16-おはじき
窓から常夜の闇が覗く誰も来ない店の二階で、獏はベッドに横になる灰色海月に絵本を捲りながら読み聞かせていた。
腹を撃たれてまだ安静にしていなければならないので、良い機会だと彼女に文字を教えることにした。漢字は難しいが、まず平仮名と片仮名だけでも覚えられれば、小さな子供からの願い事くらいなら読めるようになるだろう。言葉自体は理解しているので、音と文字を一致させるだけで良い。似た形の文字は苦戦しているが、物覚えは良いと言えた。
灰色海月が動けなければ願い事の手紙も拾いには行けない。その間も投函されているかもしれない宛先の住所が書かれていない手紙は人間に回収され、謎の手紙として首を捻ることになるだろう。廃棄されなければ、灰色海月が動けるようになった時にでも回収する。
絵本を一冊読み終え、閉じて次の絵本を手に取る。店にあった古い絵本だが、保管の状態は良い。
「次を読む前に、少し休憩しようか」
「はい」
身を起こそうとするので、支えながら背にクッションを入れる。傷に少し表情を歪めるが、クッションに凭れるとすぐに落ち着いた。傍らに置かれたカップを取り、獏の淹れたハーブティーをゆっくりと飲む。
休んでいると、誰も来ない店にノックの音が響いた。階下は店なので自由に立ち入りできるが、二階まで来てノックする者に心当たりはあまりない。獏が立ち上がりドアを開けると、至極色の青年が立っていた。その姿を視界に入れた灰色海月はカップを置く。
「暇なんですか?」
「クラゲの作った御菓子を代わりに届けただけなのにその言い草」
「クラゲさんはまだ安静にしてないといけないからね、代わりに行ってもらったんだよ」
獏が苦笑し付け加えるので、灰色海月も軽く頭を下げた。
「そうだったんですか。それは御手数を掛けました」
灰色海月の作った大量のシフォンケーキは、無事に
「ついでに袋詰めと接客の手伝いもさせられました」
「丁度忙しい時間だったんだね」
一旦部屋から出て、獏は椅子を持って戻ってくる。黒葉菫も座るだろうと持ってきた。
「紅茶がいつもと違う匂いですね」
「ああ、今日はレモンバームティー。ハーブティーだよ。不安を和らげてリラックスさせる効果がある。飲む?」
傍らのティーコジーを抓み上げ、ティーポットを指す。
「マレーバクの淹れた物なので、味の保証はしません」
「え!? 不味かった?」
「三十点です」
「良かった、マイナスじゃなかった」
何点満点なのか知らないが、百が満点ではないのか。低い点数だと思ったのだが、何が良かったのかと黒葉菫は首を捻った。出された椅子に座りながら、とりあえずハーブティーを貰う。
「毎日寝てて暇そうだな」
「動けるのに暇な人には言われたくないです」
「スミレさんの腕はもう治った?」
「はい。御陰様で」
ベッドの上から動けない灰色海月はやや不満そうだ。絵本を読み聞かせてやるだけでは動きもないので退屈しているのだろうと、獏は再び部屋を出て行った。
不思議そうにしながら出入口に目を向けて停止する灰色海月と黒葉菫の前に、サイドテーブルを運ぶ獏が現れる。ベッドの脇に机を置き、小さな袋をかしゃんと載せた。
「遊ぶ物があんまりないんだけど、チェスは二人でする物だし、これなら三人でできるかなって」
袋を逆様にすると、中から平らで小さな硝子が零れた。色取り取りの円い硝子に、灰色海月は興味津々で身を乗り出す。黒葉菫は何なのか理解した。
「おはじき、ですよね?」
「うん。クラゲさんも退屈だろうし、簡単なゲームをしよう」
「ルールは知らないんですが」
「色々あるみたいだけど、勝負できそうな簡単な遊びを考えたから」
灰色海月は不思議そうに一つ抓み、明かりに透かして見ている。
「基本的に名前の通り弾く物だから、指で弾いて飛ばす。今回は持ち色を選ぼう。好きな色を一色選んで」
「では私は黄色を」
透かして見ていた黄色が差すおはじきを見せる。
「じゃあ……緑で」
「僕は赤にするね」
他の色は袋に戻し、選んだ色をそれぞれ五個ずつ残した。
「順番に一つずつ、自分の色のおはじきを弾いて、他の人のおはじきに当てて落とす遊びをしよう。落ちたおはじきは自分の得点に、自分の色を落とした場合はそれは捨てる物とする。最後まで残った色の人は……そうだな、五点獲得にしようか」
