17-宵街
黒い空に仄かな光を灯す赤い酸漿提灯が、並んでぶら下がり見下ろしている。
蔦の這う石壁に囲まれ細く曲がる石段を登っていると、壁に四角く空く穴から女が顔を出した。穴の外に吊した植木鉢に水を遣っている。その水が少し、頭に降ってきた。
「あっ……すみません」
慌てて謝る声も降ってくる。
「……あら? もしかしてスミレさんですか?」
「…………」
濡れた髪を指で退けながら、至極色の青年は空を見上げた。
「鵺様が探してましたよ。最近、
「……わかった」
酸漿提灯の続く石段を再び登り始める。
ここは宵街と呼ばれている、人の姿を与えられた生物と人間ではない獣が棲む街だ。人間の住む場所とは離れている。酸漿提灯が石段沿いに吊され、上下へ続いている。縦に伸びた街だ。宵街と言う名前だが、昼もある。ただ、昼は短い。夜行性ではない黒葉菫には眠い街だ。
獣は街の上層で生活する者が多い。皆がこの街に家を持っているわけではないが、拠点とする者は多い。鵺もその一人だ。と言っても忙しそうによく飛び回っているので捕まらないことは多いが。その鵺が探しているとは。面倒なことでなければ良いのだが。
獏が閉じ込められている誰もいない街とは違い、ここには時間の流れがある。石段沿いの石壁の低い窓から食べ物を売る姿を其処彼処で見掛けるが、賞味期限もあるし時間が経てば腐る。そこは人間の住む場所と同じだ。
昇降機の類はないので、石段を延々と登って上へ行かなければならない。獣なら直接上へ出られる扉があるのだが、変転人は下からしか街に入ることができない。上まで行くのは毎度苦労する。
その途中で、しゃんと軽やかな鈴の音が聴こえた。石段の途中に、鈴の付いた杖に腰掛け木履の足をぷらぷらと揺らす幼い少女の姿があった。
「――あ」
石壁の窓から黒くて細長い何かの串焼きを買って頬張っていた少女は、石段を上がる青年に気付いて声を上げた。
「スミレちゃん! 探してたのよ」
杖の向きを変え、石段を飛んで下りる。獣にはこう、杖を使って飛ぶ者もいる。これなら昇降機がなくても移動は苦ではないだろう。
「何食べてるんですか?」
「
蛇のような尾をぷらぷらと御機嫌に振っている。味は知らないが、美味しいらしい。
「それより、最近獏の所に入り浸ってるらしいわね。絆されたんじゃないわよね? まあ私もクラゲちゃんに訓練してって言ったんだけど」
「…………」
「でね、クラゲちゃん怪我したってことも、きっともう知ってるわよね?」
「はい。知ってます」
「暫く動けないらしいじゃないの? だから獏の善行もできなくて困るのよ」
「そうですね」
「だからクラゲちゃんが良くなるまで、代わりに獏の監視役をやってほしいのよ」
「俺がですか?」
「スミレちゃんに言ってるのよ」
串焼きを咥え、幸せそうに頬張る。
「他の人に頼もうかとも思ったんだけど、スミレちゃんが暇してるみたいだから丁度いいかなって。怪我しそうな無茶はしなくていいわ。手紙を拾って獏に届けて、首輪付けて送るだけ。簡単でしょ?」
それは一度体験したので、勝手は知っている。鵺には伝わっていないようだが、話がややこしくなるのでその時のことは黙っておくことにした。
「わかりました」
「獏が何か粗相をするようなことがあったら、何でも言ってちょうだい」
「あの、一つ訊いてもいいですか?」
「うん? いいわよ」
「あれって、本当に獏なんですか?」
鵺の御機嫌な顔が一瞬固まった。
獣の全てを知っているわけではないが、獏は本来悪夢を食べる者であり、それ以外に何か別の力があることを黒葉菫は知らなかった。罪を犯して謹慎となり夢も食べてはいけないことになっているのは知っている。その代わりに心を食べると言うこともだ。だがそれ以外にできることが多過ぎる。力が強過ぎると言った方が良いかもしれない。
