55-弱味


 暗い静寂の煉瓦の街へ戻った獏と黒葉菫は、古物店の外に誰かがいることにすぐに気付いた。蜃と椒図、その後ろに白い姿がちらりと見える。

 先に椒図が気付いて振り返った。一つに束ねていた緑髪は最初のように編み直していた。切断された脚はもう立つことには問題ない。

 急いで邪魔な首輪を外してもらい、獏も二人へ駆け寄った。気が急いてしまったのは、二人の向こうに座っている白い姿がもしかしたら白花苧環なのではないかと期待があったからだ。誰かが首を繋げてくれたのではないかと。

 だがそれは彼ではなく、見たことのない少女だった。目に見えるほどの落胆をしてしまったが、それには誰も触れない。

 白い少女は縛られて街灯に括り付けられ睨んでいた。

「彼女は……?」

「苧環を回収に来た白花曼珠沙華だ。彼女はだんまりだが、海栗が確認してくれた。僕も地下牢で――」

 獏の後ろから駆けてきた黒葉菫が目に入り、椒図は一旦口を噤んだ。獏にではなく、黒葉菫に向かって口を開く。

「黒葉菫を殺そうとした奴だ」

 椒図に会いに地下牢に行った時、背後から刺された黒葉菫は振り返ることができなかった。こんな少女に刺されたのかと、塞がった傷が疼くようだった。

 黒葉菫の姿を見て白花曼珠沙華も驚愕して目を見開いた。

「殺したのに……どうして……」

「やっと喋ったな」

「!」

 白花曼珠沙華は慌てて口を噤んで顔を伏せた。黒葉菫は確かに殺して地霊に処分してもらったはずだった。だが生きている。殺し損ねたと考えるしかない。

「もう回収者が来たんだね……。椒図が捕まえたの?」

「いや、僕ではない。蜃がやってくれた」

 力の使えない椒図でも捕まえられるのかと思ったが、蜃が捕らえたようだ。蜃は椒図の隣で得意満面だった。

「変転人相手なら負ける要素なんてないからな」

「マキさんを回収にってことは、狴犴の差し金だよね?」

「喋らないから裏は取れてないけどな。状況から見てそうだろ」

「ふぅん。そんなに喋らないなら、僕が拷問しようか?」

 獏が拷問、と聞いて黒葉菫は身震いした。睚眦がいさいの拷問を見て恐怖を感じたが、獏の拷問も性格上碌なものではなさそうだ。

「拷問できるのか?」

 長らく獏を観察していた蜃は獏の性格の悪さは知っていても、拷問の心得があるかは知らない。椒図も口元に手を遣りながら考えている。

「変転人相手なら、睚眦が僕にしたような四肢の切断は死ぬぞ」

「拷問の心得があるわけじゃないけど、そんなことしないよ。君だってそれで喋ったわけじゃないし。何に恐怖を感じ嫌厭するかは人それぞれだからね。肉体的な苦痛に恐怖する人もいれば、心の内側を抉られて恐怖を感じる人もいる」

 獏は少女の前に蹲み、微笑んだ。

「君は後者だね」

 白花曼珠沙華の表情が一瞬強張った。サングラスで見えない目で見透かされているように彼女は感じた。

「僕は君の中を覗くことができる。何に動揺するか一目瞭然だよ」

 指で輪を作って見せるが、覗きはしない。

「……はったりだ」

「スミレさんを見て君は思わず口を開いたよね。その時点で僕は、君に喋らせることができると確信した。覗かなくても、ね」

 獏は立ち上がり、一歩下がる。震える黒葉菫を振り返った。

「やっぱりサングラスじゃ心許ないからお面を持って来てくれる?」

「は……はい」

 急ぎ駆け足で店へ戻ろうとすると、ドアの隙間から灰色海月達が不安そうに覗いていた。黒葉菫がこの少女に刺されたなら、変転人の中では強い部類と推測できる。出て来るなと言われているのだろう。三人は慌てて道を空け、黒葉菫は黙って二階へ動物面を取りに行った。わかりやすく机に置かれていた面を持ちすぐに戻る。

