10-白昼夢


 今日もしんと静まる誰もいない街の中、煙る霧の奥の誰も来ない古物店の屋根で黒いバクの面を被った獏は、見えない遠くを見るように頬杖を突きながらぼんやりと座っている。夜目はきくが霧があっては遠くまで見ることはできない。この霧は何処までも続き、晴れたことは一度もない。疎らに立つ街灯がぼんやりと照らしているが、その奥は見えない。この誰もいない街が何処まで続いているのかは知らない。

 罪人の牢屋のように使われているが、他の罪人は見たことがない。探せば何処かに棲んでいるのかもしれないが、そんな話は聞いていない。

 獏は傍らに置いた細長い硝子の筒の常夜燈を手に持ち、とんと屋根を蹴って降りる。屋根の上を跳んでも良いのだが、霧で不鮮明な中、足を踏み外してしまう危険がある。一人で跳んで落ちて怪我をしていては虚しすぎる。

 石畳の地面に、煉瓦の建物が並ぶ。古い街並みだと思う。常夜燈の光で照らしながら、ゆっくりと歩き出す。ここは常に夜の街だが、霧の中でも夜道の散歩は心地良い。俗世のことを忘れられる、牢屋にしては居心地は案外悪くない場所だった。

 建物の間には細い路地が幾つも伸び、入り組んだ奥には殆ど街灯が無く暗い。朧気に差し込む月明かりだけが頼りだ。その一つの路地に入ってみる。

 路地の中は道が分かれていたり曲がっていたり、小さな階段があったりと、通った場所を覚えていなければすぐに迷子になってしまいそうだ。

 手に提げた常夜燈は迷子にならないために持っている物だ。同じく常夜燈を照らす者に居場所を知らせる。硝子の筒の中に入れた二種類の夜燈やとう石は、振り合わせることで光を放つ。その光は半永久的に光り続けるが、普通の人間にはない力で光を点けたり消したりすることもできる。面白い石だと思う。

 歩き進む周囲にある建物の窓にはどれにも明かりは灯っておらず、永遠に眠っているように見えた。

 石畳を踏む音だけが静かに街に響く。こつこつと靴底が石を叩く音が耳に心地良い。

 所々に草木が植えられているが、この街の中では時間が止まっているため枯れることはない。もし枯れているなら、最初から枯れている物だろう。雨も降らないので水も吸っていないはずだが、夜の街で暗い緑を茂らせている。

 ふと思い立って、建物の一つのドアに手を掛けてみる。鍵が掛かっていたとしても開けられるが、鍵は掛かっていなかった。

 中は明かりがないので当然真っ暗だが、常夜燈で照らすと机や椅子など誰かが生活していたように置かれていた。時が止まっているので埃は被っていない。

 一番生活感の出る所は台所だろうかとうろうろと探してみると、すぐに見つかった。家族でも住んでいたかのような量の食器が棚に収まっている。冷蔵庫を開けると、獏は一瞬動きが止まってしまった。

(中身がある……)

 少しだけだが、食材が入っていた。冷蔵庫に電気は通っていないが、時間が止まっているため腐りはしない。

 冷蔵庫を閉じ、二階へ上がってみる。子供部屋だろうか、玩具やぬいぐるみなどが置かれている部屋があった。ベッドもあるが、シーツはきちんと整えられていて乱れていない。時計の針は零時で止まっている。

 他に夫婦の寝室だろうかベッドが二脚ある部屋もあったが、これと言った珍しい物などはなかった。

 家を出て、再び歩き出す。牢屋のために作った箱庭なら、冷蔵庫に食材まで仕舞っておく必要はない気がする。この街は外の世界からは見えない透明な街で、誰もいないということしか聞かされていない。詳しく聞く気もなかったので何も訊かなかったが、今なら少し気になる。

 街の端まで歩いてみたいが、端が何処にあるのか、方向もわからない。すぐそこかもしれないし、何時間も歩くような距離かもしれない。時間の概念はないのだが。

 暗い路地を進んでいくと時折開けた場所に出て、道が幾つかに分かれる。奥へ進むほど抜けられなさそうだ。


 ――みゃあ。


 暗い静寂の中で微かに声が聞こえた。誰もいない街で声や音が聞こえるはずはない。獏以外の唯一の住人である灰色海月は店の中で菓子を延々と焼いている。こんな所にいるはずはない。常夜燈にも反応はない。

