6-駒
誰もいない街の誰も来ない店の中で、机に古いチェスのセットを広げ頬杖を突きながら、指先でくるくると駒を遊ぶ。
通路を狭くする棚の中の古い瓦落多を繁々と眺めて歩く中学生程の少年の姿が、時折棚の隙間から覗くのを見遣る。
「全然わからないけど、何か凄いですね」
「気を遣わなくていいよ」
盤上に駒を置き、獏はふふと笑う。
「興味の無い人にはどんな物でも瓦落多に見えるからね」
全ての棚を見終えた少年は獏のいる奥の机へ戻り、出された椅子に座る。机上で一人でチェスの黒白の駒を順に動かしている動物の面を付けた可笑しな獏をちらりと見る。
「チェスって俺はわからないですけど……一人でできる物なんですか?」
「やろうと思えばできるよ」
「一人でも楽しいんですか?」
「相手がいた方が手の内がわからなくていいかもしれないけど。興味あるなら、やってみる?」
「えっ、いや、ルール知らないし……」
「簡単だよ。キングを追い詰めれば勝ち。あとはそれぞれの駒の動き方を覚えれば。難しいと言うなら、それは戦い方かな?」
盤上で絡み合う駒を綺麗に黒白に分けて並べ直し、一つ一つ駒の動きを教える。
「この一番数の多い小さな駒はポーン。君みたいな奴だよ」
「俺? どんな駒なんですか?」
相手に例えると途端に仄かにも興味が湧くものだ。
「たった一歩しか動けない。しかも前進しかできない前向きな駒だよ」
「…………」
それは悲しめば良いのか喜べば良いのか、少年は頭を悩ませた。
「初手だけ二歩進むことはできるよ」
「獏さんは、例えるとどの駒なんですか? やっぱりキングですか?」
「キングよりはクイーンかな?」
とんとクイーンの駒に指先を置く。キングの駒を取れば勝ちと言うなら一番強い駒なのだと少年は思ったのだが、獏は一番強いわけではないのか。
「キングもクイーンも前後左右斜めの八方向へ動けるんだけど、キングは一歩しか動けない。クイーンは何処でも行けるよ」
「クイーン滅茶苦茶強い!」
反応が良いので、獏は楽しそうに笑う。
「でも今はビショップくらいかな? 斜め四方向に何処でも行ける」
ビショップの駒を突いて見せる。
「それでも凄い……」
感心していると、今度は少年の背後から灰色の腕が伸びてきた。細い指先が馬の形をした駒に触れる。
「私はビショップよりナイトだと思います。或いはポーンです」
少年が振り返ると、長い灰色の髪の女性が立っていた。
「おかえり、クラゲさん。ナイトは動きが面白いから好きだよ。でもポーンはちょっと過小評価じゃない?」
「いいえ。バク科バク属の只のバクだとポーンで充分です」
「辛辣」
少年は獏と灰色海月に目を遣った後、ナイトに目を移した。
「ナイトはどんな風に動くんですか?」
「前後左右いずれかに二歩動いて、直角に一歩動けるよ。そして他の駒を跳び越えられる」
「確かに面白いですね!」
「そう言ってもらえて嬉しいよ。……ところで、クラゲさん。自然に馴染んでるけど、どうだった?」
「お仕置きを言付かりました。
「……だよねぇ」
少年を店に連れてきた後、灰色海月は少し出掛けていた。先日獏が首輪を付けずに単身無断で街の外へ出たことに関して呼び出されたのだ。獏をこの誰もいない街に閉じ込めている者に。
「お仕置き……悪いことでもしたんですか?」
「こういうことには興味あるんだね君は」
「や、いや……そんなつもりじゃ」
「悪いことと言うなら最初から悪いことだけど、今回のことは悪いこととは思ってないよ僕は。でも言付かってきたんなら、僕はそれを受けるしかない」
灰色海月はほんの少し眉を寄せるが、シーリングスタンプのような物を取り出す。これが罪人に罰を与える仕置印だ。
「すぐ終わるからちょっと待ってて。それから君の願いを聞こう」
「はい……」
