49-シャボン玉
誰もいない街の小さな店の一室で、黒葉菫はまだぼんやりとする頭を擡げながらベッドの上で座った。黒色海栗と灰色海月は彼が体を起こすのを手伝おうとしたが、どうやら一人で起きられるようだ。
「随分長く眠ってたよ」
「そうですか……普段も寝坊はよくするので、その所為かもしれません」
少しずれた返事に獏は苦笑する。体を起こせるなら、傷ももう大分癒えているだろう。生きていて安心する。
「……あまり覚えてないんですが、俺はここに来れたんですよね……?」
「ふふ。来たからここにいるんだよ。いつもの場所とは少しずれてたけど、マキさんの刻印の御陰で場所がわかったから」
「そうだったんですか……苧環に感謝すべきなのか迷う所ですが」
「そうだねぇ。でもその後マキさんも色々あったから。――そうそう。
「え? ……俺の行動は無駄だったんですか……」
「そんなことないよ。君の行動があってこそだよ。僕も意識がない時間があったから聞いた話も混ざるけど、ちゃんと説明するね」
「……はい」
獏は黒葉菫の眠っている間の出来事を順を追って話し、街にいなかった黒色海栗も黙って耳を傾けた。黒葉菫が椒図に会いに地下牢へ行ったことで白花苧環は責任を感じ首輪を付ける結果となったが、椒図と共に逃げることができた。蜃とも話をすることができ、この街についてもある程度理解できた。この街の悪夢についてはまだわからないことが多いが、それはこれから考えていく。
蜃と椒図は随分と仲が良いようで、椒図に抑えられているからか蜃が襲ってくることはなく、手を出してこないなら獏からも攻撃はしない。下手に暴れて、動けない椒図や灰色海月達変転人が巻き込まれるのは本意ではない。
黒葉菫は目を伏せるが、幸いにも死者は出ていない。毒芹は元々百年以上も前に死んでいる。悪夢であっても自我を持つ者を生者と呼ぶなら、死者に数えなければならないが――。
話を終えても、黒葉菫はまだ暫く黙ったままだった。大体のことは説明したが、螭が黒葉菫に人の姿を与えたことは黙っておいた。黒葉菫が知りたそうにしていたら話すかもしれないが、彼は何も言っていない。故に今は螭の意思を尊重する。
黒葉菫も地下牢での出来事を話し、獏は神妙に耳を傾けた。黒葉菫と黒色海栗を襲ったのは
「今は宵街からの脅威はないから、今の内に体力を戻しておかないとね。こんな時だけど、僕も善行を再開しようと思ってるんだ」
「大丈夫なんですか? 体はまだ本調子じゃないんですよね? それに宵街は閉じられてても、宵街の外に出てた人は自由に動けるはずです」
「本調子じゃないから、食事はしておこうと思って。宵街の外にいる人は宵街に戻れずに混乱するだろうし、連絡も取れないなら何も指示はできないはずだよ。椒図とマキさんがいなくなったことはまだ宵街の中にいた人しか知らない」
「確かに食事をするなら今の方がいいかもしれませんね」
「でしょ? 宵街が閉じて供給も止まるから、何か必要な物があれば調達してくるよ」
「そうか……供給も無くなるんですね」
灰色海月がせっせと焼く菓子の材料も宵街からの供給だ。必要な物があれば灰色海月が要求し、彼女が受け取っている。罪人の牢の中でも菓子の材料を要求できるのだから、地下牢とは違いここは大分規則が緩い。狴犴が許可を出しているのかは知らないが、何を考えているのかわからない。
「うん。皆にも言ってくるから、考えておいてね。クラゲさんは手紙の回収をお願い」
てきぱきと指示を出し、獏は部屋を出る。動物面を被らずに過ごしている獏に多少の違和感は覚えつつも、黒葉菫は特に疑問には思わなかった。顔が見える方が話しやすいと思う。
獏が自室へ行くと、椒図は切断されていない腕を下にして布団の上で丸くなって眠っていた。
「ベッドが空いたから移ってもらえば良かったね……」
「起こすなよ、獏」
蜃の傷も癒えていないが、獏に負わされた傷で痛みを感じていると思われたくない。フードを深く被り、怪我などしていない風に平然とベッドの上で黒猫と遊んでいる姿を見せつける。
浅葱斑は部屋の隅でまだ膝を抱えているが、白花苧環の姿は見えない。
「マキさんは?」
「さあな。下か外じゃないか?」
「……そう。善行で外に出るけど、何か必要な物があれば聞こうと思ったんだけど」
「こんな時でも善行するのか? 真面目だな君……」
黒猫と遊びながら顔を顰める。獏のことは今まで観察してきたのだ、善行を科されていることは知っている。
「食事をする機会が他にないからね。人間の食べる物でもお腹は満たせるけど、体調となるとやっぱり獏としての食事は必要だから」
「じゃあ椒図が驚いて腰抜かしそうな物を持って来てくれよ」
「びっくり箱でも欲しいの?」
「違う。椒図はずっと地下牢にいたからな。外のことがわからない浦島太郎状態なんだ。俺も色々教えてやったが口頭じゃ限界があるし、全部は無理だからな」
