15-勝負
静寂と霧に包まれる誰もいない煉瓦の街の中で、明かりの灯る店の中に甘い香りが充満していた。
「右から、プレーン、チョコレート、蜜柑、苺、抹茶です」
「どんどん味が豊富になっていくね」
古い置棚に囲まれた奥の机に、真ん中に穴の空いたシフォンケーキのホールが五つ並ぶ。黒い動物面で顔を覆った獏はそれを見下ろし、皿を置いた灰色海月を見上げた。
「元気がない時には甘い物だと、
「元気なく見える?」
「とても上の空です。なので、どれでも齧り付いてください」
「え、丸齧り?」
考え事をしていただけなのだが、上の空だと言うなら気を付けないとと獏は動物面の向こうで気を引き締めた。面で表情が見えないので、何かしていないと余計に上の空に見えてしまうのかもしれない。
プレーンのシフォンケーキを両手で持ち上げると、柔らかいが想像より重量があった。面の鼻の下に潜り込ませて角に齧り付く。
「うん。美味しいよ」
ふわふわと沈み込み、口が埋もれる。もくもくと食べていると、唐突に店のドアが開いた。開けた姿勢のまま、その人物ははたと動きが止まる。
「……どういう状況ですか?」
大きなシフォンケーキのホールに丸ごと齧り付く様子に、至極色の青年は軽く身を引いた。
「どういう状況と言われると……試食?」
「豪快すぎませんか。穴に鼻が刺さってますよ」
「……もしかして、杖の修理が終わった?」
シフォンケーキから鼻を抜いて置き、傍らに置かれた紅茶を飲む。人前でする食べ方ではなかったようだ。
漸くドアを閉め、黒葉菫は店の中に入る。シフォンケーキの皿の間に、短く畳まれた杖を置いた。
「また何かあれば言ってください」
「ありがとうスミレさん。助かるよ」
獏は杖を取り、先に付いている透明な変換石をぐるりと回して見る。罅などはなく、問題なさそうだ。変換石は注ぐ力の強さによって大きさを変える物だ。力が弱ければ小さい石でも構わないが、強いとその分石も大きくしないと許容量から溢れて壊れてしまう。獏の持つ杖に装着する変換石は幼児の拳程の大きさだが、これは全体から見ると大きい方だと言える。程良い大きさが見つからない場合は小さな石を幾つか組み合わせて使うことも可能だが、繋ぎ目のない一枚岩の方が安定性がある。
罪人なので力の制限はあるが、それはこの杖にも掛けられている。石の大きさは変わらないが、通常より力の許容量が低く制御されている。
「あとクラゲにも、これ」
切ったシフォンケーキと以前の菫の砂糖漬けを黒葉菫の前に置いていた灰色海月は、差し出された小さな器を不思議そうな顔で受け取る。
「何ですか?」
蓋を開けると、細長い黄色い物が入っていた。
「海月の和え物」
「何で持ってきちゃったの」
砂糖漬けの仕返しだろうが、獏は苦笑する。
灰色海月はそれが食べ物だと認識すると、指で抓んですぐに口に入れた。
「えっ……」
「クラゲさんは他の海月も補食する海月だから」
「美味しいです」
「こわ……。何て海月なんですか?」
「アトランティックシーネットル」
「なが……」
どうにも灰色海月に対する苦手意識が拭えないようだ。引いた顔をしている。灰色海月は強がっているというわけでもなく、本当にコリコリと海月を食べている。黒葉菫は眉間に皺を寄せた。
「折角来てくれたから、スミレさんもケーキを食べるといいよ」
指を差しながら味を説明する獏を見て、黒葉菫は本題を思い出した。杖のこともあるが、こっちが本題だ。
「やっと鵺を捕まえられて、この街のことを訊きました」
鵺は罪人と違って忙しいので、狙って待っていても捕まえることが難しい。思ったより早く捕まったのは、鵺が黒葉菫に雑用を頼んだからだ。それはよくあることだった。
誰もいないこの街の端はすっぱりと途切れていて、その向こうには蠢く闇があった。あれが何なのか、この街に獏を放り込んだ鵺なら知っているはずだ。
「何て言ってた?」