獏は外套の襟と中のシャツの釦を開けて喉元を露わにする。首の根元の辺りに故意に刻み付けられた紋様があった。
「痛そう……」
思わず顔を顰める少年を一瞥し、獏は灰色海月に目配せする。
「普段は痛くないよ。これは僕が罪を犯した証である烙印だ」
「やります」
無言で小さく頷く獏の烙印に、灰色海月は仕置印を押し当てた。シーリングスタンプなら封蝋を用いて手紙の封などをする物だが、それと同じようにゆっくりと烙印に押し付ける。
「んっ……」
奥歯を食い縛り、外套を強く握り締める。小さく震える手は掌に爪が食い込みそうなほど白くなる。烙印が静かに光り、線香花火のようにピリピリと目に見える光を放つ。
仕置印が離されると、そのまま背を丸めて大きく小刻みに上下した。
「っ……は、」
「声を上げた方が苦しみを僅かでも逃がせると思うんですが。あまり噛み締めると歯が欠けてしまうかもしれません」
「……客人の前で、無様に叫べないでしょ」
肩で息をしながら体を起こした烙印からは、血が流れていた。灰色海月は仕置印を仕舞い、烙印を伝う血をハンカチで拭う。
「すみません」
「だからもうクラゲさんは謝らなくていいってば」
頭を下げ、灰色海月は奥の部屋に入り、すぐにティーポットとカップを持って出てくる。カップを机に置き、とぽぽと紅茶を注ぐ。
「待たせたね。それじゃ、君の願いを聞こうか」
まだ完全に息は整っていないが、シャツと外套の釦を留めて少年に向き直る。
少年も背筋を正し、気持ちを改めた。
「俺が所属するサッカー部の試合があるんです! なので、勝てるようにお願いしに来ました!」
「そういうのは神社でいいんじゃない?」
「え!?」
取り付く島も無くすっぱりと獏は切り捨てた。
「僕は願いを叶えるけど、試合に向けた練習や努力全てを無視して勝利だけを与える者なんだけど、それだと折角の努力が虚しくなるよ。そうまでして勝って、その先の試合全て他力本願で僕が願いを叶えていけばいいのかな?」
「うっ……返す言葉がありません!」
「だからそういうのは神社とかで神様に宣言するくらいでいいと思うよ」
「では! 俺達の試合を見守ってください!」
「え? 見守る?」
面の向こうで獏は目を瞬ききょとんとした。
「見ていてください! 近くで!」
「え……ええ? 近くって何……?」
「俺達の選手席です。マネージャーみたいな感じで」
「マネージャーするってこと……?」
「いえ。見てるだけでいいです。見届けてください!」
「そんな願い初めてなんだけど」
ちらりと灰色海月を見るが、無表情なので感情は読み取れなかった。
「観戦と言うことでしょうか?」
「平たく言えばそうです!」
置かれた紅茶を一気に飲み干し、少年は机にぶつけるほど頭を下げた。
「偶には何もしないというのも良いのでは?」
「その場合って代価はどうしたらいいんだろ……」
「だっ、代価ですか!?」
少年は慌ててごそごそとポケットの中を弄り、かちんと机に五円玉を置いた。
「御賽銭なの?」
「ち、違いましたか!?」
もう一度ポケットを弄り、今度は百円玉を置いた。
「いや金額じゃなくて。僕の欲しい代価は心だよ。人間の心の柔らかい部分をほんの少し――なんだけど、願いの内容を考えると、昨晩の夕飯を思い出せないくらいでいいと思う」
やや投げ遣りだが、願いを突き放しはしない。しっかりとポストに投函する手順を踏んでここまで来た依頼者をただ帰すわけにはいかない。
「それでいいです! 昨晩の夕飯はいずれは忘れるものだと思うので!」
「あとね……さっきから声が大きいよ! これだから運動部は!」
釣られて大声を出し、先程痛めつけられた烙印がじんじんと痛んで肩を震わせた。
「ポーン魂見せてやりますよ!」
「あ、うん……頑張って。その試合っていつ?」
