54-再訪


 椒図から白花苧環の件の話を聞いた鵺は砕けた獏の杖を預かり、宵街へ戻った。饕餮とうてつの立ち位置が定かではないが、そのことも含めて狴犴に鎌を掛ける。解除印については、盗む機会があればということにした。今はまだ無茶な行動は起こさない。

 目を覚ました獏は一見落ち着いているようだったが、夢遊病かと疑うようにふらふらとした足取りで部屋を出て行った。それを蜃と椒図は止めなかった。

 獏が目覚めた時に暴れ出すと危険なので変転人達とは部屋を分けたのだが、獏は恐ろしいほどに静かだった。

 白花苧環の件は椒図が変転人達に話した。皆それを信じられないというように愕然とし、言葉を失った。

 店を出た獏は迷わず隣の家へ入り、二階に上がった。開いたままのドアから中に入ると、まだそこに置かれたままの白い体が目に入る。加減をせずに放った力で窓を中心に崩れた壁の向こうに、外がよく見えた。

 指で輪を作り、ゆっくりとその体に向ける。変転人や獣にはしないと決めていたことだ。輪で体を覗いても、離れた頭を覗いても、何も感じ取ることはできなかった。ここにはもう、白花苧環はいない。

 まだ乾き切っていない血溜まりを踏み、獏は白い頭部の前に膝を突いた。もう乾いてしまった双眸は何も見ていない。

「……前髪、邪魔そうだと思ってたけど、目を隠すためだったんだね」

 重い頭を抱え上げ、腕に抱き締めた。

「結局、悩み相談はしてくれなかったね」

 もう体温はないが、髪は固まることはない。触れた白い髪はまだ生きているようにさらさらと指が通る。

「どうすれば種が落ちるのかな……探してきっと植えてあげるからね。セリの時は姿が消えた後で見つけたけど、また僕が食べれば種が落ちるかな……。人間を食べたことはないけど、食べられるかなぁ……」

 悪夢の姿ではない白花苧環を食べた所で、種は落ちないことは頭の隅ではわかっていた。口元が戦慄き、金色の月から静かに夜露が零れる。白い頭を抱く手に力が籠もる。

 白花苧環の首の印が発動したのはおそらく獏の所為だ。狴犴の捺した獏の烙印には殺す力があると椒図が言っていた。同じ狴犴から刻まれた白花苧環の首輪にもその力が宿っていたのだ。

 獏のそれの発動条件は力が弱くなった時だが、白花苧環のそれは同じ条件ではないだろう。白花苧環の行動を制限し、監視するための物であるそれは言わば、彼を疑う物だ。おそらく罪人を認める発言や行動でもすれば発動する物だった。宵街から戻って来た時に獏に述べた感謝には、宵街が閉じられていたことで印と狴犴の力の繋がりが途絶えていて発動しなかった。椒図の力の効果が切れて宵街が開いたことで、再び繋がりを取り戻し発動した。

 冷たく突き放していれば、白花苧環はこんな目に遭わずに済んだのだろう。思考が鈍い。何故こんなことを考えなければならないのだろうか。

 頭を抱えたまま、千切れた体に向き直る。頭は下ろさずに片手で体に触れた。何処かにもう種が落ちているかもしれない。血溜まりに沈んでいるかもしれない。

「……?」

 服の中に何か固い物が当たり、怪訝に眉を寄せた。ナイフなら渡したが、その形ではない。

 そのポケットに手を入れると、小さな木箱が出て来た。見覚えのある箱だった。片手で焦れったく開けると、想像通りの朱い櫛が出て来た。獏に会いたいと言ってきた、見世物小屋にいた頃を知る者の血縁者が渡してきた物だ。店まで持って帰っては来たが何処に置いたのか見つからなかった物だ。まさか白花苧環が持っていたとは思わなかった。

