7-不在
「あの、少し判断を仰いでもいいでしょうか?」
誰も来ない薄暗い店の中で棚に並べた古い小瓶を磨いていた獏は、顔に貼り付けた黒い動物の面を通路へ覗かせた。呼ぶ灰色被りの女性に目を遣り、小瓶を棚に置く。
「どうしたの?」
「未就学児の願いは聞かないんですよね?」
「うん。代価に心を貰うなんて言っても、理解が難しいだろうからね」
願い事を叶える獏の利用にも年齢制限はある。代価の心の意味が理解できる年齢であること。それを就学を境にしている。
「毎日同じ方から手紙が送られてくるんですが、これも捨てておいていいのでしょうか?」
灰色海月は五通の手紙を手に広げて見せた。宛名は文字と言うより線と言った方が良いのではないだろうか。辛うじて読めなくもない。
「随分と熱心だね」
棚の間から通路へ出、手紙を一通手に取る。中の紙にも大きさの揃わないバラバラの文字があった。
『なかなおり させてください』
『さ』の文字が『ち』になっていたりと見にくいが、そう読めた。
「友達と喧嘩でもしたのかな?」
「五日も仲直りができてないんでしょうか」
「気になる?」
灰色海月は手に広げた手紙に目を落とす。いつもは捨てている未就学児の手紙だが、こんなに毎日同じ願いが送られてくることはない。獏に相談したいと思った時点で気になっていると言えた。
「気になることは悪いことじゃないよ。人間の正常な感情だから」
紙を封筒に戻し、机の上に置く。
「代価は貰えないから願いは叶えないけど、話くらいなら聞きに行ってみる? 仲直りの背中を押すくらいなら」
ハッとしたように灰色海月は頷いた。元は暗い海の中にいたので感情というものに馴染みはなかったが、これが感情というものなら面倒なものだった。
「獏には感情というものはないんですか?」
素朴な疑問だった。頭はおかしいと思うがよく気遣ってくれる獏は人間ではない。人間ではないなら願いを叶える時に口にする言葉は何が言わせているのだろうか。
獏はほんの少し首を傾けて不思議がるような仕草をした後、答えてくれた。
「人間に接する機会は多いからね。人真似だよ。多少は何かしらあるんじゃないかな」
「そうなんですか」
灰色海月は、出会う前の獏のことは知らない。きっと色々な人間と接してきたのだろう。夢は人間の視る記憶と感情の形だ。それを食べる獏なら、真似も上手いだろう。
「外は今は昼だったかな? 丁度いいから行ってしまおう」
「はい」
黒い外套の襟を外し、刻まれた烙印の上に首輪を付けられる。街の外に出るために力を制限する物だが、重く冷たい感触が不快に締め付けた。
店の外へ出て、霧の中の誰もいない夜の街で灰色海月は灰色の傘をくるりと回す。
次に立っているのは明るい昼間の世界だ。眩しくて目を細める。
辺りを見回し場所を確認する。
「……幼稚園、かな?」
住宅街の中にパステルカラーの門や柵が並び、動物の形をした遊具が見えた。
「差出人を探すのは、門が開く時間にならないと駄目かな」
「ぁ……」
小さく声を上げた灰色海月の視線を辿って足元を見ると、見上げる純朴な双眸と目が合った。
「わ」
小さいのと面で視界が狭まっていることもあり気付かなかった。門の向こうで吸い込まれそうな澄んだ双眸で小さな男の子がじっと獏を見ている。
試しに拙い文字の手紙を取り出して見せてみる。男の子は途端に目をキラキラとさせた。
「ばくのひと! ですか?」
当たりのようだ。手紙を投函してからこうして毎日ずっと待っていたのかもしれない。獏はしゃがんで目線を合わせる。
「そうなんだけど、僕が願いを叶えられる年齢に達してないんだ。君は」
「よーちえんじゃ、だめですか?」
「話なら聞けるんだけど、願いは聞けない」
「はなしは……きける?」
「うん。仲直りだっけ? 誰と喧嘩したのかな?」
「おかーさんと、おとーさん! おとーさん、かえってこなくなっちゃったの!」