「まず最初に、怒られました」
「……あ、うん」
「何で端まで行ったんだと」
危ないから近寄るなと言われていたのなら、行けばそれは怒られるだろう。予想はできた。
「結果から言うと、鵺も詳しくは知らないようです」
「え?」
「この街は廃棄されてたらしいです。それを勝手に再利用してるとか」
「…………」
要するにゴミの中に放り込まれているわけかと獏は薄ら笑い指を組んだ。以前ゴミ掃除の願い事を持ってきたのは、本当は皮肉のつもりだったのではないかと思えてくる。
「この街を作ったのは、
「蜃? ここは蜃気楼ってこと? 実体に見えるけど……」
「蜃にも話を聞こうと思ったんですが、居場所がわからなくて見つかりませんでした。見つけたら話を聞いてみます」
「そっか……ありがとう。端については何もわからなかったってことだよね」
「そうです。でも作られた物なら、切れっ端があるのもわかると言うか」
「作るなら消すこともできるはずだけど、廃棄して残ってるのは実体がある所為かな?」
「さあ……。あ、霧は鵺の所為らしいです。雰囲気が出るだろうと」
「何の雰囲気なの……」
獏は呆れるが、緊張感のない雰囲気作りのためだけの物なら、気にしなくても良いだろう。視界が悪いのは不便だが、見えないことで無闇に出歩いて街の端に近付かないようにしているのかもしれない。
「端は言う通り危なそうだから、近付かないようにはするよ。クラゲさんも、いいね?」
「はい」
傍らで海月の和え物を抓んでいた灰色海月はこくりと頷いた。気に入ったらしい。
「鵺は端のことを解れと言ってました」
「解れ? 結構大事なこと言ってるよねそれ」
「そうですか?」
「……解れてるなら、いずれこの街は無くなるんじゃない?」
黒葉菫はハッとした顔をした後、ゆったりと無表情を取り戻した。相変わらず反応が鈍い。
「まあいいや。すぐにどうこうはならなさそうだし。何かわかればまた聞かせてよ。危なかったら鵺も来るだろうし」
「わかりました」
頷く黒葉菫の前に和え物の器を置き、灰色海月は一礼する。立て掛けてあった灰色の傘を掴んで店を出て行った。
「忙しそうですね、クラゲ」
振り返って閉まるドアを見、器に視線を落とす。空になっていた。食べきって行ったらしい。
「暇な時は暇だよ。タイミングかな」
「見学してもいいですか? 願いを叶える所」
「いいけど、面白いものでもないよ」
「まだ暇貰ってる最中なので」
「ああ、君は暇なんだね」
切られていないシフォンケーキを切るために台所から包丁を持ち、適当な間隔で切る。一人で五ホールも食べることにならなくて良かった。二人で分けても二個と半分だが。
「怖い人ですが、御菓子は美味しいです」
黒葉菫も切られたシフォンケーキを抓む。
特に話すこともないのでもくもくと味の食べ比べをするが、灰色海月はなかなか戻ってこなかった。
「クラゲさん、遅いな……」
「いつもこんな感じかと思ってました」
「いつもはもっと早く帰ってくるよ。何かあったのかな?」
シフォンケーキを食べながら、ふと以前彼女が襲われたことを思い出す。あの時は常夜燈で知らせてくれたが、今回はそれもない。何もなければ良いのだが、何もないのに無理矢理街の外へ出て烙印に激痛の仕置印を捺されるのは避けたい。
「スミレさんは街の外に出られるよね。クラゲさんの居場所はわからない?」
「わからないです」
はっきりと言う。そのまま待つしかなかった。
ティーカップも空になり随分経った頃、ドアを一度だけ強く叩く音が静寂を切り裂いた。獏と黒葉菫は怪訝にドアに目を遣る。
「何……?」
ノックにしては随分と乱暴だ。ノックと言うよりは、何かがぶつかるような音だった。
毟っていたシフォンケーキを置き、獏は席を立つ。念のため、修理が終わったばかりの杖を長く伸ばしておく。
ドアの陰に潜みながらゆっくりと開けると、床にどさりと灰色が倒れ込んだ。
