50-あの頃
「向う
一銭あげて ざっとおがんで お仙の茶屋へ
腰をかけたら 渋茶を出して――」
町外れの誰もいない夜の月明かりの下で、地面を突いた赤い鞠が小石に跳ねて転がる。
黒い髪に赤いリボンを結んで黒い着物を着た幼い少女は転がる鞠を目で追った。
町の外れから更に離れ、なだらかな坂を転がった鞠は草叢の中へ飛び込んだ。
草履をぱたぱたと草を分けて追うと、誰かの足にぶつかり漸く止まった。
「……ん?」
赤髪を小さく後ろで縛っている少年は足に当たった物を拾い上げ、傍らにいた短い緑髪の青年は不思議そうにそれを見た。
「手鞠……? 君の?」
十歳にも満たない幼い少女は無言でじっと見上げる。小さな口を閉じたまま一言も漏らさない。
「金色の目……獣か?」
闇に浮かぶ月のように澄んだ金色の双眸が鞠を見詰める。赤髪の少年は鞠を差し出し、少女はそれを受け取る。話せないのかと思った瞬間、少女は静かに口を開いた。
「こんな所で何をしてるの?」
一拍置いた後、青年が口を開く。
「それはこっちの台詞だな。女の子が一人で夜に出歩くなんて危ない」
「…………」
「僕は
「獏」
「確か悪夢を食べると言う……? ああそれで夜に歩いてるのか……」
椒図と名乗った青年は赤髪の少年を一瞥し、近くの岩に腰掛けた。少年は少しだけ不満そうな顔をし、同じように地面に蹲んだ。
「とすると怪しいのは僕達の方だな」
「相手にしなくていいだろ」
「こんなに可愛い子を夜道に一人きりにはしておけない」
「獣だったら一人でも大丈夫だろ。見た目通りの幼い子供でもあるまいし」
言い合った後、同時に少女を見る。少女は無表情を崩さず可憐な唇を開いた。
「私は平気。有象無象の悪夢を食べた私は人間の悪意がわかる」
「ほら、幼い子供はこんなこと言わないだろ。思ったより辛口だな君」
「夜に出歩く人は珍しい。同業者?」
容姿の幼さに似合わずしっかりとした口調で話す。獣の容姿は年齢とは結び付かないものだ。
椒図は徐ろに頬杖を突いて笑う。
「獏の食事を横取りすることはないから安心してくれ。僕達も人間のように夜は眠るが、この時間は静かでいいからな。悪戯の相談をするには打って付けだ」
「悪戯……?」
「興味あるか?」
微笑む椒図に、獏は首を傾けた。そのまま踵を返し、少女は草叢から出て行く。それを椒図と蜃は黙って見送った。そのままその日は獏が戻ることはなかった。
夜が一周し、獏は再び同じ場所へ赤い手鞠を抱えながら向かった。
同じ草叢の中に同じ顔触れがあり、二人は獏の後ろに立っている白い影を見た。
「何で今日も来たんだよ。後ろのは変転人か?」
「仲間がいずに寂しいのかと思ったが、仲間はいたんだな」
長い白髪の少女は腰に手を当て、獏の前に立ち不敵に笑った。
「私は毒芹。変な男から獏を守る護衛」
「変な男ってまさか俺達に言ってるのか?」
「当然! 獏は私が……」
喋りながら、毒芹と名乗った白い少女はこくこくと頭を揺らした。
「眠そうだな。無理して起きてないで寝てろ」
夜行性の獏と人間では活動時間が異なる。仲間とは言っても獏の活動時間に合わせて夜に起きているのは困難なようだ。
「セリが一言言いたいと言うから来た」
相変わらず無表情の獏は白い少女を見るが、毒芹は立ったまま寝始めている。器用な人間だ。
「まさか他に連れて来るとは思わず数が足りなくなってしまったな」
椒図は手製の木箱を取り出し、獏によく見えるように蓋を開けた。中には団子が五つずつ刺さった串が三本収まっていたが、獏はそれを見たことがなかった。