黒猫に視線を落とし、憂えるように撫でる。楽しくて時間が過ぎたわけではなく孤独と陰鬱な牢の中に閉じ込められていただけなのが胸を締め付けるが、今は地下牢から出られたのだ。肢体を切断されて間も無くに直接外を見せてやることはできないが、見たことのない物を見せて驚かせたい気持ちはある。
「椒図が地下牢に入ったのって……」
「江戸時代……だっけ? その終わり頃だったと思う。俺と君が化生したのは明治に入ってたよな?」
「それは何でも驚きそうだけど」
「ロボットなんか良さそう」
「そんな高価な物は買えない」
「機械物が一番驚きそうなのに」
一蹴され蜃は不満そうに口を尖らせた。中途半端な物だと腰を抜かさないかもしれない。
「機械だったら台所を見せればいいんじゃない? 冷蔵庫とかさ」
「勝手に入っていいのか? 何か怪しい物を作ってただろ」
「鼈かな……? 荒らさなければ入っていいよ」
忘れた頃に鼈鍋を思い出させられる。良い悪いは別として獏の体を思って作られた物を無下に捨てろとは言えない。かと言って食べることは躊躇われる。代わりに食べてくれる人がいてくれれば良いのだが、今の所皆の反応は同じだ。
「一つ気になったんだけど、君がこの街を作った頃って、電気で動く冷蔵庫なんてないよね?」
「ああ……まあ、そうだな」
「でもここにはよく冷える冷蔵庫もオーブンもある。悪夢が連れて来た人間が冷蔵庫を所持してたとは思えないんだけど、どういうことなの?」
「物を増やすことはできないが、アップデートすることはできる。動力も電気じゃないんだが……俺の気が回った所だけだが、化生前の俺ならそれができる。街が消えない限り、それは持続するみたいだ」
「強い獣だったんだね」
「嫌味か」
蜃は獏を睨み、背を向けた。力は完全に獏と逆転している。蜃が大人しくしているのは、今の状態では獏に勝てないとわかっているからだ。それに椒図にも止められている。椒図と険悪な仲にはなりたくない。本当は獏と会話を交わすだけで虫唾が走るのだ。
獏は無言でその小さな背を見詰め、部屋を出た。記憶を引き継ぐ代わりに力が弱くなったのではないかと思えてくる。
階下へ行くと、いつも獏が座っている革張りの椅子の方ではなく簡易な椅子に白花苧環が座っていた。机上に紅茶が置かれている。彼は獏に気付いて読んでいた古書から顔を上げた。
「ここにいたんだねマキさん」
「上にいると落ち着かないので」
「善行を再開しようと思ってるんだけど、ここ使っていいかな?」
「それは良い心懸けですね。勿論、場所は譲ります」
「宵街からの供給も止まるから、何か欲しい物があったら調達してくるけど、何かある?」
「何か……と言うなら、小さなナイフを一本でも。持っていたナイフは
今更だが、拷問官を刺してしまったのは不味かったかもしれない。それは罪人を庇うような行為だった。咄嗟とはいえ罪人を庇ってしまったことは狴犴の耳にも入るだろう。今度こそ言い逃れできず殺されるかもしれない。
「そうだね。武器がないと不安だもんね。わかった。小型のナイフでいいの?」
「普段使ってる針の大きさを考えると、小さい方が扱いやすいので」
「そっか。確かに使い慣れた大きさがいいよね」
「……ところで、お面を被るのはもうやめたんですか?」
「……え?」
獏はそろそろと顔に手を遣り、ハッとした。
「お面……! 付けてない!? ああもう見ないで!」
青褪めた顔を両手で覆いつつ、急いで階段を駆け上がった。
散々素顔で歩き回っているのだから外していても問題ないのではないかと白花苧環は呆れる。
顔を覆いながら部屋に飛び込んできた獏を蜃は怪訝に目で追い、机に置かれた動物面を毟り取るように拾って顔に当てる様を見て納得した。慌てて部屋を出て行く獏は少し滑稽に見えた。
階下に戻った獏は肩で息をしながら机に手を突く。道理で暫く視界が広かったはずだ。ぼんやりとしていて気付かなかった。
タイミングを見計らったかのように店のドアが開いて灰色の姿ともう一人人影が見えたので、白花苧環は立ち上がりカップを手に取る。
「この紅茶は勝手に淹れました。……スミレの部屋の方が静かでしょうか」
階段を上がる背を横目で見送る。紅茶の茶葉も調達した方が良いだろう。
獏は久し振りに革張りの古い椅子に腰掛け、息を整えた。願い事の差出人に顔を見られる前に言ってもらえて良かった。
灰色海月は連れて来た少女に椅子を出し、獏に手紙を渡す。
「直接連れて来たんだね」
「はい。一通しか出されてなかったので」
「一通だけ? ……まあ斑があるからねぇ」
手紙の封を切り、願い事を確認する。ざっと目を通して溜息が出そうになった。体力が回復しない内に受けるのは厳しい内容かもしれない。前に座る少女を一瞥し、気は乗らないが手紙を置いて口を開いた。
「早速、君の願い事を聞こうか」
学生服を着た少女は少し俯いた後、思い切って顔を上げた。
「あのっ……すっ、好きな人がいて……」
恋愛の願い事は骨が折れることが多い。あまり気が乗らないが、一通しか投函されていないのなら選ぶことはできない。
「付き合うことになりました」