「当てて落とすのはビリヤードみたいですね」
「わかりました。マレーバクには勝てると思います」
「凄い自信だね」
十五個のおはじきを纏めて手の中で振り、机の真ん中にばらばらと落とした。転がって机の端に落ち着く物もあるが、落ちなければ続行だ。
「スミレさんの緑が既に落ちそうです。狙い目ですね」
「弾く順が重要か……」
じゃんけんの結果、黒葉菫は三番目になった。彼は頭を抱えた。
「最初が良いか悪いかまだわからないけど、僕が一番だね」
「バク科バク属のマレーバクは四足歩行なので、コントロールができません」
「いや僕は二足歩行だから」
赤いおはじきに指を当て、狙いを定める。おはじきは大きさが一定ではない。大きめの物を見つけて狙う。的は大きい方が当てやすいはずだ。机の端に少し頭が飛び出している緑のおはじきは確かに落ちそうで狙い目ではあるが、自分のおはじきも勢い余って落ちる可能性がある。
力加減を誤らないようにしないとと考えながら、慎重に指で弾き飛ばした。おはじきが固まっている場所にかちんと当たり、止まる。
「あ」
「勢いが弱いですね。結構力を入れてもいいってことですか」
三番目に打つ黒葉菫が今できることは、先の二人を観察することだ。弾く指の勢いとおはじきの滑り方……植物だった頃は根を張り動くことができなかったので、専ら近くを通る人間を観察していた黒葉菫は、観察が得意だ。と自分では思う。
「私の番です。あのスミレさんを奈落へ落とします」
「奈落……?」
ベッドの上から腹が痛まない程度に身を乗り出して落ちそうな緑色に狙いを定め、先程の獏の勢い不足を鑑みて力を籠めて弾いた。
「――っだ」
力を受け過ぎたおはじきは黒葉菫の額に直撃した。
「あら」
勢いよく跳ね返った黄色いおはじきはコンと床に落ちた。
「……強過ぎる」
額を押さえて蹲った。思い切り跳ね返ったので、相当な威力だったはずだ。
「思ったより飛びますね」
「飛ばすんじゃない。滑らせるんだ。手本を見せてやる」
おはじきが固まる場所へ向け、指を構える。固まっていれば多少力を入れ過ぎても止まってくれるだろう。そして上手くいけば大量得点も狙える。獏も最初に固まりに向けて打っていた。狙いは同じだ。できるだけ黄色を落とせるように狙いを付けて弾く。
「――あ」
「何の手本なんですか? 止まってますが」
場外に飛ばさないようにと力を緩めたが、緩め過ぎたようだ。獏と同じ失敗を犯すとは、観察の意味がない。
「ふむ。僕の番だね。いいことに気付けたよ」
「いいこと……?」
「何ですか?」
「教えなーい」
人差し指を口元に当て、くすくすと笑う。
「狡いです。バク科バク属の四足歩行マレーバク風情が」
「どんどん盛るなこの人……」
「教えてほしい?」
何か重要な情報を掴んでいる、と二人は思った。
「負けても罰ゲームとかはないんですよね? だったら別に」
「罰ゲーム? 考えてなかったけど、何かする? 最下位は勝者の言うことを何でも聞くとか?」
「だったら教えてください。公平にいきましょう」
「公平……ね」
罰ゲームがあるなら話は変わってくる。適当に弾いている場合ではない。いや本気で弾いてはいたが、緊張感が違う。
獏は楽しそうに笑い、先程床に転がったおはじきを拾って見せた。
「おはじきって、よく見ると片面だけ凸凹してるでしょ?」
「……摩擦!」
灰色海月と黒葉菫は同時に声を上げた。机に接地する面の大きさが違う。大きいほど摩擦も大きい。赤と緑の一打目のおはじきを確認する。どちらも平らな面が下になっている。灰色海月が弾き飛ばした時はおそらく凸凹の面が下だったのだ。机上に残るおはじきの表裏の向きはバラバラだ。自分の打つ物と落とす物の向きを見て力を調整する必要がある。
「今度は落とす」
獏は狙いを定め、一打目より強い力で弾いた。
緑のおはじきが落ち、ころころと転がった。
「お見事です」
灰色海月は素直に感嘆の声を漏らした。
「スミレさん狙いですね。わかりました」
「何で俺?」
机上の色の数を確認し多い色から落としたのだが、狙っていると思われたらしい。獏は微笑み、何も言わず促した。
