51-交渉


 誰もいない静かな煉瓦の街の中で、一軒の小さな店に甘い香りが漂っていた。

 大きな置棚に囲まれた奥の机で古書を捲っていた獏は、顔を半分覆う黒い動物面を台所へ向けて立ち上がった。小さな台所では灰色海月がせっせと菓子を焼いている。スッポンの生臭い臭いより菓子の甘い香りの方が断然安らぐ。

「クラゲさん、今度は何を作ってるの?」

「クロスタータです」

 丁度焼き上がった大きな円いジャムのタルトを見せる。格子状に載せられた細長い生地が何処か懐かしい雰囲気だ。

「今回は杏子のジャムで作ってみました。次はまだ考えてません」

「美味しそうだね」

「切ったら二階に持って行きます。貴方は鼈にしますか?」

「いや……まだ胃の調子が……」

 鼈を回避するための嘘がいつまでも通用するとは思っていないが、今はまだこの嘘で乗り切らせてほしい。誰かが代わりに食べてくれるのが一番良いのだが。この間にも鼈は血の海で熟成されているのだろうか。それともこの街の時間停止が適用されてそのままの状態を保っているのだろうか。

「椒図がいる部屋には僕が持って行くよ」

「蜃の分はどうしますか?」

 獏を殺そうとした蜃には菓子を出したくないと思う灰色海月だったが、獏は蜃の分もケーキを切り分けていた。そのためどうすべきか考え倦ねていた。

「持って行くよ。あんまり邪険にするのもね……まだ情報を持ってるかもしれないから、一応好意的には接するよ。必要以上に仲良くするつもりはないけどね」

「わかりました。蜃の分は凄く細く切っておきます」

 言うや否や指一本分の細さに切ろうとするので、獏は慌てて指を二本立てた。咄嗟に二倍の幅を注文してしまったが、指二本分でもかなり細い。仲良くとは言わないが、これはどう判断される幅なのだろうか。灰色海月は渋い表情をしている。彼女にしては譲歩したのだろう。

 切り分けたクロスタータを盆に載せ、先に獏は二階へ持って上がった。今や占拠されている獏の自室では、床に敷いた布団に椒図が丸まり、ベッドの上で蜃は黒猫と遊ぶ。震えながらも部屋の隅から動けないでいた浅葱斑は漸くもう一つの部屋へ行けたらしい。白花苧環もそちらの部屋にいるが、あまり動けない椒図には見張りは必要ないだろう。

「椒図は寝てるの?」

 甘い香りに気が付き、蜃が先に探るように顔を上げた。椒図も左手で体を支えながらむくりと起き上がる。

「クラゲさんが作った御菓子を持って来たんだけど、食べる? クロスタータって言うジャムのタルトだよ」

「食べる」

 先に返事をしたのは蜃だった。漸く顔を上げた椒図に皿を渡し、細長く切った物を蜃に差し出す。蜃は自分に渡された皿と椒図の皿を見比べ、眉間に皺を寄せた。

「不公平だ! 三倍? 四倍くらい違う!」

「クラゲさんも譲歩したんだよ」

「譲歩が細過ぎる……椒図のは三角なのに、俺のは棒じゃないか」

 椒図も皿を見比べ、口元が震えている。笑いを堪えているのがすぐにわかった。

「蜃。包丁を出せ」

「おう。るか」

「違う。僕の分を切って分けよう。そうすれば文句はないだろう?」

 切れ味の良い大きな包丁を作ろうとした蜃は思い直して家庭用の一般的な包丁を作り出した。数秒しか実体を保てないが、そのくらいの時間があれば充分だ。椒図は自分の分を半分に切り、蜃の皿に載せる。包丁は切るとすぐに霧散した。蜃には自分に渡された細長い分があるので椒図の分を半分にして渡してしまえば椒図の分が少なくなってしまうが、椒図はそれは気にせず、蜃もそれに気付かない。獏はぼんやりとこのような光景を前にも見た気がしたが、何処だったか思い出せない。前に言われた夢の中のことだったのだろうか。

