52-貴方のために


「相談してもいいですか?」

 それぞれ静かに古書を読んだり物置部屋から拝借した瓦落多を弄ったりとしていた変転人達は、顔を上げて声のした方を見た。灰色海月が遠慮がちにドアから顔を出している。

「いいですよ。何ですか?」

 こういう時に言動が早いのはやはり白花苧環で、古書を閉じて向き直る。

 傷の状態が幾分良くなった黒葉菫はベッドに座り、黒色海栗が開いている古書にある単語の説明をしていた。こちらはいつも通りゆったりと反応する。

「わかることなら」

 瓦落多を弄っていた浅葱斑は、二人が返事をしたので黙って先を促すように灰色海月を見た。

 灰色海月は部屋に入って静かにドアを閉め、一冊の薄い本を差し出す。

「獏に元気が出るように好きな御菓子を作ろうと思ったんですが、好きな物がわからなくて……。良い案はありますか?」

 最初から鼈鍋より菓子を作れば良かったと灰色海月は漸く思い直したのだ。

「菓子の相談ですか……それはオレには答えられないですね。あまり色々な菓子を知らないので」

「俺も獏の好みはわからないが、菓子なら何でも食べるんじゃ?」

 白花苧環は元々チョコレートの味も知らなかったほど菓子には疎い。灰色海月が作る菓子もいつも初めて食べる物ばかりで、そこで知識を得ているようなものだ。

 黒葉菫もそれほど菓子に詳しいわけではない。獏は菓子の知識があるのかないのか、灰色海月の作った物をいつも美味しそうに食べている。嫌いな物などないと思うほどに。黒色海栗もこくこくと頷いた。