「え? 願い事じゃなくて報告?」
てっきり付き合わせてくれと言われるのだと思ったが、違うようだ。
「あ、いえ、続きがあります」
少女は慌てて首を振り、紅茶を置いて獏の傍らに控える灰色海月を一瞥した。
「獏さんは、私を可愛いと思いますか?」
唐突な質問だった。
「基準は人それぞれだと思うけど……僕がどう思うかって話なら、人間に興味はないね」
「可愛いかどうかは興味と関係なくないですか? 私は顔に自信なかったんですけど、そこいらのちょっとチヤホヤされてる子よりは可愛いんじゃないかと思い始めました。だって、付き合えたんだから」
要点を得ないが、肯定されたくて来たのだろうか。手紙には『皆いなくなれ』と書かれていたが、それも要点を得ない。要点を得ない願い事は大抵面倒臭い。
少女はまたちらりと灰色海月を一瞥し、獏ににこにこと笑顔を向けた。自棄に灰色海月を意識している。獏は面で顔を覆っているため、顔の見える灰色海月と比べているのか。
「可愛いって言われてる人って、本当に可愛いですか?」
「ふふ。恋人ができて舞い上がってるんだね。盲目になるのは勝手だけど、他の人を傷付けちゃ駄目だよ。君は皆に可愛がられたいの? 上辺しか見てない君にその価値があれば、可愛がられるだろうね。僕には君よりクラゲさんの方が可愛く思えるかな」
灰色海月は予想外の矛先に仄かに顔を赤くし、獏の肩を思い切り叩いた。
「いっ」
まさか照れるとは思わず、机に叩き付けられた獏はよろよろと頭を上げた。
「揶揄わないでください。マレーバクの分際で」
「照れ隠しなのか怒ったのかわからない力だね……肩が外れるかと思ったよ……」
肩を摩る獏を睨みながら、少女は頬を膨らませた。癇に障ってしまったようだ。
「まあいいです。獏は人間じゃないですもんね。可愛いの基準が変でも可笑しくないです」
「そうだね」
可愛いと言っておけば少女の機嫌は良くなっていただろうが、願い事は聞くが機嫌を取る義理はない。獏はくすくすと笑い、紅茶を一口飲んだ。
「本題に入ります。カレは素敵な人なので、女の子がよく集ってくるんです。女の子達を皆いなくしてほしいです」
「いなく、って言うのは具体的には? 殺すってこと? それとも遠ざけろってこと?」
「殺してもいいですけど、二度と会えないくらい遠くに行ってもらったら、それでいいです。私は優しいので、殺すなんてお願いはしません」
最初に『殺してもいい』と言っているが、幻聴だったのかと疑うほど清々しく話を流している。
「カレに集る女の子を皆いなくすればいいの? 集るっていうのは、色目を使うとかそういう?」
「それは明らかにアウトですが、話し掛けてくる女の子皆です。私の視界に入らないようにしてください。できるだけ遠くに離してください」
「わかった。カレに話し掛ける女の子は皆、君の視界に二度と入らないくらい遠くへ遣る。これでいい?」
「いいです! 可愛いって言わなかった時は話が通じないのかと心配でしたが、話が通じて良かったです!」
少女は喜んで手を叩き、また灰色海月を一瞥した。灰色海月は居心地悪く俯き、半歩下がる。
「それじゃあ代価の話をしようか」
「代価?」
少女は叩いていた手を止めて不思議そうに目を瞬いた。
「願い事が叶ったら代価を貰う。君の心をほんの少し。痛くはないから安心してね」
「心……ですか? 私じゃなくて、いらない女の子から取っていくことはできますか?」
「その交渉は初めてされたよ。代価を貰うのは願い事の依頼者だけだよ。君が願うんだから、君が責任を持たないと」
「……ほんの少しって、どのくらいですか? 気を失ったりしますか?」
「心配しなくても生活に支障が出るほど貰わないよ。気も失わない」
「だったら……仕方ないです」
「納得してもらえて良かったよ」
獏は紅茶を勧め、自身もカップを傾ける。少女も良い香りの紅茶を冷ましながら少しずつ飲んだ。
「明日一日カレの周りを観察して、君の願いを叶えていくね。君はいつも通り日常を送ってくれればいい」
「はい! ありがとうございます」
にこりと微笑み、少女は最後にもう一度、笑わない灰色海月を一瞥した。
「じゃあクラゲさん、送ってあげて」
「はい」
灰色海月は半歩下がった足を戻し、灰色の傘を握った。少女は立ち上がりながらにこにこと獏を見上げる。
「私の笑顔は可愛いですか? 胸が大きい女の子より、笑う女の子の方が可愛いですよね?」
「はいはい」
適当に相槌を打ち、店の外に連れられる少女の背に人差し指と親指で作った輪を向けた。
外見をやたらと比べたがる差出人だった。灰色海月は元が海月とは言え今は人間の女性だ。まだ感情については難しい面もあるが、照れたり俯いたりと反応している人間らしい彼女を、勝手に引き合いに出さないでほしいものだ。
人間に興味が無い獏は人間の体にも特に興味は無い。少女の言ったように胸の大きさについては視覚的にも確かに灰色海月の方が大きいと言えるが、比べるものではない。