「明日です!」
「わかった。明日伺うよ」
「獏さんがいれば百人力です!」
「何もしないでいいんだよね……?」
少年は立ち上がって深々と頭を下げ、にっかと笑った。感情の温度差に獏は頬が少し引き攣った。
灰色海月に付き添われ店を出て行く少年に椅子から手を振って見送り、獏は溜息を吐く。観戦と言うことはそれなりに人間がいる場所へ姿を現すと言うことだ。あまり人前に姿を現すものではないのだが、願いを聞き入れた以上は叶える。
「あんなのがあと何人いるんだろ」
球を蹴る以外のルールを知らない獏は、頬杖を突きながらチェスの駒を動かした。
翌日は天気良く晴れ、獏と灰色海月は学校に集まる少年の許を訪れた。少年はチームのキャプテンと言うわけではないようだったが、妖しい動物面に鎖の付いた金属の首輪を嵌めた獏と、灰色の傘を差し全身灰色の灰色海月を紹介すると、チームメイトは口をぽかんと開けたまま固まってしまった。当然の反応だろう。
「お前すげーな!? 獏ってあの獏だろ!? 願いを叶える噂の!」
「連れてきたってすげぇな!」
すぐに盛り上がり始めたが、昨日獏が言ったことも少年はきちんと伝えた。獏はただ見守っているだけだと。それでもチームメイトは鬼に金棒と言わんばかりに大層盛り上がっていた。もう既に獏は状況に付いていけないでいる。端にいた監督の男に目を向けてみるが、軽く会釈するだけだった。
公共交通機関を利用して移動するとのことで、あまり人の多い場所には行きたくない獏は目的地だけを聞き別行動をする。
再び合流するとすぐに選手の控え室へ案内してもらい、もう既に疲れたように獏は頬杖を突いた。
「全然付いていけないよ、クラゲさん」
「これが人間の娯楽なんですね」
「わかるの?」
「全然わかりません」
よく理解できないまま、少年達が試合を行う時間になり、緑の芝生が広がるコートの端に案内された。球を蹴ることしか知らなかった獏は、思ったよりも広い盤上に小さく感嘆の声を漏らした。
「ここを走り回るってことは、かなり持久力がいりそうだね」
「おい! 獏さんがありがたい御言葉をくれるって!」
「ないよそんな言葉」
「教えることはもうないって!」
何か呟くとすぐに目を輝かせて集ってくる。気を付けようと獏は思った。
ばたばたと準備をする少年達をベンチに座って眺める。元気だけは充分にあるようだ。そのことは微笑ましく思う。
観戦する者は疎らで、想像していたよりも少なくて安心した。プロ選手の試合ではないのでこんなものなのだろうか。大きな競技場を想像していたが、聳える観客席もない。これなら然程目立たずに済みそうだ。
試合が始まると、球が右へ左へ行ったり来たり、見守れという願いのために目で追う。左右にあるゴールに球を入れれば良いことは知っているが、なかなか入らないものだ。
「コートが広すぎるんじゃない?」
「もっと強く蹴れば、遠くまで飛ばせると思います」
「それができたらポーンじゃないね」
青く広い空に高々とキーパーに放られた球は弧を描いて地面を跳ねる。
時間が過ぎる程に体力を消耗し、動きが鈍くなっていく。
その視界の端で、味方の選手が転倒した。
足を押さえて起き上がろうとしない選手に、審判は笛を鳴らす。心配そうにチームメイトも駆け寄り、担架が持ち込まれた。
「……へぇ」
頬杖を突いたまま獏は小さく漏らした。担架と共に他の選手もそれぞれのベンチに戻る。皆消耗と焦燥でマネージャーから渡されたタオルに顔を埋める。
「試合終わったの?」
「いえ、タイムです」
監督の許に選手達が集まり不安そうに顔を見合わせている。味方が医務室に運ばれたのだから不安は尤もだ。
その輪の中から契約者の少年が怖ず怖ずと躊躇いがちに獏の許へ駆け寄った。
「あの、獏さん。試合に出れますか?」