「――クラゲさん!?」
ドアの外を確認するが、誰もいなかった。開いたままの灰色の傘が転がっているだけだった。
俯せの体を横向きに起こし、全体を確認する。押さえている手を退けると、腹に赤い染みがあった。
只事ではないと黒葉菫も駆け寄る。灰色海月の傷を見下ろし、眉を顰めた。
「服の穴から察するに刃物じゃなく銃かな……? 貫通してないみたいだから体内から弾を取り出さないと」
「ぁ……」
「良かった。生きてるね。そのまま喋らないでじっとしててね」
か細く漏れた声に一旦安心し、獏は灰色海月の口にハンカチを噛ませて杖の先を傷口に向けた。杖の先の透明な石が光り、ゆっくりと引く。弾が体内を移動する痛みで身を捩ろうとするので、ブーツで脚を押さえた。
「スミレさん、台所に鋏があるから持ってきてほしい。あと救急箱も」
「あっ……はい。救急箱も台所に?」
「棚にあるはず」
目は傷から逸らさず、慎重に杖を操ることに集中する。一気に引き抜く方が時間は掛からないが、できるだけ痛みを抑えるために少しずつ引く。
「持ってきました」
救急箱の蓋を開け、獏の傍らへ置く。同時にころんと赤く濡れた弾が床に転がった。
「小口径……。斜め下方向に向かって入ってたから、姿勢を低くした時に上から撃たれたか」
鋏を受け取り、灰色海月の服を切り取って傷口を確認する。杖で切ることは可能だが、乱暴な切り口になってしまうので鋏を使った。もう一度杖の先を傷口へ向け、光る石を小さくくるりと回す。
「薄く膜を張ったから止血はできたけど」
灰色海月の口からハンカチを取り、傷口に処置を施して軽く血を拭って包帯を巻いた。
「喋るとお腹に力が入るからね、声は出さなくていいよ」
獏は灰色海月の肩を支えたまま一歩下がり、彼女の蒼白な顔を見詰める。
「口を動かすだけでいい。何があったか、教えてくれるかな?」
焦点がやや定まっていないが、震える唇で小さくぱくぱくと口を開閉させた。
「……わかった」
「読唇術ですか」
「うん。狙いは僕みたいだ」
疲れ切ったように目を閉じる灰色海月を抱き上げ、二階へ上がった。その後を黒葉菫も付いて行く。
「スミレさん、ちょっと僕に何かお願いしてくれないかな? 代価は貰わないから」
「え、お願い……?」
「そうすれば僕は依頼を受けた形になって、街の外に出ても文句を言われない。代価を貰わないから契約の刻印は施さないけど……たぶん大丈夫じゃないかな。緊急事態だし」
「それって普通の人間が対象なんじゃ……」
「大丈夫でしょ。一応スミレさんも人間だし。ちょっと手から銃が出せるだけで」
それは普通の人間ではないのだが、獏とは違い黒葉菫は人間寄りの人間だ。
灰色海月をベッドへ寝かせ、顔に掛かる灰色の髪を指で払う。
「いい子だ。よく頑張ったね。あまり動かないように、後はゆっくりお休み」
腹の傷を押さえていたからだろう、思ったよりは失血が少ない。灰色の頭を撫でると、目を閉じた表情が少しだけ和らいだ。
獏は黒葉菫を振り返り、外套の襟を開けながら金属の冷たい首輪を差し出す。
「前に僕が撃たれたでしょ? あの続きだよ。僕のことが気に入らない奴がいるらしい。やっぱり大勢の前に姿を晒すものじゃないね。由芽を庇って撃たれたみたいだ」
由芽とは誰だったかと黒葉菫は記憶を辿るが、何も思い付かなかった。
「願いで誘い出して僕を連れて来いなんて、頼られるのはいいけど利用されるのは嫌いだよ」
かしゃりと首輪に付いた鎖が揺れる。早く首輪を嵌めろと催促をされている、と黒葉菫は急いで願い事を考える。
「では……また、御菓子を食べさせてください」
「ふふ。良い願い事だね。いいよ、叶えてあげる」
首輪を受け取り、烙印の上に重く嵌める。これは力を制限する物だ。制限された状態で銃に挑むのかと、黒葉菫は自分の選択が間違っていないか考える。だが答えなんて出なかった。