 蜃はもう文句はないらしく、満足そうに細いクロスタータに齧り付いた。

「蜃。少し獏とも話がしたい」

 突然の申し出に蜃はきょとんとし、口の中の物を急いで飲み込んだ。

「俺がいると話せないことか?」

「そういうわけではないが、蜃には色々な話を聞いたからな。獏からも話を聞きたい。蜃が獏の前で言いたくないことがあるように、獏にもあるかもしれないだろ?」

「それは……まあ、そうかもしれないが」

「おやつもあることだ、少し散歩でも行ってくればいい」

「そんな楽しい街じゃないが……」

 皿を見下ろし、蜃は口を尖らせながらも渋々と頷いた。獏が蜃に言いたくないことがあっても、椒図なら後で蜃に話してくれるはずだ。そう信じる。

「わかった、少し席を外す。――獏、椒図に何かしたら徒じゃ済まないからな」

「何もしないよ。君じゃあるまいし」

 蜃は聞き分け良く床を蹴り、フードを深く被って黒衣を翻した。天井の穴から飛び出してすぐに視界から消える。椒図相手には本当に素直だ。

 盆をベッドに置き、獏もベッドに腰掛けた。椒図はベッド脇の机に凭れ掛かり、クロスタータを一口齧る。

「クラゲは菓子作りが上手いな。これも美味しい」

「話って何? 蜃に聞かれると不味いこと?」

 言いたくないことがあるかもしれないと蜃を追い出していたが、只の世間話程度では言いたくないことなどそうない。深く抉るような話でもするのか、獏はくすくすと笑いながらかくんと首を傾ける。

「そうだな。そのお面を取って話すことはできるか?」

「何故? 付けてても話はできるよ」

「表情が見えないからな」

「そんな機微な話をするの?」

「どうだろうな。今の獏の顔もよく見ておきたい。怪我人の我儘だと思って聞いてくれないか」

「…………」

 顔と言うならもう既に散々面は外していたのだが、まだ足りないと言うのか。あまり晒したくはない顔だが、椒図の話というのも気にはなる。過去のことにしろこの街のことにしろ、そして狴犴へいかんの弟である椒図には話を聞いて損はないだろう。熟考の末、要求を呑むことにした。

「……わかった。でもあんまりじろじろ見ないでよ。こんな醜い顔を好奇の視線に晒すのは嫌なんだから」

 そっと動物面を外しベッドに置く。少し俯いた睫毛は長く、月のような金色の瞳は美しい。

「醜いとは思わないが……獏の感覚では醜いのか? 綺麗だと思うが」

「そういう風に言われることはあるけど、何なの? 揶揄ってるの? 巫山戯るならお面を付けるけど」

「いや、すまない。揶揄ってはいない。自分の顔を見たことはないのかとは思うが」

「……あるわけないでしょ。見たくないんだから」

 てっきり見た上で醜いと判断したのかと思っていた椒図だったが、見たことがないなら話が変わってくる。

「……そうなのか。見たくないなら仕方ないが……見ずに醜いと言い切るのは……いや、この話はやめておこうか」

 獏の表情が険しくなる一方だったので、椒図はこの話題を打ち切った。面を被っていれば声色だけで判断しなければならない所だったが、思った以上に表情がはっきりと変化する。これなら感情を読み取りやすい。

「本題に入ろう。幾つか訊きたいことがあるんだ」

「そう、良かった。さっきのが本題だったら起き上がれなくしてしまう所だったよ」

 頬を引き攣らせるように笑い、獏は肩を竦めた。冗談だろうと判断できたのは、表情が見えるからだ。

「蜃が化生前の獏の死体を『から』と言ってたのは覚えてるか?」

「空になる獏を媒介に悪夢が暴れるって話だよね?」

 椒図は真剣な顔で頷いた。もう巫山戯る気はないらしい。

「死体を媒介に悪夢が暴れることがどうも理解できない。今のお前でもそれは起こり得るのか?」

「さあ? それは死体になってみないとわからないね。生きてる内に使える能力だったらわかるけど、死んで機能する特性だとしたら僕にもわからないよ」

「見当もつかないのか? 死体がどう作用するのか」

 そんな疑問をぶつけられても獏自身にも理解はできないことだ。獏は眉を顰め、灰色海月が作った菓子を齧り、声にも不快感が出てしまう。

「それを知ってどうするの? 僕を殺して確かめるつもり?」

「いや、そういうわけではないが……」

 無遠慮に質問をぶつけてしまったことに気付き、椒図は一度口を閉じた。幾ら化生前の話とは言え、死んだ時の話など気分の良いものではない。

「……悪夢を食べる以外にも能力があって、あの子がそれを選んだのかと……」

「どんな力があったのかは僕にはわからないよ。ただ……言いたくないけど、似た力はある、かな」

「似た力……?」

 獏は目を逸らし、月が陰るように睫毛を伏せる。先代の頃の記憶は獏にはないが、それでも椒図が獏のことを気に掛けていることはよくわかった。化生後の別人ではなく、繋がりのあるものとして見ている。その旧友のような接し方の所為だろうか、獏は口を滑らせてしまった。

