか、確かめておく必要もある。睚眦がいさいの拷問中に消えたのだから脱獄は必ず耳に入っているはずだ。

 科刑所に入る前に、暗がりで蔦を避けている地霊が目に入った。蔦はすぐに蔓延るので、出入口だけはこうして偶に地霊が足元の蔦を刈っているのだ。ずんぐりとした黒い背中は暗がりで視認し難く急に動くと驚くが、今は丁度良いと声を掛けた。地霊はすぐに手を止めて振り返る。土竜のような鼻をひくつかせ円らな瞳でじっと鵺を見詰めた。

「この杖を狻猊さんげいの所へ持って行って修理してもらえるかしら? なるべく早く仕上げるように頼んでおいてくれる?」

 変換石がボロボロに砕けた獏の杖を差し出すと、地霊はすぐにのそりと受け取った。蔦の処理もそこそこに『なるべく早く』の言葉通りすぐに行ってしまう。何故壊れたか、は訊かれることはない。地霊は言われたことに従うだけだ。

 一つ仕事を終えて杖に関しては安堵する。どうにかして壊れないようにできないものかと思うが、杖の強度の問題ではないのでお手上げだ。使い捨ての杖など聞いたことがない。

 おそらく烙印による拘束が緩いのだ。獏の烙印は他の罪人とは少し異なる。それはあの蜃の作った街を出入りするために拘束を緩くせざるを得なかったからだ。その所為で獏ほどの力の持ち主だと簡単に力が漏れてしまう欠陥があるようだ。

 色付き型板硝子の窓の前を飛び、迷うこと無く狴犴のいる部屋の前へ辿り着く。扉を開けるといつも通り徒広い部屋の中で狴犴が机に向かって書類に目を通していた。

「鵺か」

 一瞥だけし、狴犴は書類から目を離さない。鵺は杖から降り、木履を鳴らしずかずかと机の前へ歩いた。

「宵街に入れなかったんだけど」

「ああ、椒図の仕業らしい」

 何という風もなく、涼しい顔を崩さない。少しくらい焦っているのではと思っていたが、その様子はない。

「前に言ってたけど、本当に椒図に閉じてもらったの?」

「私は何も言っていない。椒図が勝手に閉じたようだ。どうやったかはまだわからないが、睚眦の拷問の最中に逃げたらしい」

「逃げた? まさか、脱獄ってこと?」

「ああ。目の前にいた苧環も連れて脱獄した」

「何それ……何処へ行ったか見当は付いてるの?」

「どうだろうな。苧環の居場所はわかるが、共に行動を続けているなら、同じ場所にいるかもしれない」

「お前……よくそんなので冷静でいられるわね……」

「そうか? それは私も思う」

「?」

 顔を上げずに意味深長なことを言う狴犴に鵺は眉を寄せた。その瞬間、床から太い棒が幾つも突き出し、檻のように鵺を囲った。

「何なの!?」

「そうだ。鵺はそうでないと」

「何言って……」

「鵺がそんなに冷静でいられるはずがない」

「失礼ね! 冷静を努めてるのよ!」

「まず最初に、宵街に入れなかったことの文句を言いに来た。自分の問題ではないと理解しているように。他の誰かと接触し同じように宵街に入れないことを確認したと見る。二つ、脱獄と聞いてあまりにも冷静だ。三つ、苧環が宵街にいたことに何の疑問も持たなかった。鵺は苧環が宵街に戻ったことを知らないにも拘らず。私は通達後に苧環の情報を宵街に一切流していない。細かい部分を含めればまだあるが、全て言うか?」

「……!」

 冷静さを失わないようにと考えながら話していたことが仇となった。まさかこんなにも早くあっさりと見抜かれるとは思っていなかった。

「反論無し。疑惑も正鵠、沈黙は罪だ」

「何で……っ」

「その疑問は何に対してだ? その中では力が使えないと言いたいのか?」

「全部よ! 全部!」

「その檻は罪人の牢に近い物だ。一時的に拘束させてもらう。椒図も獏の所か? お前も会ったんだろう? お前は元々獏に思い入れがあるはずだからな。獏に悪いようにはしないだろう。今は獏の味方か?」

「何言ってるの……? 思い入れって何よ……」

「見世物小屋にいた獏を檻から逃がしたのはお前だろう?」

「!」

 鵺は言葉を失った。恩を売りたいわけではなくただ可哀想だと思ったから獏を逃がした。それは誰にも言っていない。なのに選りに選って狴犴がそれを知っているとは夢にも思わなかった。それを知っていて何故獏の牢を鵺に選ばせたのか――鵺が獏を逃がした過去があったからこそ無慈悲な扱いはしないと考えたからだ。

「憐れで面白い獣がいると聞いていた。元々は弱者だったようだが、こうも化けるとは面白い見世物だ」

「まさか、お前が獏を見世物小屋に入れたの……?」

「それは私ではない。私が獏の話を聞いたのは、小屋に入れられた後だ。半信半疑で聞いていたが、罪を犯してここに連れて来た時は、実在するのだと驚いたものだ。それに、まだ強くなる素質があるらしい」

「……掌の上で泳がせてたってわけね。……全く、頭の螺子が緩過ぎるわ……」

 狴犴は立ち上がり、机の陰に隠れていた片手が鵺の視界に入る。しっかりと杖が握られていた。鵺が部屋に入って来た時から、いつでも動けるように準備していたようだ。

「私を欺こうとしていたようだが、目的は何だ? 何を懇願された?」

「別に。私は独断でここに文句を言いに来ただけよ」

「椒図が閉じたとわかっているのに、何の文句を言いに来たんだ?」

「全部よ! 全部!」

「全部……か。そればかりだな。詰まらない答えだ。睚眦に渡してもいいが、少しそこで頭を冷やしていろ」

 狴犴は溜息を吐き、鵺を尻目に部屋から出て行った。睚眦を呼びに行ったのかもしれない。

 狴犴が出て行き解除印を持ち出す好機だと言うのに、鵺は檻から出ることができない。聳り立つ棒の中では力が入らず飛ぶことができない。棒はよく滑り、登ることもできなかった。

「何なのよ、これ……っ」

 床との接地面を見ると、黒い模様が浮かんでいる。印のようだ。

(また印……! どうやって外すのよこれ!)

 印を刻むには少しばかり時間を要する。獣は本来の自身の力があるためそんな面倒な物を使うことは滅多にない。

(マキちゃんにもう少し話を聞いておけば良かったわ……きっと同じ手で遣られたはず)

 ここに睚眦を連れて来て拷問をするのなら、この檻は邪魔になる。抜け出すなら檻を解除する瞬間だ。だがそれは狴犴にもわかっているだろう。何か対策を取るはずだ。

(うぐ……何で皆チェスが強いのかわかってきたわ……)

 認めたくなかったが、鵺よりも頭が回るようだ。それでも自分の命が懸かっているのだ、自分の頭を回さなければならない。浅葱斑のように部屋に飛び込んで助けてくれる者もいないだろう。自力でどうにか抵抗しなければならない。

 初めから信用されていなかったのだろう。鵺は悔しさで奥歯を噛み、幼い相貌を険しく必死に頭を回した。


   * * *


 霧の掛かる透明な夜の街に、仄かに甘い香りが漂う。立て続けに問題が起こり、皆の磨り減った神経にそれは優しく染みた。

「スコーンが焼けたので、食べますか……?」

 食べる気力が残っているかと怖ず怖ずとドアから顔を出した灰色海月に、ベッドに座っていた動物面は微笑んで頷いた。チェスに飽きて寝そうになっていた黒色海栗もぱちりと目を開ける。

 それぞれに紅茶のカップを手渡し、黒色海栗と浅葱斑、そして黒葉菫が床に座っているので床にスコーンの皿を置いた。

「ジャムはスミレさんが、クロテッドクリームはマキさんが作ってくれました」

「マキさんが?」

 そういえば皆で菓子作りをしたと言っていたことを獏は思い出す。最初は黒葉菫も白花苧環を怖がっていたのに、随分打ち解けたようだ。最近は名前を呼ぶ時も親しげな変化があることに気付いていた。

「ボクも美味しくなるように念じてました」

「私も見てた」

 浅葱斑と黒色海栗も目で手伝ったと言いたいようだ。

「ふふ。マキさんの方には変な物は入ってないよね?」

「ジャムに色が似てるからと唐辛子を勧められましたが、入れてないです」

「その底意地は変わらないのか……」

「何かあったんですか?」

「前に紅茶に塩を入れられたんだよね」

 白花苧環が視察に来て暴れて、その罰で善行をすることになった時に紅茶に塩をたっぷりと溶かされた。濃く真っ黒になるまで茶葉を沈められ、それに囚われて他に何か入れられた可能性を考慮できなかった。いやそんなこと普通はしない。

「もしかして実は悪戯が好きだったとか……ですか?」

「いやいや、そんな可愛いもんじゃ……ああでも自分で可愛いものだって言ってたっけ……」

 掌ほどのスコーンを一つ手に取り半分に割く。まだ温かい。そこにジャムとクリームをたっぷりと載せて頬張る。三人も見様見真似でスコーンを割った。

「……美味しいけど、少し淋しいね」

 その一言で一様に皆手元に視線を落としてしまい、空気を重くしてしまったと獏は慌てて美味しいとだけ言い直した。

「椒図さんと蜃にも一応持って行きます」

「うん。行ってらっしゃい」

 盆を抱えて部屋から出る灰色の背も淋しげだった。

「……そうだ。皆に訊きたいことがあるんだけど」

 話を変えようと、獏は平素の声を装う。三人はしんみりとジャムとクリームを塗りながら顔を上げた。

「木霊、って知ってる?」

 一拍置いて先に黒色海栗が首を振った。

「宵街にいる花守らしいんだけど」

「聞いたことはある……けど、会ったことはないな」

 ジャムを多めに塗りたくったスコーンを齧りながら、浅葱斑は記憶を辿るように床に目を落としながら言った。

「花の世話をしてる精霊だよな。病院に欠かせない血染花を栽培してるから、その近くにいるって聞いたことがある」

「植物の変転人が遺す種についても知ってるかな?」

「種?」

「マキさんから種が取れたら、植えてあげたいと思ってるんだけど」

「そ、それって、苧環を生き返らせられるってこと!? 凄いじゃん!」

「生き返らせるとは少し違うかも。獣の化生みたいなものだと思う。記憶も無いんじゃないかな」

 興奮して腰を浮かせていた浅葱斑は床にぺたりと尻を突いた。顔や姿が別物で記憶も無いとなれば、それはもう別人だ。やはりあの白花苧環はもう戻らないのだ。

「蜃みたいに記憶が継がれればいいのにな……」

「それも含めて、木霊が何か知ってるといいなと思って」

「うう……それ以上はボクは知らない……」

 宵街にいないことの方が多い浅葱斑ではやはり知らないことが多い。俯くが、咀嚼は進んでいる。

「俺は会ったことあります」

 こちらはジャムとクリームを均等に塗った物をゆったりと食べながら、遠慮がちに黒葉菫が口を挟んだ。

「会ったの? 種について知ってそうだった?」

 有力な情報が得られるかと獏はスコーンを齧りつつ身を乗り出す。黒葉菫は思い出すように一度口を閉じ、もくもくと咀嚼した。

「病院の裏手から少し歩いた所に、温室のような空間があります。そこは明るくて、花がたくさん咲いてました。木霊はそこにいて、ずっと花を眺めてました。耳が遠いのか反応が薄くて、気付いてもらうのに苦労しました」

「スミレさんは何か用があって会いに行ったの?」

「単純に自分が元が花なので、育てられる花を見たかったからです」

「そっか。それで、会話はできたの?」

「結果から言うと、あまり……。置物みたいに座ってるので、まず見つけるのが大変でした。獣相手ならもう少し話してくれるかもしれません」

「獣か……。僕が直接話を聞けたらいいんだけどな……」

 狴犴がどう判断するかが問題だが、監視役の灰色海月が付き添えば宵街に行くことは可能だろう。善行を盾にすれば認められるはずだ。

「二度目ならすぐに見つけられると思います」

「じゃあその時は頼むね」

 監視役代理を務めた彼なら灰色海月のように付き添ってもらえば宵街に行けるだろう。

 問題があるとすれば、白花苧環がこの街で死んだことだ。それは狴犴にも伝わっている。それをどう判断されたかが定かではない。白花苧環の首輪は狴犴が刻んだ物だが、どういう状況でそれが発動し首を切ったのか伝わっているのだろうか。

「木霊は栗鼠みたいな尻尾が生えてます」

「へえ」

 栗鼠が花守をしているとは何とも御伽噺のようだ。

「栗鼠なら可愛いな。ボクも会ってみたくなった」

 森にいる可愛らしい栗鼠の姿を思い浮かべ、にこにこと浅葱斑はスコーンを齧る。黒色海栗は栗鼠の想像が付いていないようで不思議そうな顔をしている。

「早くこの騒ぎが落ち着くといいな」

「……そうだね。狴犴をどうにかしないと根本的な解決にはならないけど、そのためにはやっぱり烙印の解除印が必要だね」

 鵺頼みになってしまったが、狴犴に近い立場の執行人である鵺ならきっと隙を突いて解除印を持ち出せるだろう。その間に白花曼珠沙華のような刺客がこの街にまたやって来るかもしれないが、鵺がここに戻るまでは椒図に街を閉じてもらうわけにもいかない。鵺が街に入れなければ意味がない。椒図の金平糖の数も確認しておいた方が良いだろう。そして椒図の烙印の封印がいつまで持続するのか。時間はもうあまり無いはずだ。椒図は焦る様子を見せないが、自分の力のことなのだからある程度は予測が付くはずだ。



 その椒図は外で蜃と共に、声の届かない少し離れた所で拘束している白花曼珠沙華を見張りながら、灰色海月が持って来たスコーンをそのまま齧っていた。

「スコーンはパンのようでもあるな」

「パンは知ってるのか?」

「地下牢でも出されるからな」

「現代だとそうなのか」

「食事の内容が移り変わっていくのはなかなか面白い」

「地下牢を面白がるのは椒図くらいだろうな」

 苺ジャムを塗り付けたスコーンをこちらもそのまま頬張り、蜃は満足そうだ。

「烙印の封印は後どのくらい持ちそうなんだ?」

「そろそろ切れるだろうな。だが切れても然程状況は変わらないだろ」

「何でだ? 脱獄した奴の居場所がわかれば捕まえに来るだろ」

 それは至極当然の節理だ。逃した罪人をそのまま放っておくわけがない。

「僕は苧環を連れて姿を消した。その苧環はここにいると知られた。僕も同じ場所にいると考えるだろ? 大怪我をしてたんだからな。烙印を封じていても、僕の居場所はもうわかってるはずだ」

「……じゃあ何で捕まえに来ないんだよ」

「僕のことは二の次か、若しくは警戒、だな」

「警戒?」

「力が使えないはずの僕が杖を出し力を使う所を睚眦は見た。何故力を使えるのか、金平糖の存在を知らなければ理解不能だろう。僕の力はただ閉じるだけ……狴犴もそうとしか認識してないはずだ。僕はあまり力を使う所を見せなかったからな。弱い僕には興味ないだろ。弱いが何故力を使えるのか理解できない。それが今の狴犴の胸中だと思う」

 兄弟だから考えていることがわかる、というわけではないが、狴犴の心情はわかりやすい。強者を好み優先する。そこに付け入る隙はあると思う。無力な現状が状況を好転させないが。

「ま、変転人が来ても俺が何とかしてやるからな」

「次は獣が来たらどうするんだ?」

「それは……頑張る」

 少し考えてみたが、獣相手なら必ず勝てるとは言い切れない。子供のような曖昧な答えに椒図は笑い出した。蜃は不満げだが、事実勝算はないのだから反論はできない。


「あら、楽しそうですね」


 灰色海月ではない女の声に、蜃と椒図は同時に口を噤んだ。スコーンを置き、声のした方へ顔を向ける。頭に角が生えヴェールを被った女が柔和な笑顔を向けて立っていた。

「巫山戯たイカレ女!」

 蜃は杖を構えて立ち上がり、椒図を庇うように前に出た。次は獣が、と話した直後に獣が現れるとは、登場する機会をこっそりと窺っていたようではないか。

「お久し振りです。まさか椒図さんにまで会えるなんて思ってなかったです」

みずち……」

「前は不意打ちだったからな。正面からなら勝機はある!」

 蜃が獏を殺そうと躍起になっていた時、頭上から豪雨のように水の針を降らせてきた螭には敵わなかった。だが正々堂々と真っ向から勝負を仕掛けるなら対抗できる。先手を取ろうと先に杖の変換石を光らせると、螭は困ったように声を上げた。

「何か誤解されてますね? 待ってください。私は獏さんに用があって来ただけです」

「獏に……? 何の用だ?」

「順を追って話したいので、杖を下ろしてくれませんか?」

「…………」

 警戒させないようにか、螭は転送で使った杖を仕舞い敵意がないことを示す。蜃は背後の椒図を一瞥し、頷く彼に従い杖を下げた。だが仕舞いはしない。杖は握ったまま話を聞く。

「手短に話せ」

 螭は一先ず胸を撫で下ろした。

「まず最初に、鵺さんが地霊に頼み事をしたのです」

「!」

 鵺は今、宵街にいる。鵺が絡んでいるなら、良い情報も悪い情報もどちらも有り得る。

「狻猊さんに杖の修理を頼みたい、と言われたそうです」

「…………」

 杖の修理なら、きっと獏の杖だろう。先の件で獏の杖の変換石は粉々に砕けた。筋は通っているが、ここにその修理を終えた杖を持って来たのなら些か修理が早過ぎる。

「地霊は狻猊さんの許へ行き、杖を預けました。狻猊さんは、この杖の持ち主は馬鹿か? 壊し過ぎやがって、灸を据えてやる。と言ったそうです」

「……?」

「そして地霊に、修理が終わるまで杖の代替品を貸し出したのです。それを受け取った地霊は鵺さんの許へ行きましたが、鵺さんは受け取ることができず、私の所へ相談に来ました。壊れた杖の形状を聞き、それは獏さんの杖ではないかとここを訪ねたのです」

 螭の言葉に可笑しな所はないが、一つ引っ掛かる所はあった。椒図は立ち上がり、蜃に並ぶ。

「鵺が受け取れないと言うのは? 何かあったのか?」

「罪人さんに言って良いのかわかりかねますが……」

「僕に言えないことなら蜃に言ってくれ。僕は席を外す」

「その後、椒図さんが蜃さんから聞き出せば同じことですよね? ……ですが、そうですね……椒図さんはお優しい方なので、予てより御礼を申し上げたいと思ってました。その代わりとしましょう」

 にこりと微笑む螭には裏に企みなどないように見えた。螭に何か優しいことをしただろうかと椒図は考えるが、何も思い付かなかった。よもや螭の食事を美味しいと言ったことを優しいと言われているとは思わない。

「鵺さんは狴犴さんの部屋にいたそうです。鵺さんはそこで檻のような物に閉じ込められていたそうです。私もですが、地霊も狴犴さんの部屋には入らないので、扉の隙間から覗いただけですが」

「鵺が捕まった……?」

 鵺なら解除印を持ち出せると思っていたが、そんな甘いものではなかったのだ。狴犴と近しい立場の鵺でさえ警戒され簡単に捕らえられてしまう。どう勘付かれたかは知らないが、こんなにも早く手を失うとは思わなかった。


「――ねえ螭。何で君と地霊は狴犴の部屋に入らないの? 禁止されてるの?」


 黙り込んでしまった椒図の代わりに頭上から声が降る。見上げると、店の二階の窓から頬杖を突きながら見下ろす黒い動物面の姿があった。

「あら、獏さん。いつからそこにいらしたんですか?」

「ん? 蜃が大声で叫んだ辺りからかな」

 蜃が大声で叫んでくれた御陰で誰か来たとすぐに気付いた。螭が敵か味方か見定めようと様子を窺っていたが、おそらく螭はまだ敵でも味方でもない。まだこの異常な状況を理解していない。

「あらまあ、最初からいらしたんですね。地霊が狴犴さんの部屋に入らないのは私が止めているからですが、私が入らないのは入りたくないからです」

「それは何故?」

「ここから先は狴犴さんの力に関することなので、あまり他人が喋るのは良くないことかと」

「へぇ……それは興味深いね。僕はそれを聞きたいな」

「うふふ。何か面白い情報と交換でもしますか?」

 互いの腹を探り合い、双方微笑む。蜃は以前の二人の巫山戯た遣り取りを思い出し嫌悪した。

「面白い情報って言うなら、地下牢の罪人の椒図がここにいるのは面白いことだと思うけど」

「脱獄されたとは聞きました。正確には私ではなく地霊が聞いたことですが。睚眦さんの拷問中に逃げられたと。それで睚眦さんは大変機嫌が悪く、暫く拷問のお仕事は任されないでしょうね。すぐに殺してしまうと思いますので。なので椒図さんが捕まっても暫くは無事でいられると思います」

「それは朗報だな」

 突然話題の先を向けられ、椒図は戯けるように吐き捨てた。捕まった時の心配をしてくれて助かる。同時に、捕まった鵺もすぐに拷問に掛けられるわけではないと束の間の安心もした。

「お話の前に、先に杖をお渡ししましょうか。忘れない内に」

「ああ、そうだね。代替品を貸してもらえるなんて思わなかったよ」

 ドアを経由せずに獏はそのまま窓から飛び降り、螭の前に立つ。螭は布に包まれた杖を手渡した。布を広げると、様子を見ていた蜃が吹き出した。

「あははははっははは! それ……! ははは!」

 耐えきれないと腹を抱えて笑う。包まれていた杖はファンシーなハートの付いた可愛らしい意匠の物だった。

「…………」

「ハート! ハートの杖って……! ははは! 可愛いな獏ぅ!」

 獏はハートの杖を軽く振り、光の針を蜃に飛ばした。ハートは二重になっており、内側のハートが意味も無くくるくると回った。透かさず蜃は杖をくるりと実体の盾を作って防ぐ。

「ひっ、はは……回っ……こんなに笑ったのは久し振りだ……ごほっ、げほ」

「蜃、笑い過ぎだ」

 見ているといつまでも笑い続けそうなので蜃は顔を逸らし、地面に杖を突いて支えにしつつ背中を震わせる。

 漸く静かになったと獏はじっとりと蜃を睨み、だがそれは面に隠れていて見えることはない。

「……それで、代替品がこれになった理由を聞こうか」

 そんなに可笑しいかと螭は首を傾げながら答える。

「修理に出された杖は飾り気の無いシンプルな物なので、その逆で可愛い物を貸せば反省して簡単に壊そうと思わなくなると考えたそうです」

「……成程。変換石も小さいし使い勝手は悪そうだけど、無いよりは良いのかな……。もしこれも壊してしまったら、もっと怒られるかな」

「壊れることはないそうですよ」

「壊れないの? だったら今までの杖もそうしてくれれば……」

「制御装置も壊されてしまったので、そもそも力を注げないようにしてあるそうです」

「石の許容量のこと?」

「許容量を超えて注がれる力を止めようとするのが制御装置。ですがこれは止めるのではなく、許容量を超えた分は返却するそうです」

「返却? 僕に力が戻ってくるってこと?」

「どうぞ試し打ちでもしてください。地霊が言うには、そう煽っていらしたようなので」

「いきなり実戦で使う前に試しておいた方が良さそうだね。煽られたのが気になるけど」

 数歩下がり、誰もいない道の向こうへ歩く。形を気にしなければ只の杖だ。石は小さいが力を調整すれば戦うこともできるだろう。力で圧倒はできなくとも遣り方はある。

 霧の掛かる暗い道の向こうへ杖を向け、石が光る。くるりと回し、徐々に籠める力を増やしていく。

「――いっ!?」

 静電気でも走ったような衝撃が手に伝わり、杖を落としてしまった。

「これが力の返却……? 返却って言うより、反射じゃない……?」

 まだ指先が少し痺れている。

「放出した力は体内に戻せないということでしょうか?」

「そうかもね……。理性と集中力がない時は使わない方がいいだろうね」

 落ちた杖にそっと指先を触れ、何ともないことを確認して拾い上げる。可愛い見た目をして凶悪な細工の杖だ。

「話を戻すけど、狴犴の力のことを話そうと思う時って、どんな時?」

「そうですね……話した方が良い時、でしょうか。他人が無闇に力の内容を話して不利益を被るのは良くありませんので、誰かに危険が及ぶなど犠牲者が出る場合には話した方が良いと考えます」

「そう。だったら君は話さざるを得ないね」

 獏はにこりと微笑んだ。

「誰かが危険なんですか?」

 螭はまだ何も知らない。

「狴犴が通達を出したのは勿論知ってるよね。白花苧環を連れて来い、って」

「はい。それは宵街全体に通達されたことなので、皆さん知ってますね」

「でも皆、その後は知らない」

「後……? 進展があったということですね。確かにその後は何も聞かされてません」

「白花苧環は、狴犴に殺された」

「え……?」

 初めて螭は明確に動揺を見せた。想定外の言葉だったのだろう。目を伏せ、眉根を寄せた。

「どうして……」

「その情報なら、狴犴の力のことを教えてくれる? 狴犴はスミレさんも殺そうとしたし、生きてるとわかればまた襲われるかもしれない。他に死人が出る前に手を打ちたいんだ」

「…………」

 畳み掛けるように黒葉菫の名前を出す。黒葉菫に人の姿を与えた螭には充分過ぎる動揺の種だ。彼を変転人にしたことは他言しないでほしいと言われた手前皆の前では言わないが、螭には伝わったはずだ。

 彼女は奥の街灯に縛られている白い少女にも気付いている。状況を察することはできるだろう。

 それでも螭は悩んだが、命を力の情報と天秤に掛けるわけにはいかない。天秤に掛けるほど螭は狴犴と親しくはない。ただ旧知ではあるので不利になる情報は開示したくない。それだけだった。

「……わかりました。苧環さんが殺されたことが事実なら、知っていることはお話します」

「ありがとう。信じられないなら、死体を見せることはできるよ。マキさんは嫌がるかもしれないけど」

「面識がある方の死は辛いものですね……」

 螭は確認のために見ることを選択し、獏に連れられ煉瓦の家の中へ入る。椒図と蜃は白花曼珠沙華の見張りがあるので外に残り、椒図は獏と螭を目で追った。

 ドアが閉まり石畳に座ろうとすると、蜃は笑うことを止めて何処か遠くを見詰めていた。

「どうした? 蜃」

「……いや、何でもない。気の所為だ」

 フードを目深に被り表情は見にくいが地面に蹲み、スコーンの続きを頬張る。

「気の所為でも何か感じたなら、一応気に掛けておいた方がいい」

「ん……。でも有り得ないと思うしな。悪夢が――」

 俯いていた蜃は気付くのが遅れたが、闇から何かが飛び掛かる瞬間が椒図の視界に映った。

「っ!」

 咄嗟に蜃の体を掴み、地面を蹴った。石畳に闇と同化しそうな黒い触手が突き刺さる。椒図は蜃を抱えたまま地面を転がった。

「……悪夢……?」

 人間を覆うほどに大きなその黒い塊に二人は見覚えがあった。神隠しに現れ計画を叩き潰したあの黒い塊と同じだった。二人は体を起こし、更に距離を取る。

「蜃の感じたものはこれか?」

「嘘だろ……街の端からは入って来ないはずなのに……。端の奴とは別の奴なのか……?」

「その判断は獏にしか下せないだろうな。だが蜃が何かを感知したんなら、端の奴の可能性は高いな。通常の悪夢も感知できるなら話は別だが」

「嫌な予感がする……寒気みたいな……」

 悪夢に顔や前後を示す物は無く視覚があるのかもわからないが、ぴたりと止まってしまった。触手を突き刺した場所にいた者がいなくなり、探しているのだろうか。もし獲物を探しているのなら、逃げるしかない。悪夢に触れられるのは獏だけだ。抵抗しようにも攻撃が通じない。

 通常獏にしか視認できない悪夢は、しっかりと二人の目にも見えている。それだけ育ってしまった厄介な悪夢であることは明白だった。

「目があるようには見えないが、僕達には知らないことが多過ぎる。無闇に動かない方が良さそうだな。獏が気付いてくれればいいが、もし音で居場所を突き止めてるなら、大声で呼ぶわけにもいかない」

「獏が来ても、今はあの杖だけどな……。石が小さいとぼやいてたし、役に立つかわからない」

「それでも獏に頼るしかない。だが……獏の身が危険なら、今度は迷わずあいつを連れて逃げる」

「……。ああ、その時は逃げてくれればいい」

「……蜃? 前に言っていた……悪夢の侵蝕が進めばお前が死ぬ話か? そんなに不味い状況か?」

「わからない……。この悪夢が端から来たんなら、端の綻びはかなり進んでるんだと思う。ある程度は街の状態がわかるが……飽くまでこの街は化生前の俺が創った物だ。完全に感知できるわけじゃない。……ただ寒気がする。寒い……」

 蜃の顔色が悪い。街の綻び以上に、端と繋がりのある悪夢が暴れようとしていることが問題なのかもしれない。

 椒図は蜃の背中を摩るが、それだけで治まる寒気ではないだろう。

「もう少し離れよう」

 足を動かそうとすると、止まっていた悪夢がゆっくりと動き出した。考える脳があるのかも定かではないが、来た道をのそりと戻る。

 二人は固唾を呑みながら様子を窺う。自然と呼吸を忘れてしまう。

 充分に距離を取ったからか悪夢は二人ではなく、今度は一番近くにいた彼女に勢い良く触手を伸ばした。

「――っ!」

 街灯に括り付けられた白花曼珠沙華は身動きが取れず、脚に絡み付く黒い触手に抗うことができなかった。

「いや……」

 体にも触手が巻き付き、足が宙に浮く。引き千切ろうとしている――誰がどう見てもそう見えた。

「いっ――嫌だ嫌だ! いた……痛い! いた……っ嫌だ嫌だ!」

 脚を動かそうとするが、動いた所で悪夢に触れることはできない。悪夢だけが相手に触れることができる。

「いやああああ!」

 獏は肉体的な拷問では彼女は情報を吐かないだろうと言った。だがそれは痛みを感じないわけではない。

「……蜃、少し大掛かりな力を使えるか?」

「……。遣らないといけないなら、遣れる」

 椒図に支えられながら、顔色は良くないままだが蜃は杖を握った。力は弱くても、力を使えない椒図よりは遣りようがある。

 悪夢から目を逸らさずに椒図に耳打ちされ、蜃は険しい顔をするが頷いた。

「……一瞬なら、できる」

 くるりと杖を回して石が光り、悪夢に向かって振る。石畳をコピーした大きな蜃気楼の壁を作り出し、もう一度杖を振る。それを悪夢に向かって突き飛ばした。悪夢に届く寸前を見計らい実体化させる。悪夢は巨大な壁に突き飛ばされ、壁はすぐに霧散した。