獏は立ち上がり、男の子に微笑んだ後、傍らに控える灰色海月に小声で囁いた。
「軽めの喧嘩だと思ったら、たぶん重い感じのだった……」
「重いんですか? 私には重量はわかりませんが」
「だって五日も帰ってこないんだよ!? 痴話喧嘩程度じゃないよ。父親の方が出て行ってるのも気になるし」
変わらず目をキラキラと見上げてくる男の子に再び目線を合わせ、何と言おうか考える。この子供の願いなら叶えられないが、親同士の喧嘩ならどちらかが願えば叶えることができる。だが場合によっては大人の喧嘩の方が対処が難しい。どちらも願わない可能性もある。
「おとーさん、かえってきますか? おにーちゃんも、おとーさんといるの」
「んー……じゃあ一度、君の母親に話を聞いてみようか。当事者の方が喧嘩の内容は理解してるはずだから」
「とじしゃ? おかーさんは、もうすぐおむかえにくる!」
「それじゃ待ってるね」
「うん!」
ここは裏門のようだが、表門の方が徐々に騒がしい。親が迎えに来ているらしい。
「…………」
次々と迎えに来る親達の流れが途切れても、男の子の親は現れなかった。男の子は一人でうろうろと、時折獏の方を見てちゃんと待っているか確認のために手を振っている。
たっぷりと暫く待った後に相当遅れて自転車を留めて園内に入る女性の姿が見えた。男の子が急いで駆け寄る。あれが母親らしい。
獏は表門へ移動し、母親に接触を試みる。
「!? へっ、変質者!?」
「酷い言われようだね」
動物面と首輪を付けた黒尽くめの格好に、母親は数歩後退した。突然出て驚くのは無理もないが、変質者とは。何もしていないのに。
「おかーさん! このひと、ばくのひとだよ。ぼくがよんだの」
「え? ばく……? 呼んだの?」
男の子の助け船に救われる。勝手に来たわけではなく呼んだというのは良い表現だ。呼ばれたから来た。それだけだ。
「獏の噂って御存知ですか? 願い事を叶えるっていう」
「願い事……? そういえば、ママ友の間で少し聞いたような……」
「良かった。それなら話が早い。僕がその願いを叶える獏です」
思いっ切り胡散臭そうな顔をする母親に、獏もにこやかに子供を盾にすることにした。
「この子が御両親を仲直りさせたいみたいで。なので当事者から少し話が聞けないかなと。未就学児の依頼は受けないので、母親でしたら改めて願いを受理できます」
「は……はあ。この子がそんなこと……」
「とじしゃ! おはなしする!」
子供は乗り気だ。それを突き放すこともできず、胡散臭そうな顔は止めなかったが母親は渋々頷いた。動物面の怪しい人物に子供が勝手に家庭の相談を持ち掛けたのだ。それほど子供が気にしているという証拠にはなっただろう。
「ここではちょっと……近くのカフェでいいですか?」
「いいですよ」
飽くまでにこやかに対応するが、早くも獏は顔が引き攣りそうだった。
「ばくのひとのおめん、かっこいい」
「初めて言われたよ」
「どこでうってますか?」
「これはね、貰った物なんだよ。手作りらしい」
「つくったの? すごい!」
「子供は素直でいいね」
「何言ってるんですか、バク科バク属の只のマレーバク風情が」
「辛辣」
母親は乗ってきた自転車を押しながら、ぞろぞろと近くの小さなカフェに着く。カフェと言う物は初めてなので、灰色海月が興味を示している。
中に入ると静かな色をしていたが、女性が多く楽しそうに談笑している。こんな怪しい人物と共に人のいない場所へは行かないだろう。賢明な選択と言える。
奥の席に案内されそれぞれ座る。人数分の水を置かれ、男の子と母親はメニューに目を通す。獏と灰色海月は黙って二人を待った。
「お二人は何も飲みませんか?」
「おかーさん! プリンも!」
「晩御飯食べれる?」
「うん!」
人間達の使用する金銭を獏は持っていない。必要ないからだ。
「僕達は必要ないので、大丈夫です」