「もし今日も来たらと思ってな、茶屋で団子を買っておいた」
「!」
初めて明白に獏の表情が変わり、箱の中を覗き込む。白い頬が紅潮し、月のような目を真ん丸にした。
「……米の団子か、土の団子か」
「どう見ても土じゃないだろ」
蜃は呆れるが、椒図は笑い出した。その声で毒芹もハッと目が覚め、きょろきょろと辺りを見回す。ここが何処かも忘れているようだ。
「蜃、それは手鞠歌の一節だ。米の団子か 土の団子か お団子 団子――だったか?」
「いや手鞠歌なんて知らないし……。鞠で遊ばないからな」
月のような双眸をキラキラと輝かせて団子と椒図を交互に見詰める獏は容姿に相応な反応だと言えた。感情が稀薄なのかと思っていたが、どうやらそうではないらしい。
「食べていい」
袖を押さえながら小さな手で串を抓み上げ、獏は左右からじっくりと団子を見回した。美味しそうな焼き色にとろりとした醤油が絡み付いている。夜に活動する獏は、昼間に開く店で売られている物など知らない。人間が寝静まる夜はどの店も閉まっている。こうして人間の食べ物を見る機会、況して食べる機会などなかった。人間の少女が忘れて行った手鞠を拾って大事にしていたが、その歌の中に出て来る物が目の前に存在するのは不思議な感覚だった。
蜃も串を一本持ち、椒図も残りの一本を持ち上げる。目を覚ました毒芹が物欲しそうな顔で団子を見ていた。
「……食べにくいな。二つあげよう」
「二つ……」
「私の団子も二つあげる。これでセリの分は四つ」
近くに落ちていた小枝に四つ刺した団子を毒芹は漸く満足して嬉しそうに受け取った。
「今度は俺が食べにくいだろ。……どうすればいいんだ? 椒図と獏に一つずつ渡せば同じ数になるよな?」
あちらこちらへ団子を移動させ、獏も漸く団子を頬張った。二人に一つずつ渡すと蜃の分が少なくなってしまうため、椒図は断った。
「これが団子の味……」
「その幸せそうな顔を見ると、また何かあげたくなるな」
「餌付けするなよ椒図」
蜃も前日ほどは煙たがらず、団子の一つも食べたことのない獏に苦笑した。
また夜が一周し、今度は眠気に負けてしまった毒芹は連れずに手鞠を抱えた獏が一人で二人の許にやって来た。椒図は小さな袋を出し、獏の小さな手に握らせる。
「獏に良い物をあげよう。金平糖だ」
獏は袋の中を覗き、赤や黄に彩られた砂糖菓子に溜息を漏らした。
「一人で出掛けてると思えば……金平糖なんてよく手に入ったな」
「綺麗……」
宝石でも見るかのように暫く見詰めた後、獏は袋を縛った。後で毒芹と一緒に食べるのだろう。
小袋を仕舞う獏は置いておき、蜃は近くに落ちていた枝を拾って地面をこつこつと叩いた。
「椒図、そろそろ方針を決めよう」
「ああ、そうだな」
初めて会った時に話していた悪戯の相談をする。獏は近くの岩に腰掛け、てんてんと鞠を突いて一人遊びをする。
「試しに一人街に放り込んだが、一人じゃ面白味がない」
「街だからな。ある程度、人数が欲しいな」
「椒図が閉じておけば、中の時は止まるんだよな? 餌が必要ないなら増やしても大丈夫そうだ」
「時が止まると言うより、動かなくなると言った方が正確だな。だが中で起こる変化については柔軟に流動する。そうではないと人間の活動も停止するからな。そこまでの拘束力はない」
「でも人間を止めることもできるんだろ?」
「止めるではなく閉じるだが、確かに口を閉じて息をさせないことや体内の色々を閉じて止めてしまうことはできるが、自分の力で直接殺すことはしたくない。友達ができなくなったらどうするんだ」
