13-回り合せ
どれほど時間が経っただろうか。進む時間のない街の中で、永遠に座っているような感覚が支配する。何も変わらず、何も動かない。心臓の鼓動の音が聞こえそうなほど静かだった。
そんな停滞する空間の中で、漸く一つ動く。
ぴくりと灰色の睫毛を震わせ、じっとそれを見た。白いベッドに横たわった黒い体から生える手が、静かに手招く動作をする。
「お呼びですか?」
灰色海月は努めて冷静を装い、椅子からベッドの脇に座り込んだ。
「……水、を」
口元に耳を寄せると、掠れた声が囁かれた。
「はい」
直ぐ様立ち上がり、階下へ水を汲みに行く。目が覚めて漸く安心した。死んでしまうのかと思ってしまった。
横たわる獏は被っている動物面を少しだけずらして殺風景な部屋を見渡す。誰もいないことを確認する。黒葉菫は帰ったようだ。
安堵するように息を一つ吐く。灰色海月なら面の下の素顔も知っている。徐ろに面を外し、頭を押さえた。まだ少し痛い。街の端で見た蠢く闇は一体何だったのか、考えてもわからなかった。ただ迂闊に近付いて良い物ではないということはわかった。
静かに走りながら戻ってきた灰色海月は、ティーカップに入った水を手渡した。獏は揺らぐカップの水面を見詰め、ゆっくりと飲み干す。
「大丈夫ですか?」
「心配掛けてごめんね。頭が疲れたみたいだ」
「疲れたら、こうなるんですか?」
「凄く疲れたら……かな?」
「じゃあ疲れないでください」
「ええ……それは善処するけど」
ベッドの脇にしゃがむ灰色の頭を撫でながら苦笑する。好き好んで味わいたい感覚ではないことは確かだ。
「すっかり休んでしまったから、そろそろ食事したいな」
「もう大丈夫なんですか?」
もう一度確認するように問う。こんなことは初めてだったので、相当心配させてしまったようだ。
全快というわけではないが、少しでも食べた方が回復は早いはずだ。この街の中では時間が止まっているので空腹になることはないが、変化はある。怪我をすればその傷を癒すための処置をすれば治療ができ、疲労があれば休むことで回復する。起こった変化に対しては流動する。壊れた無機物は壊れたままだが。
「食べた方が元気が出るからね。どのくらい寝てたかわからないけど、何か願い事は来てるかな?」
灰色海月は少し躊躇った後頷き、三通の手紙を手に広げて見せた。
「寝ていたので、依頼者には接触せず手紙だけ回収しました。好きな物を選んでください」
トランプゲームのカードのように差し出され、獏は指先を泳がせて迷う。いや中身がわからない状態で選ばず、中身を確認しても良いはずだ。
「確認する」
三通受け取り、全て封を切る。どれも短文だった。
「恋愛。仕事の斡旋。金が欲しい……」
どれもよくある種類の願い事だった。恋愛と仕事関係は人間と接触を要するので、病み上がりの状態で上手く動けるか不安が残る。金なら内容によっては楽に事が運べるだろう。
「じゃあこのお金の願い事にしようかな。他の二通も時間が経ってるだろうし、同じ内容でもう一回投函されたら考えよう」
「わかりました。お迎えに行ってきます」
「うん。行ってらっしゃい」
灰色海月は一礼し、空のカップを受け取って部屋を出た。
獏は金色の双眸をぎゅっと閉じ、腕をうんと引いて伸ばす。随分と長く寝ていたらしい。体が鈍っている。傍らに丸まっていた黒猫も、真似をしているのか体を伸ばしている。
ベッドの上で軽くストレッチをしていると、すぐに階下からちりちりとベルの音が聞こえた。灰色海月が戻ってきたようだ。獏はベッドから降りて足首を回しながら動物面を被り、階下へ下りる。
灰色海月の傍らには、疲れ切った顔の男が立っていた。獏の黒い動物面を見、びくりと肩を跳ねさせる。
「あ……あ、貴方が……」
「願い事を叶える獏だよ」
古い革張りの椅子に腰掛け、男にも椅子を勧める。男はおどおどと落ち着かなさそうにしながら、出された椅子に座った。
「早速、君の願い事を聞かせてよ」
まだ頭が重いので、悟られないように指を組みながら顎を載せる。大声で叫び出しそうな雰囲気の人間ではなさそうなので良かった。
男は冷や汗を流しながら、言うか言うまいか考えるように何度か唇を小さく開閉させる。意を決するタイミングもあるだろう、話し出すのを獏はじっと待つ。
その間に灰色海月は静かに机に紅茶を置いて下がる。冷めない内に飲んでもらえるだろうか。
時計があっても動かないので店の中に時計はなく時間はわからないが、たっぷりと時間を掛けて男は口を開いた。