「ボクも好みはわからないけど、獏はいつも紅茶を飲んでるし、スコーンとかどう? 紅茶と言えばスコーンだろ?」

 さすが世界を旅していただけあって浅葱斑は菓子も知っている。得意気な浅葱斑とは反対に白花苧環は小首を傾ぐ。知らない菓子のようだ。

 灰色海月は持っていた本を捲り、目的の物を見つける。丸いパンのようなスコーンの写真と作り方の載った頁を皆の方へ向けた。

「これですね?」

「見た所、簡単そうですね。良い案を出せなかったので、何か手伝えることがあれば手伝いますよ」

「え。それじゃあ、俺も……?」

 黒葉菫はずっとベッドに横になっていたので、そろそろ体を動かしたい気持ちがあった。あまり激しく動くとまだ傷が痛む気配はあるが、菓子作り程度なら問題ないだろう。

「ではこのスコーンに塗るクロテッドクリームという物とジャムを作るのを手伝ってください。白い粉を混ぜるのは私がやります」

 勢い込んで指示を出し、灰色海月はもう一度自分で本を見ながら部屋を出た。白花苧環と黒葉菫も後に続き、何だか面白そうだと浅葱斑と黒色海栗も付いて行く。

 とは言っても狭い台所に全員が立てるはずがないので、手前の机の前で座りながら、後の二人は台所を覗くことしかできなかった。

 火の前に立たなければならない白花苧環と黒葉菫は奥のコンロの前へ、灰色海月は手前の台で材料を並べた。

「ジャムは何で作るんだ?」

「獏の好みはわからないので、スミレさんの好きな果物でいいです」

「俺の……?」

「不機嫌な獏の機嫌取りなんですから、唐辛子でも混ぜておけばいいんじゃないですか?」

「余計に機嫌が悪くなったらマキの所為だな……」

 本に目を遣りながら白花苧環は生クリームをボウルに開け、作り慣れているのではないかと思うほど手が速い。迷いがないことは強みだと黒葉菫は横から見つつ思った。

「じゃあ、唐辛子に近い色の苺で作る」

 苺の蔕を毟って琺瑯鍋に放り込む手元に目を遣り、唐辛子は混ざっていないようで灰色海月は安心した。

「辛い物は知らないが、苦い物は苦手だって言ってたな」

「百年以上生きてても舌は子供なんですね」

 それぞれ手を動かしながら、会話をする余裕はある。

 椒図に意識を閉じられた獏は目覚めた瞬間から機嫌が悪く、大所帯になってしまったからか店から逃げるように飛び出し、今は静かな隣家に一人でいる。力を使わないと言っていた椒図に力を使われたのが気に入らないらしい。命を奪う行為ではないとは言え軽率に意識を閉じてしまったことを椒図は反省しているが、獏が只ならぬ様子で叫んでいた声は向かいの部屋まで聞こえていた。あれを力を使わずに鎮めるのは一筋縄ではいかないだろう。

「あれだけ疎んでた獏の機嫌を直す菓子作りを手伝うなんて、どういう風の吹き回しなんだ?」

 潰した苺と砂糖を煮詰めながら、鍋から目を離さずに黒葉菫は傍らの白い彼に尋ねた。

「オレはクラゲを手伝ってるだけです」

 白花苧環も手元から目を離さずに答える。

「それすら嫌がりそうなのに」

「言うようになりましたね。最初はあんなにオレのことを怖がってたのに」

「色々あるんだろうとは思ったからな」

「……ふ。そうですね。今は少し楽しいですよ。こうして他の変転人と話す機会もあまりなかったので。話してみると案外普通だと思いました。……他の人はどうだかわかりませんが」

「焦げそう」

「……は? 火が強いのでは?」

 片手を伸ばして黒葉菫のコンロの火を弱める。判断と行動の速さはさすがだ。

「火の前に立つのは久し振りだからな……こんなのでキャベツ炒飯作れるのか……」

「キャベツ炒飯?」

「ウニの好物のキャベツを入れて、キャベツで包んだ炒飯」

「ほぼキャベツですね」

 火から目を離さないように凝視しながらも、複雑な工程ではないので会話を続ける。それまで二人はあまり話すことはなかったが、ベッドの上では暇なので偶に白花苧環が話し相手になっていた。白花苧環はいつも古書を読んでいるので、黒葉菫は彼に何を読んでいるのか尋ねたことがある。意外な本を読んでいたので驚くと、彼は首を傾げていた。だがそれがあった御陰か、もう怖いと思うことはあまりなくなった。

「獏には借りがあるので、それは返したいと思ってるんですが……」

 湯煎に掛けたクリームを見詰めながら白花苧環はぼそりと呟いた。隣にいた黒葉菫には辛うじて聞こえたが、それは無意識に漏れた独り言だろうと何も言わないでおいた。以前の白い彼からは逆立ちしても出て来ないような言葉に驚くと共に、何だかんだあの罪人の獏は優しいのだろう。白い氷を溶かすくらいには。眉を顰めるばかりだった彼が、罪人の牢であるここで笑っているのは不思議な光景だった。

「――クラゲ。このクリームは一晩寝かせろと書いてあるんですが、獏の機嫌を取るのは明日になりそうですね?」

「えっ、そんなこと書いて……書いてます。時間の無いこの街の一晩とはいつですか?」

「難問ですね。外の時間に合わせてみてはどうでしょう?」

「そうしてみます」

 こうして皆で菓子を作るのは初めてだったが、逃げ隠れているとは思えないほど穏やかな時間だった。

 生地とクリームを作って寝かせる間、白花苧環はふと思い立って隣の建物へ向かった。

 明かりも点けずに窓から朧気な月明かりが射し込むだけの薄暗い部屋のベッドで、獏は横になって目を閉じていた。目を覚ましてすぐに飛び出したので面を被ることも忘れていたのだろう、取りに戻ることもできずに大人しくしている。