灰色海月はどうしても端にある緑を落としたいようで、再びそれを狙う。摩擦も考慮し、力を調整する。黒葉菫は念のため額を手で押さえた。
「――っが」
顎に直撃した。
「惜しいです。高度は下がりました」
「惜しくない! 高度ゼロにしろ。俺を狙うな」
額に当てていた手を顎に下ろして押さえる。
獏は口元を押さえて顔を逸らして笑っている。肩を震わせるほど笑う所は初めて見た。こちらは固い物が固い所に当たり涙が出そうだがと、顎を摩りながら転がった黄色いおはじきを拾う。
「クラゲ……馬鹿力……」
「すみません……」
「謝られるとは思わなかった」
「クラゲさんは素直だから」
一頻り笑った獏は呼吸を整えて平静を装った。動物面の下ではまだ笑いを堪えているかもしれない。
「……黄色は端の緑と距離がある。その所為で力を入れ過ぎるんだろ。もっと近い所を狙え、クラゲ。赤が狙い目だ」
「へえ。二人で僕を狙うの?」
「残ってるのが一番多いのは赤です。得点を得てるのも。最後まで残させないためです」
「不本意ですが、四足歩行を跪かせましょう」
「ねえ四足歩行を跪かせるって何?」
謎の文言は置いておき、黒葉菫は近い位置にある赤色を狙う。自爆を続ける黄色と違い、確実にコツを掴んでいる赤は危険だ。ここで一個は落としておきたい。
「――よし」
狙い通り赤が落ちる。これで獏とは引き分けだ。
続けてすぐに、獏は緑を狙った。端にある緑は灰色海月のように自爆の確率が高いので無視だ。それをわかって黒葉菫も手を付けていない。手を付けようにも少し机上から飛び出しているので、弾くのも難しいだろう。安全な位置から確実に点を稼ぐ。赤を弾き、仕返しとばかりに緑を落とした。
その流れに続こうと灰色海月が指を構えるので、黒葉菫は立ち上がった。そして部屋の隅へ行った。
「警戒し過ぎじゃない?」
「いえ、二度あることは三度あるかもしれません」
今度の狙いは端の緑ではなく、おはじきの固まりだ。灰色海月も考え直した。
「いきます」
また強めに弾くが、今度は固まりにぶつかり、複数のおはじきを散らした。
「――おっと」
勢いよく飛んだ一つが獏の面に当たりそうになるが、手で受け止めた。何故当たらない? と黒葉菫は思った。
「四つ落ちたね。黄色一つと……赤二つ、緑一つかな?」
「よくやった、クラゲ」
「距離の所為で格好つかないよスミレさん」
机の前に戻り、何事もなかったように黒葉菫は指を構えた。これで机上に残る色の数は二個ずつと揃ったが、一気に複数を落とした灰色海月の得点が多くなってしまった。
机上の数は皆同じだが、手駒はあと二個しかない。慎重に向きと力を調整する。
「あっ」
「私の上に乗らないでください」
「滑った……」
素通りで落ちなかったことは良しとしたいが、上に乗った場合はどう弾けば良いのか。
「ふふ。じゃあ下ろしてあげようか」
積まれたおはじきは赤からは少し距離があるが、獏は一度も狙いを外していない。初手は力が足りず寸前で止まっていたが、これを積まれたまま二個落とされてしまうと順位が入れ替わる。
「……ん」
「まさかここで外すとは」
「下ろしてあげようか」
「ああぁ……」
灰色海月に復唱され、獏は面を手で覆った。
「結構……感情、出ますね……?」
面の所為で表情は見えないが、灰色海月や黒葉菫よりも感情が豊かだと思う。
「え? そう……?」
「顔に出るからお面を被ってるんですか?」
「……そういうわけじゃないんだけどね。あんまり人に晒すものではないから」
「そうです。今スミレさんが気にしないといけないのは、自分の命です」
「重いって」
灰色海月が指を構えるので、黒葉菫も手を構えた。動きが追えれば受け止められるはずだ。
「端にも近付いてきたので、いけそうです」
「赤狙いって言ったのに……」
と言うことはきっとまた黒葉菫におはじきが突っ込んでくるだろうと、彼は手元に集中した。
乗られていない無事な黄色で狙いを定める。
先程は偶然ではなく、漸くコツを掴めたらしい。おはじきは飛ばず、だが狙いは少し逸れて赤を弾き飛ばした。勢い余った黄色は端に引っ掛かる緑を道連れに床を叩いた。
「なっ……また複数……」
「やりました。遂に端の緑を奈落に落としました」
