12-端


 誰もいない静謐な夜の街の明かりの灯った古物店の前で、青年は軽く拳を握る。曲げた指の背でドアを叩こうとし、ふと思い出して手を下ろした。

 ノックする必要はないと言われたことを思い出した。下ろした手で静寂を裂くようにドアを開け、薄暗い店内に足を踏み入れる。瓦落多の並ぶ棚に囲まれた狭い通路を行き、奥の机に本を置いて頁を捲る動物面の一風変わった格好の獏の姿を見つけて歩み寄る。

 その途中で獏は顔を上げ、その至極色の青年を見上げた。

「今日は何の用かな? スミレさん」

 誰も来ない店の話し声を耳に、台所に立っていた灰色海月も顔を出す。

「左遷ですか?」

「違う」

「杖の修理が終わった?」

「すみません、まだです。同等サイズの変換石を探してる所です」

 至極色の青年――黒葉菫には、獏の壊れた杖を修理に出してもらっている。随分と手際が良いと思ったが、どうやらそれはまだのようだ。

「腕の傷が治るまで、暇を貰いました。暇なので来ました」

「ここは暇潰しの場所じゃないんだけど」

 暇そうな獏と灰色海月を順に見遣り、黒葉菫は何か納得したように頷いた。

「傷については僕の所為だから、好きにしてもらっていいけどね」

「銃の修復を優先したので治りは遅いですが、普通の人間よりは治癒力が高いので、すぐ良くなると思います」

 黒葉菫の体の一部である銃を獏が壊してしまったことにより、彼は傷を負った。聞かされていなかったとは言え、壊してしまった責任は獏も感じている。何もすることがない店だが、ここで傷を癒すと言うなら拒絶はしない。

「甘い匂いがします」

 店の中に入った瞬間から、鼻腔を甘い香りが擽っている。以前来た時にはなかった匂いだ。

「クラゲさんが御菓子を焼いてるんだよ。暇潰しだね」

「そうなんですか」

 近くにあった椅子を引っ張り、黒葉菫も獏の向かいに座る。誰もいないなら何処に座っても良いだろう。

 再び本に視線を落とした獏をぼんやりと見ていると、机に大きな皿が置かれた。その上にはピンク色や緑色など、色々な色が載っていた。

「マカロンです。食べてください」

「マカロンは初めてだね」

「はい。大きさが揃わなくて難しいです。揃わないとお店に出せないので」

「不揃いなのも愛嬌があっていいと思うけど」

 小さなマカロンを一つ抓み、黒い面の下へ運ぶ。

「うん。美味しいよ」

 これがこの二人の暇の潰し方なのかと、黒葉菫は興味深く窺う。マカロンという食べ物は食べたことがないが、この匂いの元ならば甘い菓子のはずだ。黒葉菫も一つ抓み、上に何か載っていることに気付く。

「この上に載ってる物は?」

 台所に戻った灰色海月は再びひょこりと顔を出して彼の手元を確認し、口元をやや上げて答えた。

「菫の砂糖漬けです。共喰いですね」

 何と反応すれば良いのか、黒葉菫はじっと砂糖漬けを見詰めた。

「あの人、怖い……」

「君を悪く思ってるわけじゃないから安心して。僕にもああだから」

「ええ……」

 困惑気味に眉を寄せる黒葉菫をくすくすと、獏は楽しそうに笑う。

「俺も今度、海月の和え物とか持ってきたらいいですか?」

「何で張り合うの」

 砂糖漬けの載ったマカロンは一旦置き、何も載っていない物を抓み直して齧った。確かに味は美味しい。少し粘る。あまり食べたことのない食感だった。菓子と言う物はあまり食べたことがない。

 ついゆったりと抓みながら黙々とマカロンを食べていると、灰色海月に紅茶を置かれた。何か入ってやしないかと同じく紅茶を置かれた獏の方を見るが、特に警戒することなく口を付けている。