 ぎし、と床の軋む音で、獏はゆっくりと瞼を開けた。金色の双眸を静かに部屋に入ってきた白花苧環へ向ける。

「まだ機嫌が悪いんですか?」

「……何? 揶揄いに来たの?」

 体を起こした獏はもう意識が明瞭で、だがすぐに床へ目を伏せる。

「いえ。まだあまり慣れていない人に触れられたことで、フラッシュバックしたのかと思ったんですが」

「…………」

 獏の前に立った白花苧環は、微かな月明かりの中でもはっきりと視認できる。獏は目線を上げ、最初に会った頃よりも幾分表情が柔らかくなった白い彼を見上げた。

「……どうしても、脳裏に染み付いたあの頃の光景が消えないんだよね。何もない虚空に怯えてるみたいで、滑稽でしょ?」

「虚空と言うなら、オレにも少し覚えがあります」

「? マキさんは見世物小屋なんかにいたことないでしょ? 似たこともそうないと思うけど」

 首を傾ぐ獏は、飛び出した時ほどはもう臍を曲げていないようだった。暫く一人になって気持ちが落ち着いたのだろう。

「これは昔話ですが、オレが変転人になって間も無い頃の話です」

「と言うと、七年前だね」

 今までの白花苧環には考えられなかったことだろう。罪人の話し相手になることは。少しの会話でも借りを返すことに繋がればと考えていたら、自然と口が開いてしまった。

「今はもう記憶としては全く残ってないんですが、獣に心を許してはいけないと強迫のような感覚があったんです」

「……僕もあんまり変転人のことはわからないけど、そんな話は初めて聞くよ。クラゲさんの場合は最初は何もわからないみたいだったけど」

「オレもその虚空に従って、最初は何も喋らなかったんです。――可笑しいですか?」

 自嘲するように白花苧環は薄く笑う。共感なのだろうかと獏も苦笑した。

「ふふ。慰めてくれるの? また虫唾が走ってるんじゃない?」

「思えばあれは、前世の記憶のようなものだったのだろうと。狴犴がその人を気に入らずに殺して、そして再びオレを人にして、その前の誰かの警告だったのかもしれません」

「……そっか。君の前の誰かの残香みたいなものだったのかもね」

 白花苧環は白い首に刻まれた黒い首輪に指を触れる。

「変転人になった当初はもう少し記憶があったはずなんですが、まるで目覚めた後の夢のように何も思い出せないです。もう少しわかりやすい警告なら、こんな首輪を付けられることもなかったと思うんですが。人に成り立てでは獣のこともよく知らないですし」

「その首輪も烙印の解除印で解除できたらいいんだけど……その場合、マキさんが罪人と同じになっちゃって不機嫌になるかな」

「自分のことを棚に上げてよく言えましたね」

「どうして罪人の僕とこんなに話してくれるようになったの?」

 ベッドから下ろした足をぱたぱたと、もう機嫌は良いようだ。悪くなるのも早いが、立ち直るのも早い。話をしたことで機嫌が直ったのなら、会話を試みて良かったと思う。

「借り……としか言えませんが。クラゲが相談に来て、獏の機嫌が直るようにと皆で菓子を作ったんですが、もう必要なさそうですね」

「何それ? それは食べるよ。……あ、下手物だったら遠慮するかもしれないけど」

「普通の菓子ですよ。狴犴から菓子の話は聞いたことがありませんでしたが、ここに来てオレも色々と知りました。貴方は罪人ですが、改めはしませんが千慮はすべきなのかもしれませんね」

 この会話の短い時間でも本当にくるくると獏の表情はよく変わる。まるで表情を作るのが下手な変転人に手本を見せるかのようだった。微笑む獏に釣られて微笑みそうになってしまう。

「随分譲歩できるようになったんだねぇ。大丈夫? 気分が悪くなって――」

 一瞬、白花苧環の首の痣が不意に光った気がした。

 白い首の中へ薄い紙を差し込まれるような感覚と同時に、痛みが白花苧環を襲った。

 熟した果実が木から落ちるように白い頭がぼとりと鈍い音を立てて床に落ち、まだ濡れた瞳が状況を理解できずに虚空を見詰める。

 頭を失った首の断面から白い体を赤く染め、彼はぐしゃりと床に崩れた。

「ぇ……?」

 何が起こったのか、獏にも理解ができなかった。ずっと彼の方を見ていたはずなのに、思考が停止した。

 ただ、切り離された首をどうにかしないと、それだけ思った。

「マキさん……?」

 呼吸が浅くなっていくのを感じながら、獏は床に膝を突き白い頭に手を遣った。右目を覆っていた長い前髪が頬を流れ、左目とは濃度の違う色の目が露わになっている。その両の目が微かに動き、確かに獏に焦点が合った。