「…………金が……借金を返済できる金が……欲しい、です」
「それはどのくらい?」
「七百万……」
「わかった。叶えるよ」
「! ほ、本当に!? 叶えてもらえるのか!?」
突然金を用意してほしいなどと言っても突き返されるだけだろうと思っていた男は、予想外の言葉に目を丸くした。こんなにあっさりと受け入れてもらえるとは思っていなかった。
「うん。君が望むなら叶えるよ。七百万は円だよね? 七百万円が欲しい。これでいい?」
「あ、ああ。それでいい。充分だ」
「条件はそれだけでいい?」
獏は面の下でにこりと笑う。男にはその表情は見えないが、声色で想像はつく。
「条件……? ……あ、な、なるべく早く……できれば今月中に。じゃないと、何をされるか……」
「今月……ってあと何日? ごめんね、ここには時間がないからわからなくて」
「あと一週間です」
「うん。大丈夫だ」
その言葉に男は漸く微かに安堵の表情を見せた。日々借金の取り立てに怯えていたようだ。
獏は人差し指と親指で輪を作って覗きながら、続きを話す。
「代価はお金じゃないから安心してよ。代価は君の心をほんの少しだけ、戴く」
「心……」
男は自分の胸に手を当てて見下ろした。
「金じゃないなら、それでいい。ほんの少しだし……」
それ以上は男は何も訊かない。どんな心が食べられるのか、想像が及んでいない。それとも金以外なら何を失っても良いのか。
獏が紅茶を飲むと、男は自分の前に置かれたカップに視線を落とした。じっと見詰めるだけで、口を付けようとしない。
「無料サービスの紅茶だから、飲んでもお金は取らないよ」
「あ……ああ……」
漸くカップに口を付ける。金銭に関して相当神経質になっている。それでも飲んでくれれば問題はない。願い事の依頼と代価の食事を結ぶ印を刻むための紅茶。依頼者は逃げることのできない契約者となる。
「お金の受け渡し方法はどうすればいいかな? 嵩張るし、口座に振込みでいい?」
「ああ、それでいい」
「それじゃあ、口座番号をここに」
紙切れと羽根ペンを取り出し、男の前へ差し出す。初めて見る羽根ペンに男が途惑うので、獏は古い小瓶に入れたインクにペン先を浸して渡してやる。
「インクが乾かない内に」
男はおどおどとポケットから草臥れた財布を取り出し、キャッシュカードを確認する。慌てて紙切れにペンを突き立て少し破いてしまったが、力を抜いてそっと慎重にへろへろと数字を書き込んだ。読めることを確認し、獏は頷く。
「鉛筆の方が良かった?」
「あ、いや、大丈夫です……」
怖ず怖ずとペンを返し、男は頭を下げた。
「うん。これで願いを叶えられるね。後は任せて。振込むから。
――クラゲさん、送ってあげて」
灰色海月は一礼し、男を促す。獏が立ち上がるのを見て、男も腰が引けながら立ち上がった。
背を向けて灰色海月に付いて行く男に獏はもう一度声を掛けた。
「条件はもう、ないんだよね?」
男は振り返り、数秒黙って獏の面を見詰めた。首を振って頭を下げる。
店のドアが閉まるのを確認し、獏は客人用の椅子を下げるために机に回り込んだ。
「……?」
足元に何か落ちていた。男がポケットから財布を取り出した時に一緒に落ちた物のようだ。その小さな紙切れを拾い、首を傾げた。必要な物かはわからないが、次に会う時に返せば良いと仕舞う。
暫く待つと、灰色海月が戻ってくる。そこでやっと、獏は安心した。
「楽な願い事だね。良かった」
「楽なんですか? 七百万円は大金だと認識してますが」
「大金だよ。でもそんな大金が集まる場所がある」
「?」
「銀行だよ」
「! ……盗むと言うことですか? それはさすがに善行とは言えないのでは……」
「盗むと言うか、流す、だね。あんなに念押しして条件を訊いたのに何も言わなかったし、手段は何でもいいってことでしょ?」
「それは……」
「時間があれば正当な方法で増やしてもいいかなって思ったけど、急いでるみたいだし」
「貴方は……捕まらないんですか?」
「もう捕まってるけどね」
罪人としてこの誰もいない街に囚われている。悪いことに悪いことを重ねるなと鵺に言われていたが、今回は願い事を叶えるための手段だ。人差し指を立てて露わになっている口元に当てる。黙っていればわからない。
「今は外は昼? 夜?」
「夜です」
「じゃあ丁度いいね。行こう」
「力も使えないのに、本当に大丈夫ですか?」
「うん。一番利用されてる所に送って」
「…………」