「ふふ。何も入ってないよ」

「…………」

 見透かされている。面の所為で顔は見えないが、どんな表情で言っているのか。見えないことは少し不気味とも思えた。

「貴方は人間が嫌いなんですか?」

「唐突だね」

「人間に対して過剰な殺意があったように見えたので」

 殺意を向けてきた人間の頭を獏の力で派手に撃ち抜いたことが気になるらしい。殺意を向けてきた相手に殺意を返しただけなのだが、言われることにも一理あった。

「そうだね。人間は嫌いだよ」

 睫毛を伏せ、紅茶を啜る。全ての人間を悪く思っているわけではないが、無条件に良くも思っていない。嫌いと言ってしまった方がしっくりとくる。

 黒葉菫もそれ以上は訊かなかった。あまり突っ込んで良い話ではないと思った。

「スミレさんは花だから、人間に水を与えられてたのかな」

 話を振られて黒葉菫は、紫色の菫の花が庭を埋めていた光景を思い出す。もう随分と前の話だ。

「地面を埋め尽くすようにたくさんの仲間が咲いてて、毎日人間が水をあげてました」

「それじゃあ憎めないね」

 きっと大事に育てられていたのだろうと思い浮かべる。誰も彼もが恨みを抱いて生きているわけではない。

「そこから種が飛んで、少し離れた道の端でコンクリの隙間から一人で生えてたのが俺です」

「そっち!?」

 思わず紅茶を噴き出しそうになり、獏は慌ててカップから口を離した。

「だから協調性とか無いんだと思います。輪から離れれば、見向きもされない。水なんて貰ったことないです」

「それは……」

「輪から離れてたから変転びとにして貰えたので、別に悪いことだとは思ってないです」

「変転人?」

「人の姿を与えてもらった奴のことです。だから今こうして、御菓子だとか紅茶だとか出してもらって、ちょっと感動してます」

「……そっか」

 追加のマカロンの皿を運んできた灰色海月は、不思議そうに瞬きをした。感動の理由はよくわからなかったが、喜ばれていると解釈をした。

 皿を置いて、すぐにくるりと踵を返し、俄然遣る気を出して台所へ戻った。

 新しく置かれたマカロンを見、黒葉菫は出しかけた手をうろうろと彷徨わせた。

「さっきより砂糖漬けが多い……」

 輪から切り離されて恨んでいるのではないかと灰色海月は気を利かせたつもりだったが、裏目に出てしまったようだった。

 甘い香りに誘われたのか、黒猫がとんと机上に乗ってくる。不揃いなマカロンにひくひくと鼻を寄せた。

「その猫って、飼ってるんですか?」

「うん。迷子だよ」

 勝手に食べないように黒猫を持ち上げ、獏は膝に乗せる。この街で迷子になっている所を見つけて拾った猫だ。

「――そうだ。スミレさんはこの街のことを何か知ってる?」

 黒猫がマカロンの方へ行かないように撫でながら問う。この街は一体何なのか、丁度知りたいと思っていた所だ。鵺と接点のある黒葉菫なら、何か知っているかもしれない。

 黒葉菫はマカロンの上に載った砂糖漬けを横に退けながら口を開く。

「誰もいないってことくらいしか……」

「街に端はあるの?」

「ああ、それならあります」

 獏は興味津々で目を丸くする。何処にあるのかもわからない街の端が存在することを初めて知った。

「それは僕も行ける所? 行けるなら行ってみたいんだけど」

「制限されてないし、行けると思います。今から行きます?」

「うん」

「じゃあ足を取られないようにだけ、気を付けてください」

 頷くが、足場が悪いのだろうかと小首を傾ぐ。

 マカロンを焼き続ける灰色海月はそのままに、黒葉菫にも常夜燈の硝子の筒を持たせて店を出た。きょろきょろと辺りに視線を巡らせ、黒葉菫はゆっくりと歩き出す。その後を獏も常夜燈を掲げながら追った。

 霧の立ち籠める暗い夜の街を、何本も分岐した細い路地を、迷うことなく進んでいく。何か目印でもあるのかと周囲を見渡しながら進むが、それらしき物はなさそうだった。

 どのくらいの時間を歩いたのか、時間の感覚がないのではっきりとしないが、路地の途中で黒葉菫はぴたりと立ち止まった。

「この先です。足元に気を付けてください」

「わかった」

 煉瓦の建物の横を抜けると、何度も注意を促してきた意味が理解できた。

「これは……」

 唐突に地面がなくなっていた。足下が崖のように深く暗く、澱んだ闇があるばかりで底が見えない。常夜燈で照らすが、その先に地面は見えなかった。纏わり付くような闇がそこに広がっているだけだった。左右を見渡しても、同じように地面は途中で切れている。崖のようにぐるりと左右に伸びていた。