「そうですか?」
母親は男の子の分を含めて飲み物とプリンを注文した。程なくして届けられたプリンと言う物は、何だかよくわからないが揺れている。
灰色海月が獏の袖を引くので、気になるのだろうと理解はする。
「クラゲさん、ごめんね。お金持ってなくて」
その一言で察したのか、母親は二人分のプリンも追加で注文した。
「この子がご迷惑をお掛けしたようなので」
「迷惑ではないですよ。これが僕の仕事みたいなものなので」
二人の前にもプリンが置かれ、スプーンで突いてみると、やはりふるふると奇妙な揺れ方をする。
「少し懐かしい感じがします」
「海月の?」
質感と言い言われてみればだが、少し無理があるような気もする。
「美味しいです」
「うん」
一口頬張り、プリンに夢中な男の子を一瞥する。話より食べる方が大事なようだ。
「あまり長話は望まないと思うので、単刀直入に訊きます。喧嘩の理由って何ですか?」
母親も男の子を一瞥し、少し抑えた声で話し始めた。
「……価値観の違いです。この子はまだ理解できてないようですが、離婚届も出すつもりです」
「成程ね」
只の喧嘩ではないと思ったが、既に決着はついているわけだ。
「毎日顔を突き合わせると価値観の違和感は思うより大きく響いてくるものだからね。そういうのは距離を考えないと。近付きすぎると焼かれてしまう。考え方の一つとして認められるならいいけど、譲歩するばかりじゃ疲れるしね。無関心になることもいいと思うよ」
スプーンを食べないようにプリンを一掬い口に入れる。金属は無意識に食べようとしてしまう。
「……あの、ここではまだ……その、明日改めて話せますか?」
「いいですよ」
「思ったより、きちんと話せる方なんだと……」
「信頼度ゼロの見た目で申し訳ないね」
「い、いえ! そういうわけでは……」
慌てて否定するが、図星だろう。
「お面は……その、素顔を晒すと不味いとか、そういう危ない感じの……?」
「気になる?」
母親はまた慌てて首を横に振った。
「綺麗な声の方なので、勿体ないなと……」
「声と顔が符合するとは限らないと思うけどね」
「す、すみません……」
ぺこりと頭を下げて自分の飲み物を一気に飲み、目を伏せた。
「それじゃあ日を改めて、明日また来ます」
顔を上げた男の子に小さく手を振り、獏と灰色海月は店を出る。狭い店内では傘を振れない。店の外で灰色の傘をくるりと回し、二人は忽然と姿を消した。
誰もいない街に戻り、外の夜が明けるのを待って翌日も同じ幼稚園の門の前に立つ。
次々と登園する園児達と親の中に、昨日の母子の姿を見つける。
母親が先に気付いて会釈し、男の子も手を振る。獏も軽く振り返し、母親の許へ行く。
男の子を見送り、昨日と同じカフェへ、同じ奥の席に座った。同じように飲み物を注文し、机に置かれるカップを見る。
「……見ず知らずの方にこんな話をしていいのかわからないんですが」
「いいですよ。願いを叶えるために見ず知らずの人の話はたくさん聞いてきたので」
「…………。昨日、価値観の違いと言いましたが、実は……浮気なんです。夫の」
確かにそれは子供の前では言えないかと納得する。それで父親の方が出て行ったことにも。
「お子さんは五日程前から毎日願い事の手紙を出してたんですが、その頃からですか」
「そんなに……思い詰めさせていたとは知りませんでした。家を出て行ったのはもう少し前ですが……」
「そうですか。改めて何か願いがあるなら聞きますが、どうします?」
「願い……。あの人が二度と浮気をしないなら、子供のために縒りを戻してもいいんですが、そんなことできるのか……」
俯いてカップの中に視線を落とす。静かに揺らぐ液体が、映る姿を掻き消す。
「できますよ。僕なら」
はっきりと言い切った獏に、母親は顔を上げる。不安そうに眉を寄せているが、これは縋ろうとする人間の目だ。
