9-掃除


 誰もいない街の誰も来ない古物店で久し振りに棚の中の瓦落多を並べ替える。最近少し買い手ができて、並べ替えに精が出る。

 灰色海月は奥の台所で珍しく本を読んでいるが、逆様なので読めていないだろう。

 そんな静かな店内にけたたましくドアを開ける音が響き渡った。何事かと獏は動物面をゆっくりと狭い通路へ出す。

 出入口に立つ蛇のような細い尾が生えた幼い少女の姿を捉え、すぐに顔を引っ込めた。

「獏! 出てきなさい!」

 少女は小さな腕を組んで叫んだ。灰色海月も本を置いて何事かと台所から顔を出す。少女と目が合う。

「あらクラゲちゃん。獏が何処に隠れてるかわかる? どうせその辺にいるんでしょ?」

 凜とした勝気な双眸を狭い店内に巡らせる。

「何処かの棚の隙間にいると思います」

「わかったわ」

 ぽこぽこと木履ぼっくりの音を響かせて、順に棚を覗き込む。狭い店内で見つかるのは時間の問題だった。


「――見ぃつけた」


 薄暗がりに膝を抱えて背を向ける獏の首根っこを掴み、ずるずると通路に引き摺り出した。

ぬえ……!」

「何で私が来たかわかる?」

「…………」

「沈黙は自覚あってのことかしら? 首輪を付けずに外へ出たかと思えば、今度は人間に暴食を働いて廃人にしたらしいじゃない。弁解の言葉でもある?」

「ない……です」

 見た目は小学生程の小さな少女は、気不味い獏を床に放り捨てた。

「さすがに今度はクラゲちゃんに御仕置きを頼むだけでは済まないから、私が直接来てあげたわ。ちょっとそこに正座なさい」

「はい……」

 鵺の少女に向き直り、獏は肩身狭く正座をする。鵺は罪人へ刑を科す執行人だ。子供のように見えるが、獏より年上のはずだ。

「どうして廃人になるまで食べたか、言ってみなさい」

「……癇に障った」

「たったそれだけで廃人にしてたら、この世から人間なんていなくなるのよ」

「鵺も軽視されると怒る癖に……」

「確かに弱々しい人間に見下されたら腹が立つわ。でも、お前は既に罪を犯してここに閉じ込められてる身なの。更に悪いことをしてどうするの」

「僕は便利屋じゃない」

「気持ちはわからなくはないって言ってるのよ。人間如きが扱き使おうなんて傲慢だもの」

 腕を組みながらうんうんと頷く。そう思うなら善行なんて科さないでほしいと獏は思うが、口答えはできない。

「それはそれとして、駄目なことをしたら駄目なんだから、御仕置きはきっちりするわよ」

「っ……」

 また烙印に激痛の仕置印が捺されるのかと構えるが、鵺は仕置印を出さなかった。代わりに手紙を一通取り出す。

「この願いを叶えてもらうわ」

「願いを……?」

「クラゲちゃんの回収前に適当に選んだの。これを善行で叶えなさい」

「…………」

「そのお面の向こうですっごい嫌そうな顔してるでしょ。引っ剥がすわよそのお面」

 反射的に獏は両手で動物面を押さえる。鵺が手紙を飛ばすと、面に角が当たって落ちた。封筒は無く、折り畳まれた紙が一枚だけだった。

「善行で叶えるって……いつもと同じってこと?」

「違うわ。相手に危害を加えず、代価無しで叶えて。タダ働きしなさいってことよ」

「厄介な相手だったら?」

「今回のことは監視役のクラゲちゃんがお前を止められなかったことにも問題はあるけど、クラゲちゃんに危害が加えられるようなことがあれば審議してあげる。獏が危害を加えられるくらいなら、御仕置きだと思って受けときなさい」

「は!? 冗談……!」

「いい人だといいわねぇ?」

 意地の悪い幼い笑みを浮かべ、後ろで手を組んでくるりと背を向ける。

「じゃあ健闘を祈ってるわ」

 ぽくぽくと木履の音を立てて足取り軽く、開けっ放しのドアから外へ出て霧に溶けるように消えた。残された獏は手紙を見下ろし、苦虫を噛み潰す。

「仕置印の方が良かったかもしれない……」

 面倒な願い事だった場合、短時間の激痛の方がまだ良いと言える。仕置印だと獏一人が苦しむだけだが、厄介な差出人だと灰色海月まで巻き込まれる可能性がある。だが執行人である鵺には従わなければならない。この誰もいない逃げられない街の中では執行人である鵺は絶対だ。