獏は目を閉じる灰色海月に目を遣り微笑んで、部屋を出た。灰色海月は動けないので、ここは当然黒葉菫が街の外へ送ることになる。掌から黒い傘を抜き、獏を追って店を出た。
店の外をもう一度ぐるりと何も気配がないか確認し、黒葉菫は傘を回そうとしてぴたりと止めた。
「あの……何処に送れば……?」
獏はすぐに一通の手紙を取り出した。
「この人の所」
それは以前、由芽が願った手紙だった。手紙の思念を読み取れば場所はわかる。手紙を全て捨てずに持っているのだろうかと考えながら、黒葉菫はくるりと黒い傘を回した。
瞬きの瞳を開けると、久しい由芽のカフェが目前にあった。休業日なのかはわからないが、人の姿はない。獏は指で作った輪を店へ向ける。
「……中に由芽もいるみたいだ。後の二人は客じゃないね」
黒葉菫は傘を畳み、掌からフリントロック式の銃を取り出す。
「相手は銃を持ってるので、俺が相手します」
「スミレさんは由芽の安全を確保して」
「え? でも貴方は今、力を使えない状態ですよ」
「人間だって何の力もないでしょ。只の人間に獣が負けるとでも?」
口の端を上げる獏に、黒葉菫は困ったように眉根を寄せた。確かに人間には特別な力はないが、少なくとも一人は確実に銃を所持している。飛び道具に素手で挑むのは無謀ではないのか。
「お面を外すかもしれないから、由芽の視界を塞いでくれると助かる」
「由芽は、見たらすぐわかりますか?」
「人質の顔をしてたら、その人だよ」
わかりやすく怯えている者と言うことかと黒葉菫は頷く。
店の中から、椅子を蹴るような音がした。あまり悠長に話している暇はなさそうだ。
本当に何も持たず素手のまま、獏は店のドアに手を掛けた。黒葉菫は銃に弾を装填して万一に備えて構える。
「警戒されるから、一旦銃は下げて」
「…………はい」
ドアを開けると、三人の人間が一斉にこちらを向いた。立っている男が二人と、床に座り込んで震えている女が一人。この女が由芽だとすぐにわかった。
「何だテメェ!」
「おい待て、こいつが獏じゃねぇか?」
二人の男の手にはそれぞれ銃が握られていた。
「そうだけど?」
かくんと獏は首を傾ける。その動きに男達の視線が固定され、黒葉菫は由芽に駆け寄る。一瞬視線が彼を向くが、男達の目的は獏だ。獏が現れた以上、人質に近寄られても問題ないようだ。
震えて立てない由芽を安全な場所へ送ることもできるが、力の制限がある獏を一瞬でも一人にしておくことはできなかった。
「何でこんなことしたの?」
表情の見えない獏を男達は警戒し、銃を構えた。
「お前の所に誰か来なかったか?」
「誰かって? 生憎たくさんの人間が来るから、何か特徴を言ってもらわないと」
「たぶん銃を持ってる奴だ」
「ああ、それなら心当たりがあるよ」
然も今気付いたかのように言う。以前撃ってきた男と繋がりがあることは既にわかっている。
「そいつはどうした?」
「さあ……? 君達は何で僕を呼んだの?」
願い事の手紙が獏に届くことを利用して呼び出そうとした理由。それを聞くまでは大人しくしている。
男は銃を構えたまま口を開いた。
「お前は何でも願いを叶えるらしいな。オレ達の中で誰がその力を手に入れるか勝負してんだ。人間じゃねぇんだろ? ちょっとくらい撃っても死にはしねぇだろ。すぐに動けなくさせて、従わせてやる」
「へぇ」
おそらくこの二人の男の間でもその勝負はされているのだろう。銃を構えながら、獏と同時にもう一人の男へも意識を向けている。先を越されないように様子を窺っている。
「それって何人でやってるの? 組織ってわけじゃなさそうだけど」
「おい、試しに何かやってみろよ。願いを叶えるような何かをよ」
質問を無視する男に、獏の声は深く沈んだ。
「僕が質問してるんだけど?」
感情の籠もらない声は、背を冷たくさせる。人間ではないとわかっているなら、何をされるのか人間の頭では想像はできないだろう。