「理由が巫山戯てるのか真面目なのかわからないが……。でも街の中だと殺しても外には漏れない。椒図の力を試すにもいいだろ?」
「……そうだな。自分が何処まで遣れるのかは知っておいた方がいいからな」
二人の会話を鞠を突きながら獏は静かに耳を傾ける。
蜃の力で作った実体のある街を箱庭とし、人間を攫ってそこに放つ。そこで恐怖を抱きながらも生活する人間を眺めながら、時々椒図の力を試用する。ちっぽけな蟻の巣を眺めるように人間を観察するのだ。それを二人は『神隠し』と言った。
「でも放り込んだ一人はなかなか家から出てこないんだよな……。ベッドでずっと動かない」
「怯えてるんじゃないのか?」
「動かないと面白くないだろ」
詰まらなさそうに枝を振る蜃の服を稀薄な気配が後ろから引き、蜃はびくりと跳ねた。
「……背後に気配を消しながら立つな、獏……」
「ベッドとは何?」
「あー……脚の生えた布団」
「歩く布団……? それを見たい」
他にも興味を引くような言葉はあったはずだが、布団に興味を示す所は、夢を食べる獏らしいと言えた。
「獏も悪戯の仲間に入るか?」
椒図は手招きの仕草をし、獏は首を傾げながらその指を握った。
「可愛いな、獏は」
「獏に悪意があったら指折られてるぞ椒図」
「その時は手を引く」
蜃は杖を召喚し、二人を促して瞬時に場所を移した。
一瞬で視界には見たことのない街が広がり、獏は月のような目を真ん丸くした。木ではなく煉瓦でできた建物と、石畳の硬い地面が広がっている。疎らに蝋燭の灯る街灯が立っているが、見たことのない形だったので獏は不思議そうに見上げた。
「この家の中だ。窓から様子が見れる」
近くの家を指差し、視線を向ける。その建物の中だけ明かりが点いていた。三人はその隣家の屋根に跳び乗り窓を覗く。そこには少女が一人、ベッドの上で丸くなっていた。
「確かに動かないな」
「だろ? ずっと寝てるわけはないと思うんだが」
「あれは悪夢の所為」
屋根に手と膝を突いて覗いていた獏は不意に呟いた。
「悪性の黒い靄が出てる。あれは自力では目覚めない」
蜃と椒図は顔を見合わせ、もう一度窓を覗く。
「靄なんて見えるか?」
「いや……僕には見えない」
獏は立ち上がり、杖を取り出した。両手で握って二人を見上げる。
「靄は獏にしか見えない。きっとここに来たことで恐怖を抱いた所為。あれを放っておくと、あの人間は自分の悪夢に食べられてしまう。食べられると悪夢は自由に動ける。周りの人達を襲ってしまう。それでも悪夢に触れられるのは獏だけ」
「……見えないと何とも言えないが、放っておくと危険なんだな?」
穴が空きそうなほどにベッドの上を見詰めるがやはり何も見えず、椒図は首を捻りながらも理解を示した。
獏は頷き、今度は蜃を見上げる。意見を聞きたいようだ。蜃は腕を組み、眉を顰めて唸った。
「ここに人間を閉じ込める計画なのに、閉じ込めたら悪夢が……って言うなら、獏がいないと何もできないじゃないか。人間が悪夢を見る度、君が食べることはできないのか? そうしたら神隠しを続行できる」
「食べられる。悪さをするのは悪性の悪夢だけで、良性は放っておいても問題はない。けど、食べていいの?」
「もっとたくさんの人間をここに攫うからな。そいつらが悪夢を見る度、食べてほしい。悪性とか良性とか言うのはよくわからないが、それができるなら俺達の仲間に入れてやってもいい」
「御飯を自分で探さなくてもいいの? お腹一杯食べられる?」