 適当に選んだと言っていたが、せめて楽な願い事であれと手紙を開く。


『ゴミを片付けてください』


 ゴミ出しくらい自分ですれば? という言葉は呑み込んだ。

「ゴミを出すくらいなら……楽でいいのかな……?」

 手紙の様子を見に、灰色海月も覗き込む。手紙にはその一文だけで、他には何も書かれていなかった。

「粗大ゴミなら一人じゃ難しいのかな? また便利屋みたいな願い事だけど、仕方ない……。力仕事ならクラゲさんは待機してもらうことになるね」

「力及ばずすみません」

「さっさと片付けて御仕置きを終えてしまおう」

 手紙を仕舞い立ち上がる。正座で少し足が痺れた。棚に手を突きつつも、店の外へ出る。

 獏の首に力を制限する冷たい首輪を嵌め、灰色海月は灰色の傘を開いてくるりと回した。

 二人の周囲は瞬時に景色を変え、住宅街の中の二階建ての戸建て住宅の前に現れる。

 玄関のドアには鍵が掛かっていたので手を翳すが、獏は怪訝に首を傾げた。

「重い……?」

 鍵がドアの向こうで何かに引っ掛かっているのか、回そうとすると重く感じた。正確には重さは感じないのだが、動かす物が重いとその分、力を多く籠めなければならない。

 一歩下がって人差し指と親指で輪を作って家に翳す。人の気配はある。

「……二階の奥……ベランダの方かな? 裏に回ってみよう」

 路地から家の裏へ回ると、何もない空き地があった。見上げると、ベランダにいた壮年の男と目が合った。

「あの人ですね」

 男は呆然と獏を見詰めたまま動かない。突如現れた動物面の怪しい者に警戒しているのかもしれない。

 獏は灰色海月の手を取り、壁を跳んでベランダの柵にふわりと降り立った。

「願いを叶えに来た獏だけど」

「……ああ……本当に来たのか……」

「早速だけど、願い事は?」

「手紙に書いた通り、ゴミを片付けてくれればいい」

「うん。ゴミって言うのは……」

 心焉に在らずといった印象の男は踵を返し、カーテンの閉まる窓を開けた。

「!?」

 部屋の中は堆くゴミが積まれ、足の踏み場もなかった。これには獏も絶句する。咄嗟に鼻を押さえようとするが、面に手が当たるだけだった。

「異臭で鼻が捥げそうなんだけど……」

「獏の鼻が捥げたら豚ですよ」

「豚に失礼だよ」

 このゴミを全て片付けるとなると、骨が折れる所ではない。力が制限された状態では片付けられる気がしない。選りに選ってよくも面倒な物を引き当ててくれたと鵺を恨む。

「遣るにしても、この大量のゴミを積むトラックでも先に持ってきてもらわないと……」

「一瞬で消してくれないのか」

「魔法使いじゃないんで」

「トラックか……仕事先のを持ってくる」

 男は言うや否やすぐにベランダに掛けた梯子から下へ降りる。家の中を通れない程ゴミが詰まっているのかと獏の顔は引き攣った。

 異臭が漏れないように窓を閉め、げんなりしながら男の帰りを待つ。

 一瞬で消せるわけではないが、力の制限がなければすぐにゴミを燃やして始末することはできる。だが今はそれはできない。一つ一つ片付けていくしかない。

 暫く呆然と待っていると、大きな荷台のトラックがベランダの前の空き地に留まった。玄関側に留めてもそこからゴミを出せないと言うことだと察した。窓からゴミ出しをするらしい。

 男は梯子を上がってベランダに戻ってくる。そして折角悪臭を遮っていた窓を再び躊躇いなく開けた。鵺は適当に手紙を持って来たと言っていたが、知っていて持って来たのではないかと思えてくる。

