53-七年前
いつもより高い目線で初めて開いた瞼の向こうには、知らない男がいた。
崖から降ってきた人間とは違う容姿をした金色の長い髪の男だった。
空は青く――いや少し白んでいるだろうか、少し風が冷たい。
潰されたと思ったが、意識は明瞭に存在していた。
夜から目覚めて間も無いようにぼんやりとしていて、いつもとは違い体が怠く重い。男に触れられるがまま、常のようにじっと根を張っていた。
「潰れた頭と脚は修復できたが……」
頭に触れていた手がゆっくりと下へ下がる。何に触れているのかよくわからなかった。花弁なのか蘂なのか、葉ではないことは確かだが感覚が理解できなかった。
「……修復した影響か、目の色が左右で異なるな。見えてはいるようだが、視力はどうだ? 好奇の目で見られ目立つことは避けたい。眼帯を付けていろ」
白い小さな物を当てられ、視界が狭くなった。
「同じ品種の花でも人としての色は変わるものだな。白は初めてだ」
男はぼそぼそと独り言を喋り続けていた。言葉の意味は全く理解できず、ぼんやりと体から抜けていく。
「――っくしゅん!」
「ああ、すまない。初夏とは言え標高が高いからな。耐寒性が強いとは言え裸だと寒いか。後は宵街で話そう」
自分の体から変な声のようなものが聞こえ、無意識に頭を動かした。白い髪が風で揺れる。今までは風で揺れることしかできなかったが、頭が動いたことで脳が一気に覚醒した。
すっぽりと体を覆う外套を掛けられ、フードを被せられる。そこに緑の茎や葉は無く、白い人間のような腕や脚があった。これは何なのかと不安げに男を見上げると、彼はその白い体を軽々と抱え上げた。
持ち上げられることは、手折られることと同義だ。降ってきた人間に毟られた今は根も無く土から離れているが、こんな崖の中腹の少しばかり突き出した上で人間に持ち上げられるのは初めてだった。
「お前に人の姿を与えた。お前は今日から変転人として過ごすことになる」
言葉だけで全てを理解するのは難しかったが、植物の体は無くなり、代わりに人間の体が生えていることだけは事実として確かに視界に入った。脳の無い花は夢など見ないが、まるで夢を見ているかのようだった。
そして毎日崖から見えていた木々と空は唐突に姿を変え、見慣れない石畳と酸漿提灯が並ぶ薄暗い景色が広がった。
「私は狴犴と言う。白花苧環――お前には私の許で働いてもらう。まずは
四角い箱が積まれたような家と思しき石の前に降ろされ、狴犴と名乗った男は一人で石段を上がって行った。
体は重く目線も高く慣れないが、白い手を持ち上げて指を折り畳んでみる。まるで自分の物のように自分の意思で自由に動く。いや自分の物なのだから当然だ。初めての体なのに脚も動く。歩くことができる。
「ちょーいちょい。何してんだ、早く入れ」
目の前のドアが開き、また別の容姿のがたいの良い男がぷかぷかと煙草を吸いながら顔を出した。この男が先程話に上がった狻猊なのかもしれない。
ここが何なのか、人間の姿になって一体何をすれば良いのかもわからず、言われた通りに石壁の中に入った。
中にはもう一人、白花苧環と同じように外套を被った少女が座っていた。新しく入ってきた白花苧環を見上げ、どういうわけか頬を染めて固まっている。
「無色が来ちまったから、有色のお嬢さんは後回しだな。そういう決まりなんだ。すまんな」
「い、いえ、目も怪我してるみたいですし、私は後でも大丈夫です」
後回し。ということは白花苧環は何かを優先されるらしい。無色や有色というのは何なのかわからなかったが、先程狴犴は服と傘を作ってもらえと言っていた。つまり着る服を優先されるのかと推測した。
白花苧環は首を振り、手で少女を示した。立ち上がって奥のドアに手を掛けようとしていた少女は驚いた顔をし、狻猊も困った顔をした。