「落ちないでくださいね」

「この下は何があるの?」

「さあ……俺は知りません。でも落ちたら拾えないと思います」

「この向こうは? まるで切り離されたような……」

「俺は知らないです。気になるなら、訊いてきましょうか?」

「鵺に……?」

「嫌なら、俺が個人的に気になったことにしますけど」

「それなら頼みたいな」

 きょろきょろと見回し、建物の陰に小さな植木鉢を見つけた。獏はそれを拾い、端に戻って来る。植木鉢を躊躇いなく闇に放り投げた。底があるなら、音がするだろう。

 だが音の前に、闇の中から黒い手のような物が幾つも伸び、競うように植木鉢を捕まえて闇に引き込んでいった。どれほど待っても音はしなかった。

「…………」

 植木鉢も戻って来なかった。

「……今の、何?」

「さあ……訊いておきます」

「本当に端に行って良かったの?」

「危ないので行くなとは言われましたが、別に制限はされてないです」

「行くなっていうのは制限じゃないの?」

「え?」

 黒葉菫は頭の回転は速いようだが、何処か抜けている。初めて会ってまだ間もないが、何度もそう思うことがあった。

「じゃあ戻ります」

「そうだね……」

 常夜燈をくるりと返し、来た道を引き返す。獏はもう一度闇を振り返り、ふと何となく人差し指と親指で輪を作って闇を覗いてみた。

「――っ!?」

 きんと酷い耳鳴りがした。思わず両耳を塞いでしゃがみ込んでしまう。


 ――囲め 囲め


 脳に反響し幾重にも曇った聲が聴こえた。

 かなり先まで進んで獏が付いて来ていないことに気付き、黒葉菫も戻って来る。

「どうし……」

 闇に背を向けてしゃがみ込む獏の背後に、ざわざわと闇が蠢いていた。そんなに近くにはなかったはずだ。


 ――――うしろの正面 だぁれ?


 黒葉菫は体内生成したフリントロック式の銃を掌から引き抜き、虚空の闇に向けて弾を撃ち込んだ。闇は蠢き、黒い手をちらつかせる。

「…………」

 更に数発撃ち込み、座り込む獏の腕を掴んで引っ張った。早くここから離れた方が良いと思った。来た道を走って引き返す。闇はまだ蠢いていたが、追って来ることはなかった。種子の弾には菫の毒を仕込んであるので、その所為で闇は動けなかったのかもしれない。

「大丈夫ですか?」

 腕を引いて走りながら、まだ呆然と様子のおかしい獏を振り返る。動物面の所為で、視線が何処を向いているのかわからない。

「……耳鳴りがして……」

「耳鳴り?」

「一度にたくさんの感情が流れ込んできて……処理できなかった」

「?」

「あれは……生きてる」

「!」

「まるで思念だけが蓄積された肉塊の聲みたいな……」

 店の近くまで走って来た所で、獏は口元を押さえて再びしゃがみ込んだ。それを無理に引っ張ることができず、黒葉菫も足を止める。

「気持ち悪い……」

「吐きますか?」

「吐くほどの物を食べてない……」

「じゃあ背負うので、店に戻ったら寝て休んでください。今日は願い事が来ても休業でいいと思います」

「…………」

 全身が強張って力が抜けたように動けない獏を背負い、黒葉菫は常夜燈の持ち手を咥えてできるだけ振動を与えずに走った。頭に面の鼻がぶつかって少し痛かったが、文句を言っている場合ではない。

 店に戻ると灰色海月はまだひたすらにマカロンを焼いていたが、やや騒々しく床を踏む音に、台所から顔を覗かせた。

「どうしたんですか!?」

 珍しく感情を露わに焦燥し、慌てて台所から掛けてくる。ぐったりと背負われている獏に手を差し伸べようとし、どうすれば良いのかわからず指先を握って引いてしまう。

「休めば良くなると思う。ベッドは何処にある?」

「こっちです」

 邪魔になりそうな椅子を端に避け、奥の階段へ案内する。面を被っているので表情は見えないが、だらんと下がった腕はいつもの元気な獏ではない。

 階段を上がって先回りをして獏の寝室のドアを開け、ベッドに誘導する。横たえられた獏はぐったりとして動かなかった。

「何があったんですか……?」

「たぶん脳がパンクした」

「え?」

「処理能力を超えたんだと思う」

「よくわかりませんが……」

「寝たらきっと元に戻るはずだ。俺はちょっと帰る。看病は任せる」

「はい……それなら」

 ばたばたと掌から黒い傘を抜きながら、黒葉菫は店を出て行った。灰色海月は横たわる獏を見下ろし、体に触れる。どうやら怪我をしているわけではなさそうだ。看病と言ってもどうすれば良いのかわからず、灰色海月は椅子に座り見守ることにした。近くにいれば、何か注文があった場合にすぐに聞くことができる。どんな効果のハーブティーでも淹れることができる。

「早く良くなってください……」

 台所のオーブンがマカロンが焼けたことを告げるが、取り出しには行かなかった。食事も睡眠も必要のない街の中では、席を立たざるを得ない用はない。獏が元気になるまで離れるつもりはなかった。この感情は監視ではない。

 一緒に入って来たのか、黒猫がとてとてと歩いて灰色海月を見上げた。ふいと視線を逸らし、脚を曲げてベッドに跳び乗った。獏の傍らに丸まり、目を閉じる。

「私には懐きませんね」

 灰色海月は獏と黒猫を見詰め、少し寂しそうな顔をした。

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