「僕の先天的な能力は悪夢を食べることくらいだったけど、後天的な方にちょっと……」

「……? 後天的に発現する力があるとは初めて聞くな。成程……狴犴が気に入るはずだ」

「何で狴犴……?」

 狴犴と椒図は兄弟だ。故に何か思う所もあるのだろう。

 凭れていた机から背を離し、椒図はベッドに這い寄り獏の襟元を指差した。

「烙印だ。地下牢の罪人に捺されている烙印とお前の烙印は少し違う。おそらく獏にそこそこの自由を与えているのは狴犴の『赦し』だ。お前は狴犴の期待に応えないといけない。万一それを裏切り弱くなることがあれば、その烙印はお前を殺す」

「は……? 何それ……」

 唐突な言葉に眉を顰める。赦しだの殺すだの、そんな説明は受けていない。いや、故意に言わなかったのか。個人的な理由で異なる烙印を捺したことを自ら言うはずがない。

「僕と獏の烙印の大きな違いは、殺すことができるかどうかだ。僕の烙印は自由を封じることに特化した物。獏の烙印は自由がある分、裏切れば殺せる物だ」

「殺すって……」

「首が飛ぶ」

「そんな玩具みたいなこと……」

「狴犴は強い者が好きなんだ。お前は強いと判断されたんだろう。そういう性格としか言えないな」

「…………」

 それに関しては白花苧環の例がある。最初に彼を獏の視察に行かせたのもそういう理由かもしれない。強い者と接触させて刺激を与え、経過を見ようとした。結果は悪い方へ転がったようで、白花苧環を始末しようとした。獏は見世物小屋の件から能力が増えて強くなったが、その逆が起こるのかはまだわからない。今までそのようなことは起こらなかったが、これからも起こらないとは限らない。知らずに狴犴の玩具にされていたことに嫌厭した。

「話が逸れたが、戻してもいいか? そう不安そうな顔をするな。問題があったとしても、狴犴だって猶予くらいくれるだろ」

 猶予と言うなら確かに、白花苧環は一度殺されかけたにも拘らず生かされている。力や行動の制限を増やされているが。

 それよりもそんなに不安そうな顔をしているのかと、暫く面で隠していたこともあり表情を気にしていなかったが獏は慌てて引き締めた。

「似た力と言うのは何だ? 表情から察するにあまり良い物ではなさそうだが」

「……そんなに顔に出てる?」

「末子ゆえかな。兄の顔色を窺ったりな」

 戯けるように言うので真相は定かではないが、一々顔色を窺わないといけないなら兄弟とは面倒なものだ。

「能力を他人に知られたくない気持ちはわかる。僕も自分の力については蜃にしか話してない。他言はするなと言ってある。狴犴にも言ってない」

「蜃とは随分仲が良いんだね」

「話しても友達でいてくれると思ったから……だな。何なら獏にも話して構わない。自分だけ力を明かすのが嫌ならな」

「僕は別に友達なんていないけど。……でもこの力は気持ち悪いから……」

 ぽつりと漏らしながら睫毛を伏せる。見世物小屋の件から増した能力は正直な所、獏にも明確に理解できているわけではない。外部から突然取り付けられたような、自分の物なのに自分の物ではないような感覚なのだ。

「僕の力も気味が悪いよ。僕の力は閉じることだと言ったが、それは人体にも適用できる。僕はその体に触れることなく、相手の意思など関係なく、目を閉じさせることも口を閉じることも、体内のあらゆる器官さえ閉じることができる」

「それ……つまり一瞬で殺せるってこと……? 制約もなく……?」

「制約と言うなら、発動できる範囲は狭いが。こんな力があると、怖くて近付きたくないだろ? それで友達ができないのは嫌だからな」

 自分のことを弱いと椒図は言っていたが、そんな力があるなら弱いはずがない。範囲が狭いとは言え強力過ぎる。確かにそんな力を持っていては誰も近付きたくはない。

「だから僕は直接殺すために力は使わない。故に僕は弱い」

「とんでもないことを言ってくれるね……それで僕に信用しろと? それとも僕の力を教えないと殺すっていう脅しなのかな?」

「脅しに聞こえたなら謝る。そんなつもりはない」

 脅しかどうか、指で作った覗き穴で見れば簡単に判明することだが、それは誰であろうとしたくない。持っている力を使いたくない気持ちだけはわかった。見世物小屋の件から発現した力はあまり使いたくないと思っている。