きっと後回しだと奥の部屋へ行くのだろうと、白花苧環は無言で奥のドアを開いた。そこは小さな部屋で、簡素な机と椅子だけが置かれていた。部屋へ入ることは止められなかった。
暫く経ってもドアを開けられることはなかったので、少女を優先してくれたようだ。先に居た少女の方が先に服を得られるのは当然の権利だ。
「…………」
くしゃみをしたことで声が出ることは知っているが、白花苧環は言葉を話さなかった。言葉を知らないわけではない。ただ話してはいけない。そんな気がした。
遠い記憶のような『獣に関わるな、心を許すな』という言葉が頭にこびり付いていた。獣というのが何なのか、只の動物なのか、それは定かではなかったが、何なのかわからない以上迂闊に口を開くのは躊躇われた。その言葉に加えて薄らと怨嗟のような感覚もある。何に対してなのかはわからない。花の頭が潰された所為で可笑しくなっているのかもしれない。
たっぷりと時間が経った頃、漸くドアが開いて煙草を咥えた狻猊が白い服と白い傘を持って現れた。傘の先を掌に当てられ、何をしているのだろうかと思う間もなく傘は掌に吸い込まれていった。崖に咲いていたため人間の姿を見ることは殆どなかったが、人間の体とは奇怪なものだと思った。
覆っていた外套を脱がされ、白い体に初めての服を着せられた。人間は服を着る唯一の生き物だ。少し窮屈にも思えたが、自分が人間になった実感が少しだけ湧いた。
「花は大体容姿が整うもんだが、お前は取分け眉目秀麗だな」
白い肌に白い髪、服も真っ白で全身が雪のように白い。自分の姿を興味深く見下ろしていたが、ふと顔を上げると狻猊の後ろに幼い少女が立っていた。少女の後ろからは細い蛇のような尾が伸び、動いていた。人間にも尾が生えている者がいるらしい。無意識に凝視してしまい、その視線に気付いた少女は笑う。
「狴犴と狻猊には何も生えてないけど、獣の見た目は色々あるのよ。私は鵺。狴犴に言われて迎えに来たわ。よろしくね、マキちゃん」
「…………」
人間だと思っていた者がどうやら獣だったらしい。狴犴と狻猊も鵺も獣で、ここは獣の棲まう場所なのかもしれない。先程の少女はどうなのだろう。あれも獣なのだろうか。
知らなかったとは言え獣に関わってしまった。ならばもう一つの『獣に心を許すな』だけは守ろうと、白花苧環は表情を変えず口を閉ざした。
「あら? まだ喋れないのかしら? 折角だから色々教えるついでにピクニックでもしようかと思ったんだけど……まあ、その内話せるようになるわよね」
「人間の所に行くのか? だったらついでに煙草を買って来てくれよ。オレはここを離れられねぇからな」
「私の容姿で買えたらね」
「あっ……くそ、早く大人になれよ」
「人間の成人年齢なら優に超えてるんだけどね」
幼い容姿には似付かわしくなく呆れて目元を引き攣らせながら、鵺は白花苧環を手招いた。付いて行くかは迷ったが、何も知らないままでは何もできず、生きていけない。最低限のことだけでも学ばなければならない。
鵺はしゃんと杖を振り、また景色が一変した。田畑の広がる長閑な田舎の風景だったが、白花苧環はそれを見るのは初めてで、くるくると変わる景色に目が回りそうだった。
周囲に人影は無く、低木の近くに腰を下ろした。鵺は重箱を取り出し、蓋を開ける。中には白い粒々とした塊に黒い何かを巻き付けた物が詰まっていた。その下の段には黄色い物や茶色い物など、色の付いた物が詰まっている。
「食べ物はわかる? 人になった以上、水だけじゃ生きていけないからね。基本的に一日三食、ちゃんと食事を摂るのよ。まずは主食の米ね。これはおにぎり」
白い塊に黒い何かを巻いた物を突き出され、反射的に受け取る。色の付いた物も一つ一つを指差して説明を受けた。言葉は理解できた。今まで聞いたことのある言葉だったのか判然としないが、言葉はすぐに呑み込めた。