鵺は串に残っていた泥鰌を歯で毟って引き抜き、石壁の窓へ串を返却する。
「……獏よ。一応ね。力が強いって言いたいんでしょ? 仕方ないのよ、あれは」
「何か知ってるんですか?」
「多少だけど。知ってるからって、無闇に言わないわよ。本人が言わない限り、私から言うものじゃないわ」
「すみません」
「一つだけ言っておくなら、あいつは相当人間が嫌いなはずだから、気を付けなさい」
人間が嫌いだと言うことは本人の口から聞いて知っている。その片鱗も自らの目で見た。力の大きさとそのことが何か関係があるのかは黒葉菫には想像が及ばないが、鵺の言い方からして何かあったことは確かなようだ。
「あのふざけたお面も、無理に剥がさない方がいいわよ。絶対怒るわ」
「少しなら見ましたけど……顔」
「見たの!? 経緯は知らないけど凄いわねお前! あいつ自分の顔が嫌いだから、見られるのも嫌うのに」
「少しなので、はっきりとは見てませんが」
灰色海月が撃たれた件で、獏は銃相手に戦うために面を外していた。動きが速い上にあれはおそらく意識的に黒葉菫の方へ顔を向けないように立ち回っていたため正面から見ることはなかったが、ちらりと見えた横顔は、嫌うような醜い物ではなかった。
「そうまで仲良くなったってことかしら? 喰われないように気を付けるのよ」
心配そうな顔をするのは、獣よりも非力な人間だからだろう。確かに本気で力を向けられれば、勝てる気はしない。
「……あ、そろそろ行かないとだわ。それじゃあスミレちゃん、後はお願いね」
宙に浮いた杖の先を持ち上げ、石段の上へ向ける。
「獏もここに棲んでたんですか?」
「あいつは宵街には棲んでないわ。人間に――ん、何でもない」
何か言い掛けるが、誤魔化すようにひらりと手を振って去っていった。やはり石段を歩いて登るより、飛ぶ方が速い。
串焼きを売る窓を一瞥した後、黒葉菫はもう少し石段を上がり、枝分かれする路地に入った。箱のように積まれた石壁の一つに、黒葉菫の棲む家がある。石段には赤い酸漿提灯が並ぶが、路地に入れば疎らに壁に打った金具に形の揃わない街灯が下がっている。
すぐにでも獏のいる街に行った方が良いのだが、その前に遣ることがある。灰色海月に頼まれた物を作らなければならない。支給品の海月を使い、和え物を作る。
注文した物を支給してもらえるのだが、作りたい物を言えば、その材料となる物を用意してもらえる。海月の和え物を作りたいと言って支給された物を合わせるだけなのだが、分量は自身で判断するので自分で料理したと辛うじて言えるのだろうかと首を捻りながら棚から器を取り出す。
毎日あの夜の街に行っているわけではないが、灰色海月は普通に食べられるくらいには回復したのだろうか。
約束の物を作り、殺風景な部屋から外へ出て掌から黒い傘を取り出す。ぽんと開き、くるりと回す。この回す動作は、空間の鍵を開けるための動作だそうだ。
一瞬の内に視界には誰もいない街が広がる。霧が立ち籠めて空を陰らせているからでもあるだろうが、同じ夜でも宵街よりこの街の方が暗い。街灯の数が少ない所為でもあるか。
黒葉菫は黒い傘を畳んで持ち、獏のいる店を見上げる。ノックをしなくても良いことはもう覚えた。
ドアを開けると、いつもの棚に囲まれた狭い通路が伸びる。奥へ進むと、机の所には誰もいなかった。途中の棚の隙間にも目を遣ったが、誰もいなかった。二階の灰色海月の部屋にいるのだろう。
二階は店ではないので、こちらのドアはノックをする。少し待った後、動物面を被った獏がドアを開けた。
「やあスミレさん。そろそろプリンを食べようと思ってた所だよ。取ってくるね」