「……三人だ」
動きを止めるまでは従うことにしたのか、素直に数を言う。三人と言うことは、襲ってきた男を入れてこれで全部だ。ならばもう気にすることはない。
面で隠れているので視線ではなく、獏は顔を少しだけ黒葉菫に向ける。目配せだと察した彼は、開いた黒い傘を由芽の視界を塞ぐように倒した。この傘は支給されている物だが、場所移動や傘としての用途の他に、視界を塞いだり返り血を防ぐためにも使う。抵抗する道具としても使えるように丈夫だ。
「それじゃあ最後に……」
獏は由芽の視界が塞がれていることを確認し、動物面に手を掛けた。一人ならともかく、銃を所持する人間が二人もいる。視界は広い方が良い。
面を投げ捨て、露わになった金色の双眸で男達が息を呑む様を見ながら姿勢を屈める。
「!」
床を蹴り動き出したことに男は反射的に引き金を引き、獏の頭上を弾が飛ぶ。
屈伸を利用して床を蹴って男の一人へ、その顔面に膝を叩きつける。体勢を崩した男の首にそのまま両脚を挟むように掛け、細い体躯に反動をつけて捻る。手を近くの机へ、男は体を反らされくるりと宙に浮いた。床に叩きつけられ、男は一瞬息が止まる。
もう一つの銃口へ床と壁を蹴って跳んで弾を避けながら、足を捻って手に握っている銃を蹴り上げる。宙に放り出されたそれを掴んで振り返り、床で構える男の銃を撃って弾き飛ばした。
一瞬で形勢が傾く。力など使えなくとも、正面からでは抵抗できない。
「どっちが、クラゲさんを撃ったの?」
後ろで立つ男が、震える指で床に伏せる男を指差した。
「そう」
躊躇いなく、獏は伏せる男の背中を撃った。
「ひっ、ひ……」
ドアに近い男は逃げ出そうとし、距離を詰めた獏に服を掴まれ尻餅を突いた。
「逃がしても碌なことにならないだろうし、逃がさないよ」
冷たい金色の双眸に、男は歯をがちがちと打ち鳴らした。
「おっ……おれは違う! ただ巻き込まれただけで……! 撃つ気はなかった! 本当だ! 許してくれ!」
「巻き込まれたら、嫌でも銃を握るの? 君は」
「はっ……はっ……」
呼吸が浅く繰り返される。上手く酸素を吸えない。
「わかってるんだよ。店の外から覗き窓で見たんだから」
空いている手でよく見えるように輪を作って男に向ける。
「恐怖でそんなことを言ってるけど、結構ノリノリだったよね?」
背後で銃に手を伸ばす男の腕を、見ずに撃つ。
「後ろに目でも付いてんのか……」
「付いてるわけないでしょ。気配で余裕だよ。床を擦る音が聞こえるし」
尻餅を突いた男はまだ諦めずドアに向かうので、仕方なく背を撃つ。男の叫び声が店に響いた。
「非力な人間が、よく獣を狩ろうと思ったよね」
心臓の辺りと頭に一発ずつ撃ち込む。男はぐしゃりと床に崩れた。
「何もしなければ、こんなことにはならなかったのにね」
伏せる男に向き直り、引き金を絞る。
「……弾切れか」
空の銃を捨て、落ちているもう一挺を拾う。爪先で男を転がし、仰向けにした。灰色海月は腹に弾を受けていた。ならば同じように腹には一発くれてやる。
「何でこんな勝負をしちゃったのかな……」
「ぐっ……それは……」
「別に同情を誘う言い訳が聞きたいんじゃないからね。どんな理由があっても、傷付ける行為は悪だ。だから僕も、悪い獏だよ」
「っ……」
「力を手に入れるとね、敵がいなくなるんじゃないの。敵しかいなくなるんだよ」
腹に銃口を向けて一発撃つ。男の体が跳ね、呻き声が上がった。
「皆、敵にしか見えなくなるの」
もう一発、撃ち込む。
銃声が上がる度に、黒い傘の向こうで小さな悲鳴が上がった。こんなに近くだと音も大きい。あまり怖がらせても可哀想だと、頭を撃って終わりにした。
死んだ男を見下ろし、溜息を吐く。人間はとても呆気ない。
きょろきょろと店を見回すと、黒葉菫が静かに床を指差した。投げた黒い動物面が机の下にあった。