「持て余すような厄介な力を持って生まれることもある。それは誰しも起こり得ることだ。それを一人で抱え込んでしまうことも、よくあることなんだろうな。僕で良ければ、また仲間になろう」

 その優しさはきっと先代の獏の延長線上に掛けられたものであって、今の獏に対してはついでのようなものだろう。それはわかっていた。わかった上で、獏は口を滑らせてしまった。これまで獏は一人で生きてきて、話を聞いてくれる者などいなかった。


「――僕は……悪夢を使役できる」


 言った後悔はあった。椒図は明確に目を丸く見開く。食事対象である悪夢を使役できるなど、気持ちの悪い能力でしかない。見世物小屋に捕まったことで全てが狂った。そんなよくわからない力まで発現した。その元凶である人間にこの力を使って仕返しをして何が悪いのか。

「だから人間なんて嫌いだ……こんな気持ち悪い体になって、悪夢を操作できることに何の意味がある? ただ食べるだけの存在が、それを動かして何になる? 何で僕にこうべを垂れるの? ただ食べられるだけの癖に!」

 誰が見ても動揺と取れるほど頭を振る獏の肩を押さえるため、椒図はまだ少し痛む千切れた脚にも力を籠めて膝を立てた。こんなに取り乱すとは思っていなかった。それほどその力を忌避している。悪夢と密接な関係がある獏にしか理解できない不快感があるのだ。

「爆発するまで溜め込んでたんだな」

 化生したこの獏が今までどんな軌跡を辿ったのか椒図は知らない。だが余程親しい間柄でもなかなか能力のことは話せないものだ。

 椒図は柔らかな黒髪に触れ、獏を抱き締めた。獣でも人間と変わらない体温がある。背に回した手に静かに杖を召喚した。

「離せ! 僕に触るな! 蛆虫が!」

「大丈夫だ、獏。お前は綺麗だ」

「……っ!」

 見世物小屋での光景が脳裏に貼り付き踠いた獏の瞼は急に重くなり、それに抗うことができなかった。何かされている、という感覚はあった。

 椒図の腕の中で獏はずるりと抵抗の手を落とした。強制的に意識が途切れ、椒図に寄り掛かる。

「眠れば少しは落ち着くだろ。その間は僕が責任を持って傷が付かないよう見ておいてやる」

 返事の無い獏を抱き締めたまま、椒図は一息吐いた。切断された脚は動くが、痛みはまだある。体勢が変えられず動けなかった。

 それからもう暫くした後、天井の穴からゆっくりと様子を窺うように蜃が頭を出し、大きな瞳を瞬きながら顔を顰めた。

「……何してるんだ?」

 傍目には無抵抗な獏を抱擁しているように見えるが、どうしてそうなったのか理解ができなかった。とりあえず会話はしていないようなので、もう話は終わったのだろうと蜃は屋根から飛び降りる。

「身動きが取れなくなった。獏をベッドに寝させてくれ」

「獏が自分で寝ればいいだろ。どういう状況だ、それ」

「あまりに平静を失っていたから意識を閉じたんだ」

「……? 殺したのか?」

「殺してない。気絶させただけだ」

「じゃあ今なら簡単に殺せるのか」

「殺すな。そのために僕は力を使ったわけではない。……こんなことならもう少し金平糖を作っておくべきだったな」

 状況が理解できたわけではないが、このまま体重を掛けられていては椒図の負傷した部位にも負担がある。蜃は獏の襟を掴み、ベッドに放るように寝させた。こんな乱暴な扱いをしても起きる気配がない。椒図の力は強力だと蜃は改めて思った。