入れ違いに階段を下りてゆく。残された黒葉菫は、変わらずベッドにいる灰色海月に目を遣った。まだ傷は癒えないようだが、まあまあ元気そうだ。
「食べる頃合いを見計らって来るとは、卑しいですね」
いや、かなり元気そうだ。
サイドテーブルにバケツを載せて運び込む獏を手伝いながら、黒葉菫も椅子に座る。
「今日も暇だから来たの?」
人数分のスプーンを置き、黒葉菫に問う。すっかり忘れる所だったと黒葉菫は鵺に頼まれたことを思い出した。
「クラゲの代わりに監視役を頼まれました」
灰色海月は手にしたスプーンをベッドに落とした。
「か……解雇ですか……?」
撃たれて動けなくては獏の監視役の務めは果たせない。できない者は用済みなのだ。
「違う。クラゲが動けない間だけだ」
「本当ですか……?」
解雇の話はされていないので、心配することはないだろう。黒葉菫が何を言っても灰色海月の不安は消せないのだろうが。
「解雇は僕がさせないけど、確かにこのままだと願いの手紙が回収されないまま溜まっていくだけだからね。一度全部回収した方がいいとは思ってたから丁度いいよ」
「手紙はどうやって回収するんですか?」
「ああそれは――クラゲさん」
灰色海月に目を向けると、渋々といった面持ちで懐中時計のような物を差し出した。蓋を開けると、ぐるりと目盛りと模様の描かれた盤があり、針が付いていた。時計のようにも見えるが、時計ではない。
「思念の羅針盤です」
軸で留められている針の中央が光っている。
「これが光ってる時は、手紙が何処かに投函されてます。この羅針盤に伝わる思念を辿り、手紙を回収して依頼者に接触します」
「つまり今、投函されてる手紙があるってことか」
「そうです」
羅針盤を受け取ると、確かに思念が読み取れた。これで場所を特定し、傘で移動するわけだ。
「願い事は何でも全部叶えるんですか?」
手紙が溜まっているなら、一度に全てを叶えるのは難しいだろう。依頼者が店で渋滞するかもしれない。
「いや。ある程度は選ぶ権利があるよ。まず未就学児の願い事は基本的に受けない。これは破棄してもらって構わない」
「わかりました」
「物理的に物が欲しいっていう願いも無視でいいよ。人間の仕事みたいなことも受けたくない」
「結構捨てますね」
「クラゲさんは字が読めないから、皆連れて来るけどね」
「……では、選別はしますが、一応全部持って帰ります」
「わかった。それでいいよ」
黒葉菫は言われたことを頭の中で反芻し、頭を下げた。
「それじゃあプリンを食べようか」
待ち草臥れた灰色海月は真っ先にスプーンを構えた。
大きな皿をバケツに被せる。少し重いが引っ繰り返せるだろう。
「待ってください。貴方はまたぶちまけそうです」
「んん」
お好み焼きをぶちまけたことを思い出して獏も手が止まってしまう。これは灰色海月の見舞いにと貰った物だ。彼女が言うなら従うしかない。
「じゃあ……スミレさんの方が手が大きいかな?」
バケツを引っ繰り返す重要任務は黒葉菫に譲ることにした。手が大きい方が安定感はあるだろう。
「俺ですか? 引っ繰り返すだけですよね?」
「零れないようにね」
緊張が走るが、何事もなく皿の上にバケツが引っ繰り返った。少しくらい躊躇するかと思ったが、黒葉菫は潔かった。バケツをそっと持ち上げると中身が横に広がったが、よくある台形の形のプリンが現れた。
「大きいです。もう少し固ければ横に広がるのを防げると思いますが、丁度いい固さです」
早速スプーンを入れて満足そうに食べる灰色海月に微笑み、獏もスプーンを入れる。黒葉菫はここで少し躊躇い、自分も食べて良いのだろうかとプリンを掬って灰色海月を一瞥する。
「うん。美味しいね」
「これがプリンですか……不思議な喉越しです。美味しいです」