「何で……。……まさか、この思念を辿ってまた会いに行った……?」

 差し出された願い事の手紙は獏と灰色海月が管理している。それを貸してくれとは頼めないだろう。頼めば必ず理由を訊くことになる。

「一言くらい……何か言ってほしかったな……」

 顔を上げると、ドアの陰から覗く目と合った。椒図と蜃だ。様子を見に来たのだろう。椒図に触れられて取り乱さなかったら、こんなことにはならなかったのだろうか。

「見てるんなら、聞きたいことがある」

「何だ……?」

 やや緊張した面持ちで椒図が返事をした。

「植物の変転人は死ぬと種を遺すらしいけど、いつどうやって落とすの?」

 椒図と蜃は顔を見合わせ、蜃は首を振った。

「僕もそういう話は聞いたことがない。死んだ変転人を埋葬した後にそこに同じ花が咲いた話は聞いたことがあるが……。変転人の死にそう度々遭遇するものでもないからな」

「埋めればいいの? マキさんは崖に生えてたって言ってた。崖に埋めればいいの?」

「その種の話は誰から聞いたんだ?」

「マキさんが、狴犴から……」

「嘘である可能性は?」

「セリの種は拾った」

「実例があるわけか……」

 口元に手を当て、椒図は考える。狴犴が白花苧環にわざわざ話したことなら、理由があるはずだ。死んだ体から種が落ちるなら、もう一度それを育てて変転人にすることも可能なはず。死んでもまた作り直せば良い。

「だったら狴犴……若しくは狴犴に命じられた誰かが苧環の死体を回収しに来る可能性があるな。獏は今、杖が無い。一人でどうにかしようと考えるな」

「…………」

「種については狴犴に訊くのが一番だと思うが、あまりに危険だ。宵街には植物に詳しい花守はなもりがいる。そいつに訊けば何かわかるかもしれない」

「花守……?」

「必要な植物を宵街で栽培してる木霊こだまだ。僕が地下牢に入る前と同じなら、花守は中層にいる。獣の多い上層に近付かなくていいから、接触できると思う。無色の変転人は中層に棲むし、海月達も知ってるかもしれない」

 今度は獏が目を伏せ考える。灰色海月はおそらく知らないだろう。変転人となってすぐに獏の監視役となったことで、宵街のことをあまり知らないと以前言っていた。浅葱斑も宵街を離れている時間が長く、良い答えは聞けないだろう。

「……わかった。聞いてみる。――それとは別に」

 木箱の蓋を閉め、二人へ突き出す。

「これの思念を辿って僕をそこに連れて行って、蜃」

 名指しされた蜃は椒図を一瞥し、理解した。椒図の烙印はまだ封じられているが、居場所が特定されないというだけで力は使えないままだ。こんなことに金平糖を使うのは勿体無い。自由に力を使える蜃に頼むのが順当だ。

 椒図が宵街へ掛けた方の力が先に解けたのは対象の大きさの問題で、大きい宵街はその分力が多量に必要となり余裕がなくなる。対象が大きい程、力が解けるのも早い。

「あ……いや、俺、変転人じゃないから……。変転人じゃないと思念を辿るのはちょっと。海月にでも頼んでみるか?」

 獏を刺激しないようにできるだけ穏やかに返事をする。落ち着いているように見えるが、獏はまだ平静ではないだろう。

「クラゲさんは駄目。これはクラゲさんに知られたくない。……スミレさんに頼んでほしい」

「怪我が完治したのか? あいつ」

 疑問には思うが、蜃では思念を辿れない。無色の変転人には誰でも思念を辿る能力が備わっているが、獣はそうではない。飛べるかどうかと同じで、思念を辿ることも獣によって異なるのだ。気配を辿ることはある程度可能だが、思念を辿れる獣は少ない。蜃は踵を返し、一跳びで階段を下りた。

「僕が外に出てる間、マキさんに何かあったら許さないから」

「お前を混乱させたことは謝る。その詫びとなればいいんだが、白いのは任せろ。お前は狙われてないだろうし、安心して行ってこい。……黒葉菫の方はわからないが」

「スミレさんのことはどうせ死んだと思ってるでしょ? わざわざ目の前に出ない限りは大丈夫だと思うけど」

 ばたばたと騒々しく、蜃が黒葉菫を連れて戻って来る。暫くベッドの上にいたので少し体力が落ちているのか、黒葉菫は小さく肩で息をしていた。あの瀕死の状態から走れるまでに回復して本当に良かった。