説明を終えると鵺はおにぎりを頬張り、見様見真似で白花苧環もおにぎりを口に入れた。中には橙色の何かが入っていたが、鵺は鮭だと言った。魚という生き物のようだ。
味覚を得て初めての『味』の体験はなかなか興味深かった。表情が変わることはなかったが、悪くはない味だった。次に渡された梅干しという物には思い切り咳き込んで笑われたが。これはまるで毒物のような刺激だった。
その後に鵺は獣や変転人、宵街のことを説明し、白花苧環は耳を傾けながら黙々と食べた。知らないことばかりだったが、頭にはすんなりと入ってくる。
話の区切りが付いた所で、水筒を忘れたと言い鵺は少しの間姿を消した。
待つ間に食べ物を確認しながら抓んでいると、唐突に背後から声を掛けられた。
「こんな所でごはん食べてるの?」
振り向くと、鵺と同じくらいだろうか幼い少女が立っていた。この子供は人間の子供なのか獣なのか、白花苧環にはまだわからなかった。ただ、鵺よりは子供らしい表情と喋り方をしている。服装も獣とは違う印象を受けた。人間で合っているかもしれない。
「この辺は最近熊が出るから、気を付けなきゃいけないんだよ」
「……くま?」
人間ならば話しても大丈夫だろう。白花苧環は初めて言葉を口にした。思ったよりもするすると話せる。
「知らないの? 毛むくじゃらの黒い大きな動物だよ! 人を襲う危ないやつ!」
両手を大きく広げて見せるので、白花苧環は首を傾げながら少女の後ろを指差した。
「それみたいなものですか?」
「……え?」
少女は振り返り、背後に迫っていた黒い巨体に絶叫した。
「ぎゃああああああ!」
手近にいた白花苧環の背後に回り、盾にする。
「人を襲う危ないやつ……ですか。確かに理性は無さそうですね」
白花苧環が立ち上がると、警戒した熊は腕を振り上げた。
今までそんな経験はなく何も聞かされていないにも拘らず、考えるよりも先に体が自然に動いていた。掌を合わせて握るように両手にアイスピックのような針を抜き出し、一本を躊躇い無く熊の目に向けて投げた。針の形はよく馴染む。苧環の花から着想した紡錘の形だ。
片目を潰され怯んだ熊に、もう一本の針を構えて地面を蹴った。固い肉塊の首を一撃で切り落とす。司令塔を失った体はどうと地面に倒れた。動かないことを確認し、観察しながら歩み寄り目から針を抜く。
針を仕舞いながら表情一つ変えず少女の許まで戻ると、少女の脚ががくがくと震えていることに気付いた。
「大丈夫ですか?」
「くっ……熊……殺したの……? もう怖くない……?」
「動かないので、大丈夫ではないでしょうか。怖いなら、家の近くまで送りましょうか?」
「う……うう、うん……」
こくこくと頷く少女は白花苧環が差し出した手をぎゅっと握り締めた。余程怖かったらしい。近くの茂みががさりと動き、少女の肩は再びびくりと跳ねた。
「危なかったら助けに入ろうと思ったけど、まさかもう武器を出せるなんて……。火事場の馬鹿力ってやつかしら?」
茂みから出て来たのは熊ではなく、水筒を提げた鵺だった。倒れた熊に目を遣り、急いで弁当を片付ける。
「水を差されたわね。その子を家まで送るの? 付いて行くわ」
鵺は獣だ。人間の子供とは話すが、鵺とは口を利かないようにする。子供との会話は聞こえていたはずだが、鵺はそのことには言及しなかった。
少女に手を引かれ、幾つかの家が固まっている辺りへ連れて行かれた。鵺から聞かされた説明により、変転人も人間ではあるが普通の人間とは少し異なることを踏まえ、家の前までは行かずその近くで少女と別れた。――歩いている途中で鵺に小声で囁かれた。普通の人間は掌から武器を取り出せないのだと。
掌に吸い込まれた傘の使い方も教えてもらったが、帰りも鵺の杖で宵街へ戻った。
科刑所と呼ばれる建物の中に居る狴犴へ白花苧環を引き渡し、鵺は去って行った。