三人はそれぞれプリンを突くが、獏と黒葉菫は灰色海月に譲りつつ食べ進めた。時間の止まった街では食事の必要もないので灰色海月も何も食べていなかったが、プリンを食べて少しでも治癒力がつけば良い。
食べ応えのある大きさではあったが、灰色海月なら案外と一人でもぺろりと食べ切れたかもしれない。
「それでは、手紙の回収に行ってきます。……あ、それとクラゲにこれを」
灰色海月のために作ってきた海月の和え物を渡すのを忘れていたことを思い出し、小さな器を彼女に差し出した。不思議そうに彼女は首を傾げるが、中を覗いて黒葉菫を見上げ頭を下げた。
「少し休んでからでもいいよ?」
「休んでる間にも投函されるかもしれないので、さっさと行ってきます」
「そう? わかった。行ってらっしゃい」
羅針盤を手に部屋を出る彼を見送る。
灰色海月もあまり感情を表に出さないまでも、器を大事そうに抱えて不満そうに彼の背を見送った。
「動かなかったら海月に戻ってしまいそうです……」
「それはないかなぁ」
カップにハーブティーを注ぎ、灰色海月に手渡す。万一戻ってしまうことがあっても、海月に人の姿を与えたのは獏だ、戻るのなら何度でも姿を与えれば良いだけのことだ。
灰色海月はカップに口を付け、ゆっくりと喉に通す。
「……あれ?」
「どうかしましたか?」
突然声を上げた獏を、灰色海月は怪訝そうに見た。
「いや……下でドアの音が聞こえた気がして。まだいるのかな? スミレさん」
「やはり要領が悪いですね」
何の『やはり』なのか灰色海月が自信を取り戻したようなので、それは良かったと思う。
黒葉菫なら良いのだが、黒猫が外へ出て行ってしまったら大変だ。常夜燈を首に結んだとは言え、うっかり街の端に行けば危険だ。ドアを開けて階段を見下ろすと、黒葉菫が階段を上がろうとしている所だった。
「もしかして、もう回収できたの?」
「はい。たぶん全部です」
手に何通か手紙を広げて見せる。本当に回収してきたようだ。と言うことは先程聞こえたドアの音は彼が帰ってきた音か。
「早いね」
背後で灰色海月が不安そうな顔をしていた。あまりに仕事が早いので危機感を覚えたのだろう。
「俺の前に回収してる人がいて、それを受け取っただけです」
「そうなの?」
背後で灰色海月が安心する気配を感じた。
「回収が滞ってるので、頼まれて回収したそうです」
「それは手を煩わせてしまったね……次に会うことがあったら、御礼を言っておいてくれるかな」
「はい。白なのであまり話す機会はないですが」
「白?」
「宵街に棲んでないとわからないですか」
「生憎ね」
獏は宵街には棲んでいない。それは鵺から聞いたので、黒葉菫は納得した。獏や鵺など獣達の力により人の姿を与えられた変転人は皆、宵街で生活をしている。
「宵街では俺やクラゲみたいな変転人達は色分けされてるんです。その中で特に獣の手伝いをする人達は黒、白、灰に属します。無色と呼ばれてます」
「成程。それで名前に色を冠してるんだね。知らなかったよ」
「主に性質で分けられてるんですが、黒と白は相反します。灰はその中間です」
「へぇ」
「白は罪悪を嫌うので、罪人のことも嫌いです。元々悪さをする獣も多い所為か、ハズレと言ってるのを聞いたことがあります」
「ハズレ?」
「人の姿を与えてそれが白だった場合、らしいです。なので白は孤立しがちですね。罪人の監視役に宛行われることもないです。貴方とも相性は悪いと思います」
「…………」
勝手に人の姿を与えておきながらそれを『ハズレ』とは。だが相性が悪いと言われると、あまり会いたくはないものだ。
「罪人を手伝うような手紙の回収をしてたのは驚きましたが、たぶん暇だったんだと思います」
「そんなに嫌いなら、会うことはないのかな……?」
「でもそろそろ視察が入りそうです」
「視察?」