灰色海月に目配せし、新しいカップに紅茶を注いでもらう。
「では君の願いは、二度と浮気しないように。そして縒りを戻す下地――かな?」
「いいんですか……?」
「これが今の僕の仕事だからね。願いはこの二つでいいね?」
「……はい」
「願いの代価は君の心だ。柔らかい部分をほんの少し。今回は願いの数に合わせて二つ、戴くよ」
指を二本立てて見せる。
「えっ……心?」
「喜怒哀楽などの感情や幸福や不安の気持ち、あらゆる記憶や思い出の中からほんの少し戴くだけだよ。その後の生活に違和感はないし、痛みもない」
「それなら……」
灰色海月の淹れた紅茶を勧める。カフェに来て注文した飲み物とは別に唐突に差し出された紅茶に少し躊躇うが、母親は空気に呑まれてその紅茶に口を付けた。
獏は人差し指と親指で輪を作って覗き、席を立つ。
「それじゃあ、早速行ってくるね」
「え? 何処に……」
「君の旦那さんの所だよ」
家の場所を知っているのか聞こうとするが、獏と灰色海月は先に店を出てしまった。獏とは探偵なのだろうかと母親は怪訝に思いながらも注文した残りの飲み物を飲んだ。
店を出た二人は少し歩き、陽の陰になっている路地に入る。昼間はやはり眩しい。
「父親の方も日中は仕事があるだろうし、夜にまた行こうか」
「はい」
「どの心を食べるかも考えておかないとね」
「二つは初めてですか?」
「願いを叶えることを始めてからは初めてかな。無差別に喰い散らかす方が楽なんだけどね」
「それをすると、只のケモノですね」
「皮肉?」
薄ら笑い、灰色海月を見る。海月は何も言わず、灰色の傘をくるりと回した。
夜の帳が下りても人間の世界は静寂にはならないが、陽が落ちた世界は見慣れた黒い空に安堵する。夜行性の獏としても動きやすい。
父親が住むらしいマンションの前に立ち、指で作った輪を上空に向ける。階数を確認して傘を閉じる灰色海月の手を取り、壁を跳び上がる。
ベランダに降り立ち、カーテンの閉まる窓を見る。明かりが点いていない。
「留守ですか?」
「いや、いるはずだけど……」
もう一度指で輪を作り、感情の波を見る。やはり人の気配はある。
「寝てるにしても元気だから、窓から遠い部屋でもあるのかな?」
窓の鍵に手を翳し、難無く開ける。かららと窓を開けると、声が聞こえた。女の声だ。ばちんと窓を閉め、ベランダの塀に手を突いた。
「どうかしましたか?」
「ちょ、ちょっと待って」
「?」
獏は三度深呼吸し、もう一度窓を開けた。明かりを消した薄闇の中で、ベッドの上から眉を顰めた男女が身を起こしてこちらを見ている。夜目がきくのではっきりと見えるが、気をしっかりと持つ。
「失礼するよ、浅ましく愚かしい人間達」
まるで悪役のような台詞を吐いてしまったが、取り消せないので仕方がない。
「何なんだ、お前は……。一体何処から……」
「ベランダから」
「それは見ればわかる」
流れを戻そうと、獏はわざとらしく咳払いをした。動揺しているわけではない。
男の陰に隠れるようにシーツを握る女を見る。
「それが浮気相手かな?」
女はその言葉に身に覚えがなく一瞬思考停止してしまったが、ゆっくりと男の方へ目を向けた。男は目を合わせなかった。
「浮気相手って……私のこと……?」
「そうだよ」
目を見開き、女は目を合わせようとしない男の側頭部を見る。
「どういうこと……?」
男は暫く冷や汗を流し何も言わなかったが、沈黙では更に気不味くなるだけだと気付き口を開いた。
「こんなふざけた格好の奴の言うことを信じるのか? 嘘に決まってるだろ……?」
「そ……そうよね……嘘よね……。嘘なんだよね……?」
念を押すように語気を強めるが、男の唇は震えて何も言えないようだ。離婚を決めた後にこの関係になったのなら堂々としていれば良いだけだ。つまりこの女は離婚前から交際し妻子がいることを知らない。