 耳を澄ませ、耳が痛みそうなほどの静謐の中で声が聞こえる。知らず迷い込んだ者がいるのかもしれない。以前も子供が迷い込んでいたことがあった。子供は境界が曖昧で、迷い込みやすい。

 常夜燈で前方を照らしながら纏わりつく霧の中に足を踏み入れる。声は徐々に大きくなり、人間の声ではないことに気付いた。

 少し開けた場所に出、反響するか細い声の元を探る。懐から透明な石の付いた短い杖を抜き、一振りしてぴしりと伸ばす。霧を裂くように上空へ突き上げ、くるりと回す。音を集約する。

 透明な石の光に合わせて耳にか細い声の先が指し示される。

 それは一軒の家の中から聞こえていた。

(あそこか……)

 鍵の掛かっていないドアに手を掛け、中を覗く。先程いた家と同じだが少し狭い。明かりはなく暗がりの中に家具だけが置かれていた。

 耳に届く声は二階から聞こえてきた。暗い階段を踏み締め、踏み外さないようにゆっくりと上がる。

 短い廊下に佇むドアの一つを開ける。声はぴたりと止んだ。

「っ……」

 窓から差し込む微かな月明かりの中に、時の止まった揺り椅子が静かにそこにあった。座る人間はなく、代わりに一匹の黒い猫がこちらを見ていた。その黒い体から黒い靄を出している。靄に侵されそうな金色の瞳が微動だにせず獏を見詰めていた。だが焦点が合っていない。

「白昼の悪夢……」

 昼ではないが、起きているまま見る夢だ。悪夢には黒い靄が発生する。悪夢を見分けるために獏の目にはそう映る。

「いつから……」

 立ち上る靄はかなり濃い。動物も子供と同じく境界が曖昧なので迷い込んだのだろうが、か細い声は助けを呼んでいたのかもしれない。どれほどの時間悪夢に侵されていたのか、濃さから言えば昨日今日ではないことは確かだ。

 蹴らないように常夜燈を少し離して床へ置き、杖を横向きに両手で構える。

「夢は食べることを禁じられてるけど……これは御馳走だ」

 誰もいない街の中へ飛び込んできてくれた餌だ。街の外へ出向いたわけではないのだから、これなら食べても文句は言われないだろう。唇をじんわりと舐め、杖を振る。

「大人しく餌になれ」

 喰われることがわかったのか、靄は蠢き、細く長く獏に素速く襲い掛かる。それを杖を回して靄を歪め、それでも多い靄の触手を床を駆けて躱す。

 靄は先回りして床板を割り、手を突いてくるりと後退する獏を追う。

「随分と育ってるね――」

 視界の狭い面が弾かれ、床を滑っていく。月明かりで輝く金色の双眸を、視界の不利が無くなった鮮明な世界へ向ける。

 杖を横へ一閃、靄を裂く。切り離された形の無い靄はすぐに一つに戻る。

「強いな。どんな悪夢を見てるんだろうね」

 弱い夢なら裂かれただけで霧散しようとするが、飽くまで刃向かおうとする。何度裂こうと同じだろう。育ってしまった悪夢は強い。

「制限されるけど、いけるかな?」

 力の制限はあるが、ここは街の外ではない。外なら殆ど力を使えないが、街の中だとまだ自由がきく。杖を天井へ振り上げ、透明な石が光を湛えてガチガチと震える。

 危機を察してか黒い触手は細く数を増し、獏に襲い掛かった。分裂が増えて床板を割る威力はなくなったが、速さは増す。床を駆けて蹴り、壁を跳び黒い外套を翻してくるりと舞う。光る杖を悪夢へ翳す。

「――檻を」

 石はガチガチと震えながら光を周囲に散らす。光の筋は幾本も床へ刺さり、靄を中央へ追い詰めた。

「少し、我慢してね」

 緊張の色を湛え、中央へ集束する光を操る。靄は徐々に圧縮され、猫の中へ戻っていく。これだけの靄を体に戻すことは宿主の負担になるが、力を制限された状態ではこうするしかない。外に溢れさせていては対処が難しい。

 靄を光で押し込み、光の膜が猫を覆う。黒猫は変わらず焦点の合わない双眸で獏を見上げている。

「よし……良い子だ……」

 膝を突いて黒猫の顎に指を掛け、小さな口に口付ける。猫はびくりと体を震わせ、力の抜けたように椅子に伏せた。

「ん……」

 久し振りに食べる悪夢の味は格別に美味だった。最後の一滴まで悪夢を食べ干し、うっとりとする。

 同時に喉元に酷い疼痛が走った。

「!」

 外套の襟を開けると、烙印から血が流れていた。

(不味い……烙印に異常が出るとバレる……!)