「この間も死体を処理したので、善行に何人も死人が出るのはちょっと……。白はないかもしれませんが、監察が入るかもしれません。頑張ってください」
完全に他人事だが、仕方がない。殺めたのは獏自身だ。白という者は相性の悪い厄介そうな者だと言うことは頭に入れておく。
「クラゲさんも白って知ってるの?」
背後で無言で見詰めていた灰色海月は、聞き覚えがないか記憶を辿る。
「私は人の姿を与えられてすぐに監視役としてここに来たので、宵街のことはあまりわかりません。報告に行く時もあまり留まらないので。色分けも初耳でした」
「そうなんだね。ということは色は本人の意志とは関係なく、獣が区別してるだけみたいだね」
自分の名前に何故灰色が冠されているのか知らなかった灰色海月は、そういう理由があったのかと今更納得した。
そろそろ話を戻しても良いだろうかと、黒葉菫は手に持った手紙の封筒を広げる。
「それで、回収した手紙ですが。七通あります。今日投函されたのは一通です」
その中から一通引き抜き、獏に渡す。
「先に回収されてたので、中は確認できてません」
「うん。ありがとう」
一通の封を切り、中身を確認する。監察が入る可能性があるなら、手本のような善行らしい善行である願い事が書かれていると良いのだが。
「えっと……『殺してほしい人がいます』」
獏は頭を抱えたくなった。
「これは純然たる願い事だけど、これを受理するのは善行扱いなの……?」
「俺にはわかりません。でも願われたことなら、依頼者に対しては善行なのでは?」
「白はその辺の物分かりはどうなの?」
「俺とは正反対の所属なので、俺にはちょっと」
「駄目な気がしてきたよ」
広げられている手紙から別の一通を適当に引き抜いて、そちらも封を開ける。投函から時間が経っていようが、先程の手紙よりは安全な願い事であることを祈る。
「『いなくなったペットを見つけてください』……これだ。これにしよう」
「わかりました。依頼者を連れてきます」
「この願いで死人は出ないと思うんだよね」
「ペットが虎だったらどうしますか」
「怖いこと言わないでよ」
黒葉菫は頷いて、残りの手紙を置いて再び部屋を出る。
獏も残りの手紙を開けながら、階下へ行く。後はどれも代わり映えしない内容だった。殺してほしい人がいるという手紙は気になるが、今は受けている場合ではない。それに誰かを殺すことの代価は重い。いつものように心をほんの少しだけでは済まない。命を奪う場合は、依頼者の命を代価にする。簡単に叶えないためだ。
革張りの椅子を引いて座り、黒葉菫が戻ってくるのを待つ。が、彼が紅茶を淹れられるのか訊いていないことを思い出し、準備だけはしようと立ち上がる。客人用の椅子も出しておいた。
そうこうしていると店のドアが開く音がし、台所から顔を出す。呼び鈴も持たせていないことを思い出した。
「戻りました」
傍らできょろきょろと棚を見渡す少女がいる。ちゃんと連れてきたようだ。
それはそうとと早速黒葉菫を手招きする。
依頼者の少女を椅子に促し、黒葉菫は呼ばれた台所へ行く。
「スミレさんは願い事の契約を刻印する飲み物は用意できる? クラゲさんにはいつも紅茶を淹れてもらってるんだけど」
「紅茶は淹れたことないですね……珈琲なら淹れられます」
「珈琲か……あったかな」
灰色海月の管理している台所の棚を漁って探す。紅茶の茶葉缶はよく使うので取り出しやすい所に置いてあるが、珈琲は淹れたことがない。棚の奥にちょんと忘れられていたような、挽いた状態の珈琲が発掘された。
「あって良かった。これで刻印の珈琲を淹れて」
「貴方の分も珈琲でいいですか?」
「うん。ただ、ブラックはちょっと……」
「そんな