獏は指で輪を作り、ベッドの上を見る。不安定に揺らいでいる。押せば一度疑念を抱いたこの女は獏の言うことを信じる。そう確信した。男は取り繕うことが苦手らしい。
「その男、子供もいるよ」
「!?」
凄い形相で女が男を睨む。粘るように側頭部を睥睨しながら、シャツを羽織って部屋を出て行った。
開け放たれたドアから、少しの間の後、勢いよく女が駆け込んできた。男も振り返り、その手に握られた包丁に目を見開いた。
「うわああああ!」
「死ね!」
とんと床を蹴り、獏は間に入り包丁を持つ手を掴む。
「離して!」
「それだと僕の依頼が達成できなくなる。今はもう少し、我慢してほしい」
「我慢……我慢、って……」
極度の興奮状態で女は肩で息をする。男はベッドの上を這い、獏の背後に身を隠した。
「夜だからね。少し眠っておいで」
動物面を少しずらし、掴んだ腕を引き寄せる。口付けると、糸が切れたように女はがくんと頭を垂れた。床に包丁が落ち、倒れそうになる女の腰を支える。
「な……何をしたんだ……? ま、まさか、ころ……」
「眠らせただけだよ。ベッドを空けて」
言われた通りに男は慌ててパンツを穿いてベッドから下り、距離を取った。
ベッドに女を寝かせ、獏は男に向き直る。
「どうする?」
「えっ? どっ、どうするって……」
「だから、こうなったら、どっちを選ぶのかな?」
男はまだ動揺しながらも、床に落ちた包丁に視線を落とした。殺されかけたことに息を呑む。
「こ……こんな危ない女はもうたくさんだ!」
「じゃあ縒りを戻す?」
「もっ、戻す!」
「へぇ、戻すんだ」
「なっ、何だよ!?」
「散々掻き回しておいて、神経が図太いと思っただけだよ」
にこりと面の奥で笑い、くすくすと首を傾ける。男の背筋が冷たくなった。
「それじゃあ善は急げだね。早く荷物を纏めて戻ろう。クラゲさん、手伝ってあげて」
「わかりました」
灰色海月に促され、男は引き摺られるように心ここに在らずといった顔をしながら荷物を纏めて服を着た。
「荷物が少ないから、浮気相手の部屋に転がり込んだって所かな?」
「お……お前、何なんだよ……」
「僕は只の願いを叶える獏だよ」
「獏……。そういえば、庭付きのマイホームを獏にお願いするって言ってたような……」
ぐっすりと眠る女に目を遣る。暫く目覚めないだろう。
「そんな物願おうとしてたの? 物理的な願いって面倒なんだけど」
「マイホームでも叶えてくれるのか……」
「面倒だから受けないけどね。家なんてまず土地を探すのが面倒だし」
「思ってた叶え方と違うんだな……」
「獏に夢見過ぎじゃない?」
少ない荷物を持ち、女を寝かせたままマンションを出た。電車はまだ動いている時間なので男は電車に乗り、獏と灰色海月は一足先に契約者の家へ傘で移動する。電車は人が多いので避ける。満員電車に動物面の鼻が引っ掛かって外れたら大変だ。
契約者の立派な家の前で男を待っていると、暫くの後とぼとぼと鞄を提げた男が帰ってきた。子供はもう寝ている時間だろうが、母親は起きているだろう。
「あ……は、早いですね……」
獏の姿を見つけてそんな呑気なことを言う。
「早く帰って仲直りしてあげて」
「は、はい……」
家の中へ入る背を見送り、また暫く待つ。父親は二度と浮気をしないと誓うだろうが、確実にしないとは限らない。そもそも最初からしないような人間なら、一度も二度もするはずがない。流されればまた同じことを繰り返すだろう。そんな曖昧な状態では、願いを叶えたとは言えない。一瞬を叶えれば良い願いではないのだ。
「人間は本当に面倒で愚かだね」
面の奥で睫毛を伏せる。そんな人間から食事をしているのだから、滑稽なのかもしれない。
夜道に人通りもなくなる時間まで外で時間を潰し、家の方へ指の輪を向ける。もう寝たようだ。包丁を向けられた後で疲れていたのだろう、眠りは深く夢は見ていない。
「行こうか」