「え?」
何もしなくて良いという話だったはずだが。
「今医務室に運ばれて……補欠も今日は風邪でいないんです! 欠けてても試合はできるんですが、やっぱり人数が揃ってる方が良くて……」
「ああそういう……」
「お願いします! ユニフォームはあるんで! あっ、靴も用意します! ブーツじゃ走れないので!」
「待って待って。何で出場することになってるの!?」
「人がいないんです! 三日分の夕飯の記憶でもいいんで!」
「三日じゃ割に合わないよ!」
言い合っていると、他のチームメイトも獏の方を向いた。澄んだ視線が刺さる。
「……ルールも、知らないし」
「大丈夫です! 簡単です! ボールを蹴って相手のゴールに入れるだけです!」
「それ……着るの?」
「はい!」
半袖とハーフパンツのユニフォームに、面の奥で目を細めた。
「……確認なんだけど、相手選手に危害を加えていいルールってある?」
「え?」
少年はきょとんとして目を丸くする。
「そんなルールないです! むしろ駄目なことです!」
「そう……」
相手チームのベンチを目を細めて見遣り、こちらをちらりと見た目と合う。面を被っているので目が合ったことには気付いていないだろうが。
「審判の死角を取ってたからもしかしたらと思ったけど、さっき転ばされた人はわざとだよ。足を掛けられてた」
「え……トリッピング……」
「物申してもいいけど、審判がどう判断するかわからないからね。――僕がやる」
「! じゃあ、出てくれるんですか!」
「目には目を、歯には歯を。同等の痛みを与えるのが筋かな。僕が勝手にやることだから、君達は気にしなくていい」
突き出されるユニフォームを見て目を逸らしたかったが、このままでは試合を見届けるという願いも叶えられない。渋々ユニフォームを受け取る。
ユニフォームを着るには面を一度外す必要がある。早足で一人で控え室まで行き、誰も来ないことを確認して着替えた。
口の広い半袖とハーフパンツからそれぞれ白い素肌を出すが、やはり衣服がそこにないと落ち着かない。
面を被り直してユニフォーム姿で足取り重くベンチに戻ると、少年とチームメイト達が一斉に集ってきた。
「獏さんが出てくれるなら百人力だよね!」
「色白……折れそう……」
「何言ってんだ! こんなでも強いに決まってんだろ!」
何を根拠に過剰評価するのかわからないが、願いを叶える以外にも何らかの噂が広まっているのだろうか。
「白いのは夜行性だからね。そんなに簡単に折れたら堪らないよ」
今は夜ではないが、本来は夜行性だ。今は人間の活動時間に合わせているだけだ。
「おおー!」と歓声が上がるが、何の歓声なのかわからない。どうにも『ノリ』がわからない。
「滑稽ですね」
「んん……」
はっきりと女性判定されている灰色海月に白羽の矢が立てられることはないので、彼女は安心して応援に徹している。
「頑張ってください」
「ああ、クラゲさん」
灰色海月に耳元で囁き、彼女は無言で小さく頷く。
試合再開のためにコートに入ると、動物の面と首輪を付けた変な奴が来たとばかりに相手選手達はぽかんと口を開けてざわついた。味方選手達は得意気だ。何処からその自信が来るのか知りたい。今日会ったばかりの奴の一体何を知っているのか。
相手選手を端から順に眺め、足を掛けた選手で視線を止める。ルールを無視する行為は、その決められたルールでは勝てないと負けを認めることだと獏は思う。だが遣られてのうのうとしている程出来てはいない。同等に遣り返す。
最初は奇妙な姿をした獏に警戒など注目があるだろう。それぞれが自然と球に集中するように誘導し、目立つ動きはしない。
見掛け倒しの大したことのない選手を演じ、自然な流れで目的の選手に死角から近付きマークする。気配を消すことも忘れない。静かな夜に棲む者として、それに紛れるための気配を消すことは造作も無い。