悪行の手助けをするのだろうかと、幾ら慕っている獏の頼みとは言え、灰色海月は気が乗らない。だが口は出せない。外套の襟を外す獏の首に、冷たい金属の首輪を嵌める。悪行を重ねることにならないか心配だった。
店を出て、灰色海月は灰色の傘を開く。くるりと回し、言われた通りの場所へ行く。
転瞬の後に映った景色は、道路脇の銀行だった。利用が多いことを条件にしたので、人通りが多そうな立地だ。だが今は夜も更けた時間だ。車通りはあるが、日中程ではない。その角を曲がり、無人の機械類が置かれるドアを見つける。
「強盗なんて……」
「ん?」
「野蛮です」
「ふふ。可愛い勘違いだね」
「え……?」
灰色海月はきょとんとする。銀行で金と言えば強盗だと思ったのだが、違うのだろうか。獏はくすくすと笑っている。
「数字を動かすだけだよ。さすがに強盗が善行じゃないことはわかるよ。だから悪いことをしたお金を移す」
「悪いこと……?」
「クラゲさんは外で待ってて」
「……はい」
獏は夜に紛れる黒い外套を翻す。目の前にいるのに、気配が稀薄になる。視認しているはずなのに存在が曖昧だ。
監視カメラの死角に立ち、指先を翻して全てのカメラを眠らせる。映像を消してしまうと警備員が来てしまうので、映像はそのままだ。獏の姿だけ認識できないようにした。
手を翳してドアとシャッターを音を立てずに開けて中に入り、現金自動預け払い機の前に立つ。
機械を起動させ、情報を探る。この時点で、脳に疲労を受けた後に遣ることではないと思ったが、知らない人間から最適な人間を選出しようとしているわけではないので、負荷は少ないはずだ。多少の疲労は目を瞑る。
以前願い事の依頼をしてきた人間を指の輪で覗いた時、少し引っ掛かることがあった。以前、離婚届を提出すると言っていた人間がいた。その感情に澱みがあった。
(……見つけた)
あの日の後に多額の金が振込まれていた。
(子供のために縒りを戻したいって言ってたけど、本音はこれか。復讐と死亡保険金――)
機械の記憶を読み取り、数字を契約者の男へ流す。足が付かないように、この操作の記憶は残さない。
(人間は本当に欲深いね)
ぴり、と首輪の下の烙印に刺激が走る。制限の掛かる力の限界らしい。手頃な人間がいて良かった。探すのに手間取ると烙印が悲鳴を上げてしまう。
処理を終えて機械を眠らせ、入って来た時のようにドアの鍵を締めて監視カメラを起こす。少しだけ頭がふらつくが、問題はなかった。
外で待つ灰色海月の許へ行き、終わった旨を伝える。子供のことを気に懸けていた灰色海月には言わない方が良いだろうと、適当に濁した。あの時の代価は二日分の夕飯の記憶で片付けたが、獏を騙したのだから丁度良い報復になった。
「口座を確認するのは明日かな。楽しみだね」
「そうですね」
「少し帰って休むよ。できるだけ体を回復させておきたい」
「わかりました」
灰色海月はくるりと傘を回してすぐに誰もいない街へと戻る。
頭の疲労もそうだが、烙印に響くくらい力を使ってしまった。力の使い過ぎで以前痛い目を見た獏は、慎重な行動を心懸ける。夜の間は人間も眠るのだ、充分に休める。
店に戻った獏は首輪を外してもらい、寝室へ入った。再びベッドに寝転がり、動物面を外した。喉元の烙印に触れてみるが、血は出ていない。痛みもない。安心した。
黒猫はベッドの上にはいなかったが、ベッドの下か、他の部屋か……考えながら、獏は金色の瞳を静かに閉じた。
次に目覚めた時、ぼんやりと覚醒していく頭の疲労はもう良くなっていた。面を付けて階下へ下りると、灰色海月が椅子に座っていた。
「あれ? 寝なかったの?」
「私は何もしてないので、疲れてません」
「そう?」
再び鎖の付いた首輪を嵌めてもらい、冷たいそれに指先を触れる。毎日は付けたくない物だ。
「じゃあ行こうか」
「はい」
灰色海月ができることは、傘をくるりと回して獏を送ることだけだ。一瞬で景色を移し、細い路地に置かれたゴミ箱の蓋へ降り立つ。目の前には契約者の男が、路地の角から向こうを覗いている。背後に降り立った獏にはまだ気付いていない。
「クラゲさんは離脱」
灰色海月の耳元に囁き、彼女はこくりと頷いた。再び傘を回して姿を消す。
人の姿を与えられた海月はその生物の力を使えるが、身体はほぼ人間だ。人間以上の力は出ない。人間ではない獏が本気で走れば、追えるはずがない。
獏は男の頭上に備え付けられた室外機の上へ跳び移り、足を掛けて逆様に男の肩を叩く。