「とりあえず端の方に避けて」

 男は言われた通りにベランダの端へ行き、突っ立って獏を見る。灰色海月も少し下がらせ、部屋の中のゴミに向かって手を翳した。

 手の動きに合わせ、ゴミの詰め込まれた袋は宙を飛び、トラックの荷台にぽすんと落ちる。

「おお……」

 ゴミ袋を次々とトラックへ落とすが、なかなか床が見えない。

「袋に入ってるゴミは僕が飛ばすから、バラバラのゴミを袋に詰めてほしいんだけど」

「やっぱり魔法使いじゃないか」

「そんな大層なものじゃないよ」

 見える範囲のゴミ袋をトラックへ積み、袋詰めの面倒な作業を三人で始める。床も少し見えるようになった。

 食べかけなのか何なのか、残された食品に虫が集っている。

「きつい……」

 ゴミを動かすと、黒い大きな虫が駆け出してきた。

「!?」

 反射的に身を引くと、灰色海月が透かさず手で捕まえた。

「…………」

「ゴキブリを素手で捕まえる女か……」

「冷静に言わないでよ」

 じたばたと蠢く虫を指で掴んで獏に差し出すが、やめてほしいと思った。

「クラゲさん……まさか食べないよね?」

「! 一番手っ取り早い処理方法だと思ったんですが」

「さすがにちょっとここで拾ったものは……。それとね、人間はそんなもの食べないんだよ」

「残念です」

 灰色海月は少し眉を下げて、ベランダから虫を投げ捨てた。

「虫を食う女か……」

「だから冷静に言わないでよ。虫だって食べる海月なんだから」

 足元のゴミを蹴ってしまい、小さな虫が数匹飛んだ。

「触りたくない……」

 それぞれ分かれてゴミを詰めるが、獏はできるだけ触れずに袋詰めをする。灰色海月がちらちらと様子を窺っている。

「大丈夫ですか?」

「力を使い過ぎて疲れてきたけど、まだ大丈夫だよ」

 力の制限がある状態で常に物を動かすために力を使っている。小さな軽い物を動かすだけなので消耗は控えめだが、あまり使い続けてもいられない。

「詰める方を頑張ります」

「うん。ありがとう」

 そうは言っても灰色海月に任せきりではいけない。獏も仕方なく力ではなく手も使う。

 黙々とゴミを詰め、時折出現する虫に跳び上がりそうになっていると、突然男が声を上げた。

「無くしたと思っていた腕時計だ!」

 ゴミの中から金属ベルトの腕時計を引き摺り出して喜んでいる。

「それは無くしたんじゃなくて、埋まらせてたって言うと思うけど」

 獏の呟きは耳に届いていないのか、腕時計をぷらぷらと嬉しそうに振っている。そういう『無くした』物がまだまだ出てきそうだ。獏は苦笑しながら、止まっていた手を動かす。

 手分けをして片付けていると、何とか階下へ伸びる階段を見つけることができた。

「下の階に行く」

「おう」

 袋に入ったゴミをトラックの方へ飛ばし、汚れた階段を降りていく。そういえば何も言われないが、当たり前のように土足で部屋に入っている。靴を脱ぐ気にはなれないので、脱げと言われても絶対に脱がないが。

 一階の方がまだ袋詰めされたゴミが多かった。この辺りはまだゴミを片付けようという意志が多少なり存在していたらしい。トラックの方は見ていないが、そろそろ荷台から溢れている気もする。家の中からゴミを出せればそれで良いかという気もしてくる。

 玄関までの廊下のゴミ袋を粗方放り投げ、鍵が重かった理由がわかった。これだけゴミが押し付けられていては重いはずだ。無理に開けなくて良かった。開けていたらゴミが雪崩れて埋もれてしまう所だった。

 適当に部屋に入り、詰め込まれたゴミ袋をまた次々とトラックへ放る。異臭が酷い。

(台所が近いからかな……腐った食品がたくさんありそう……)

 ゴミ袋を退ける度に小さな虫が飛ぶ。流れ作業のようにゴミ袋を飛ばしていると、靴の先がゴミの間から覗いた。玄関からは離れた部屋だが、何処まで靴を飛ばしているのだと上に載っているゴミ袋を続けて退ける。