「平静を失ったって、椒図は何かされてないのか? まだあまり動けないわけだし……」

「僕が藪を突いてしまっただけだ。獏が目覚めても、間違っても責めるなよ」

「椒図がそう言うなら……」

 わざわざ蜃に席を外させたのだ、椒図が自ら語らない限り詳細を訊くことは躊躇われる。見た所新しい傷もなさそうなので蜃は素直に引き下がることにした。

 会話が途切れると、階下でドアの開く音がはっきりと聞こえた。静かな街の中なのでその音はよく通る。

「……誰か来た」

「海月が対応してくれるだろ」

「獏を出せって言われたらどうする?」

「……それは考えてなかった」

 椒図の力は閉じることであり、開くことはできない。自分で閉じたものであってもそれは同じだ。獏の意識は永続的に閉ざしたわけではないので時間が経てば目覚めるが、叩き起こすことはできない。

「宵街はまだ閉じてるんだよな? でも獏の様子を見に来るような奴だったら不味いぞ」

 椒図は眠る獏を一瞥する。瞼をきつく閉ざし、魘されるような顔をしている。どうにか言葉で宥めて落ち着かせるべきだった。そうすれば金平糖も消費することはなかった。苦しむ獏を解放したくて咄嗟に悪手を取ってしまった。

「獏はともかく、椒図が見つかったら……」

「海月に任せよう。万一の時は天井から逃げればいい」

 蜃は天井の穴を見上げ、眉を寄せる。見つかればこの穴も言及されそうだ。



 唐突に開いたドアの音に、台所で作業をしていた灰色海月は気付かなかった。菓子の生地を真剣に切っている所を覗き込まれ、漸くその存在に気付いた。

「!?」

 視線を少し下へ、見上げる大きな瞳と目が合った。

「美味しそうな物を作ってるわね」

 幼い少女の姿をした彼女は蛇のような尾を揺らす。

「何故ここに……」

 ぽこりと木履を鳴らし、宵街にいるはずの鵺は意味深に笑った。

「ちょっと訊きたいことがあって来ただけよ。獏の姿は見当たらないようだけど、また何処かに隠れてるんでしょうね。でも今日はクラゲちゃんに用があるの」

「私に訊きたいこと……ですか?」

 包丁を置き、灰色海月は鵺に向き直った。獏ではなく灰色海月に用ならば、白花苧環や椒図の件ではないのだろう。最も高い可能性はそれらだったので鵺の来訪に心臓が止まりそうなほど驚愕したが、何とか平静を装った。

「獣か変転人の居場所がはっきりとわかるのがここしかなかったのよ。ねえクラゲちゃん、今、宵街に戻れる?」

 その言葉で灰色海月は理解した。椒図が宵街を閉じた時、鵺は外にいたのだ。今も閉じ続けている宵街に戻れずに困っているらしい。外にいたのなら白花苧環が一度は宵街に戻ったことも、椒図の脱獄も知らないはずだ。ならばどちらも悟られるわけにはいかない。

「戻れるというのはどういう意味ですか?」

「宵街に戻れなくなったの。でもそれが私の問題なのか宵街の問題なのかわからなくて、クラゲちゃんに訊いてみようと思ったの。わからないなら、ちょっと傘を出して確認してみてくれる?」

「わかりました」

 台所は狭いので、机の前に出て灰色の傘をくるりと回した。確認程度なら何も悟られることはないはずだ。

「私も宵街に行けません」

「だったら宵街の問題ね。困ったわね……面倒なことになってないといいんだけど」

「面倒なこと、ですか?」

「狴犴がね……あいつ頭が緩いから、マキちゃんのことでまた何か遣らかしてないかってね。通達のことは知ってる? マキちゃんを連れて来いってやつ」

 その間に灰色海月は宵街には行っていない。誰かから話を聞かない限りは知ることはない。ここは知らない振りをしなければと、傘を仕舞いながら台所へ戻る。

「初めて聞きました」

「そう? じゃあマキちゃんを見掛けたら私に教えてくれる? あのマキちゃんが狴犴を避けるなんて、絶対理由があるのよ。直接狴犴に引き渡す前に教えてほしいの。予想では、マキちゃんに遂に愛想を尽かされたんだと思うわ」

「喧嘩……ですか?」

「喧嘩だとしても可愛いものじゃないと思うけど。捕まえたら逃げないように椒図を使おうとか言い出すし、頭が緩過ぎて困るわ」

「……椒図?」

 まさか椒図の名前が出て来るとは思わず、どきりとしてしまった。罪人である前に兄弟なのだから存在は当然認知されているだろうが、白花苧環と椒図を関連付けられるのは今は些か不都合だ。