「――で、君は何でそんな所で覗いてるの? 寝てたんでしょ?」
カップを傾けながら、階段から顔を覗かせる椒図と蜃に目を遣り溜息を吐く。殆ど最初から覗いていたことには気付いていた。
「脚を切られたのにもう歩けるの? 元気だねぇ」
「さすがにまだ歩くのはきついな。蜃に運んでもらった。地下牢の罪人にはない、科された善行というものを蜃に聞いて見学に来た」
「ああ……地下牢にはないらしいね。君は何か科されてることはないの?」
「何もない。ただ檻の中で大人しく時間を浪費するだけだ。ベッドを勧めてくれたようだが、地下牢の硬い地面に寝ることに慣れてしまったからな。ベッドの上は落ち着かない」
「君がいいなら何処で寝てもいいけど」
カップを台所へ持って行くと、灰色海月が戻って来た。椒図はまだ一人では動けないので階段に座り込んだまま覗いている。
「そこの灰色の。名前は?」
「え? 灰色海月です」
灰色の傘を仕舞いながら、そういえば名前を言っていなかったと記憶を手繰り慌てて名乗った。
「獏の監視役をしてます」
「そうか。ここを牢にしてると聞いた時は驚いたが、見張りは付けられてるんだな。宵街が開いたら僕のことも報告するか?」
「……私は……獏の味方がしたいです」
躊躇いがちではあるがはっきりと罪人の味方をすると言い切った監視役に椒図は目を丸くするが、すぐに微笑んだ。
「良い子じゃないか。獏は変転人に恵まれてるな」
「本人の性格は最悪なのにな」
横から煽るように蜃が口を出し、椒図は諫めた。
「今の人間の来客に言われたことは気にするな。海月は可愛い」
「!」
灰色海月は近くにいた獏の肩を思い切り叩いた。
「く……クラゲさん……マキさんに力の使い方を教えてもらったからって、すぐ手が出る所まで真似することはないんだよ……」
「こういう時はどうするのがいいんでしょうか……?」
ひたすら途惑う灰色海月に、蜃はけらけらと笑った。
「気にしなくていいぞ。椒図はこんな奴だからな。昔も獏によく可愛いって言ってた。たぶん挨拶みたいなものだ」
「そうなんですか」
変な挨拶もあるものだと灰色海月は神妙に頷いた。
変転人となりまだ一年程しか経っていない彼女にあまり変なことを吹き込まないでほしいものだ。疑わずにすぐに信じてしまう。
「御茶を出すのを忘れてました。すぐに二階に持って行きます。前に作ったシフォンケーキがまだ少し残ってるんですが、鼈とどちらがいいですか?」
「鼈はわかるが、シフォンケーキとは何だ? 食べ物……なのか?」
「悪いことは言わないからシフォンケーキにしとけ、椒図。俺も食べてみたいと思ってたんだ」
「貴方に出す御茶と御菓子はありません」
蜃はきょとんとし、灰色海月を見た後に椒図に目を戻した。姿は現していないが獏を観察している間、蜃は灰色海月が大量の菓子を焼く姿を何度も見ていた。匂いは離れていても漂ってくるので、いつも気になっていた。それを今、拒否された。獏を殺そうとして、毒芹を殺したからだ。
「……別に食べたいとは思ってないし」
「さっきと言ってることが逆だぞ、蜃」
「こっちが本心だ」
ふいと顔を逸らし、階段を駆け上がる。椒図はそれを見上げ、獏に目を向け肩を竦めた。
「手助けがないと僕は歩けないんだが」
「一人で歩けない内はあんまりうろうろしないことだね」
仕方なく獏は片足を負傷している椒図の尻を抱えるように持ち上げ階段を上がった。少し軽くすることができると言っても、大きさは変わらない。自分より背の高い椒図を持ち上げるのは大変だ。
「まさか獏に抱えられる日が来るとは」
「これで最後にしてね」
脚を時折階段にぶつけてしまうが、椒図は文句も痛そうな声も出さなかった。さすが獣だ。普通の人間より治癒力が高い変転人よりも更に高く丈夫なだけはある。
「蜃には御茶は出してもらえないのか?」
「蜃がしたことを考えると、ここに居させてあげてるだけで大分譲歩してると思うけど」
「……そうか」
「マキさんも最初は僕を殺そうとしてたし、クラゲさんの両手を切断したけどね」
「そうなのか。お前も色々あったんだな。……お前は化生する前と今では、どちらの方が良かった?」
「変なことを訊くね。僕は化生前の記憶はないよ。昔のことなんてわからない」
階段を上りきりドアに手を掛け、開ける前に最後に獏はぼそりと言った。
「でも今はここが……大分大所帯になったけど、家みたい……かな」
面で半分は隠れているが口元が微笑んでいることに気付いた椒図は安心した。化生して罪人になって辛い毎日を送っていたとしたら、地下牢に行くことを決めたことを一生後悔する所だった。あの頃の少女はもういないが、今の獏には家族のような者がいる。それが知れただけで、脱獄して良かったと思う。
ドアを開けた中には蜃はいなかったが、天井の穴から屋根に出たのだろう。すっかり出入口になっている。
布団に下ろすと椒図は再び丸まって目を閉じた。
「もしかして布団小さかった?」
「いや。僕の力は閉じることだからな。寝る時も閉じてないと落ち着かない」