黒尽くめの獏は口元に人差し指を立てて依頼者の許へ戻るので、灰色海月には内緒ということかと黒葉菫は察した。確かに彼女に知れればどんな辛辣な言葉を投げられるかわからない。
革張りの椅子に再度腰掛けた獏は、落ち着かなさそうにきょろきょろとする少女に向き合う。
「待たせたね。君の願い事を聞こうか」
「あっ……はい。あなたが獏……ですか?」
「そうだよ」
「あの、ペットを……飼ってる猫を見つけてほしいんです」
一先ずペットが虎ではないことに安心した。
「それはどんな猫?」
「黒い猫です。大人しい方だと思います。勝手に家を出るような子じゃないんですが……うっかり出てしまったみたいで」
「へぇ。ここにも黒猫がいるから、他人事ではないね」
「え? そうなんですか?」
強張っていた少女の表情が綻ぶ。余程猫が好きなようだ。緊張を解すためにも、連れてくれば良いかと白いリボンを付けた黒猫の姿を探す。
立ち上がって薄暗い棚の間を覗いていくと、影に同化しそうな黒い体を見つけた。抱き上げて机上に連れて行く。
「わあ、うちの子にそっくりな子!」
「黒猫は模様もないし似るよね」
「あ、そうだ。写真」
携帯端末を取り出し、ずらりと並ぶ飼い猫の写真を見せる。確かによく似ている。
「この子が行方不明になったのはいつ?」
「一週間前です」
「結構経ってるね」
「最初は自力で探したり貼り紙をしたりしてたので……獏の話を聞いて、三日前にポストに入れました」
「ああ……それは悪いことをしたね。すぐに取りに行ければ良かったんだけど、取り込んでてね」
「いえ! 私はお願いする立場なので……でも、見つけてもらえたら」
「うん。いいよ。見つけてあげる」
机上から獏の膝へ移る黒猫を微笑ましく見守りながら、獏は台所へ顔を向けた。
「スミレさん?」
呼ばれてすぐに珈琲を淹れたカップを持って出てくる。
「すみません。タイミングがわかりませんでした」
「すぐにでも持ってきていいんだよ」
「はい。貴方の分にはミルクと砂糖をたっぷり入れました」
「たっぷり……?」
少女の前には何も入れていない珈琲とシュガーポットを置く。少女はスプーンに砂糖を二杯入れた。
獏は珈琲を飲み、咳込んだ。
「加減を……」
「甘かったですか?」
「こういう物だと思えば……」
「無理しないでください」
少女はきょとんとしながらも珈琲を飲んだ。こちらは丁度良いようだ。
何とか甘ったるい珈琲を飲み干し、本題に戻す。底に溶けきっていない砂糖が残っていた。飽和するほど入れたらしい。
「それじゃあ、見つけに行こうか」
人差し指と親指で作った輪を少女に向けて覗く。少女の中にある飼い猫の気配を記憶する。
外套の襟を開けて黒葉菫に冷たい首輪を嵌めてもらい、少女と共に店を出た。黒葉菫は黒い傘を開いてくるりと回す。
転瞬の間に景色は一変する。人通りのない住宅街だった。
「ここは君の家の近くかな?」
「はい。次の角を曲がった所にあります」
傍に立っていた電柱には迷い猫の貼り紙があった。少女が言っていた物だろう。
「猫の持ち物とか、何かあれば探しやすいんだけど、何かある?」
「取ってきます!」
少女は走って角を曲がっていく。暫くその場で待つと、鼠の形をした玩具を手に戻ってきた。
「お気に入りの玩具です」
「ありがとう」
受け取りながら、指で作った輪で周辺を見渡す。
「それで見えるんですか?」
「見えると言うか、気配を感じる、が正しいかな。僕は覗き窓って呼んでるんだけど」
「凄いんですね」
よく理解はしていなかったが、少女は期待を込めた眼差しで獏を見た。
「そんなに離れてはいないかな?」
手を下ろし、気配の感じる方へ歩き出す。
「近いけど、弱々しいね」
「えっ……け、怪我とかしてるってことですか……?」
「そこまではわからないけど、少なくとも元気な状態じゃないと思う」