「罪人なんだけどね、椒図の力で宵街を閉じてマキちゃんを逃がさないようにしようなんて言ってたの。私は止めたんだけど。でもこうして宵街に戻れないとなると、遣らかしたのかしらって勘繰るわね」

 宵街が閉じられているのは正にその椒図の所為なので、灰色海月は手が震えそうになった。悟られないように震えを止めるため握った拳を死角へ遣る。

「その鍋は何?」

「……え?」

 唐突に話題を変えられ、声が上擦ってしまった。獏が二階から下りてこないということは、この場は灰色海月に任せるということだ。動揺を必死に隅に追い遣り、隅に置いていた鍋に目を遣る。

「……煮込んだ鼈です」

「あら、鼈なの?」

 ぽくぽくと木履を鳴らして灰色海月の背を通り、興味津々で覗き込む。鵺の身長では背伸びをしても鍋の中を見下ろすことは難しいようだったが、鼈の姿は見えたようで機嫌の良い顔をした。

「美味しそうね」

 誰が覗いても良い顔をされなかった鼈が初めて美味しそうなどと言われ、獏に食べてもらえない鼈の処理場はここしかないと灰色海月は思った。獏はまだ体調が優れないと言うが、椒図の力で元気は取り戻している。もう鼈の力など必要ないほどに回復している。それならば獏が食べる必要もないはずだ。滋養のために選んだ鼈は薬のような物だと思い、味は考えていなかった。きっとその所為で食べてもらえないのだと、本当は気付いていた。

「食べますか?」

「えっ、いいの?」

「獏は食べないので」

 鍋を引き寄せ、被せていたラップの封印を解いた。血で煮込まれた鼈が黄泉から覗くようだ。

「うっわ生グサ」

 あまりにも直球な言葉だったが、灰色海月とてそれに気付いていないはずはない。獏のためだと我慢をして煮込んでいたのだ。

「もっと美味しいスープで煮込み直してちょうだい。そうしたら食べるわ。御馳走だもの」

 その言葉に偽りはなさそうだ。心底楽しそうな顔をしている。同時に、彼女が食べるまでこの街に居座ることも確定してしまった。

 灰色海月では鵺を追い出すことはできない。追い出そうとすれば途端に怪しまれてしまう。用を終え自然と出て行ってもらわなければならないのに、用を増やしてしまった。

 鼈の血溜まりを器へ移し、新しいスープを作るために水を用意しながら考える。獏ならこんな時どんな言葉を掛けるだろうかと。


「待ち時間に少し話でもしませんか?」


 他に誰もいなかった一階に、静かに声が掛けられた。獏が来たのかと灰色海月は一瞬安堵するが、声が違うことにすぐに気付く。振り返ると、階段から下りてきた白い少年がこちらを見ていた。

「マキちゃん……!?」

 鵺と灰色海月は予想外の姿が現れ目を見張った。何故ここにいるのかと疑問が浮かぶ鵺と、何故ここに出て来たのかと動揺する灰色海月に、白花苧環は苦笑した。

「ちょっとクラゲちゃん……どういうこと?」

「これは……」

「獏に似てきたのかしら……? この鵺様を騙すなんて」

「その……」

「確かに可能性の一つとして考えるべきだったわ。クラゲちゃんはマキちゃんに力の使い方を教えてもらってそこそこ仲良くなったみたいだしね。でもまさか罪人の牢に逃げ込むなんて……まあ、見つからないように虚を衝くならこんなに適した場所もないか……」

 白花苧環は机を挟み、それ以上は近付かない。獣には何ということはない距離だが、武器は出せずとも逃走に徹すれば逃げられる自信はある。

「話を聞いてくれるんですよね?」

「そうね。聞いてあげるわ」

 幼い容姿に似合わない呆れた溜息を吐いた鵺だったが、白い首に刻まれた黒い痣を見つけて目を細めた。

「……待って、その首の印は何?」

「これは狴犴に付けられた首輪です」

「狴犴に……? いつ……。……ちょっと待って、私の知らない内に宵街に戻った……?」

「はい。戻りました。その時に付けられた物です。武器も出せず傘も回せず、居場所も筒抜けです。そして監禁されました」

「それはもう罪人でしょ……」

 鵺は白花苧環の話を聞こうとしてくれている。狴犴にも苦言を呈していた。ならば包み隠さず話してしまえば、鵺をこちら側に引き込むことは可能なはずだ。わざわざ姿を現したのは、その可能性を手に入れたかったからだ。獏も意識があればきっと同じように鵺をこちら側に引き込もうとしただろう。

 先程獏が声を荒げて騒いでいた時、白花苧環はそっとドアを開けて様子を見ていた。手を出さなくても問題はないだろうとドアを閉めたが、獏は眠ったままだ。浅葱斑は怯えているし、黒葉菫はまだ傷が癒えていない。寡黙な黒色海栗では話ができない。椒図と蜃を出すわけにもいかない。白花苧環が出るしかない。

「何でそんなことになったのか、最初から教えてくれる?」

「今はもう治ってますが、狴犴に頭と脚を潰されました。なので逃げました」

 正確には浅葱斑が連れ出したのだが、彼の名前は伏せておく。まだ味方とは言えない鵺に全ての情報を与える必要はない。

「殺されかけたってことよね。それは逃げるわ。狴犴は何て言ってた?」

「オレが罪人に絆されたと勘違いしたようです。いらない玩具は処分する――といった所でしょうか」

「処分……確かに言いそうなことだけど……だったら何で宵街に戻ったの?」

「オレの所為で他の誰かが傷付くのは見たくなかったからです」

「拷問されたって奴かしら? 筋は通ってるわね」

 黒葉菫が白花曼珠沙華に襲われたことも鵺の耳には入っていないようだ。彼女が思い浮かべたのは最初に拷問された有色の変転人のことだ。白花苧環は拷問と聞き真っ先に椒図のことが浮かんでしまったが、顔に出るまでに取り繕えた。

「でも傘を回せないのに、どうやってまた宵街から出たの? マキちゃんを逃がしたのは誰?」

「それを説明するのは少し長くなります」

「いいわ。話してちょうだい」

「この情報は貴方にとって十二分に価値のあるものですが、貴方は代わりに何ができますか?」

 空気が一瞬で一変したことに誰もが気付いた。

「あら……私に交渉を持ち掛ける気?」

 素直に話すのはここまでだ。ここからは椒図のことを、芋蔓式に蜃のことも話さねばならない。安危が定かでない情報の開示には慎重になる。情報には相応の代価を支払ってもらう。

「獏が出て来ないのも、何か企んでるんでしょうね。白と罪人が結託するなんて、面白いじゃない」

「そうですか?」

 余裕のある笑みを見せる白花苧環の花貌は成程女性に騒がれるはずだと、鵺はこんな時に納得した。

「宵街に戻れない私は真相を確かめようにも狴犴に会うこともできない。宵街に戻れない理由もわからない。おまけに変転人には舐められるし。私が力を使えば、お前なんて一瞬で殺せるのよ」

「それは狴犴の方が正しいと言いたいんですか」

「お前からそんな言葉が聞けるなんて思ってなかったわ。随分御立腹みたいね。何が望みなの? 言ってみなさい」

罪人つみびとの烙印を解除してください」

「つっ……え!?」

 先程までの威厳は吹き飛び素っ頓狂な声を上げた鵺は慌てて頭を振った。もう一度威厳のある顔を作ろうと眉を顰めるが、予想外にも程がある要求に頭が回らなかった。

「私を動揺させる作戦ね!? 白が罪人を解放したいなんて……有り得ないわ」

「その作戦があれば、成功でしょうね」

「煩いわね! まさか罪人全員なんて言わないわよね? 狙いは獏かしら?」

「獏ともう一人います」

「もう一人!? そんなに交流のある罪人なんていたかしら……ちょっと待ちなさい。考えるわ……」

「長考ですか?」

「煩いわね……。罪人を解放してお前に何の得があるって言うのよ……」

「クラゲが煮ている鼈も付けますよ」

「あれタダで食べさせてくれるんじゃないの!?」

「タダなんて言いましたか? 情報は価値のあるものなんですよ」

「い……言っておくけど、烙印の解除はおいそれとできないわよ。今すぐにできることじゃない」

「何故ですか?」

「解除印が必要なのよ。狴犴が持ってるわ。罪人を釈放することはないけど、冤罪だった場合は解放しないと問題だから一応解除する物はある」

「貴方はそれを持ち出せますか?」

「不可能ではないけど……。でも変転人を相手に鵺様が交渉に応じるなんて本気で思ってるのかしら?」

「はい。こちらには貴方に匹敵する力もあるので」

「獏……ではなさそうね……。誰なのかしら……」

「オレが合図すれば、貴方は化生することになるかもしれません」

「…………」

 考える暇を与えないよう矢継ぎ早に言葉を交わしていたが、遂に鵺は言葉に詰まった。

 長く伸ばした白い前髪の所為で片目しか見えないが、故に不気味でもある。畳み掛けるように鵺を追い詰めた白花苧環は涼しい顔をしている。背後に誰がいるのか、はったりだとは思えなかった。交渉を断れば、殺される。本当に白に属しているのか疑いたくなるような脅迫だった。