「生命力……僕がまた……助けてあげるから……」

 酷く声が上擦り震えていた。また死にかけても構わない。自分の命より、目の前で息をしない彼にもう一度生命力を与えることだけしか考えられなかった。

 まだ温かい白い頬に震える手を当て、青褪めた顔を寄せる。


「――やめろ!」


 突然背後から腕を掴まれ、獏は白い頭から引き剥がされた。

 転がった白い相貌に微かに色付く唇が僅かに動いた気がした。

「離して! マキさん! 早く生命力を!」

「だからやめろ! よく見ろ! 体が無い頭に生命力を注いでも無駄だ!」

「じゃあ首を! 早く首を繋げて!」

 懐から杖を抜こうとする獏の脇に腕を入れ、動きを封じる。獏は逃れようと暴れるが、目の前のものしか見えておらず、上手く力が入らない。

「離してよ! マキさんが……マキさんが!」

 必死に手を伸ばそうとする獏の背後で、何処か遠くで会話が聞こえる。何も耳に入らない。言葉として捉えられない。

「おい、収拾つかないぞこれ……!」

「一旦外に出そう。白いのが視界に入らない所まで連れて行くしかない」

「白いのはどうするんだ!?」

「首の印が真っ二つになってる。元には戻せない。どうにもできない」

「……あ、ちょ、杖の石が光ってる! 無理だ俺じゃ止められない!」

「鵺を呼んでくる。少し耐えろ」

「そんな無茶な!」

 部屋を飛び出す音も獏の耳には届かず、上手く力の入らない獏は為す術もなく無力で、叫び声はやがて慟哭となった。

「ああああああああああアアあ!!」

 大粒の滴が歪んだ月から止め処なく零れ落ちる。ぼやける視界に血溜まりの中の白い姿が滲む。虚空を見詰めたままの双眸はもう何処も見ていない。何も映していない。それを認めたくなかった。

 腕だけでは抵抗できないと悟り、ブーツの硬い踵を背後の脚に叩き付ける。呻く小さな声が背後から漏れた。

 それでも腕は離れず、ゆっくりと背後に引き摺られていく。平素ならそんな力に抗えないはずがないのに、理性を失った体は頑なに前に手を伸ばすばかりだった。


「見ぃつけたぁ」


 部屋に唯一の窓が軋みを上げながらふと開く。微かな月明かりを背に、癖のある白髪を二つに結んだ頭に学帽を被り、羊のような角が生えた一人の少女が窓枠に屈んでいた。口元には笑みを浮かべ、ぐるりと確かめるように部屋を見渡した後、白い体に目を落とした。

 突如現れた見知らぬ少女に背後の人物が強張る。

「君はあの時の……!」

「んん! 誰だ?」

 少女は口元の笑みを一旦消し、顔をよく見ようと目を細める。

「街を作って、人間を飼うといいって……」

「……ああ? …………あ? もしかして、化生した……蜃?」

 少女は察し、再び口元に笑みを浮かべた。

「ああそう、そうか。その節はどうもありがとう。そして今も」

 とんと壁を蹴り、少女は白い体の傍らへ降り立った。糸の切れた白い腕を持ち上げ、細い指を待ちきれないとばかりに咥える。

「美味しそうな人間ん」

 必死に伸ばしていた獏の手指の間から、少女が白い指の一本をぶちりと噛み千切るのが見えた。獏は頭の中が真っ白になるのを感じた。

「――げ、何これまっずい! ハズレだ、ハズレ!」

 吐き出した指先が床に落ち、獏の中で何かが切れた。

 前にではなく一瞬背後へ体を押し、思い切り床を蹴って上へ跳んだ。背後の肩を支えに手を突きくるりと回りながら懐から杖を抜き、足下の頭を蹴り少女へと杖を振る。

「んっ……!?」

 少女は飛び退き、その床に光の矢が刺さった。少女を追うように矢が刺さっていく。

「赤子のように泣いていると思えば、急に冷静になった? ま、喰えたものじゃない人間など無理に喰おうとは思わない。また美味い人間でも寄越してくれ、蜃。我はいつでも待ってるぞ」