他の選手達全員の位置を把握し、審判と相手監督の死角を縫う。盤上の全ての駒を把握して動きを読むチェスと同じだ。面の所為で視界は狭いが、不利にはならない。
相手監督の視線が選手から僅かでも逸れるように、灰色海月に誘導を任せた。こちらは審判の視線だけ気にしていれば良い。
標的の選手の背後から角度を付けて細い脚を伸ばす。
「さっきはよくも下らないことをしてくれたね」
「!?」
耳元に囁くと同時に選手は地面に転がり、足を押さえた。
「御陰で僕が出ることになっただろ?」
走る速度の中で自然に距離を取り、選手から離れる。
同じように担架に乗せられ運ばれる姿を見送る。審判に物申すことはしないだろう。自分が先に同じことをしたのだから。
相手チームには補欠選手がいるらしくすぐに代わりが出てきたことだけは腑に落ちなかったが。
試合が再開されると、相手選手達も何かを察したのか強気の攻めに出た。球回しが上手い。
そのことには感心をするが、このまま一直線にゴールを決められても詰まらない。白いだの折れそうだの言われたのだ。折れない所くらいは見せておきたい。
履き慣れない靴だが地面を蹴りやすい。姿勢を低くし、のろのろと走る選手達の間を縫って球を保持する選手に滑り込む。
「なっ……速っ!?」
爪先で下から球を掬い、方向転換する。ここから遠い方のゴールに入れれば点が入る。はずだ。中央の線からも大きく離れているが、気にせず思い切り球を蹴った。
球は狙い通りゴールまで届くが、大きく斜めに逸れて遙か遠くへ点となった。
「ビショップ――!」
「あれ?」
少年が頭を抱えたのが見えた。教えたチェスの駒の動きを覚えていてくれたらしい。
「獏さんホームランじゃん!」
「すげぇ」
「ノーコン……」
折れない証明にはなったと思う。
「部外者の僕が得点するより、君達が入れた方がいいよ」
尤もらしいことを言うが、球が思った方向に飛ばないのだから仕方がない。
その一言が力になったのか、少年達は俄然遣る気を出し、ゴール近くから再開となった御陰で得点することができた。獏は何もしていない。
そのまま逃げ切る形となり、少年達は勝利を挙げることができた。
試合が終わるとすぐに人目を避けて獏は着替え、少年達の許へ戻る。肌の露出が多いと無防備過ぎて心許なくて敵わない。隠せていたと思うが、首の烙印もあまり人前に晒す物ではない。
「獏さん! 打ち上げも来てくれますよね!?」
「えっ、まだ何かあるの?」
「打ち上げです! 皆で御飯です」
「ああ……。まあ、そのくらいなら」
食事の必要の無い時間の止まった街にいるので忘れがちだが、生物には食事が必要だ。必要ないとは言え食べられないわけではないので、同行を認めた。
医務室に運ばれた選手は病院へ行くとのことで不参加だが、それ以外の者達で打ち上げの暖簾を潜った。
「えっと、これは……」
「お好み焼きです! 好きなの頼んでください! 監督の奢りなんで!」
監督の方を見ると、やっぱり軽く会釈するだけだった。
初めて見る食べ物だったのでメニューを見ても種類などわからず、少年と同じ物を注文してもらった。隣で灰色海月も困ったようにメニューを見つつ獏の方を見る。二人で分けることにした。
「ここのは自分で焼くので」
店員が運んできた小さな鉢に入った具材をぐっちゃぐちゃと混ぜ、少年は鉄板の上に円く流した。見様見真似で獏も鉢の中身を掻き回す。普段は灰色海月は焼菓子をひたすら焼いているが、獏が台所に立つことはあまりない。混ぜる作業も灰色海月の方が慣れているが、全面的に獏に任せるようで見守っている。
梃子を使って少年がお好み焼きを引っ繰り返す様を見、獏も同じ様にやってみた。