「苦労してるんだな君……」
眠る人間全てが悪夢を見るわけではない。そのことに思い至り、蜃も同情した。恐怖を与えればその分悪夢を見る確率は増すだろう。これは利害の一致と言える。
「試しにそこの悪夢を食べてみてくれ。そうしたら人間も目を覚ますんだろ?」
「夜が明け朝が来る時に目覚める」
「この街、ずっと夜なんだが」
「動くものは全て時間をその身に受ける。睡眠は永遠じゃない」
「その内目が覚めるってことだよな?」
「そう」
獏は身を乗り出し、小さな手をふるふると窓に伸ばした。屋根から落ちそうになる小さな体を椒図は慌てて抱える。
「入口から普通に入っていい」
抱えたまま石畳に飛び降り、蜃も後に続く。階段を探して二階に上がり、少女のいる部屋のドアを開けた。
「美味しそう」
床に下ろされた獏はベッドに歩み寄り、杖を振った。少女から漏れる黒い靄は杖に嵌めた変換石に纏わり、獏の小さな口に吸い込まれる。蜃と椒図にはそれは見えないが、眠る少女の険しい顔が穏やかになったことには気付いた。
「美味しかった」
振り返った獏は満足そうに笑んだ。年相応に幼い笑顔に微笑ましくなる。
「悪夢と団子はどっちが美味しいんだ?」
「そんな違う味の物を比べられない。どっちも美味しい」
少女が目を覚ます前に、三人は街から出た。
――この頃は本当に楽しかった。
獏には毒芹が付いているが夜行性の獏に付き合わせるわけにはいかず、獏は暗い夜の中で毎日一人ぼっちだった。蜃と椒図は夜行性ではないが、夜遅くまで起きて、よく昼まで寝ていた。
それから何周も夜が巡り、街にはどんどん人間が増えた。探すまでもなく、悪夢を見る人間も其処彼処で発生した。その度に獏が美味しそうに悪夢を食べた。
異変が起こったのはそれから暫く経った頃だった。街の大きさに合わせて人間が増え過ぎたのだ。悪夢の多さに獏が目を回すようになった。体の小さな獏では許容できない量になってしまったのだ。良性は放っておいても問題はないが、悪性の悪夢が伝染するように増加していた。
人間を攫うのは一旦止めたが、これだけの人間を一気に処理できる場所はない。今まで別空間にあるために宵街に感知されなかったが、この数の人間を外に放り出せば自ずと不審がられる。そうでなくとも徐々に宵街に怪しまれているのに。
目を回した獏は悪夢の感知漏れも多くなった。黒い靄でしかなかった悪夢が育ち、人間を襲うようになった。そうなれば蜃と椒図にも見えるようになったが、触れることは叶わずどうすることもできなかった。
「おい獏、本当にもう食べられないのか? せめて暴れてる奴だけでもどうにかできないのか?」
屋根の上に座り込み肩で息をする幼い獏を支えながら、椒図は蜃に首を振る。
「無茶だ。さっきも吐きそうになっていた。これ以上は……」
「できるって言ったのに、できないのかよ!」
「御免なさい……」
か細く謝る獏の声は震えていた。人間の食べ物のように形の無い悪夢は無限に食べられるものだと思っていた。今までこんな量を食べたことはなかった。人工的に悪夢を発生させているようなものであるこの街では、許容できないほどの量の悪夢が溢れている。人間を喰った黒い靄の塊は蜃と椒図の目にもはっきりと映り、漸く獏の言っていたことが理解できた。
「僕が街を閉じてる限り悪夢が外に出ることはないはずだが、この街が壊されることはあるか?」
「街は実体だから、壊すことは可能だ。でも一部壊れる程度なら許容範囲で何ともない」
「一部以上に壊れた場合が問題だな。とりあえず悪夢をこれ以上増やさないよう、無事な人間を外に放出しよう」