「…………」

 靴には中身があった。それはゴミ袋の下に続いていた。辺りに視線を巡らせゴミ山を確認し、再びゴミ袋を退けていく。退けた下から人間の下半身が出てきた。このままゴミを退けると上半身も出てくると思うが、それとは別に別の方向から手が生えてきた。靴は男物だが、手には女物の腕時計が見える。

 眉を顰めながらゴミ山を散らすと、数人の男女が折り重なるように倒れていた。生きた人間の色をしていない。

「死体……」

 思わず一歩下がると、何かにぶつかった。


「――ああそうだ。そういえばここに置いたんだった」


「!」

 振り返る間もなく、細い紐のような物が後ろから首に回された。首輪の隙間から入り込み締め上げられる。

「っ……! くっ……」

 首輪の下の烙印に紐が強く擦れ、熱を帯びて痺れる。

「はっ……ぁ、っ……!」

 紐に指を掛けるが、ゴミを放るのに力を使い過ぎて上手く力が入らなかった。首輪さえ無ければもう少し力が出るのに。

「見たんだよなぁ……じゃあ仕方ないなぁ……久し振りだな、この締め上げる感触と、気持ちのいい呻き声ぇ!」

「っ……ぁ……」

 近くのゴミ山にブーツの足を伸ばし、勢いよく蹴る。雪崩れたゴミが襲うが、男は首に紐を掛けたまま獏を引き摺った。視界に星が散るように意識が曖昧になってくる。人間に蹂躙されるなんて真っ平だ。

 このまま意識を落とせば、灰色海月もどうなるかわからない。それらしい物音はしなかったので今はまだ何もされていないはずだ。

 背後で床を踏む固い音が聞こえた。徐々に速さを上げて近付いてくる。

 一撃、紐が引っ張られ烙印に食い込み、意識が飛びそうになる。

「離してください」

「何だ……? 傘で殴ったのか……? 弱いなぁ」

 獏の首を引きながら、男は灰色海月を蹴る。しなやかな海月はそれを避けるが、力が及ばない。手を翳して細い触手で男を刺そうとするが、ぐるりと回転して獏を盾にされる。困ったような表情が獏の目にも映る。

「離してください」

 閉じた傘を持ち直し、男の頭や腕を叩く。傘なら毒がないので間違えて獏に当たっても平気なはずだ。だが何度叩こうとも男には痛くも痒くもないらしく、手は離れず強く締め上げるだけだった。