「そうなの……?」
「開くことはできない。閉じるしかできない。僕は弱い獣だ」
宵街を丸ごと閉じることができる椒図を弱いとは思わなかったが、謙遜かもしれない。今度こそ起こさず寝させようと、隅でうとうととしている浅葱斑に目を遣りながら獏は部屋を出た。
外の世界は夜が明け朝となり、獏の首に冷たい首輪が嵌められた。この冷たい重みも随分と久し振りな気がする。
「体調はどうですか?」
「うん。ちゃんと動けるよ。力を使う余裕はまだあんまりないから、しっかり食事しないとね」
灰色海月は頷き、灰色の傘をくるりと回した。一瞬で切り替わった視界には学校があった。丁度登校時間のようで、同じ服を着た少年少女達が校門に吸い込まれていく。
それらを見下ろしながら、見晴らしは良いがアパートの屋根の上に場所を移すのは目立ちやしないかと獏は周囲を見渡した。
願い事の依頼をした少女も校門を潜るのが見えた。どうやら一人のようだ。登校は恋人と一緒ではないらしい。
「まず恋人のカレを見つけて、様子を見よう。共学校で異性に近付くなっていうのは難しいと思うんだよね。どうしても話さないといけないこともあるだろうし。教員はセーフなのかな? 聞いておくのを忘れたな」
久し振りの善行はやや不備があったが、何とかなるだろう。獏は手を差し出し、灰色海月が手を置く。
登校者が疎らになった頃に屋根を蹴り、少女のいる教室の窓まで跳び上がった。まだ始業の鐘は鳴っていないが、少女は一人で誰とも話さず席に着いていた。
「学校ではカレとあんまり話さないのかな」
別のクラスというわけではなく、同じ教室に恋人の少年はいた。大人しそうな印象の少年だった。少年は友人と談笑しているが、相手は女子生徒ではない。
授業が始まると暇になるかと思ったが、どうやらグループ課題のようで何組かに分かれて集まりだした。少女とカレは違うグループのようだ。男女混合なのでカレのグループにも女子生徒がいる。楽しそうにグループで話し合っているが、それを少女が横目で見ていた。
「成程ね……」
指で作った輪を教室に向けて覗き、獏は頷いた。この程度の会話でも疎ましく思っているらしい。
「昼休みまで暇だね。先に買物済ませる?」
「買った物を持ち歩くのは大変だと思います」
折り畳んだ紙を取り出し、獏の前に広げる。買物メモのようだ。製菓材料の他に、料理の材料も少し書かれている。
「結構あるね。お米は嵩張りそうだな……」
「お米はスミレさんのリクエストです。……ウニさんのリクエストのリクエストです」
「ん?」
考え直して言い直すが、言い直された方がよくわからなかった。
「キャベツ炒飯の材料だそうです」
「ああ、前に言ってたあれか。何だろうって僕も気になってたんだよ。確かにメモにもキャベツがあるね。……お米もキャベツも嵩張るし後で買おうか」
メモの内容を頭に入れ、彼女に返す。宵街の供給が止まってしまうと予想以上に不便なのだと知った。最後に頼んだ供給は鼈だったのだろうか。宵街に何と思われているか急に不安になってきた。
良い天気なので眩しいが遠くの空を見上げながらのんびりと話していると、頭にぽこりと小さな衝撃が走った。
「…………」
頭を押さえて見上げると、願い事の契約者が片手を上げて立っていた。
「真面目にやってください」
「僕を見つけるなんて凄いね。初めてだよ」
「さっきからカレに女子が話し掛けてるのわかってますよね? 早く遠くに飛ばしてください」
「ちゃんと見てるよ。まだ様子を見てる最中だから、後で纏めてやるよ」
「晩御飯の相談なんてしないで、働いてくださいね」
溜息を吐き、少女は窓を閉めた。まだ授業中だが、グループ課題中は立ち歩いても怪しまれない。まさか居場所に気付かれるとは思わなかった。
「偶にいるんだよね。目敏い人間」
気配は消しているのだが、日中はそれは完全ではない。黒衣は陽の下で紛れられない。そんな時に違和感に気付く人間がいる。堂々と姿を現している時ならともかく、隠れている時に見つけられるのは迷惑な話だ。
暇を持て余しながら昼休みとなり、少女は机に弁当を広げた。女友達が一人、椅子を運んで来る。友達同士で食べるようだ。恋人の少年も男友達と共に教室を出て行く。一緒に昼食を取らないらしい。
「学校では付き合ってることは秘密にしてるのかもね」
少女は置いておき、少年の後を追うことにする。食堂に入って行く友達とは一旦別れ、少年はトイレに向かった。
「少し話を聞いてみようか」
食堂の裏手にある所為かトイレを利用する生徒は他にいないようだった。出て来るのを待ち、少年を呼び止める。黒い動物面を被った妖しい人物が目に入り少年は顔を逸らした。
「ちょっと聞きたいことがあるんだけど、いいかな?」
「…………」
関わりたくないと言うように足早に去ろうとするので、腕を掴んだ。
「不審者……!」
「願い事を叶える獏の噂話、聞いたことない?」
「……獏?」
怪訝な顔をし、少年は考える。女子生徒からそんな話を聞いたことがある気がした。