「それだと宵街に完全に気付かれるのは時間の問題だぞ」
「……不味いと思ったら、僕が囮になる。蜃と獏は無関係だと言えば大丈夫だ」
「は!? 地下牢に入れられたら一生出られないんだぞ!?」
「そうだが……獏にはずっと笑って遊んでいてほしいしな」
苦しむ獏の頭を撫で、椒図は街に目を遣る。混乱は避けられない。逃げ惑う人々から恐怖を取り除くことはできない。
口論する二人の言葉はよく理解できなかったが、感情は伝わってくる。獏も不安そうに二人を見上げた。
「地下牢はわからない……でも、閉じ込められる所……? 椒図ともう会えなくなるの……?」
「勝手に決めるな! 椒図は地下牢に行かない! 君が悪夢を処理すれば済む話だろ!」
獏の頭にぽんと手を置き、椒図は微笑む。
「確かにまだ地下牢に行くと決まったわけではないな。遣れるだけのことは遣ろう」
それでも――それはどうにもならなかった。
獏も休み休み悪夢の処理をしたが、成長した悪夢は一人の獏では手に負えず、悪夢は街を蝕んでいった。悪夢を増やさないように人間を少しずつ外に出した結果、宵街に遂に特定された。まだ眠っている頃に蜃に手紙を置き、椒図は宵街へ行ったと言う。
それからも悪夢は街の中で無慈悲に成長を続けた。
(私が何とかしないと……)
為す術もなく立ち尽くす蜃の傍らで、獏は杖を握り締める。屋根から見下ろす街には人々の叫び声が絶え間なく響いていた。
「……今日はもう喰えないのか?」
椒図がいなくなり、蜃の感情はまるで死んだように冷たく空虚になった。頭では理解しているが、気持ちが納得できていない。
「悪夢は……獏が鎮めなければならないもの。私の弱さを悔いるものではない」
「……?」
「私が楔となれば、鎮められるかもしれない」
「楔……?」
「捧げ物とでも言うのかもしれない。人間から生まれた悪夢を、理性と繋ぐ」
その言葉の意味を蜃は即座に察することができた。何故だろう、感情が消えて頭が冴えているのだろうか。
「……つまり君を殺せば、この悪夢は終わると?」
「…………」
「だったら何で椒図が行く前にやらなかったんだ!」
蜃は獏の小さな肩を掴んで揺らした。言った所で椒図はそれを阻止するだろう。一人で囮となり地下牢へ行くような奴だ。獏を生贄には――殺しはしないだろう。それでも蜃は、まだ遣れることがあったのにできなかったことが悔しかった。
「御免なさい」
椒図がいなくなり、だったらもう悪夢を外に出してしまえば良いと思った。外の人間がどうなろうと知ったことではない。もう宵街にも見つかっているのだ。獏を庇う義理もない。だが椒図は街を閉じたまま行ってしまった。どうしようもなかった。
「お前を殺す」
もう楽しかった時間は終わってしまった。もう戻ることはない。
蜃は空中に鋭利な刀を作り、揺らがない金色の目を直視することができずに目を逸らして獏を刺した。貫かれて屋根から落ちた獏は悪夢の黒い触手に足を掴まれ、赤い軌跡を引きながら引き摺り込まれていった。
「ありが……とう……」
虚ろに呟き、獏の意識は闇に落ちた。
* * *
暗闇から浮かび上がる泡沫が水面で弾けるように、ゆっくりと瞼を開いた。そこは薄暗い部屋だった。柔らかい感触はきっとベッドだろう。
体を起こして薄らと光の射し込む窓に目を遣ると、窓の外を眺めながら立っていた黒衣と目が合った。
「やっと目を覚ましたか」
赤髪に黒いフードを被っているそれは蜃だった。何故ここにいるのか――いや、ここは何処だ?