「離して……離して!」

 必死な声と力無く叩く音だけが虚しく聞こえる。水の中に沈んでいくような感覚がした。意識を、落とされる――


 ――しゃん、と何処からか小さな鈴の音が聴こえた。


「――がっ」

 鈍い音を立てて床に体が転がる。

「かっ……は……」

 紐のような物は草臥れたネクタイだった。首からネクタイが離れ、床に落ちる。熱を帯びた烙印がまだじんじんと痛んだ。

「ちょっと調子に乗り過ぎよ、人間」

 小さな鈴が付いた長い杖をしゃらしゃらと回し、ぽくりと音を立てて幼い少女は床に降り立つ。

「獏にはかなり効いたんじゃないかしら? 人間に蹂躙される屈辱は」

「鵺……」

「ネクタイくらい切りなさいよ」

「首輪が無ければね……」

「ま、喋れるなら大丈夫ね」

 鵺は杖を倒れた男にしゃんと向ける。

「人間のことは人間に任せればいいと思うけど」

 ちらりと折り重なる死体に目を遣る。行方不明になっている人間のはずだ。

 男は鵺の視線が逸れた一瞬を見逃さず、床を転がりネクタイを拾って飛び掛かった。それを鵺は難無く杖を回して絡め取り、再び床に崩す。

「脳髄をぶちまけさせてあげようか?」

 杖を男の額に押し当て、感情の籠もらない声で言った。

「この鵺様に手を上げようなんて」

 鈴がしゃんと鳴り、男はぷつりと白目を剥いて床に落ちた。指先一つぴくりとも動かず沈黙する。

「とりあえず意識を飛ばしたけど、あとは人間に任せればいいわね。通報しましょ」

 まだぼんやりとする頭で、獏は鵺を見上げる。最初から見ていたのか、偶々様子を見に来ただけなのか。

「ありがとうございます」

 灰色海月は深々と頭を下げた。自分の力ではどうにもならなかった。鵺が来なければ今頃どうなっていたのか、考えたくもなかった。

「クラゲちゃんは素直でいいわね。獏もお礼の一つや百くらい言ってもいいのよ」

「百は多い……」

 まだ痛む烙印に手を遣りながら、ゆっくりと起き上がる。力の乏しい頃を思い出して嫌になる。

「別に獏を監視してたわけじゃないからね? 烙印に異常があると連絡が来るのよ。偶々手が空いてたから、私が来たんだけど」

 しゃらんと杖を消し、獏の前にしゃがむ。首輪を外して烙印を確認する。仄かに光り、異常を示している。指で軽くなぞると、びくりと肩が跳ねそうになり獏は耐えた。

「痛みはすぐに引くと思うから、もう少し我慢ね」

 首輪を嵌め直し、白目を剥く男と死体とゴミを見ながら鵺は立ち上がる。

「これに懲りたら、大人しく善行で償いなさい。それじゃ、撤収――」

 ぽくぽくと跳ねるように床を駆け、くるりと姿を消す。後にはしんと沈黙が残った。

 灰色海月は怖ず怖ずと様子を窺うように歩み寄り、獏に手を伸ばす。

「無事で良かったです」

「ああ……ごめんね。もっと背後を警戒してれば良かった」

 彼女の手を掴むことに逡巡するが、更に手を伸ばされたので大人しく掴んだ。陸に揚げられた海月は非力だ。

 鵺が通報したのか、遠くでサイレンの音が聞こえた。あまり長居はしていられない。手を繋いだまま二階へ上がり、ベランダに出る。状態を把握せずに投げ続けたゴミ袋は、トラックの上で溢れていた。それも後に人間が処理してくれるだろう。

 まだサイレンの主の姿は見えなかったが、灰色海月はくるりと傘を回した。

 誰もいない街に戻ってからすぐに、灰色海月は獏の首輪を外す。烙印はまだ微かに光と熱を帯びていた。

 獏は首を摩り、小さく一つ咳をした。

「人間は本当に愚かで醜いな……」

 ぼそりと呟いた獏に、灰色海月は睫毛を伏せた。

「私は何もできなくて……監視役失格です」

「大丈夫だよ。クラゲさんはよくやってくれてる」

「力の制限がある代わりに私がいるのに、何もできませんでした」

「そんなに思い詰めないでよ。元は僕が悪いんだからね」

 頭を垂れる灰色の頭を撫でる。監視役には通常力は必要ない。最低限の雑用と送り迎えが主であり、強襲など想定されていない。罪人に対しては首輪を嵌める作業をするだけで充分なのだ。抵抗できるに越したことはないのだろうが。

「僕のことは気にせず刺してくれても良かったんだけど」

「それは……」

「刺しても即死するわけじゃないんだし」

「考えておきます……」

 傘を閉じ、誰もいない店のドアを開ける。温かな薄暗い明かりが迎えてくれた。

「今日はもう休むね」

「はい。すぐにレモンバームティーを淹れます」

「今は喉が焼けそうだから遠慮しようかな……」

 喉元に手を遣り、店の奥へ歩を進める。瓦落多の並ぶ棚の隙間を通り、台所とは反対側の階段へ向かった。

「クラゲさんも今日は早く休むといいよ。読書もいいけどね」

「あれは由芽ゆめさんから貰った御菓子のレシピ本で……あまり読めなくて……」

「じゃあ起きたら読んであげるよ」

「はい。お願いします」

 ぺこりと頭を下げる灰色海月の頭を見ながら、獏は階段を上がった。願い事の手紙の宛名程度は読むことができるが、もう少し教えても良いだろう。

 誰もいない寝室に入り、ベッドに腰掛ける。動物面を外してぼんやりと見下ろした。もう少し力が自由にできればあんなことにはならなかったのに。自業自得ではあるが、納得はできなかった。

 黒い面を傍らに置き、ベッドに倒れ込む。懐から杖を伸ばし、天井に向けた。くるりと小さく回すと、先に付いている透明な石が光り、部屋の明かりを消す。星は無いが、仄かに差す月明かりがカーテンの隙間から静かに零れていた。

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