中身が飛び散った。
「ぶちまけないでください!」
「もしかして獏さんって不器用……」
「そんなこともできないなんて、動物園のバクと同じです」
「クラゲさんまで加わらないで……」
飛び散った中身を梃子で集めて何事もなかったようにお好み焼きに寄せるが、大分苦しい。
「慣れてないだけだから」
「親しみやすくていいと思います!」
「何のフォロー……」
親指を立てる少年のお好み焼きは綺麗に焼けていて美味しそうだった。
食べ物は形ではなく味だ。中身が飛び散りはしたが、少年と同じ物を焼いたのだ。同じ味がするはずだ。豪快にざっくり切り分け、小さくしたお好み焼きを箸で掴んで灰色海月の口に運ぶ。灰色海月は口を開けて食べ、もくもくと咀嚼した。
少年達はその様子を見てまたじっと惚けている。
「おお! あーん、だ!」
「すげぇ」
「え? 何?」
何故そんなに盛り上がるのかわからず、獏は気味が悪そうに身を引いた。灰色海月は箸が使えないので食べさせたのだが、何か不味かったのだろうか。人間はよくわからない。
「少し苦いです。焦げてます」
「……料理って難しいんだね」
「初めてということを考慮して、マイナス二十点です」
「厳しすぎない?」
大勢で食事をすることも初めてだったが、騒々しく落ち着かない。だが静かな誰もいない街の中では体験することはないだろう喧騒という雑音は、自分の存在を希釈してくれるようで、それだけは苦ではなかった。
「デザート頼む人ー!」
まあ必要以上に喧しいとは思うが。
「獏さんもデザート食べますか?」
メニューのデザート欄を見せながら尋ねるので、獏もつい指を差してしまった。
「クラゲさんの分もいいかな?」
「はい!」
注文してすぐに届けられたアイスクリームも初めて食べる物だったが、氷のように冷たい物だった。知識としては知っているのだが、驚いて咳込んでしまった。だが甘くて美味しかった。冷たいと言うことは焼いていないのだろうが、焼いていない菓子も良い物だった。
「あの、獏さん……それ……」
少年が軽く顔を引き攣らせて見るので、獏はまた何か不味いことをしてしまったのかと構える。
「食べてます……?」
「あ」
つい癖で金属のスプーンを食べてしまっていた。隣で灰色海月も気付き、証拠隠滅を促してくる。欠けてしまったスプーンを、店員の目が向かない内に食べきってしまう。人間が金属を食べることはないことくらいは知っている。
スプーンを食べたことで、人間ではない者だということを改めて少年は噛み締めた。
「僕さん、今日はありがとうございました。獏さんとサッカーもできて、楽しかったです」
「それは良かった。普通に願いを叶えるより大変だったけど」
「それで……何日分の夕飯の記憶を差し出せばいいんでしょうか……?」
「ああ、それね……。いいよ、差し出さなくても。叶えるってほどの行動はしてないし、知らない物も食べさせてもらったし」
想定外の言葉に少年は目を瞬き、慌てたようにポケットに手を突っ込んだ。
「じゃ、じゃあこれ!」
差し出されたのは五円玉だった。
「御賽銭くらいなら貰っておこうか」
面の奥で苦笑しながら五円玉を受け取る。
「それじゃあ、先に帰るね。皆によろしく」
「え? 皆ここにいるのに……」
灰色海月は灰色の傘を静かに差す。
「挨拶なんてしたら目立つじゃないか」
軽く手を上げ、少年が何か言う前に傘はくるりと回り、二人の姿は最初からそこに何もなかったかのように忽然と消え失せた。
まるで夢か幻でも見ていたかのように不思議な時間だった。少年は浮かした腰を下ろし、何もない空間を見ながら溶けかけたアイスクリームの残りを口にした。
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