 禁止されている夢を食べることを犯すとこうして烙印に影響が出るのかと、喉元を押さえる。喉が焼けるように痛み、血が止まらない。獏は杖を自身の喉へ向けて石を光らせた。

「ぅ……ぐ……」

 烙印に光の膜を張り、歯を食い縛って疼きを止める。脂汗を滲ませながら、ぴしりと石に罅が入るまで力を籠め続けた。石の光が弱々しくなる。

 暫くの後に漸く血が止まり、指で拭う。残る痛みで顔を顰めた。殺していた息を吐き、ゆっくりと呼吸する。烙印は思ったよりも面倒な物のようだ。

 その様子を椅子の上から黒猫が覗き込むように見ている。

「もう大丈夫かな……。おいで」

 手を差し出すと、黒猫は指に頬を擦り付け獏の膝へ乗った。

「僕には夢の内容まではわからないけど、随分古い夢だったね?」

 黒猫の背を撫でると、蹲るように伏せた。

「少し休んだら、君も店に来る?」

 黒猫は顔を上げ、小さく鳴いた。

 再び訪れた静寂の中、獏は床に転がり息を吐いた。力を制限されている状態だと対処に余裕がなかった。今後はもう少し考えながら動いた方が良いと反省する。特に街の外では無闇に手を出すものではない。

 暫くは息を潜めるように目を閉じ、金色の双眸をゆっくりと開ける。飛ばされた動物面は何処へ行ったかと首を巡らせ、部屋の隅に見つける。黒猫は元の椅子の上へ戻っていた。そこがお気に入りなのか。

 起き上がると黒猫も獏を見上げ、後を付いてきた。面を拾って足元に目を落とす。

「君も僕の顔が醜いと思う?」

 黒猫は何も言わず、面を付ける獏を静かに見上げていた。

 罅の入ってしまった石を見下ろし、杖を畳んで懐へ仕舞う。

 常夜燈が割られなくて良かった。光る常夜燈を拾い、ドアへ向かう。黒猫が後ろを付いてくることを確認し、部屋を出た。

 家の外へ出ると、深い闇が霧の中に佇んでいる。

「見てて。すぐに光を結んで道を照らすからね」

 常夜燈から伸びた光の糸が導く来た道を戻り、いつもの誰も来ない店へ。闇に溶けそうな黒猫も大人しく付いてきた。

 店に戻ると、慌てた様子で灰色海月が顔を出した。

「迷子になりましたか? 常夜燈が……」

「迷子ってほどじゃないけど、早く帰ろうと思って」

 獏の足元の黒猫にも気付き、灰色海月は視線を落とす。

「そちらは……?」

「こっちは迷子かな」

 常夜燈を置いて黒猫を持ち上げて気付く。首輪を付けていない。

「懐いてくれてるみたいだから飼い猫かと思ったけど……野良猫なのかな?」

 黒猫は小さく鳴くが、生憎猫の言葉はわからない。

「野良猫ならここで飼ってしまおうか」

「飼うんですか?」

「駄目? 同じ目の色をしてるから、仲良くなれそうな気がしたんだけど」

「いえ、私は構いません」

「また迷子になるといけないから、常夜燈を付けておこう」

 瓦落多の並ぶ棚から古いリボンを掴み、硝子の容器に夜燈石を入れて閉じる。リボンを通して黒猫の首に結んだ。

「首輪を付けると愛着が湧くね」

「そうですか」

 普段街の外へ出る時に獏に首輪を取り付けている灰色海月は、聞き慣れない言葉に小首を傾げた。

「今日からここが君の家だよ」

 黒猫は獏を見詰めながら鳴き、机上に座る。ここが新しい居場所だ。

 あの揺り椅子を気に入っていたようだが、この場所も気に入ってくれれば良い。

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