「そんな……」
住宅街を進んで行くと、大きな公園が現れた。疎らに人間が歩いているので、あまり人前に姿を晒したくない獏は木立と茂みの方へ入っていく。少女は途惑っているようだが、黒葉菫は無言で後ろを歩いている。
人が足を踏み入れないような茂みの奥に、鉄柵が広がっていた。どうやらこの向こうに飼い猫はいるようだ。
「この柵、君は登れる?」
「えっ……えぇ……」
頭より高い位置まで伸びる柵を見上げ、自分の足元を見る。こんな時にスカートを穿いていた。
「よ、よし! 頑張ります!」
登れと言ったわけではなかったのだが、少女は鉄の棒を握り、大きく足を振り上げて柵に掛けた。
「あ……ああ……」
片足をぴょんぴょんと跳ぶが、地面から離れなかった。
「無理をしなくてもいいよ。大丈夫」
獏は少女の手を取り、一跳びで柵を越えた。
「うわああ!」
突然自分の身長を越えるほど宙を跳んで焦り、少女は落ち葉の積もる地面に膝で着地した。心臓が早鐘を打つ。高所から落下したのに、衝撃はあまりなかった。膝も擦り剥けていない。
黒葉菫は一人で柵を登って飛び降り、何事もなく獏の許へ行く。
その先には、忘れられたコンクリート壁の小屋があった。錆びて軋むドアを抉じ開けて中を覗く。幾つも穴の空いたトタン屋根から漏れる光の中で、一匹の黒い猫が蹲っていた。
「この子です!」
少女は急いで駆け寄ろうとするが、獏は手で制した。
「待って」
少女は逸る気持ちを抑えて何とか踏み止まった。
先に獏が目を閉じる猫に近寄り傍らに跪く。
「随分衰弱してるね」
背を撫でてやると温かく動いている。
「病院に連れて行きます」
「うん。そうなんだけど……困ったな」
考える仕草をする獏に、黒葉菫も首を傾ぐ。
「何か問題でも?」
「どうやら悪夢を見てるらしい。少し黒い靄が漏れてる」
「靄……?」
「君達には見えないと思う。獏は悪夢をそういう風に視認できるから」
呼吸の度に、猫から黒い靄がほんの少しずつ漏れるのを見逃さない。誰もいない街にいた黒猫は起きながら視る白昼夢だったこともあり膨大な靄が外に出ていたが、この飼い猫は眠っているので自分の中に悪夢を閉じ込めている状態だ。そしてその夢に囚われている。
「僕は今、夢を食べることを禁じられてるんだよね。でも食べてあげないとこの子は目を覚まさないし、このままだと衰弱して死んでしまう」
「え……じゃあどうすれば……獏なのに夢を食べちゃ駄目なんですか!?」
「きっと自分の異変に気付いて、動ける内に君から離れたんだね。飼い主想いの良い子だ」
生きていることを確かめるように黒い背をゆっくりと撫でる。
「スミレさん。食べてもいいかな? 首輪を外してくれれば、後は何とかするよ」
「それは……」
独断でどうこうできることではなかった。街の外に出ている間は罪人の首輪を外すことはできない。外せば何らかの罰がある。故意に外せば、黒葉菫にも何か罰があるはずだ。何とかするとは言うが、何とかとは何なのだ。
「見殺しにすることが善行だって言うなら、僕は悪で構わないよ。痛いのは嫌だけど。スミレさんは前に僕を庇ってくれたからね、今回は僕が無理矢理外させたとでも言ったらいいよ」
「白いのが何処かで見てたらどうするんですか……」
「その時はその時かなぁ」
少女は理解していなかったが、黒葉菫を見上げた。この人の許可がなければ猫を助けられないのだということだけはわかった。縋るような目で見詰める。
「時間がないから、早く決めてもらえるといいな」
黒葉菫は周囲を見渡した後、意を決した。首輪の鎖を引き、冷たい重りを外す。自分の銃を使える獏には逆らわないと決めたからだ。
「外した瞬間から烙印を通して宵街に連絡は行きますよ」
「わかってる」