「それが何か……?」
「その獏が僕だって言ったら、信じる?」
「変質者……?」
「駄目だな。話を進めよう。君は今、付き合ってる女の子がいるよね?」
「えっ……!? 何でそれを……」
明らかに途惑い、はにかむように顔を伏せた。
「学校では皆に秘密にしてるの?」
「騒がれて揶揄われても困るので……」
明らかに妖しい獏を前に、少年は素直に答える。誰でも良いから彼女を自慢したい気持ちがあったのだろう。学校では誰にも言えず溜まっていたようだ。秘密にしているのなら、教室で会話をしていた女子生徒も少年達が付き合っていることを知らないだろう。知らないのに邪険にされるのは少し可哀想だ。
「そっか。彼女のこと好き? 可愛いと思う?」
「そ、それはもう……初めての彼女だし、謙虚で可愛い……」
「謙虚?」
首を捻るような単語が出て来たが、少年の前ではそうなのかもしれない。若しくはこの少年も盲目になっているのか。
「君には一つ言葉を教えてあげよう。全ての肯定が優しさではないよ」
「……?」
「難しかったかな?」
少年は首を傾げた。
獏は手を離し、一歩下がる。
「昼食前に呼び止めてごめんね。質問に答えてくれてありがとう」
「は、はあ……」
何が何だかわからず、少年は眉を寄せながら急いで走り去った。
「私もよくわからなかったです」
背後で灰色海月も小首を傾ぐ。
「そう? 悪いことは肯定しちゃ駄目だよ、ってことだよ」
獏は灰色海月の手を取り、人気の無い校舎の裏まで跳ぶように走った。薄暗い校舎裏の陰で壁に凭れ、腕を組む。灰色海月も傍らに並んだ。
「近付く女の子を皆遠くへ遣るなんて大変だから、契約者の彼女を遠くに遣れば解決だと思ってたけど、思ったよりカレが普通だったから他の解決法を考えた方がいいかな」
「そんなことを考えてたんですか?」
「視界に入らないようにって言ってたからね。彼女を遠くに遣れば視界に入ることはないでしょ?」
「理屈ではそうですが……屁理屈じゃないですか?」
「ふふ。今までもそうだったでしょ?」
確かに否定はできない。今までもそうして人を喰い物にしてきた。
「――でもカレがあまりに普通だったから、普通に好きな子が姿を消すのは、少し可哀想かなって」
「貴方から可哀想なんて言葉が出るとは思わなかったです」
「カレが可哀想ってだけで、彼女の方はどうでもいいけどね。彼女にとって痛手になりそうな代価を食べようと思ってるし」
「それは可哀想ではないんですね」
「クラゲさんを傷付けた仕返しだから。何処が謙虚だよ」
不満げに溜息を吐く獏の横顔をちらりと見、灰色海月は少し嬉しく感じた。仕返しは陰湿だが、自分のために怒ってもらえるのは何だかむず痒い気持ちだ。
昼休みが終わる頃に昼食を摂っていないことに気付いたが、午後の授業が始まるので昼食は抜きにした。願い事を叶えるまでの辛抱だ。
午後も退屈に空を見上げ一日の授業が全て終わると、ここで初めて恋人の二人は鞄を持ち一緒に教室を出た。下校は一緒なのかと思えば、どうやら部活に行くらしい。昼食を抜いた獏はそろそろ何か口に入れたいと思い、仕方なく校門が見えるアパートの屋根に移動した。部活も観察した方が良いのだろうが、校門で下校を待つことにした。
想像以上に体力が失われている。丸一日動き回るのはまだ体に負担だったようだ。動きがやや鈍っていることに気付き、灰色海月は何か食べ物を買って来ると言い足早に行ってしまった。
(心配されてる内は僕もまだ非力だね……)
視界に戻って来た灰色が入り、道の陰に飛び降りる。すぐに手を取り、屋根の上に舞うように戻った。屋根に腰掛けて灰色海月はコンビニのビニル袋からおにぎりを取り出す。
「文字は読めた?」
「漢字はまだ……」
平仮名で『しゃけ』と書かれたおにぎりを受け取り、獏は笑った。漢字を覚えるのは時間が掛かりそうだ。
陽も暮れ始めると、漸く二人は校門から出て来た。他の生徒は疎らで、知り合いに会う可能性も低いのかそのまま二人で帰路についた。
獏は灰色海月の手を取って屋根を飛び降り、気付かれないように後方から追う。
家の方向が逆なのだろう途中で二人は別れ、獏は目立つクマのぬいぐるみが付いた鞄を提げる少女の方を追う。一日観察していたが、少年がモテているという印象は受けなかった。精々友達の範疇だ。話し掛けやすいのだろう。どう願い事を叶えるべきか考えながら、角を曲がる少女に付いて角を曲がった。
「……あれ?」
だがそこには誰の姿もなかった。
「別の解決法と言いながら、やっぱり契約者を遠くに飛ばしたんですか?」
「違う……。僕は何もしてない」
角を曲がり数秒間視界から外れたが、走ったとしても次の角まで辿り着かないだろう。ならば近くの家の中にと思ったが、これも気配がない。人の気配もそうだが、刻印も感知できなかった。
「自力……若しくは何らかの要因で契約の刻印を解除できるならスミレさんに教えてあげたいくらいだけど、そんなに簡単に解除できるなら問題だよね。クラゲさんはどう? 刻印を辿れる?」