「ふふ。おめでとうクラゲさん」
獏は小さく拍手をする。
「これ、俺はどうすればいいんですか?」
緑のおはじきはもう黄色に乗っている物しかない。
「黄色に指が当たらないように弾くといいよ」
「難しい……」
とは言え乗せたのは自分だ。どう足掻いても下にある黄色は落とせないので、赤を狙う。黒葉菫が勝つにはもう机上の最後の一つになるしかない。赤を落とし、黄色からできるだけ距離を開けることが求められる。まさかおはじき遊びで頭を使わされるとは思っていなかった。いや、頭で考えるより力で押し切っている灰色海月が得点を持って行っているのだから、ごちゃごちゃと考えない方が良いのかもしれない。
上に乗った緑は高さがあることから、下手に力を籠めると思い掛けず飛ぶかもしれないとつい力を緩めてしまった。
「っ……」
黄色の上からは降りたが、赤は少し動いただけだった。
次は獏だ。近い緑に狙いを付けて直ぐ様弾く。緑は呆気なく落ちた。これで緑の手駒は無くなり、黒葉菫の負けが確定した。後は最後に残った方が勝者だ。
両者のおはじきの距離は近い。次に打つ灰色海月に有利だ。彼女は既にコツを掴んでいる。黄色を弾き、赤が床に落ちた。共に落ちる寸前で、初めて黄色が机上に留まった。
「勝ちました!」
「自爆がマイナス点になれば良かったのに」
「それでもクラゲさんの勝ちだよ。最下位はスミレさんだね」
「何をお願いしましょう」
ベッドの上で考え始める灰色海月を見ながら、落ちたおはじきを拾う。
「貴方が最後に黄色を落としてれば、俺が赤を落として勝てたのに」
「それだと僕が最下位になるでしょ」
口元に微笑みを浮かべながら、おはじきを袋に仕舞う。もしかしたら遊びながらではあるが、灰色海月が勝つように動かしていたのではないかとも思う。元は彼女の退屈凌ぎに始めたことなのだ。勿論それには灰色海月の力がなければ達成されないが、何処まで読んでいたのか。
「……喰えない人ですね」
「ふふ」
灰色海月が怪我をしたのは獏の所為だ。その所為で退屈な思いをさせている。その償いなのかもしれない。
一ゲーム終え、黒葉菫はハーブティーに口を付けた。ハーブティーは初めて飲んだが、思ったよりは飲みやすかった。柑橘の香りが成程落ち着く気がする。ハーブも植物ではあるが、菫でなければ口に入れることは気にしない。植物全般が駄目なら、野菜も食べられなくなってしまう。
「決めました」
敗者に願うことを決めた灰色海月は頷きながら黒葉菫を見る。
「お手柔らかに……」
「以前戴いた海月の和え物、また戴けますか?」
「……え?」
無理難題でも言われるのかと構えていたが、まさか共喰いの仕返しに用意した物を再び求められるとは思わなかった。自分とは別種の海月を補食すると言うが、異端にしか見えない。
「怖い……」
「そういう生き物もいるって少し慣れた方がいいね、スミレさんは」
獏は慣れているのか苦笑した。慣れとは怖い。
「あれはスミレさんが作ったの?」
「あ、はい……一応」
「美味しかったです」
「あ、そう……」
喜んで良いのか複雑な心境だった。
「クラゲさんがこう言うのは珍しいよ。料理が上手なんだね。僕はマイナス二十点だから」
「マイナス……?」
どんな強烈な下手物を作ったのか気になる所だったが、訊くのも怖い。このハーブティーも三十点にしては飲める物なので、相当辛口な批評なのだろうか。遊んでいる内に冷めてしまったが。
「楽しめたし、クラゲさんはそろそろ休もうかな?」
「はい」
クッションを退け、支えられながら灰色海月はベッドに横になった。普通の人間より治癒力が高いとは言え、完治までにはもう少し時間が掛かりそうだ。
机上にティーポットとカップを載せて運ぼうとする獏を手伝いながら、プリンはもう少しお預けかと黒葉菫はベッドの上を振り返る。茶が飲めるのだから、食べられそうなものなのだが。内臓の損傷も獏の力で膜を張って綴じているはずだ。
階段を下りると、黒猫が見上げていた。二階で騒いでいたので気になったようだ。その横を抜け、台所へティーセットを置いた。
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