「……泣いてるのか?」
「え……?」
目元に手を遣ると、確かに濡れていた。何故泣いているのかわからなかった。
直後、異変に気付いて手で顔を覆った。その動作の理由に蜃はすぐに思い当たる所があり、ベッドの脇を指差した。
「寝てるのか起きてるのかわからなかったから、お面は外した。もう散々顔は見てるし、今更だろ」
「それは……そうだけど」
横目で黒い動物面を確認し、胸を撫で下ろす。部屋には他に誰もいないようだった。明かりも点いていない。
「ここは……? 何で僕はベッドに? 何か見たはずだけど……ぼんやりして思い出せない。どんどん消えていく……。黒髪の赤いリボンの女の子が……」
「頭でも打ったか? ……倒れたし打ったかもしれないが」
「倒れた……? いつ?」
「ついさっきだ。君は俺を追い掛けて、うっかり街の端の方に行った。その距離に端が来てると把握してなかったんだ。そこに血痕と学生の鞄が落ちてた。それを確認してたらお前が倒れた。意識の無い奴を運ぶのは面倒だから、少し離れた家で様子を見ることにした。すぐに目を覚まさなければ置いて行っても良かったんだが……悪夢に君を取られるのは不味い」
説明をされると、ぼんやりと思い出してきた。確かに端に行った記憶がある。血痕と学生鞄も見た。見覚えのあるクマのぬいぐるみが付いている鞄だった。願い事の契約をしていた少女の物に似ていた。だが意識を失った原因はそれではない。蠢く闇にまた気分が悪くなった。意識を吸い取られるような感覚だった。
「じゃあ赤いリボンの女の子は……?」
「赤いリボン? そんなのは見てないが……」
「赤いリボンで……黒い着物を着てた。十にも満たないような女の子……」
蜃は眉を顰め、息を呑んだ。それには一人心当たりがあった。だが、有り得ない。
「それは……化生前の獏か……?」
「え……?」
「君は記憶を継いでないんだよな? とすると過去夢か?」
「夢……? それはないよ。獏は夢を見ない。だってもし獏が悪夢を見たら、処理できる人がいないでしょ?」
「理屈は理解できるが……ああもういい。動けるなら君の店に戻るぞ。ここはまだ端に近いからな。また倒れられたら困る」
獏は面を拾い、蜃の立つ窓辺へと歩いた。歩行は安定している。頭はまだぼんやりとするが、走ることもできそうだ。
蜃が見ていた窓の外に目を遣ると、離れてはいるが夜目の利く獏には充分に蠢く闇を視認することができた。また眉を顰める獏の顔に、蜃はばちんと手を当てる。
「気分が悪くなるなら見るな。さっさと行くぞ」
「……うん」
部屋を出る蜃の後を追い、獏は面を被りながら走った。
「横に並んで思ったんだが、獏が俺より背が伸びてると腹が立つな」
「じゃあ君も伸ばせばいいんじゃない?」
「喧嘩売ってんのか」
背後の闇は振り返らないように霧の中を走る。常夜燈は持っていないが、さすがは街を作った本人と言うべきか、街の構造は把握しているようだ。端を把握できていないのは、端は闇に侵蝕され位置が変わるからだ。
「今の僕より背が高かったみたいだね。さっき見た……君が、夢……って言ってたものに君もいた気がする。たぶん君だ。あと椒図も。何をやってたのかは思い出せないけど」
「……三人が揃ってたなら、楽しかった頃の夢だな」
夢ではなくあの時間がずっと続けば良かったのに、と今でも蜃は思う。
「……ところで、何で僕は君を追ってたんだっけ?」
「やっぱり頭打ってたか? 俺の苺を奪おうとしただろ」
「…………思い出した。忘れてるからって嘘吐かないでよ。君が僕の苺を奪って逃げたんでしょ」
「ちっ」
「そう言えば前に癇に障って潰したカフェに、苺がたくさん載ったパフェがあったな」
「何で潰したんだよ!」
「あんな山盛りなのがいいの?」
「本当に可愛げがなくなったな君……。薄々そうじゃないかと思ってたが、今代の君も少食だな……?」
「普通でしょ?」
「井の中の蛙、大海を知らず」
「えぇ……」
会話を続けていると、蠢く闇に乱された気分が徐々に落ち着く。意識を失っていた時に蜃は今度こそ獏を殺すことができたはずだ。周囲には誰もおらず、絶好の機会だった。だが蜃は獏が目覚めるのを待っていた。どういうわけか今は殺す気がない。椒図の鎹が思いの外強固なのかもしれない。警戒を緩めて良いのなら、気を張り続けるよりずっと良い。会話に棘はあるが、落ち着けるだけの余裕はありがたい。
店まで戻りドアを開けると、獏の帰りが遅いので心配していた灰色海月が慌てて駆け寄ってきた。蜃は彼女に空の皿を返して気不味そうに顔を逸らし二階へ上がった。
獏も後を追って二階へ上がる。少しだけ化生前の話も聞きたくなった。
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