 冷静ではない。瞳孔の開いた金色の瞳は少女に固定される。首の烙印に擦れる襟を毟るように釦を外し、杖の先の石が煌々と輝く。

「――殺す」

 石が砕けるのと、光が放たれるのは同時だった。暴発するように少女の居る窓へ光の刃が爆ぜた。壁が吹き飛ぶ前に少女の笑い声が聞こえたが、断末魔は聞こえなかった。

 喉元の烙印から血が流れるが、痛みは脳まで届かなかった。

「……ぐ、ふ……」

 嘔吐くと赤黒い血が口の端から零れた。

 何処からかしゃんと鈴の音が鳴り、床を走る軽い音が聞こえた。

「また杖を壊したわね」

 血が止まらない烙印にしゃんと杖が突き付けられる。焦点が虚ろで視覚情報が脳に届かない。目の前にいる幼い少女を知覚できなかった。

 強制的に意識が切り離され、獏は床に崩れた。杖も転がり、血溜まりを揺らす。変換石は砕け散り、制御装置も割れていた。こんな物では理性の飛んだ獏の力を抑え付けられないらしい。

「マキちゃんは……とりあえず後よ。獏をここから離さないと」

 立ち尽くしていた蜃は我に返り、また意識を失った獏を抱え上げた。二つに切断された白い彼を一瞥し、目を逸らす。

 他の変転人には店の中で待機するよう言ってある。蜃達は建物の外へ出て、石畳の上で一度立ち止まった。

「店に戻る前に、状況を整理するわよ」

 鵺は疲れたように息を吐いた。慌てた様子で足を引き摺りながら椒図が呼びに来た時、只事ではないとは思ったが、想像より何倍も質が悪かった。

「ああ。僕も聞きたいことがある」

 長くなるだろうかと蜃は屈んで獏を下ろして息を吐いた。それを椒図が見下ろす。訊かれるのは自分だと蜃は察した。

「宵街が開いたことを伝えに行こうとしただけなんだがな……まさかこんなに早く見つかるとは」

 蜃の細い肩がびくりと震えた。冷や汗が流れそうになる。

「蜃。彼女とは知り合いか? 意味深なことを言っていたが。また美味い人間でも寄越してくれ、とはどういう意味だ?」

「あいつは知ってる……。でも、そ……その言葉は知らない……」

「どういう関係だ?」

「……名前は知らない。獣だということも知らなかった。昔……」

 ふとハッとして、蜃は鵺を見た。腕を組んで静聴していた鵺は怪訝に小首を傾ぐ。

 その視線の意味を椒図はすぐに察した。

「鵺、少し席を外してくれ。話は後で僕が纏めて話す」

「何? 隠し事? 私にってことは……悪い事なのかしらね」

「皆も不安がってるかもしれない。先に店に戻って説明してくれ」

「説明って簡単に言ってくれるけどね……私も見たことしか話せないわよ。なるべく早く話してちょうだい」

 呆れた溜息を吐き、鵺は言われた通りに店へ戻った。自分がここにいては話が進まないだろうと一先ず罪人の言うことを聞く。

 椒図は蜃へ歩み寄り、まだ疲れやすい脚を休めるために地面に腰を下ろして目線を合わせた。

「続きを話してほしい」

 蜃は地面に視線を落とし、黙り込んで言葉を纏める。言葉を纏めるには少しの時間を要した。

「……昔、椒図に神隠しの話を持ち掛ける前に会ったことがある。その時はそいつは笠を被ってて、角が見えなかった。でも顔と声は覚えてる。街を作って人間を飼う、って案を出したのは……そいつだ」