「……いえ、辿れません」
「刻印を解除する一番簡単な方法は死ぬことだけど……近くに死体がないか探してみよう。その場合殺された可能性もあるから、クラゲさんは僕から離れないでね」
「わかりました」
と言ってもここは閑静な住宅街だ。襲われたなら悲鳴の一つも耳に届きそうだが、怪しい音はなかった。各家の庭を覗くが誰もいない。血痕も落ちていない。家に向けて指の輪を覗いてみるが、夕飯の支度をする感情しか見えてこない。
「見つからないと食事ができないんだけど……」
「獣や変転人に連れて行かれた場合、刻印は辿れますか?」
「あんまり遠く離れると感知は難しいけど、辿れないことはないよ。そんなに遠くに行かれることはないから試す機会はないんだけど」
屋根の上に跳んで辺りを見渡すが、やはりそれらしき者は見つからなかった。
「願いもまだ叶えてないし、逃げるにしても不自然だよね」
「まんまと人間にしてやられたということですか?」
「うーん……その言い方は屈辱的だけど……。力を使えない以上、これ以上探すのは難しいかな。とりあえず買物をして街に戻ろう。椒図は最年長だし、もしかしたら刻印のことも何か知ってるかも」
折角の食事だったが仕方がない。もし獣が関係しているのなら、力の制限がある上に体力も残っていない今の獏では対抗することもできない。一旦街に戻る方が良い。
「そうですね。買う物はたくさんあります」
「軽くすることはできるけど大きさは変えられないから、程々にね」
「まず白い粉は何キロなら持てますか?」
「薄力粉のことだよね? 単位はキロなんだね……」
店に入るのは目立つため買物は灰色海月に任せようと思っていたが、一人で買物をさせると大変なことになりそうだった。獏も動物面からサングラスに装備を変え、中に入ることにする。
陽も落ち夕飯の材料を買うには少し遅い時間だったため、小さなスーパーマーケットはそれほど混んでおらず安心した。見たことのない知らない商品が幾つも陳列されており目的の物を見つけるのは苦労したが、色々と見ることができて興味深かった。灰色海月はスイーツの棚に齧り付いて暫く離れなかった。
メモに書いていた物を買い終え、カートに積載したまま外に出る。軽くできるとは言えあまりの量に手に提げることは諦めた。物陰でそのまま傘を回すことにした。
「もう一箇所寄りたい所があるんだけど、すぐ終わるから待ってて」
「一人で大丈夫ですか?」
「御使いくらい一人でできるよ」
そういう意味ではなかったが、荷物を一人で持つこともできない灰色海月は仕方なく店の横で待つことにした。もし願い事の契約者が誰かに襲われていたのだとしたら獏も襲われる可能性がないとは言い切れない。その心配だったのだが、付いて行った所で灰色海月はやはり非力で、蜃に襲われた時のように何もできないだろう。
獏は言った通りにすぐに戻ってきた。手に何やら紙袋を提げている。何か買ってきたらしい。
「お待たせ。ぎりぎりだったけどお店がまだ開いてて良かった。それじゃ帰ろうか」
サングラスから動物面に被り直す獏を待ってから灰色海月は灰色の傘を回し、ビニル袋に詰めたカートの中身だけを共に転送した。
石畳に大きな袋が幾つも転がる。先に獏の首から首輪を外し、灰色海月は明かりの灯る古物店のドアを開けた。
「――マキさん、良い所にいました。荷物を運ぶのを手伝ってくれますか?」
「随分買ったみたいですね。わかりました」
店の奥で古書を読んでいた白花苧環は本を置いて立ち上がり、店を出てぴたりと足を止めた。すぐに再び歩き出すが、思いの外荷物が多くて驚いてしまった。
全てを台所に運び込むと手が少し赤くなっていた。獏は灰色海月と白花苧環を促し、二階へ上がる。獏の部屋の方のドアを開けると、椒図は変わらず丸まって眠っており、浅葱斑も部屋の隅でまだ固まっていた。まるで蛹のようだ。
「蜃は?」
「……屋根の上じゃないですか?」
浅葱斑は漸く動き、這って部屋の真ん中に出て来た。
話し声に気付いた椒図は目を開け、ゆっくりと身を起こす。まだ少し寝惚けているようだ。
獏は床に木箱を置き、持って来た紙袋から大きな白い箱を取り出して載せた。天井の穴を見上げ、軽く床を蹴って屋根に上がる。屋根の天辺に蜃がぼんやりと街並みを眺めながら座っていた。
「蜃。意識ある?」
「何だその確認の仕方」
「椒図を驚かせる物を買って来いって言ってたでしょ? 見なくていいの?」
「……俺は歓迎されないだろ」
「不貞腐れてるの? 折角買って来たのに」
「……じゃあ、見るだけ。そんなに言われたら……仕方なくだからな!」
「はいはい」
適当に相槌を打ち、獏は穴から飛び降りる。蜃も躊躇いながら穴から飛び降りた。部屋には灰色海月の姿があったので彼女とは距離を取り、蜃は椒図の方へ行く。
「椒図はこれも初めて見るはずだけど、食べ物だよ」
白い箱を開け中身を取り出す。それは真っ白なクリームで彩られ、苺がたくさん載ったホールケーキだった。