 黒い動物面を手渡され、獏は白花曼珠沙華に背を向けサングラスを外す。やはり面の方がしっかりと顔を覆うため安心感がある。狴犴の作った物だが、これだけは良い物だと言える。

 黒い動物面を被った獏は膝を抱えるように手を置き、首を傾けた。

「じゃあ、普通にお話でもしようか」

「……?」

 拷問をするのではなかったのかと、白花曼珠沙華は微笑む獏を訝しげに見詰めた。先程と言っていることが違い過ぎる。

「君は白いけど、……苧環とは元々面識はあったの? 死んだなんて聞かされたらびっくりするよね。僕は……まだ実感は半分程って感じかな」

「…………」

 さすがに全く関係のない話はしない。これも拷問の一環なのだと白花曼珠沙華は気を引き締めて口を噤んだ。何処で襤褸が出るかわからない。ならば何も言わないのが一番だ。

「悲しかったりする? もしそうなら、我慢せず泣いてくれていいよ。狴犴もその辺りは咎めないでしょ。苧環は狴犴のお気に入りらしいし、お気に入りの死を泣く人を叱ったりしないよ」

「……泣かない」

「そう? 君ももしかして、狴犴のお気に入りなのかな? 苧環のことライバル視してたり? 苧環が死んで、丁度いいって思っちゃった?」

「…………」

「……成程ね」

「?」

「苧環のことは元々知ってたけどそれ以上の関係じゃなく、寧ろ狴犴に気に入られてることが気に入らない。いなくなれば自分が狴犴の一番になれるとでも思ったかな?」

「……!」

「狴犴に言われて来たのは間違い無さそうだけど、死体を回収してどうするかとか……その辺は聞かされてるのかな? そこを突っ込んで抉り出してあげないとね」

 獏はくすくすと笑いながら立ち上がり、様子を見守っていた椒図と蜃へ歩み寄った。白花曼珠沙華に声が届かない距離と声量で話す。

「何も言ってないのに、何でそんなにわかるんだ?」

「簡単だよ。あの子、反応が顕著だもん。話して特に問題ない所は思わず返事をするし、何も言わないのは問題あるってことでしょ。それに、椒図も僕の表情で色々察してたでしょ? それと同じで僕も色んな人間を見てきたから。わかりやすいよ」

 蜃は白花曼珠沙華の顔を一瞥し、そんなに顕著か? と疑問を顔に貼り付ける。

 椒図は時折頷く。兄弟の顔色を見てきた効果だ。これは経験の差だろう。

「獏が顔を隠してるのも大きいだろうな。相手には獏の反応は見えない。それで何に気付かれてるかもわからない。一定の警戒は最初からしているが、その一定からは動かない」

「そうだね。だからここからは僕一人で遣りたい。君達は店の中に戻っててくれるかな?」

「わかった。僕達の表情で邪魔をしてはいけないからな。念のため彼女の手に包帯を巻いて武器と傘を出せないようにしてある。危害を加えようとしたり、逃げることもできないはずだ」

「うん。……あ、マキさんの体は今どうなってる?」

「場所は移してない。あのままだ。布くらい被せてやるべきかと思ってはいるんだが」

「そこは任せるよ。店にあるテーブルクロスとか、使っていいよ」

 淋しそうに微笑み、獏は踵を返して白い少女へ戻って行く。実感は半分程だと言っていたが、あれだけ泣いて半分ということはないだろう。この拷問は獏にとっても辛いはずだ。

 椒図は蜃を促し、後ろに控えていた黒葉菫も連れて店へ入る。ドアに張り付いていた灰色海月達も奥へ押し遣った。

「あの、大丈夫でしょうか……?」

「大丈夫だ。海月はまた御菓子でも焼いてる方が気が紛れていいかもな」

 立ち止まり不安そうな灰色海月の背を押す。灰色海月は俯き、言われた通りに台所へと入って行った。だが何か言いたいことでもあるのか台所からすぐに顔を出す。

「街についてわからないことがあるんですが、質問してもいいですか?」

「ああ……それなら蜃が」

 椒図の背後で様子を見ていた蜃は小首を傾げた。

「この街は時間が停止してるんですよね? 御菓子の生地を寝かせるには、どうすればいいんでしょうか?」

 何を訊かれるのかと首を捻っていた蜃だったが、菓子作りにはそういうことも必要なのかと新たな知識を得た。

「台所周りは椒図と割と細かく設定したんだよな。料理ってやつは時間が関わるからな。今まで普通に使ってきたと思うが、オーブンや冷蔵庫の中は時間が流動するようにしてある。冷蔵庫は少し複雑な設定だが……それと、何処かに甕がなかったか?」

「甕? 邪魔だったので棚の奥に仕舞った物ならあります」

 足元の戸を開き、大きな甕を引き摺り出した。なかなかに重い。灰色海月には用途がわからない物だった。

「それは中に入れた物の時間を流動させる甕だ。漬物を作るための奴だ。あれは時間が流れないと作れないからな。蓋と漬物石も用意したはずだが、あれはどうした?」

「最初から無かったです」

「誰だ捨てた奴……。まあいい、適当に何でも入れて口を塞いだら中で時間が進む」

「こんな物、説明されないとわからないです」

「蓋と石があれば察してもらえると思ったんだが……」

 その前にこんな街に閉じ込められた人間が悠長に漬物を作るとは思えなかったが、椒図は黙っておいた。漬物の甕を置くと言い出したのは蜃だ。

「……ああ、そうだ。人一人隠せるような布……テーブルクロスとか、あるか?」

 代わりに獏に言われたことを思い出し、甕の中を覗く灰色海月に尋ねた。

「それならこちらに」

 甕を端に押し遣り、台所を出る灰色海月に付いて行く。店に並ぶ棚の間に入り、奥の木箱の中に放り込んである布類から大きなテーブルクロスを拾った。控え目な刺繍が施された落ち着いた色のテーブルクロスだ。

「値段はわかりませんが、こういう物でいいですか?」

「ん……? 買取りか? 獏が店にある物を使っていいと言ったんだが……。生憎今の僕には金が無い」

 地下牢から脱獄してきた椒図には所持金など無い。家に戻れば多少はあるはずだが、宵街に戻るわけにもいかない。

「獏がいいと言ったなら、構わないです。何に使うんですか?」

「それは助かる。苧環に被せてやろうと思ってな」

「……マキさんにですか」

 灰色海月の表情が一気に曇る。黒葉菫は切断された白花苧環の姿を見たが、他の変転人は見ていない。椒図の勝手な判断だがあまり見せるものではないと思ったのと、白花苧環も自分のそんな姿をあまり見られたくはないだろうと思った。

「付いて行ってもいいですか?」

「……そうだな。苧環とは親しかったのか?」

「マキさんには力の使い方を教えてもらいました。手首を切られた時は恨みましたが、治ったので今はその気持ちもありません。知らない御菓子も買ってもらったので」

「そうか」

 椒図は頷き、棚の間から出る。

 返事が無いが付いて行っても良いのだろうかと、灰色海月はそろそろと付いて行った。

 二階に上がり、獏の部屋の天井に空いた穴から外へ出る。椒図が先に床を蹴って屋根に上がるが、変転人の灰色海月はそこまでの跳躍力がない。

「蜃。僕はまだ人を持ち上げるのは辛い。海月を運んでくれるか?」

「おう、わかった」

 獏のように物を軽くする力はないのでそのままの重量を抱えることになる。その負担を接合された腕にまだ負わせるわけにはいかない。

 灰色海月は女性にしては少し身長が高く今の蜃よりも高いが、力は弱くなっても蜃は獣だ。ひょいと持ち上げ床を蹴る。

 屋根に立って隣家に目を遣り、騒動を思い出す。灰色海月の耳にも大きな音が聞こえていたが、二階の壁が吹き飛んでいるとは思わなかった。向かい合う家の壁にも凹みや小さな穴ができており、窓の硝子は割れていた。壁を吹き飛ばした力の強さを物語っている。

「……?」

 それとは別に、全くの別だが、密着する体に妙な感触があり、灰色海月は不思議そうに蜃を見上げた。フードに隠れた顔はよく見えないが、炎色の髪の隙間を覗き込む。

「男性にしては柔らかいですね……」

「!」

 反射的に力が抜け、蜃は灰色海月を落とした。屋根に尻餅を突いた灰色海月は目を瞬かせる。

「な……」

「女性だったんですか……?」

「わ、わかるか……?」

 少し離れて屋根の端にいた椒図は、突然灰色海月を落とした蜃に怪訝な顔を向ける。何か揉めているのだろうか。

「下着は着用すべきだと思います。そう教わりました」

「……!」

 蒼白と言うか赤面していると言うか、蜃は何か訴えたいような何とも複雑な顔を椒図へ向け、椒図は首を捻った。仕方なく蜃の許へ行く。

「……どうした? 海月を下ろすにしても、落とすのは良くない」

「椒図……! こいつ、俺に女性用の下着を着けろって言う!」

 重大な問題でも発生したのかと思ったが、そうではなかったと肩の力が抜けた。いや蜃にとっては重大なことなのだ。

「女性用の下着、とは……?」

「あ……」

 椒図に訴えようとした蜃だったが、はたと口が開きっぱなしになる。江戸時代の後期に地下牢に入れられた椒図にその知識はないのだ。その頃の女性は現在のような下着など着用していない。

「椒図ってまだ褌だったんだな……」

「何の話だ」

「とにかく、現代には女性用の下着があって! 俺はそんな……そんな物……」

 椒図は現代のことはまだよくわからないが、複雑な表情で俯く蜃の内心は察することができた。男の記憶のまま化生したことで、女性の物を身に着けることに抵抗があるようだ。灰色海月は化生前の蜃の性別は知らないだろう。そこに齟齬が生まれている。

「海月。蜃のことは男として見てやってくれ。だが、体に必要な物なら、海月の言うことも聞くべきだよ、蜃」

「ぐ……全部獏の所為だ……」

 二人の会話を座りながら聞いていた灰色海月には何だかわからない話だったが、獏の所為にされて不満だった。

「男性なんですか?」

「化生前が男でな、記憶を引き継いでるから複雑なことになってるんだ。今の体は、海月の思った通り女性だ。僕が女性になったら一度は華やかな着物も着てみたいものだが」

「椒図のそういう所は尊敬する」

 前向きと言うか現状を乗り熟そうとすると言うか、悪いように考えない所は尊敬する。――昔はそうではなかったが。

 下着のことはまた後で考えるとして、落としてしまった灰色海月を拾い上げる。まさか少し腕が当たっただけで胸を縛り上げていることに気付かれるとは思わなかった。

「獏は性別を気にしないです」

「らしいな。観察してたからわかる。あいつこそ性別どっちだ?」

「知りません。気にしたことがないので」

「僕は女の子だと思ったが」

「そうかぁ?」

 首を捻りながら、先に隣の家へ跳び移る椒図に続いて蜃も跳ぶ。壊れた壁の破片はまだそのまま床にも転がり、着地の足元に注意を払う。横たわった白い体と置かれた頭部もそのままだ。目だけは瞼を閉じさせた。

「…………」

 その姿を初めてみた灰色海月は静かに息を呑み、唇を引き結んだ。目を逸らしそうになるが、体から離された頭部を拾う椒図を目で追う。蜃に今度は落とされずに床に下ろされ、その場に立っているだけで精一杯だった。

 床には乾いた血が黒く沈んでいる。いつまでも血溜まりの上ではと思い、血は椒図と蜃が拭き取った。血の染みから少しずらし、首の断面に繋げるように頭部を置く。その上にテーブルクロスを広げ、白い姿を覆った。

「マキさんは……このままここに?」

「獏の話によると、植物の変転人は種を遺すらしい。狴犴の使いが来たということは、信憑性が高い。その種からまた苧環を作ろうという腹だろう。そこから生まれても別人かもしれないが……」

「マキさんを蘇生できるんですか?」

「全くの同一人物は生まれないのではと僕は思ってる。花だってそうだろう? 種を植えても、その種を取った花と全く同じ姿が咲くわけではない。だがその辺りは僕も素人だ。宵街にいる木霊に聞けば、何かわかるかもしれない。海月は木霊のことは知ってるか?」

「……いえ、私は何も……すみません」

「いや、謝る必要はない。僕も詳しくは知らないんだからな」

 苦笑し、テーブルクロスに手を合わせてから椒図は立ち上がった。

「質問する者は大抵、自身もそのことを知らないものだ。訊かれて答えられないくらいで謝らなくていいよ。覚えておいて損はない」

「獏にも……謝らなくていいと言われました」

「そうか。……そういえば前にも、苧環に似たようなことを言われたな。そんなに僕と獏の考え方が似てるのか……それとも化生する時に影響でも受けたか?」

 そう考えると少しむず痒いような気がした。

 布も掛けたので店に戻ろうと壊れた壁に手を突くと、ふと啜り泣く声が聞こえてきた。

「……泣かせたか」

 方向から推測するに白花曼珠沙華だろう。啜り泣く程度ならそれほど酷い拷問はしていないだろうが。

「獏に拷問されたら、僕も話してしまうだろうな」

 ぽつりと漏らした言葉に、蜃も壁に手を突き路地を覗きながら首を傾ぐ。

「睚眦に拷問されても喋らなかったのに?」

「睚眦は身体的苦痛を与えて楽しみたいだけだからな。獏はきっと僕の弱い所がわかってるだろ。そこを突かれればすぐに喋るだろうな」

「あいつ性格悪いからな。弱味なんて握らせるなよ」

「ふ……そうだな」

 顔を引っ込め、もう一度灰色海月を抱え上げて蜃は先に店へ跳んだ。椒図も後を追う。後は店の中で報告を待つだけだ。啜り泣く白花曼珠沙華から何か聞き出せていれば良いのだが。

 程無くして店のドアが開く音がし、蜃と椒図は入口を覗いた。獏が手招くので、急いで外に出る。

「何かわかったか?」

 街灯に拘束した白花曼珠沙華は俯いたままでまだ啜り泣いていた。

「もう……狴犴様の悪口言わないで……」

 彼女を一瞥し、獏に向き直る。

「聞こえた? まああんな感じで」

「無色が獣に様を付けるのは珍しいな。心酔してるのか」

「マキさんがいる限り、あの子は狴犴の一番にはなれないからね……死体の回収も複雑な所があったみたいだよ」

「そうか……。狴犴が仕向けた裏は取れたみたいだな」

「うん。それとやっぱり、種を取ろうとしてたみたいだね。詳細は聞かされてないみたいだけど、種が取れるのは確実だよ」

「他に何か聞けたか?」

「スミレさんを襲ったのは狴犴の命令で、ウニさんを襲ったのは独断、とか? 何か聞きたいことがあったら訊いてみるけど」

 獏がかくんと首を傾けると、椒図はやや言いにくそうに口を開いた。

饕餮とうてつのこと……とか」

「……ああ、あの獣だよね。それも訊いてみたんだけど、彼女とは面識がないみたいで、名前も知らなかったよ。饕餮がここに来たのは狴犴とは無関係だろうね。食べようとしてた饕餮と回収したい狴犴じゃ目的をたがうし」

「……そうか」

 考える仕草をする椒図を覗き込むように、獏は疲れたように動物面を傾ける。

「饕餮は人間が主食なの?」

「いや、主食というわけではない。主食はない……と言えばいいのか。とにかく何でも食べる。人間の味を覚えてからはよく食べているようだが……」

「へぇ……そうなんだ。僕が鉄屑を食べるみたいに、食事も獣それぞれだね」

「鉄屑は初耳だが……口の中を切らないのか?」

「ふふ。丈夫だからね」

 戯けるように笑う獏に少し覇気が無いと椒図はすぐに気付いた。外から帰ってすぐに少女の拷問を、しかもそれは目の前で死んだばかりの親しい間柄の者についてとなれば疲弊もする。

「疲れただろう? 曼珠沙華は僕達が見ておく。獏は少し休め」

「ありがとう……いてくれて助かるよ」

「頭くらい撫でて労ってやりたいが」

「触ったら怒るよ」

 以前にも頭を触られたことはあったが、その時はそれどころではなかったためか拒絶反応は出なかった。灰色海月に人の姿を与えた時も抱き付かれたが特に何も思わなかった。つまり椒図がまだ信用できないということだ。化生前の記憶が空白の所為だろう。

 払うように手を振り、椒図と蜃に白花曼珠沙華を任せて獏は店内に戻った。黒葉菫が歩けるなら、ベッドにもう用はないだろう。天井の空いた部屋は黒い空が丸見えで落ち着かない。灰色海月の部屋で休むことにする。

 ドアを開けると灰色海月の姿はなかったが、台所にいるのだろう。黒色海栗と浅葱斑は気分を紛らわせるためか床に盤を置き、珍しくチェスをしている。正確には黒色海栗には黒葉菫が付いていて二対一だ。

 黒色海栗と浅葱斑は盤上に集中していたが、黒葉菫だけは獏に気付いて顔を上げ、ベッドに一冊置かれていた古書を手に取る。

「丁度良かったです。これマキが読んでた本なんですが、何処に仕舞えばいいのかわからなくて」

「マキさんが?」

 表紙の剥げた本を受け取り、中を確認する。

「……童話集? 熱心に何か読んでると思ってたけど……意外な物を読んでたんだね」

「俺も思いました。意外だと言ったら、そうですか? と言われました」

 本に何かが挟まっていることに気付き、その頁を開いてみる。紙の切れ端のようだったが何も書いておらず、栞代わりに使ったようだ。その頁にあった童話は『いばら姫』だった。そのことに獏は痛むものを感じ目を細めた。

「……いばら姫って、糸車が出て来るよね。糸繰イトクリのマキさんはそこが気になったのかな。悪い呪いを掛けられて国中の糸車を焼かれるわ姫を刺すことになるわで……良い所がないよね……。マキさんも呪いを掛けられたようなものだしね……」

「そういう意味があったんですね。俺もその本を読んでみたんですが、マキには辛い内容だったんですね……」

「辛くて読んでたのかはわからないけどね。呪いを解く方法を探してたのかも」

「結局全部一人で抱えてたってことですよね」

「そうだね……。君ももし悩みがあったら言ってね」

「…………」

 考えているのか言えないことがあるのか、黒葉菫は黙り込んでしまった。

「罪人を信用できないって言うなら仕方ないけど」

 ベッドに腰掛け、元のように紙切れを挟んでぱらぱらと頁を捲る。他に挟まっている紙は無かった。

 たっぷりと時間を掛けた後、黒葉菫はゆっくりとベッドに手を掛けた。黒色海栗と浅葱斑には聞こえないように身を乗り出す。

「どちらかと言うと、貴方の方が悩みがあるように見えますが。……蛆虫、とか」

「そんなはっきり聞こえてた……?」

 随分大声を張り上げてしまっていたようだ。獏は苦笑した。

「ああ……そうか。椒図には全部言っちゃったから信用できないのか」

「?」

「こっちの話」

 怪訝な黒葉菫は置いておき、獏は本の頁に目を落とす。悪夢を使役できることを話したことで、何か良くないことになるのではないかと怖いのだ。それで信用できなくなっている。自ら話して自縄自縛しているなら世話が無い。

「俺の悩みと言うなら、刻印のことくらいでしょうか」

「それは……うん……そうだね……」

 白花苧環が残していった契約の刻印はまだ結ばれたままだ。その悩みは当分解決できそうにない。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る