「!?」
男は悲鳴を上げそうになるが、寸前で手で口を押さえた。泣き出しそうな顔をしていた。
「口座は確認したかな?」
男は口を押さえたまま、こくこくと頷いた。
「見た……。本当にあんな金額をすぐに……」
「願いが叶って良かった。じゃあ代価を――」
「ま、まだだ! 利子……利子の分がっ……」
獏は男の目を片手で塞いだ。男は口から手を離し、その手を引き剥がそうと掴む。
「な、何だ!? 何をするっ……」
「叶ったんだから、その代価は貰わないと」
逆様のまま獏は面を外し、逃げようとする男の口を塞ぐように口付けた。
「んんっ!?」
微かに耳に怒声が聞こえる。路地で騒いで見つかったらしい。
口を離し、獏は面を被る。男から手を離し、くるりと室外機の上に乗った。
「久し振りの食事は格別だね……」
「りっ、利子……! 利子の分をっ!」
「もう一つ願い事? ここで話してる間に追手が来そうだけど」
「ひっ」
男は路地の向こうを確認し息を呑んだ。強面の男達がすぐそこまで迫って来ている。震える足が縺れそうになりながらも走り出す。獏も追手を一瞥し、室外機を跳び移り少し上から併走した。
「普通の感じじゃなかったけど、面倒な所から借りたの?」
声に笑みが含まれる。男の頭上を跳びながら、くすくすと面白そうに笑う。
「オレみたいな奴じゃっ……普通の所は貸してくれなく、て……!」
「あと一週間あったんじゃないの? 君の適当な憶測?」
「っ……! と、とにかくっ……利子の分を……!」
走りながら話すのは、男には苦しそうだ。細い路地に置かれた障害物を避けながら、ひたすら走る。少し太い道に出ると、身を隠せるようにまた細い路地へ滑り込む。車一台分の道幅程度なら獏は一跳びで路地から路地へ移れる。体を休めた甲斐があった。
「意気揚々と七百万渡したら利子の分を問われ、無いことが知れて堪忍袋の緒が切れちゃった感じかな?」
「…………」
返す言葉もなく、男は喘ぐように呼吸を乱しながら走った。
「そうそう。店に落とし物をしてたよ。これ」
男が去った後に落ちていた紙切れをよく見えるように突き出すと、男はハッとしたように眉を顰めた。
「……それは……ゴミだ……」
「そうなの? まあいいや。返しておくね。よく行くの?」
「…………」
速さを合わせながら、黙る男の服のポケットへ紙切れを戻してやる。
「普通じゃないならさ、君の臓器でも売ったらどうかな? ほら、肺なんて二つもあるんだから。わかる?」
「ひっ……!」
「本当に願いたいなら――」
言い掛けて後ろを振り向き、獏は口を閉じた。男が呼吸の合間に願い事を口にするまで逃げ切ることができそうにない。そう判断した。追手の方が足が速い。
「ぞっ……臓器……! 取られっ……」
「まあ、そんなこともあろうかと」
路地の壁に備え付けられた障害物を跳び、男の先へ外套をはためかせる。ぐるりと潜り込むように腰を曲げて男に顔を向け、逆様の口元にくすくすと人差し指を当てた。
「人間の体にどんな臓器が入ってるのか、記憶を食べておいたよ」
臓器を取られたとしても失ったことがわからなければ、それは失っていないようなものだ。
男は涙なのか何なのか顔をぐしゃぐしゃにして懇願するような目で獏を見ていた。見上げたことで足元の障害物に躓き、派手に転倒する。
獏は壁の障害物を蹴り、前ではなく上へ身を躍らせた。
転倒した男は追手の男達に羽交い締めにされ、歯を食い縛りながら泣き噦る声が歯の隙間から虚しく漏れる。
民家の屋根から身を隠しつつ様子を窺い、男が連れて行かれるのを見送った。後はあの追手の男達次第だ。何をされるのか、男がどうなるのか、興味はなかった。
(同情の余地があればもう少し助けてあげても良かったけど、ギャンブルで擦ったんだから自業自得だよね)
男が落として行った紙切れは馬券だった。つまり競馬だ。
指で輪を作って男の後ろ姿を見る。そんな男に『普通の所』が金を貸してくれるはずがなかった。
(七百万をすぐに擦らずに返したことだけは褒めてあげるけど)
それだけ追い詰められていたとも言える。
男達の姿が完全に見えなくなると、獏は元の場所まで屋根を跳んで戻った。灰色海月を迎えに行く。まだ陽があるので黒い外套は目立つが、閑静な住宅街で人通りは少ないので大丈夫だろう。
久し振りの食事を終え、獏は満足して楽しそうに笑った。
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