「……あの、思念を辿れと言われたんですが……」

「走れるなら怪我はもう良さそうだね」

「……うっ」

 黒葉菫は口元を押さえ、目を逸らす。話には聞いたが実際に白花苧環の変わり果てた姿を見るのは初めてだ。

 獏は腕の中の白い頭を見下ろし、こんなに綺麗な死体もない、と思う。

 黒葉菫も人間の死体は何度も見てきたが、知人の死体を見る機会は滅多にない。黒葉菫の気持ちを察し、獏はそっと頭を床に置いた。

「スミレさん。この木箱の思念を辿ってほしい」

 ドアまで歩き、獏は自分の背で白い死体を遮って立つ。

「……はい」

 黒葉菫は促されるまま階段を下りて外に出る。その足元を後ろから見ていた獏は、充分に歩けているがまだ様子を窺うような歩き方をしていると気付く。まだ痛む部分があるのか、慎重になっているのか。無茶な行動はさせないようにする。

 忘れそうになったが獏に冷たい首輪を付けることを直前で思い出し、しっかり嵌めてから黒葉菫は石畳の上で黒い傘をくるりと回した。二人の姿は一瞬にして消える。

 瞳を開けると、獏には以前来た場所、黒葉菫には初めての長閑な田畑の風景が広がった。以前獏が来た時は雪が積もっていたが、今はその影はない。遠くで蝉が鳴き、真っ青な空から太陽が照りつける。

「……危ない場所にでも行くのかと思いましたが、安全そうで良かったです。急いでるようでしたが、お面は良かったんですか?」

「!?」

 辺りを見渡しながら一先ずは胸を撫で下ろしていた黒葉菫だったが、隣で勢い良く両手で顔を覆って座り込んだ獏にびくりと跳ねた。

「お面……してない……」

「戻りますか?」

「……いや、サングラスで凌ぐ……」

 いざと言う時のためにサングラスを持っていて良かった。面に比べると心許ないが、何も無いよりは良い。サングラスを掛けて立ち上がると、少し立ち暗んだ。

「大丈夫ですか?」

「血が出たからかな……それとも力を使った所為か……」

 自分の体にまだ少し残っている痛みには蓋をして、黒葉菫は獏を支える。烙印がありながら壁を吹き飛ばす程の無茶な力を使えば、こうなることも必然と言える。

「少し休みますか?」

「行く。マキさんが何をしにまたここに来たのか知りたいから」

「マキがここに? ここは何なんですか? それと……何で俺なんですか? クラゲの方が良かったんじゃ」

 まだすぐには歩けなさそうな獏にここぞと疑問をぶつけた。変転人は他にもいたのに、選りに選って何故まだ常態ではない黒葉菫が名指しされたのか。理由くらいは知っておきたかった。

 獏は暫く頭を擡げ、息を整えた。

「……以前ここにマキさんとウニさんと善行に来たんだよ。僕は嫌だったけど。クラゲさんには知られたくないし、ウニさんよりは君の方が一応付き合いは長いしね。僕のことを知ってそうだし」

「知ってるって、何をですか?」

「仲が良いみたいだし、ウニさんに聞いてないかな? 見世物小屋……のこととか」

「……それなら確かに聞きました。いきなり、見世物小屋とは何かと訊かれて」

「全部聞いた?」

「わからない文字があるからと、その日のウニの日記を読みました。その木箱の中が櫛ですか?」

「そうだけど、その頁は処分しておいてほしいね……」

 サングラスを掛けた顔をゆっくりと上げ、確かめるように辺りに目を遣る。

「マキさんはそれ以前に何処かで聞いたみたいだけど、クラゲさんにはそんな澱んだ過去を知られたくない」

「わかりました。誰にも言いません」

「……うん。それでね、今から会いに行くのは、その時の善行で僕に会いたいって言ってきた人なんだけど。この櫛を渡されてとりあえずは持って帰ったんだけど、ずっと行方不明でね。それが何故かマキさんのポケットから出て来たんだ。こんなのを持ってる理由なんて、思念を辿る以外にないでしょ?」

 やはり見世物小屋に関する話をすると平静を保つのが難しいが、今は頭が真っ白になっている場合ではない。何とか理性で押し留める。

「……? それだとマキが貴方に何らかの興味を持ってたことになりませんか? 罪人嫌いなのに変です」

「そう。変なの。だから知りたい。思念を辿る以外で持ってた可能性もあるけど、とりあえず可能性を一つ当たってみる」

「……成程。貴方が疲れても負ぶうことはできないと思いますが、歩けますか? 倒れた時は何とか頑張ってみます」

「大丈夫。スミレさんは自分の体を優先してね」

 何回か深呼吸し、落ち着いて一歩を踏み出した。足元は雪ではないので、滑る心配もない。夜行性には日中の陽射しは応えるが。

 だが目的の家の前で、二人の足は止まってしまった。

 黒と白の布が掛けられ、鼻腔を香の匂いが掠める。

「これ……御葬式ですか?」

「まさか……あの人死んだの……?」

 死人の思念は辿れないはずだが、一緒にいた少女の思念も櫛にあったのだろう。呆然としていると、家から学生服を着たその少女が出て来た。少女はすぐに獏の姿に気付き一瞬固まった後、きょろきょろと辺りを見回して駆け寄って来た。

「獏さん……と、今日は白いお兄さんと一緒じゃないんですね。おじいちゃんに焼香をあげに来てくれたんですか?」

 やはり亡くなったのはあの車椅子の老人のようだ。あの時白花苧環は渋る獏に、老い先短い彼に冥土の土産をと言っていたが、本当に冥土の土産になってしまったらしい。

「偶然だったんだけどね……まさか御葬式の最中とは思わなくて。人前に出るつもりはないけど、手は合わせておくね。心の中で」

「そうだったんですね。おじいちゃんずっと、獏さんに会えたことを喜んで何度も話してました」

「え……?」

 あの時、代価としてこの少女とあの老人から獏に関する記憶を食べたはずだ。そう考えるとおかしい。少女がすぐに獏を認識したことも、以前願い事を叶えるために来たことも覚えているはずがない。食べ損ねたはずはない。ならば何らかの理由で記憶が引き戻された。

(マキさんの仕業か……。櫛で記憶を引き戻したな……)

 余計なことを、と思ったが、老人の方は亡くなったのだからもう言うことはない。

「えと……立ち話も何なので家の中に……と言いたいんですが、親戚が集まってるし、人前は駄目なんですよね?」

「立ち話で構わないよ。少し確認したいことがあるだけだから」

「確認……?」

 長居をすべきではないと、すぐに本題に入る。怪訝な顔をする少女に尋ねてもわからないかもしれないが。

「僕と来た後に、白いお兄さんはここにまた来たことある?」

「ああ、それですか。それなら私もおじいちゃんと一緒にいたのでわかります。来てましたよ。手土産まで貰っちゃって」

「手土産? 随分と御丁寧に……」

「えと……獏が見苦しい所を見せました、と……」

「…………」

 言っても良いのだろうかと躊躇いながらも言い、少女は苦笑いした。獏も無言で含みのある愛想笑いをした。

「他には? 何か話した?」

「昔の獏さんのことを聞きたいと言って、おじいちゃんは喜んで話してましたが……」

 話しながらまた襲い掛からないかとちらちらと不安そうに獏を見る。あの時と比べて今日は静かな様子で大人しいが、警戒はする。

「……何でそんなことを聞くのか、理由は言ってた?」

「理由? ……あ、意味はわからなかったんですが、どのような環境が罪を煽るのか……とか言ってました」

 獏ははっとしてサングラスの奥で目を伏せた。罪人を一括りに悪と疎んでいた白花苧環が罪の背景に目を遣ろうとしていたことに驚いた。その発言は罪に理解を深めようとしている風に聞こえる。

「あとおじいちゃんに、人生の先輩に聞きたいことがあります、と」

「……何それ? 人生相談?」

 僕には悩み相談なんてしてくれなかったのに。と獏は少し面白くない。

「どんな時でも親を信じるべきですか、と言ってました」

「親?」

 獣にも変転人にも親という存在はいない。どちらにも生殖機能は無いのだ。夢魔のように生殖機能のある獣もいるが少数だ。

 と言うことは普通の人間にも理解しやすいように例えたものだろうと考える。おそらく狴犴のことだろう。狴犴に従順だと思っていたが、そんなに前から疑問を持っていたらしい。