「力で捩じ伏せても、満足できる結果にはならないわよ」

「そのつもりはなかったんですが、そう聞こえましたか?」

「何でそこで恍けるのよ……」

「力がなくても、貴方は味方になってくれると思ってます。最初にオレがここに視察に来た時、貴方は獏を庇ってたじゃないですか」

「あれは……」

 鵺は黙り込み、初めて白花苧環から目を逸らした。目を伏せ、虚空を見詰める。

「……わかったわ。でも宵街に行けないと解除印も持って来れないわ」

「それなら大丈夫です」

「はあ……マキちゃんがこんな奴だったとは……」

「詭弁ですよ」

「それよ、それ」

「チェスが弱いと聞いてたので、攻めれば落ちると思ってました」

「何で当たり前みたいに皆強いのよ! 可笑しいでしょ!?」

 強く床を踏み鳴らしながら悔しがる鵺は幼い容姿の通りに微笑ましく見える。黒葉菫と獏に負かされ白花苧環にも勝てず、何故花にすら勝てないのか地団駄を踏む。三人が特別チェスが強いと言うより鵺自身が弱いということには彼女はまだ気付いていない。

「では後は椒図と蜃から話を聞いてください。二人の方が詳しいので。話は通しておきました」

「まさか……ここにいるの……?」

「います」

「ちょっと付いていけないわ……烙印を解除してほしい罪人って椒図なのね……。驚き疲れたわ」

 頭を押さえながらげんなりとする鵺に、一息に情報を与え過ぎたかと白花苧環は反省する。が、そう長く宵街を閉じておけるわけではないので悠長なことは言っていられない。

 白花苧環に連れられ鵺は初めて店の二階へ上がった。三つのドアがあり、手前の一つに入る。そこに椒図と初めて見る少女の蜃に反応するより先に、天井の大穴が目に入ってしまった。尋ねる気力が今はない。

「……本当に椒図がいるなんてね……」

「久しいな、鵺。苧環から話を聞かされた時は本当に仲間に引き入れられるのか半信半疑だったが、やるな、白いの」

「布団が敷いてあるってことは、具合でも悪いの? 獏は何か寝てるし」

睚眦がいさいから拷問を受けて腕と脚を切られた。獏はちょっとした事情で眠ってもらってる」

「拷問? そんな予定あったかしら?」

 怪訝に首を傾ぐ鵺に、椒図は宵街での出来事を話した。そこに関わった蜃と白花苧環、そして黒葉菫のことも話した。鵺は黙って聞いていたが、終始眉を寄せていた。少し宵街から離れている間に随分と形勢が変化したらしい。

 話し終わった後も鵺は黙ったままで、何かを考えているようだった。

「……味方になった振りをしようかとも思ったけど、スミレちゃんの件は目を瞑るわけにはいかないわね。まさか狴犴がスミレちゃんを襲わせるなんて……」

「何かあれば何とかするとスミレに言ってたようですね」

「それも知ってるのね」

「それがあるから、貴方はこちら側になると思いました」

「獏を庇ったからとか言ってた癖に、二重に組み敷かれるなんて思わなかったわ」

「相当甘い見立てだったと思いますが。何せ貴方が来たのは唐突で只の偶然です。獏だともう少し上手く遣ったんじゃないでしょうか。オレは自分が白であることを利用しただけなので。動揺してもらえて良かったです」

 咄嗟の機転で組み敷けるなら、成程チェスも強いだろう。

「大分買ってるわね……。お手上げだわ。獏は掌握が上手いのかしら」

 鵺は呆れたように苦笑する。まずはもう一度状況を整理することにする。少し確認するために立ち寄っただけなのに、まさか烙印の解除を頼まれるとは夢にも思わなかった。解除印を持ち出せば狴犴に何を言われるかわからないが、狴犴に背く白花苧環の心変わりが気になる。罪悪を嫌う白を動かす何かは、突き止めたかった。

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