灰色海月の手を取り、壁を跳んで上がる。明かりの消えた二階の部屋の窓の鍵を開け、中に入った。殺風景な部屋の隅に空の鳥籠が置いてある。中には鳥ではなく白い箱が入っていた。夫婦の寝室には、それぞれのベッドに収まって眠る姿があった。
「じゃあまずは父親の方から」
深い眠りの中にいるので、ちょっとやそっとでは目を覚まさない。動物の面を取り、男の上に跨る。
「二度と浮気をしないように、性欲を食べる」
杖が使えない所為で一々口に付けなくてはならないのは不本意だが、仕方がない。今後は夫婦間でもそういう行為ができなくなるだろうが、それは願いには含まれない。獏は善人ではないのだ。
父親から降り、次は母親だ。二つの願いを叶えた二つの代価を戴く。
「うん……何を貰おうかな」
できれば子供には影響の出ない物を戴きたいと思ったのだが、これがなかなか難しかった。何せ獏には子供がいない。親もいない。長く時を生きているだけの存在だ。
「どうしよう……。浮気に関する記憶だと、父親側に記憶は残ってるし、それだと母親だけ忘れた状態になって父親が付け上がりそう……。父親の記憶も食べると依頼外の暴食になってまたお仕置きだ……」
壁に背を預け、頭を必死に回す。暴食の罪で誰もいない街に閉じ込められているのに、その暴食を繰り返すことはできない。
「今日は悩みますね」
あまりに長考をするので、窓際に控えていた灰色海月も声を掛ける。
「最初が子供からの願いだったからね……どうしても気になって」
「優しいですね」
「それはとんだ皮肉だね」
こつこつと灰色海月も獏の傍らへ歩みを寄せる。就寝以外で動物面を長く外していることは珍しい。
「久し振りにはっきり素顔を見ました」
「……醜いでしょ?」
顔を上げ、眉を微かに顰めながら自嘲するように笑う。
「そうなんですか?」
「ああクラゲさんは人の顔に興味ないんだっけ。わからないか」
灰色海月は黙ったまま、眠る母親に視線を落とす。
「そこまで悩まれるなら、二日分の夕飯の記憶なんてどうでしょうか?」
小首を傾ぎながら問う灰色海月に獏はきょとんとしてしまったが、すぐに理解してくつくつと笑った。
「ふふ。それはいいね。献立を考える主婦には少し致命的だけどね」
「そうなんですか?」
「次の夕飯は子供の好きな食べ物だといいね」
獏は眠る母親に口付け、記憶を食べる。
「……薄味だね」
「味がわかるんですか?」
「食べ物の味はわからないけど、味はあるよ」
「そうなんですか」
「食べてみないとわからないよね」
獏は苦笑し、再び面を付けた。人間の食べる物に様々な味があるように、夢にも心にもそれぞれ様々な味がある。柔らかい物ほど美味だが、今日食べた物は然程美味しい物ではなかった。夕飯の記憶ではやはり物足りなさがある。
「どういった物が美味しいんですか?」
「柔らかければ柔らかい程いいけど、元々悪夢を好んで食べてたから、不安や恐怖なんかが美味しく感じるかな」
「そうなんですね。全くわからないです」
「だろうね」
壁から背を離し、もう一度眠る姿を一瞥する。
「帰ろうか」
「はい」
傘を手にベランダへ向かう灰色海月の背を見遣り、獏はもう一度指で輪を作る。夢も見ずぐっすりと眠っている間は、内側の感情は見えない。
「…………」
踵を返し、傘を開いて待つ灰色海月の許へ歩を進めた。くるりと灰色の傘を回し、二人は姿を消す。
こちこちと時計の針の音だけがやけに大きく響く部屋の中で、衣擦れの音が混ざる。
ひたひたぺたりと床の踏む音がゆっくりと追う。
夢の見ない眠りの中で、外から差す仄かな月明かりが、それを鈍く照らし出す。
「…………」
安心しきったように眠る男を見下ろし、柄を握る手に力を籠めてその光る鋒を持ち上げ、一息に下ろした。
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