拾って被りながら、傘の向こうへ顔を出す。由芽は引いた声を上げて震えていた。隣の黒葉菫の服を逃がさないように強く握り締めている。
「……大丈夫?」
銃は背に隠して問う。
由芽は泣きそうなと言うか既にぐしゃぐしゃに泣きながら、更にまだ泣きそうな顔をして獏を見上げた。
「あっ……あの……」
「怪我はないです」
言葉が詰まって出ない由芽の代わりに黒葉菫が答えた。
「く、くら……げ、さん……」
「クラゲさんは大丈夫。治療して、今は安静にしてるよ」
「よ……よか……よがっだぁ……」
安心してまた泣き出す。
「ごめんね、怖い思いをさせて」
「なっ……なん、で……あやま……」
「願ってくれるなら、怖い光景は食べてあげるよ」
「うぅ……」
縋るような目で見上げてくる。余程怖かったらしい。このままでは銃声が耳にこびり付いて消えないだろう。
「スミレさん。由芽の視界を塞いでる間に、片付けてもらえるかな?」
「わかりました」
由芽の目を片手で塞ぐ獏に頷き、黒葉菫は背中に隠していた銃を仕舞って彼女の手を引き剥がして立ち上がる。
死体をそのまま放っておくと、この場合は由芽を巻き込むことになってしまう。由芽の記憶を食べても事実が残ってしまえば本末転倒だ。なので巻き込むことのないように然る可き処理を施してから捨てることにする。さすがに二人の死体を一度に持ち運ぶことはできないので、時間は掛かるが一人ずつだ。
獏が持っていた銃は安全装置を掛けて放るので受け取り、男の一人の腕を掴んで黒い傘をくるりと回す。狭い店内なので椅子に傘が当たり、もう一度避けながら回した。
「それじゃあ、食べるね」
もう一度面を外し、由芽に口付ける。由芽は驚いてびくりと跳ねるが、固まって拳を握ったまま動きを止めた。
口を離すと頬が真っ赤になっていたが、気にせず獏は面を被り後ろを振り向く。死体を捨て終えた黒葉菫が荒れた店内を一人で直している。派手に撃ち抜いたわけではないので血痕はそれほど飛び散ってはいないが、せっせと床を拭かせることになってしまった。幸い壊れた物はないようだが、棚から落ちた物も、置かれていた場所はわからないが何となくの感覚で置く。
「あ、あのっ……目隠し……」
「もう少し待ってね」
「は、はい……」
散らかった机と椅子も、元の位置はわからないが斜め向きではないだろうと壁の向きに合わせて置き直した。最後まで一人で後片付けをすることになってしまった。
「たぶん終わりました……」
店内を確認しながら黒葉菫が戻ってくる。途中で椅子の脚に躓いた。
漸く手を離され、由芽は目を瞬いた。
「私、何で床に……?」
「転んで尻餅を突いたみたいだね」
適当に嘘を吐く。人質にされたことも灰色海月が撃たれたことも、店で発砲して暴れた男達がいたことももう記憶にはない。転んだ記憶もないが、抜けた記憶を補うように由芽は転んだらしいと認め恥ずかしそうに顔を赤くした。
「そ、それは恥ずかしい所を……」
獏に差し出された手を握って立ち上がる。震えもなく大丈夫そうだ。
「わっ!? だ、誰ですか……?」
獏の後ろに控えていた至極色の青年を視界に捉え、由芽はびくりと跳ねた。件の記憶を食べたことで、そこに関わる黒葉菫の存在も記憶から消すことになってしまった。
「スミレさんだよ」
「ほぁ……獏さんの仲間ですか」
名前を出され、黒葉菫も無言で頭を下げておく。
「あれ? 棚の物……こんな置き方だったかなぁ」
「ちょっとぶつかって落としちゃったから、勝手に戻したんだよ」
「そうなんですね! ちゃんと固定した方がいいのかな。……あれ? 椅子の向きも……」
黒葉菫は目を逸らした。初めて入った瞬間から乱れていたので、平常の位置などわからない。
「今日はお休みだったの?」
「あ、はい。季節のメニューも作ってみようと思って、その試作を」
「そっか」