「どんな答えをあげたの?」

 また襲われては恐ろしいと、少女は包み隠さず話した。

「親は子を信じるべきだが、子は自由でいい。貴方は自由に生きなさい、と言ってました」

『生きなさい』。その言葉が今は酷く重く突き刺さった。その結果があれだった。狴犴に疑問を抱いて苦悩していたことに気付くべきだった。本当に逆らう腹を括ったのは、きっと宵街で首輪を付けられた時だろう。見えない鎖で繋がれるまで、愚かにもそれを信じてしまった。

「お兄さんは悩んでるような顔をしてましたが、後はもう何も言わなかったです。少し御茶をして、少し……掃除も手伝ってもらっちゃって、帰って行きました」

「うん……ありがとう。教えてくれて」

 それだけ聞ければ充分だった。

 軽く手を振り踵を返すと、逡巡しながらも少女が呼び掛けた。

「あ、あのっ! おじいちゃんのお墓、参ってくれますか!?」

 獏は足を止め、少し考える。

「……気が向いたらね」

 参る可能性の方が少ない言葉だったが、少女は輝く太陽にも負けないくらいの笑顔を作った。

「はい! 白いお兄さんにも、宜しくお伝えください。今度こそちゃんと御礼もしたくて」

 以前手伝ってもらったと言う掃除の礼だろうか。その礼はもう彼には言えないだろうが、白花苧環が死んだことは少女には話さないことにした。

「それじゃあね」


「……たぶんお兄さんは私に気付いてないと思うけど……」


 ぼそりと最後に少女が呟いた言葉は獏には届かなかった。茹だる暑さと蝉の声に溶けてしまった。少女が小学生の頃、熊に襲われた時に助けてくれた少年がいた。その白い少年は一目見たら忘れないような花貌をしていたが、少女は熊のあまりの恐ろしさにその時の記憶に蓋をしてしまった。白い少年に再会した時、すぐに気付くことができなかった。少年も少女の成長した姿に気付かなかっただろう。あれからもう七年も経っているのだ。白い少年が一人でここに訪れた時に少女は漸く記憶に引っ掛かることができた。また会うことがあれば、その時の礼を言いたい――そう思った。