鵺から話を聞いた狴犴は心無しか満足そうで、嬉しそうだった。
「熊を殺したそうだな。何も聞かされてないにも拘らず生まれた日に武器を生成するとは。素晴らしい」
生まれた日に熊を殺したことは瞬く間に噂となり広まった。変転人は白花苧環に畏怖と憧憬の念を抱くようになった。
その日から狴犴には色々と教わった。罪悪は良くないことで、罪人と直接会うこと、地下牢への立ち入りを禁止された。後にそれは解禁されるが、その時にはもう罪人に軽蔑の感情しかなかった。それは調教とも言うのかもしれない。
小さな家も与えられた。上層と中層の交わる辺り、少し奥まった場所ではあるが変転人の家としては一番高い場所だった。そのためなのか白花苧環の白い傘は他の変転人の傘とは異なり、中層に転送されるように細工されている。他の変転人は下層に転送されるらしい。
食事は円らな瞳と土竜のような体に長い耳をぴんと立てたよくわからない地霊という生き物が、大きな爪を器用に使いながら運んできた。主食と何らかの具が入ったスープ、そして小鉢が一つ。量はあまり多くはなく、動き回った日は物足りなく感じた。地霊は茶は持参せずいつも白花苧環の家で淹れていたので、それだけは見て覚えた。
右側の前髪が目が隠れるほど伸びると漸く眼帯を外せた。右目の方が透けるように色が淡い。狴犴の言う通り見えてはいるが、片目ずつ手で覆いながら周囲を見渡すと見え方が異なる。右目の方が明らかによく見える。見え過ぎて疲れてしまうので、隠している方が良いだろう。
宵街で過ごす内、人になって間も無い頃にあった誰のものかわからない記憶は薄れ、言葉だけがほんの少し薄らと頭の隅の物陰に落ちているだけとなった。
いつから獣とも言葉を交わすようになったのか、よく覚えていない。いつの間にか話すようになっていた。変転人になり間も無い頃にあった誰かの記憶が薄れてきた頃だろうか。
他の変転人とはあまり話す機会はなく、狴犴から教わる偏った知識だけを全てだと過ごした。鵺と話すことは偶にあり、狴犴とは違う話を聞くこともあったが、言葉だけを知り物を知らないという状態が多かった。
そんな機械的な毎日の中で変化が訪れたのは、狴犴が罪人の牢へ視察に行けと命じた時だった。罪悪は忌むべきもので罪人は悪だ。何故そんな獣の許へ行かなければならないのか疑問と困惑はあった。だが狴犴には逆らえなかった。
知識の乏しい状態で行う視察は散々だった。その罪人――獏が見世物小屋にいたという話は、
視察で獏と衝突した罰として善行を共にすることになり、疑問と困惑と嫌悪が渦巻いた。その中で初めて、地霊が運ぶ食事とは全く違う甘い菓子を口に入れることになった。それまで変化の無い平坦な日常だったが、味も食感も不思議なその蠱惑的な物に初めて明確に興味を示した。顔には出さなかったが、罪人でも知る菓子を自分は知らない、そのことに違和感を覚えた。おそらくその瞬間から、狴犴が厚く積み上げてきた鍍金が剥がれ始めていた。
灰色海月の見舞いにと菓子を選んだことも、その後自分でもそれを買って食べたことも、付随する変化の一つだったのだろう。あと何故か一部の変転人の間であの菓子がちょっとしたブームになったらしい。
皆で菓子を突いた時間は、今までに無かったものだった。一人で黙々と狴犴に命じられたことだけを
獏には多くのものを与えてもらったと思っている。罪人のことはやはり良く思うことはできないが、少しでも借りを返せただろうか。
最期は喉を裂かれ声が出なかった。首を切られても脳が無事ならまだ少しは動くのだと知った。
言いたいことは何かとあったかもしれない。
だが最期に微かに唇を動かした言葉は、改めて言いたかった言葉だった。最後まで言えたのだろうか。
――ありがとうございます。
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