丁度客もいない所を都合が良いと狙われたようだ。目立つ動物面で店に出入りしたので、何処かで見られていたのだろう。夜なら闇に紛れられるが、昼間は目立ってしまう。名が知れると悪意のある者も寄って来てしまう。これからはもう少し慎重に動くことを心懸けることにする。
「今日はクラゲさんは来てないんですね?」
「うん。ちょっと怪我をしたから、暫く御菓子は届けられないかもしれない」
「え!? 大丈夫なんですか……? お大事にとお伝えください……」
「今シフォンケーキが溢れてるから、もしかしたらスミレさんに持って行ってもらうかもしれないけど」
「え」
突然名前を出された黒葉菫は思わず声を上げた。獏は依頼がないと街の外に出られないので、届けるなら必然的に黒葉菫ということになるが、暇だと思われているらしい。暇だが。
「わあシフォンケーキ! 楽しみです! ――あ、ちょっと待っててください」
ぱたぱたとカウンターの奥の部屋へ急いで走り、手にバケツを持って戻ってきた。子供が砂場で遊ぶような小振りのバケツだ。
「試しに作ったバケツプリンなんですけど、クラゲさんのお見舞いに。大きいので、獏さんとスミレさんも食べてください」
「俺も……?」
「はい!」
これはどんな菓子なのかと覗き込みながらバケツを受け取ると、ずしりと重かった。冷気がある。冷たい物らしい。
「ありがとう。クラゲさんもきっと喜ぶよ」
由芽は今し方起こったことを全て忘れて、純粋な笑顔を向けた。
「スミレさん、店の中でいけそう?」
「はい」
外はまだ明るい。念のため人目に触れないように店の中で傘を掲げる。
「じゃあね」
また椅子に当たったが、再度くるりと黒い傘を回す。
転瞬の内に誰もいない街へ戻り、周囲を見渡す。いつも通り霧が掛かり、誰もいない。異常はないようだ。
黒い傘を畳んで仕舞い、店に入る獏をバケツを手に追う。
中に入ると黒猫が顔を出した。獏の足元へ走って寄り添う。階段も一緒に上がっていく。
灰色海月の寝室のドアを開けると、出て行った時のままベッドに横になって眠っていた。
「寝てるなら後にしようかな」
声を聞き、灰色海月はゆっくりと目を開けた。
「起こしたかな?」
彼女はゆっくりと首を振る。まだあまり喋らせるわけにはいかない。獏はドアの脇に立つ黒葉菫を手招き、バケツを貸りた。
「由芽がお見舞いにって、大きなプリンだよ」
覗き込もうとするので、零れない程度に傾けて中を見せる。
「今回の件の記憶は食べたけど、クラゲさんは怪我してるってことだけ言ったからね。今は食べられないだろうから、冷蔵庫に入れておくね」
彼女はこくりと頷く。意識ははっきりしているようだ。焦点も合っている。
「俺も食べていいって」
「…………」
灰色海月は無言で黒葉菫を見上げて圧を送った。全部一人で食べきれる量ではないと思うのだが。
「もう少し元気になったら、皆で食べよう」
何かを訴えるような目で獏を見るが、灰色海月は渋々頷いた。猫と言い海月と言い、よく懐いていると黒葉菫は思う。
「今はしっかり休むことだけ考えて」
もう一度頷く。その灰色の頭を撫で、獏は踵を返した。黒葉菫も後に続く。ドアの所で待っていた黒猫も獏に付いて階段を下りた。
「先に撮み食いすると悲しむだろうから、待っててくれるかな?」
「あ、はい。それは別に」
「あと首輪だけ外してくれれば、お疲れ様だ」
「首輪忘れてました」
「忘れないで。首が凝る」
先に冷蔵庫に仕舞うために中の棚を外してバケツを放り込む。そして漸く獏は首輪から解放された。途端に体が軽い。
机上や台所に残されていた大量のシフォンケーキのホールを見、このままにもしておけないので良い大きさに切っておくことにした。
黒葉菫は疲れたように椅子に腰を下ろし、先程毟っていたシフォンケーキを口に放り込んだ。
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