 少女の視界から離れるために一旦場所を移し、獏は今度は一通の手紙を取り出した。黒い傘を片手に黒葉菫は差し出された手紙を受け取る。

「次はその思念を辿って。逃げるなら追い掛けて、追い詰めて、捕まえる。威嚇の発砲を許可する」

「突然物騒な要求になりましたね。また話を聞くんですか?」

「違うよ。それは以前の善行で代価を貰えなかった人の手紙だよ」

「代価を貰えない……? そんなことがあるんですか?」

「逃げたんだよね……。その時は他にも契約者がいて食事に満足しちゃったから、非常食でいいかなって逃がしてあげたの。随分経ってるし、利子も膨らんでるかな?」

「借金の取り立てみたいですね。貴方から逃げたんなら、かなりの手練ですね」

「新しく善行をする気分じゃないし、でも体は回復させないといけないし。まさかこんな風に役立つとは思わなかったから、重要な記憶は貰わないよ。僕は優しいからね」

「…………」

 優しいかどうかは疑問が残るが、変転人に対しては確かに優しい。普通の人間はその限りではないが。

「俺を指名したのは、武器が銃だからですか? 銃だと誰でも危険物だとわかりやすい」

「それも一理あるね」

「相手はどんな奴ですか? 屈強な……力で捩じ伏せてくるような奴ですか?」

「普通の高校生だよ。虐めの主犯格への報復を願ってきた。力は無いと思うよ」

 それなら何故逃げられたのかと黒葉菫は理解ができなかったが、力ではなく頭脳で逃げたのかもしれない。腕っ節ではないなら少し銃で威嚇すれば充分だろう。

「思い出すだけで頭が痛くなるよ。あの石頭……」

「…………」

 物理的に頭で逃げたのだと黒葉菫は察した。額を摩る獏に目を遣り、黒い傘をくるりと回す。

 学生は夏休みの期間だが、補習でもあるのだろう。思念を辿り行き着いた場所は学校だった。ここからは契約の刻印を辿り、より正確な居場所へ向かう。

「杖は無いけど、外ではいつも杖は使えないからね。いつも通りだ。スミレさんは刻印を辿れる?」

「ちょっと待ってください……探すので……。自分のが邪魔なんですよね」

 白花苧環が黒葉菫に刻んだ印はそのままだ。刻印した者が死んでも、された側が死んでいなければ刻印が消えることはない。

「…………見つけました。辿れます」

「頭に気を付けて。行くよ」

「はい」

 獏の力の温存のために黒葉菫が刻印を辿って指示を出し、校舎を跳び上がらなければならない所は獏が手を取る。生徒の姿のない旧校舎にいるようで、人の目がないのは助かる。

 トイレの前で立ち止まり、ドアが閉じた向こうに親指と人差し指で作った輪を向けた。

「何人かいるけど、気にせず銃を構えて、スミレさん」

「騒がれませんか?」

「早く済ませたいから、さっさと蜘蛛の子を散らしちゃって。一発撃てばきっと逃げる。契約者は僕が確保する」

「わかりました」

 黒葉菫は掌からフリントロック式の銃を引き抜く。玩具だと思われるかもしれないが、一発撃てば本物だとわかるだろう。

 獏は勢い良くドアを開け放ち、奥に固まっていた男子生徒達は一斉に振り返った。

「な……何だ?」

「不審者……?」

 逃げ道を与えるため、獏と黒葉菫は出入口から離れて立つ。そして獏は片手を軽く上げた。

「許す」

 合図と共に、黒葉菫は生徒達の足元に向けて発砲した。生徒達は唖然とした。

「ほら、今度は当たるかもしれないよ?」

 不敵に微笑む獏の一言で、生徒達は一斉に血の気が引き叫びながら一目散に逃げ去った。

「スミレさんは発砲の証拠を湮滅してて」

「はい」

 一人だけ奥に残った少年に獏は歩み寄る。忘れたとは言わせない。獏に願った代価は今、回収する。

「久し振りだね。何で僕が来たかわかるよね? また虐められるようになった君を助けに来たわけじゃないよ」

「……代価……」

「そう。逃げた分を少し多めに貰うけど、ちゃんと生活に支障が出ないようにするから安心して。廃人にしちゃったら、また怒られちゃうからね」

 全く安心感の無い笑みを浮かべて、待ち切れないと唇を舐める。背後は壁で逃げ道のない少年はごくりと唾を呑んだ。

 頭を動かす隙を与えず、壁に押し付けるように片手で少年の双眸を塞ぐ。少年は両手で必死に足掻こうとするが、普通の非力な人間に解けるはずがない。ただ食事中に顔を殴られると避けることができないので痛いだろう。

 サングラスを外し、証拠を湮滅して待つ黒葉菫に声を掛ける。

「手を押さえてくれるかな? ゆっくり食べたいから」

 黒葉菫は銃を仕舞い、少年の両手を掴んだ。

「ゆっくり食べられますか? さっき逃げて行った奴らが誰か呼ぶかもしれません」

「旧校舎の一番奥のトイレだし、そこそこ時間はあるでしょ」

 少年に口付け、最初に戴くことを決めていた憂慮の気持ちを食べる。そこに繋がるものを利子の分、少し戴く。わざと『廃人』などと言い不安を煽った甲斐があった。少年からは徐々に力が抜け惚けていく。抵抗する両手にも力が入らなくなり、黒葉菫もそっと手を離した。

 いつもより少し時間を掛けて食べた獏は、満足げに口を離す。

「ふふ……やっぱり負の感情こそ美味だね……」

 サングラスを掛け直し、解放された少年はふらりと床に手を突いた。

「逃げ切れると思った? タダで願い事を叶えてもらおうなんて、そんな虫の良い話はないよ。……ふふ。御馳走様」

 すぐに黒葉菫を促し、傘で移動する。足音が近付いていることに気付いたからだ。そこには初めから何もいなかったかのように、何の痕跡もなく二人の姿は忽然と消えた。

 久し振りの食事で獏は幾分回復した。足元がふらつくこともないだろう。後は鵺が解除印を持ち出してくれれば、宵街の襲撃も返り討ちにできる。

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