立ち上がり、懐から透明な石の付いた杖を抜いて伸ばして備える。悪夢を食べた時の痛みは覚えている。大きく深呼吸をし、覚悟を決めた。
面をずらして猫の口元に口付け、悪夢の靄を食べる。以前の黒猫のような質量はないが、長く苦しめた上質な味がした。同時に喉の烙印に激痛が走った。
「っ……!」
面を戻して自分に杖の先端を向け、石が光る。烙印に光の膜を張り、疼きを鎮める。新品の変換石がガタガタと小刻みに震え、また割れそうだ。黒葉菫は劣化だと言っていたが、力を籠めすぎたことによる急速な劣化かもしれない。
「……っ、は……はあ……」
止めていた息を押し出すように吐く。変換石に目を遣ると、小さく欠けているのが見えた。この程度なら修理に出す必要はないだろう。烙印に指を当てると、血が付着する。悪夢をゆっくりと味わう時間もなかった。
「終わりましたか……?」
ゆっくりと様子を窺う黒葉菫に、獏は小さく頷く。黒葉菫は急いで烙印の血を拭き取って再び首輪を嵌めた。
「無茶苦茶ですよ……」
「この子が助かったんだから、いいんじゃない?」
まだ肩で息をする獏を支えながら、黒葉菫は溜息を吐く。烙印の影響を相殺するほどの力を捻出して石に込めれば、それは新品でも欠けることがあるだろう。以前は劣化だと判断したが、今のように無茶な使い方をしたのかもしれない。普通は烙印を黙らせることなんかできない。
猫はまだ眠っているが、先程と比べて穏やかな寝息だ。そっと抱き上げ、少女に手渡す。
「病院で診てもらって、しっかり食べて休めばすぐ良くなるよ」
「は、はい! ありがとうございました!」
「あ――そうそう。言うのを忘れてたけど、代価を貰わなくちゃね」
「代価……?」
「言うのを忘れてたし、首輪も外しちゃったからな……。まだ喉も痛むし、軽めの物がいいね」
「軽めの代価?」
不思議な力を使う獏の代価は、夢を食べられないと言っているのだから夢ではなさそうだ。他に何を差し出せば良いのかと少女は息を呑む。
「代価に困った時は、昨日の夕飯の記憶」
「き、昨日はハンバーグでした!」
「ふふ」
昨日の夕飯を聞かせろと言うことではなかったのだが元気良く答えた少女に微笑み、少女の目を隠して獏は面を外した。口付けると少女は驚いて硬直してしまったが、口を離して面を被り直してから目隠しを取るときょとんとしていた。
「あれ……あれ!? 思い出せない!」
「僕が君に教えてあげることはできるけど、君は漠然とした言葉だけを記憶に留めることになる。形や色や味は思い出せない」
「急に惚けたみたいです……」
「その内、思い出せないことも気にならなくなるよ。今まで食べた御飯を全て覚えてる人なんていないんだから」
「それもそうですね……」
「それじゃあ、君との契約は終わりだね。早く病院に連れて行ってあげて」
「はい!」
大きく頭を下げて、猫を抱いて踵を返して柵の前に立ち、助けを求めるように振り返った。まだ調子は戻っていないが、獏は少女の手を取り、柵を跳び越える。今度こそ少女は走り去って行った。途中で何度も振り返り、頭を下げる。躓いて転ばなければ良いが。
「……悪夢はあんな風になるんですね」
ぽつりと独り言のように漏らした黒葉菫を一瞥する。
「自力で目覚められない人を放っておくとね。獏に悪夢を食べさせないようにして、後で困らないといいね」
何か予見でもしているのか、くすくすと感情を込めずに笑う獏は不気味だった。
小屋のドアを軋ませながら閉め、手に付いた錆を払う。
「じゃあ、街に戻ろうか」
「はい」
黒葉菫は黒い傘を開き、くるりと回して街へ戻った。誰もいない木立の中なので、誰にも見られていないだろう。
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