「やった……できた!」

「悪夢が飛んでる所は見たことがなかったからな。何も触れることはできないが地面には接地している。悪夢がそうしているのか他に理由があるのかは知らないが、地面と認識していれば触れることは可能だろ」

「凄いな椒図!」

 力の弱くなった蜃では蜃気楼の実体化は短時間しかできず、物が大きくなるほど反比例して短くなってしまう。それでも触れるタイミングさえ合わせることができれば当てることは可能だ。作る物が大きいほどあまり何回も打てるわけではないが、こちらからも触れる術があると知れたことは大きい。

 だが悪夢と距離が開いても白花曼珠沙華に絡んだ触手は解けず、長さを自在に変えられる触手は伸びただけだった。

「突き飛ばすだけでは足りないのか、飛ばす力が足りないのか……」

 傍らの蜃を一瞥すると、今の一撃だけでも息が上がっている。身の丈以上の地面の塊はやはり負荷が大きい。

 悪夢はのそりと元の位置に戻ろうとする。

「触手を切らないといけないな……上から地面を落として切ることはできるか……?」

「……遣るか? 遣るなら遣ってみる」

 上から落ちる物まで地面と認識するか定かではないが、わからない以上は試してみるしかない。杖を構える蜃の手はまだしっかりと握っているが、呼吸の度に上下に揺れる。

「……あっ、い……!」

 黒い触手は再び白花曼珠沙華の脚を引き始める。緩慢な動作でこちらにも思考の余裕があるが、何もできないならその余裕は残酷なだけだった。

「やっ……ああっ!」

 白花曼珠沙華の顔は青褪め、汗が伝う。がくがくと歯を震わせ必死に体を捩った。

「何をしてるのかと思えば……」

 光の線が走り、黒い触手は一瞬でバラバラと刻まれ霧のように散った。緩やかな光の糸は宙を舞い、黒い塊に巻き付く。光の糸は悪夢に食い込み、するりと切れていく。


「――獏! やめろ!」


 ぴたりと光の糸は動きを止め、二階の窓に足を掛けていた獏は動物面を下方に向けた。叫んだ椒図に不思議そうに首を傾ける。

「蜃の様子がおかしい。悪夢を切るのは待ってほしい」

「……」

 背を丸く顔を俯けているので様子が窺えないが、隣にいる椒図がおかしいと言うならおかしいのだろう。獏は窓から飛び降り、螭も杖に乗り地面に降りた。

「螭は曼珠沙華の所に行って。脚は切れてないと思うけど、あの様子じゃ関節が外れてるかも。悪夢は僕が近付けさせない」

「わかりました」

 ハートの杖を振り、細く短い針を悪夢の足――なんてものは無いが足元に打ち付け警戒させる。のそりと後退する悪夢を確認し、獏は椒図と蜃の許へ駆け寄った。

「獏、あれは街の端にいる悪夢か?」

「うん。そうだと思う。腐ってる」

「端の悪夢は街と繋がりがあり、蜃に何らかの影響があるみたいだ」

「……悪夢を…触手を切った時にそうなったの?」

 蜃は肩で息をし、体を震わせがちがちと歯を鳴らしていた。口の端から一筋、赤い物が見える。

「ああ」

「切るのが駄目なら、食べるのも駄目? 腐ってて消化不良を起こすかもしれないけど、食べるしかないなら頑張るよ」

「わからない……。蜃にもわからないみたいだ」

「……そう……わかった。じゃあ端に押し戻してみるよ。少し殴ることもあるかもしれないけど、少しは我慢して」

 獏は上着を脱ぎ、椒図に渡す。椒図は汚れた襤褸一枚なので脱げる物は無い。震える蜃に獏の上着を被せた。

 とんと地面を蹴り、悪夢の方へ跳ぶ。触手はともかくこの悪夢はあまり速く動けないようだ。押し戻すのも時間が掛かるだろう。

 光の糸で触手が切られたことを覚え、光の針を打つと警戒して避けるようになった。避ける動作を利用して街の端まで後退させる。

「ねえ蜃。答えられるならでいいんだけど、ここから一番近い端って何処かわかる?」

 俯いたまま指を差す蜃に返事をし、獏は休まず杖を振った。

 騒ぎを聞き付けた変転人達も店から顔を出し、人間の倍以上はある黒い塊に絶句する。毒芹とは比べ物にならないほど大きな黒い塊に灰色海月は息を呑んで固まり、動いたのは黒葉菫だけだった。黒葉菫の背後に隠れていた黒色海栗と浅葱斑は慌ててドアの陰に移動した。

 獏に駆け寄りながら黒葉菫は掌からフリントロック式の銃を引き抜く。悪夢との戦闘経験のある彼が前に出て来たのはさすがと言うべきか。

「加勢します」

「いいよ。端に押し戻すだけだから。触れられるのは僕だけだしね」

「いえ……これが端にいるのと同じなら、普通の悪夢ではないので」

「まあ普通ではないけど」

「前に山で会った悪夢には通用しませんでしたが、端の闇に銃を撃った時、闇が怯んだんです。もしかしたら毒に反応したのかもしれません」

「変異してるなら、そういう違いがあっても不思議ではないのかな……ここの悪夢は特殊みたいだね」

 会話の間も杖を振る手を休めない。黒葉菫も銃を構えて引き金を絞ろうとし、獏に手で制される。

「撃ったらまた蜃に何かあるかもしれない。撃つのは最後の手段にしておいて。スミレさんは下がってて」

「……はい。端に行ってまた貴方が気分を悪くしたら、撃ちます」

「そっか……そうだよね。端に行って気分が悪くならなかったことがないよね……。何とか耐えないとだね」

 光の針を打ち込みながら溜息を吐く。悪夢は時折触手を伸ばすが、糸をちらつかせると後込みした。緩慢で臆病……警戒心の強い悪夢のようだ。

 小さな変換石の代替品の杖で何が可能か考えた結果、白花苧環を参考にした。彼が使っていたような糸と針は、少ない力を引き伸ばし威力を出すには丁度良かった。

 街の端には思いの外早く辿り着いた。それだけ侵蝕が進んでいる証拠だ。杖を振り続けて腕が怠い。最後の一歩を押し込み、端に蠢く闇の中に戻した。他の闇と同様になると、杖を振らなくてももうそこから出て来ることはなかった。偶々外に飛び出してしまったのだろう。

「よし、御終い。戻ろうか」

 踵を返そうとし、ぴたりと瞬きを忘れる。

「……スミレさん。もう少し下がって。近付かないで」

「? はい」

 言われた通りに後退し、黒葉菫は首を傾げながら距離を取る。

 それを一瞥し、獏は闇に目を向けた。

(何だろうこれ……気付かなかったな。今までこんな物なかった……)

 暗くてよく見えないが、地面に黒い線が張り巡らされていた。街の端に沿うように蔓延り、黒葉菫の足元までは届いていない。まるで草木が根を張っているかのようだった。それが足に絡んでいるのか、地面に貼り付いて動かない。これも悪夢の一部なら、切り刻むことはできない。

「……ん、っわ」

 何とか片足を引き剥がすが、片足が固定されたままでは移動ができない。ふらついて再び地面に足を下ろし、まるで蜘蛛の巣に掛かった虫のようだと不快に顔を顰めた。

(この前、蜃を追い掛けた時はこんな物なかったはず……)

 片足ずつ移動させて抜け出すしかない。蠢く闇に目を向けると、まるで嘲笑っているかのようだった。早く抜け出さないと黒葉菫にも不審に思われる。様子を見に歩いて来られたら同じように地面に貼り付いてしまう。

 二人共が動けなくなる前に振り向いて警告をしておこうと顔を上げると、視界が全て黒に染まっていた。

「……?」

 何か黒い物でも視界を覆ったのか、右も左も黒い闇が広がっていた。黒葉菫の姿も建物も何もかもが黒より深い黒に沈み、何も見えなかった。


『初めまして――と言うべきかもしれない』


 ふと脳に静かに響くように、声が聴こえた。幼い少女の声だった。

 闇の中にぼんやりと白が浮く。長い睫毛を上げ、金色の瞳の少女は獏を見詰めていた。迷子なのだろうか。不思議と警戒はなかった。

「……君は?」

 少女と自分の声以外に音は無く、まるで知らない廃墟のようだった。

『私は貴方。貴方は私。ここは私の夢の中』

 少女は黒い着物を着て、闇に同化している。これが夢だと言うなら、随分寂しい夢だった。

「君の夢……ってことは、僕も夢を見てるってことなのかな……? 獏は夢を見ないんだけど……」

 そこまで言って獏はハッとした。少女の黒髪からちらちらと赤が覗く。頭に付けたリボンに見覚えがあった。掠れた記憶の中にぼんやりとした姿で、蜃が夢と言った記憶の中にいた少女と重なる。

「君は……もしかして、先代の獏……?」

 口にして、有り得ない、と心の中ですぐに否定する。

 だが少女は肯定を口にした。

『そう。私は貴方』

「どういうこと……? 同じ獣が同時に存在するなんて有り得ない」

『私はいない。ここにいるのは貴方だけ。貴方だけが生きている。悪夢に触れたことで、貴方の意識は私の残夢に迷い込み接続されてしまった。大丈夫、すぐに出られる』

 俄には信じ難いことを言う。悪夢と繋がっているのか……?

「君は死んでるんだよね……? 意識だけが取り残されてるの……?」

 少女は口を閉じ、獏の許へふわりと浮いた。小さな手を伸ばし、獏の黒い動物面をそっと剥がす。獏の両足は地面に固定されたまま動かなかった。

『私は死んだ。ここにあるのは私の意識ではなく残影』

 少女の言葉は獏には理解できなかった。死んだ後のことを理解できないのは当然だが、それでも少女の言葉の一つ一つが何を指しているのか想像もできなかった。なのに不思議と、彼女が嘘を言っているとは思わなかった。それはまるで『自分』だから嘘と真の違いがわかると感じているようだった。

「……何で死人と会話できるのかこの際置いておくよ。君は蜃に殺されたんだよね? 悪夢に取り込まれたって聞いたけど」

『蜃を知ってるの? 懐かしい。私は蜃に殺してと頼んだ。嫌な役をさせてしまった』

「え……? 君が頼んだの?」

『そう。悪夢を鎮めるために、仕方なかった。私は非力な獏だから、死んで体を空にして、悪夢に明け渡して操り、楔となるしかなかった』

 毒芹は蜃が獏を殺したと言った。蜃も獏を殺したと言っていた。確かにそれは事実のようだが、獏から頼んだのなら話が変わってくる。蜃に殺してくれと頼んだのなら少なくとも蜃はわかっているはずだ。頼まれたと何故言わなかったのか……今また獏を殺そうとしているのだからそんなことは言う必要がなかったのか。

「明け渡して操る、っていうのは? 使役……するってこと?」

 悪夢を食べる獏がその食事の対象である悪夢を使役するなど気持ちの悪い力だと思っていた。先代にその話を訊けるなんて、同じ獣が存在することはない世界で獣の悩みを共有できる日が来るなんて思わなかった。

『悪夢を私の中に閉じ込めて、悪夢の振りをするようなもの。私は非力だからすぐに扱えず時間が掛かってしまった。ゆっくりと悪夢を街の端へ追い遣った。私には食べることも消すこともできない悪夢の群れを、端で捏ねて自由に暴れないように繋いでおくしかできなかった』

「僕も……元はそんな力はなかったけど、今は悪夢を使役できる。こんな気持ち悪い力いらないのに……」

『貴方は私と違ってとても強い。私は死ぬことしかできなかった。貴方は生きながら悪夢を手懐けられるのね』

 小さな両手で獏の頬を包み、少女はぎこちなく微笑んだ。

「だから、気持ち悪いって言ってるの。……使役するには何か条件があるみたいだけど」

『それなら私と同じで司令塔となる悪夢が必要なのかもしれない。貴方が悪夢を見れば、それを司令塔として使役できるのかも』

「獏は夢を見ないって知ってるよね?」

『知ってる。でも実際は、夢を見ているかいないかはわからない。だって夢は起きると忘れてしまう儚いものだから』

「…………」

 言うように夢を見るのならば、もし悪夢を見た場合は自力で消化しているのだろうか。有り得ない話ではないのかもしれない。こんな荒唐無稽な話、すぐには信じられなかった。

「君は夢を見たことがあるの?」

『今、見てる。これが私の夢』

「……そうだったね」

『でもそろそろ限界が近い。私の楔から抜けてしまった悪夢がいる。私ではもう抑えられない』

 先程襲ってきた悪夢のことだろう。何とか元の場所に押し込んだが、今後も起こり得る事象のようだ。抑えられないならこの大量の悪夢を始末する方法を考えなければならない。悪夢を処理できるのは獏だけなのだから。

 そのためには一つ、聞かねばならないことがあった。

「悪夢は今この街と繋がってるの? 街は蜃と繋がって……悪夢を攻撃すると蜃にも影響が及ぶみたいなんだ」

 少女は金色の双眸を丸くし、獏から手を離した。睫毛を伏せ、考えるように黙る。

「この足元の黒い筋も何なの? 足が動かないんだけど」

『……長い年月を経て、悪夢は街と繋がったのかもしれない。地面の黒い筋は例えるなら木の根や菌糸のような物。街と同化しようとしてる。私の楔が弱っている所為。街が蜃と繋がってるのは、考えたことがなかった』

「何か解決策があればいいんだけど。……僕は今、罪人だから……力を制限されて思うように動けない」

『罪人なのね。椒図は……』

 何か言おうとして、少女の顔は曇る。蜃と獏を庇って地下牢へ行った椒図のことを思い出しているのだろう。

「椒図も大丈夫。今は脱獄して、ここにいるよ。椒図も蜃も、皆一緒だよ」

 獏が微笑むと少女は目を丸くした後、安心したように微笑んだ。ぎこちなくはない、自然な笑みだった。仲が良かったのだから、化生したとは言え共にいることが嬉しいようだ。

『また皆一緒にいるのね。じゃあ……蜃を助けてあげないと』

「何か考えはある?」

『力の弱い獣は印を頼り駆使するもの。私は必要がなかったから印のことは不得手だけど……剥離の印を使えば繋がりを断てるかもしれない』

「剥離の印? 聞いたことないな……」

『あまり使う機会の無い印だと思う。だから知らないのも無理はない。縁を断つもの……と聞いたことがある』

 獏は印について詳しいわけではない。知らない物の方が多いだろう。椒図なら何か知っているかもしれない。烙印や契約の刻印のことも獏より詳しく知っていたのだから。

「……わかった。ありがとう。探してみるよ。まずはこの悪夢から気を失わない内に逃げないとだけど」

『貴方は繊細なのね。この悪夢は、この街にいた人間達の恐怖が集まったもの。悪夢は恐怖を蓄え成長する。恐怖に当てられ続けた人間はやがて狂気を抱き、変貌する。累積した恐怖と死の記憶が悍ましく渦巻いている』

 少女は獏の白い相貌に黒い動物面を被せ、視界を覆った。まるで悪夢を見せまいとするように。

『譬えこうなることが必然だったとしても、私は蜃と椒図といられたことが嬉しい。仲間と言ってくれた。嬉しかった。後悔はしてない』

 獏の手を握り、少女は微笑んで手を離した。少女の残影は闇の中へ溶けていき、何処か遠くで懐かしい手鞠歌が聞こえた気がした。


「――獏さん! しっかりしてください!」


 目を開けていたのに今もう一度目を開いたかのような錯覚があり、黒い視界に薄闇の景色が映った。上から体を掴まれ、地面からベリと引き剥がされる。

「螭……?」

「大丈夫ですか? 立ったまま意識を失ってましたか?」

 背後に目を遣ると、距離を取りながらも心配そうに黒葉菫が銃を手に立っていた。今し方見ていたものは白昼夢だったのか、少女の姿は何処にもない。

「何で螭がここに……?」

「変転人のスミレ君だけでは心配だと、椒図さんに行くように言われました。来て正解でした」

 両足が浮き、螭の杖に掴まらせられる。両足を地面から離すには確かに飛ぶしかない。変転人ではそれは不可能だ。

 螭は黒葉菫の立つ位置まで獏を運んで下ろす。獏はもう一度蠢く闇に目を遣り、闇以外は何もないことを確認した。

「…………」

「呼び掛けても動かないので心配しました。どうかしましたか? また気分が……」

「不思議な……夢を見た」

「夢?」

 立ったまま眠っていたのかと黒葉菫は首を捻った。

 まだ意識は正常だが、これからまた気分が悪くなるかもしれない。夢で見た話は店に戻ってからにする。獏は一歩踏み出そうとし、脚が妙に重いことに気付いた。

「……」

 無理矢理動かすと中でみちみちと何かが千切れるような感覚があった。千切れると脚は少し軽くなった。

(根とか菌糸って言ってたっけ……暫くあそこに立ってたから僕の脚にも根を張ったのかもしれないな)

 すぐに千切れるなら然程問題はないだろう。悪夢が体内に侵入したとしても処理することはできる。悪夢を口に入れて食べるのだから当然だ。

 今度こそ脚を動かし、二人を促して端から離れた。早く店に戻って蜃と話をしなければならない。あの先代の獏が幻ではないのなら、確かめなければならない。

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