「……そうか。蜃から初めてその話を聞いた時、蜃もそんな大掛かりな計画を立てられるんだと感心もしたんだがな」

「…………馬鹿にしてるよな? 確かに俺じゃ思い付かなかったかもしれないけど……」

「何かあるかもしれないとは思ってたんだ。それに気付いたのは地下牢に入ってからだったが」

「…………」

「神隠しは結局の所、獏の力が無いと成り立たないものだった。都合が良過ぎたんだ。全く面識のなかった僕達の前にあのタイミングで獏が現れたことを怪しむべきだった」

「! 獏が……裏で手を引いてた……?」

 蜃は顔を上げ、目を見開いた。それに椒図はすぐに首を振った。

「確かに街に悪夢が溢れると獏は食事に困らなくなるが、それが目的なら悪夢が溢れ過ぎて手に負えなくなった瞬間に僕達の前から去っていたと思う。食事がしたいだけなら、危険に首を突っ込む必要はない。おそらく獏は蜃と同じように彼女に会っていた。何を言われたかは今の獏に訊いてもわからないが、きっと獏も被害者だ」

「俺は……面白い悪戯話があるって言われて、確かに面白そうだと思って……」

「その話には僕も乗った。蜃だけが責任を感じる必要はない」

「何なんだよ……あいつは……」

 まんまと嵌められていたことに今更苦虫を噛み潰す。悪夢が溢れた惨劇を前にしても、あの少女が原因の一端だとは思いもしなかった。

「蜃は正直に話してくれた。僕も知っていることを話そう。――彼女は、饕餮とうてつと言う」

「しっ……知り合いなのか!?」

「あまりこの話はしたくないんだが、事が事だからな……。あれは僕の姉だ」

「姉!? 兄弟が多いとは聞いてたけど……君の兄弟、厄介な奴ばっかりだな……」

「だから話したくないんだ……」

 狴犴も饕餮も一筋縄ではいかない獣だ。その末子である椒図が頭を抱える苦悩も目に浮かぶ。

「饕餮が蜃と関係あるなら、この件で安心することもある。饕餮は宵街とは関係なく単独でここに来たんだろ。蜃に人間を飼う案を出したのも、人間を食べるためだ」

「人間を……」

 眉を顰め、先程の光景を思い出す。不味いと言っていたが、白花苧環の指を食べていた。人間を食べる獣が存在することは蜃も知っているが、目の前で喰おうとする様は異様に映った。

「街に悪夢が獏の予想以上に溢れたのも、饕餮が何処かで人間を食べる姿を目撃した人がいて、その恐怖が伝染したんだろう。それなら合点が行く」

「じゃああいつが全部……全部壊したのか……。椒図も……獏も……」

 蜃は被っているフードを掴み、途惑う顔を隠すように強く引いた。

「饕餮のことは僕が鵺に話す。神隠しに関係あることは今は伏せておこう。口裏を合わせておいてくれ」

「わかった……」

 信用していないわけではないが、鵺は執行人の立場を捨てていない。罪と関係のある事柄はまだ伏せておいた方が無難だろう。

「獏の耳には入れておきたいが……この状態では厳しいな」

 まるで悪夢でも見ているかのように眉を寄せて気を失う獏を見下ろす。饕餮と顔見知りである椒図は彼女の前にすぐに姿を現すことができなかったが、ドアの陰で様子は見ていた。椒図はその前にも取り乱す獏の姿を見ている。あれを宥めるのは難しいだろう。

「蜃も暫くは獏に喧嘩を吹っ掛けるなよ」

「それは……まあ……」

 椒図は蜃の肩を叩き、立ち上がった。椒図も無理をすれば獏を持ち上げられるが、今は無理をする時ではない。

 蜃は再び獏を抱え上げ、二人は足取り重く店に戻った。

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