「苺のケーキだよ。洋菓子はきっと知らない物の方が多いと思って買って来たんだ」
「そんな白い……ケーキ? は初めて見た。シフォンケーキはカステラのようだと思ったが、同じケーキと言うことは、カステラのような物か?」
「別物だと思った方がいいよ。八等分に切るね」
包丁を取り出し、綺麗に八つに分ける。お好み焼きのように引っ繰り返すのは苦手だが、切ることは問題ない。
蜃は辺りを見渡し、何やらゆっくりと指を折っている。
「八、って……まさか俺も?」
「何で椒図より君が驚いちゃってるの? 食べないなら別に食べなくてもいいけど」
「……食べる」
皿を渡され、蜃はベッドに座った。出す茶も菓子もないと言われたので、このケーキも見るだけだと思っていた。ケーキは食べたことがなく味はわからないが、甘い菓子であることはわかる。
「良かったな、蜃。獏は優しいな」
「優しいわけじゃないんだけど」
皿にケーキを分けながら獏は小さく息を吐いた。この街のことを一番理解しているのは蜃だ。この街を作った蜃からはまだ何かと聞くことがあるだろう。まだ蔑ろにするべきではない。先代の獏や毒芹の件はあるが、今は表面だけでも友好的に接することを選んだ。
「スミレさんとウニさんにも届けてきます」
「うん。ありがとう」
ケーキの皿を二つ持ち、灰色海月は部屋を出る。
獏も皿を持って椒図の横に椅子を出した。
「ねえ椒図。少し訊きたいことがあるんだけど、いいかな?」
「ケーキという物は美味しいな。僕にわかることなら答えよう」
左手で大事に小さく切って口に運びながら、椒図は獏に顔を向ける。
「契約の刻印のことなんだけど、契約を完了するか死ぬ以外に感知できなくなることってある?」
先程の消えた契約者の話を語ると、椒図はケーキを食べながら少し眉を寄せた。
「契約の刻印は元々獣が変転人を従わせるために作った物らしいが、それは知ってるか?」
「初めて聞いた。今の使い方しか知らない」
「そうか。とにかく獣が変転人に施す目的だったんだ。だが変転人は刻印がなくても従順に言うことを聞いてくれるとわかって、それは廃れていった。罪人の烙印やそこの白いのの首輪のように痕が残るほど強い力を必要としない契約の刻印は、無色の変転人にも扱えると知られて無色の中で広まった。有事の際には何か役に立つかもしれないからな。特に目的があったわけではない」
「へぇ、獣が教えたわけじゃないんだね。自由だなぁ……勝手に獣に紐付けてくる変転人もいるし」
「それはあまり無い例だと思うが……何かされたのか?」
獏の軽い態度から大事には至っていないと察して椒図は苦笑する。
「獣は皆適当だからな。今の宵街は狴犴が仕切ってるが、選挙が催されたわけでもない。志を共にする者はいるが、勝手にやってるだけだ。僕は気が乗らなかったから傍観してるが」
狴犴と椒図は兄弟だということを思い出し、兄弟でも考え方は違うのだなと獏は思った。兄に捕まって弟が地下牢に入れられるとは皮肉だ。
「話が逸れたな。それで契約の刻印は普段は使用する場面もないが、獏の善行とやらには必須のようだな。……結論から言うと、契約の刻印は体内に取り込んで刻むものだから、契約の完了か死ぬ以外にそれを取り除くことはできない。契約内容の変更なら可能だが」
長い話だったが、刻印はやはり解除できないようだ。
「消えたことは不可解だが、死んだと考えるのが一番自然だな」
「そう……。久し振りの食事だったのにな」
「ケーキは食事に含まれないのか?」
「たぶん力が強くなった所為だと思うんだよね。人間の食べ物を食べても回復しきらない」
力が強くなった所為なのか、強くなった力を支えるために体が変化したのか。獏は自分のことをよく知らない。
獏が俯くと、椒図は励ますように微笑んだ。
「次は良い物が食べられるといいな。困ったことがあれば僕も力になる」
「ありがと――」
椒図との会話に気を取られていた獏は、ケーキに忍び寄る手に気付くのが遅れた。
「――苺!」
ケーキに載っていた大きな苺がひょいと攫われ、蜃の口に吸い込まれた。黙々と咀嚼している。
「この苺、美味い」
「君、神経図太過ぎない? もう一度落ち込まされたいの?」
指に付いたクリームをぺろりと舐め、蜃はそっぽを向いた。
「苺を取るなとは言われてない」
「じゃあ君のお皿にまだ残ってるケーキを全部取ってあげようか」
「!」
蜃は慌てて自分の皿を引いた。
「獏は苺が好きなのか? 僕の分をあげよう」
「そういう問題じゃないの。人の物を勝手に取るのが駄目なの。椒図は黙ってて」
獏が一瞬目を離した隙に、蜃は床を蹴り皿を持ったまま天井の穴から外へ出た。その後を獏が追う。
騒々しく嵐のように飛び出した二人をぽかんと見上げ、もくもくとケーキを食べながら、この部屋の最年少である白花苧環は呆れた。
「子供の喧嘩ですか……」
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます