5-曇天
薄墨を流したような重い空から絶え間なく地面に突き刺さる雨の音が、明かりも点けず枯れた薄暗い部屋の中に雪崩れ込む。窓に叩きつける雨は誰の拳の叩く音だろうか。晴れない心を映したように降り続ける。
狭い部屋の中に纏めたゴミ袋が散乱し、空缶や空瓶が転がる。外の朧気な灰色の光をぼんやりと映している。その中にまだ埋もれずにある机の上に、ぐしゃりと縒れた茶色い封筒が無造作に置かれている。
敷いたままの布団から机の上の茶封筒を見上げる。もう何日これを繰り返しているだろう。世界の終わりのような虚無感が支配していた。もう終わらせてもいい。何度もそう思った。だが気力も抜けてしまった体は重く、ゴミに埋もれた縄には届かなかった。
悪いことと言うものは連鎖するものだ。
仕事で大変な失敗を犯して、それはチームでの失敗だったが、全て責任を押し付けられた。にやにやと肩を叩かれた。
明るい街中を歩くのも気が引けて、暗い道を選んで歩いた。そうしていたら、鞄を盗られた。
もう家の中にいるしかない。そう思った。毎日ぼんやりと天井を見上げて、ふと思い出した。仕事の仲間だった奴が話していた。願いを叶える獏の話を。眉唾物だと思った。只の根も葉もない噂話だと思った。
だからこの手紙を書いたのは只の気紛れの戯言で、だからポストには出せなかった。
仕事も順風満帆で綺麗なお嫁さんを貰って子供も作って、そうして幸せな家庭を築いて、それが当然のようにそこにあって、穏やかに暮らせますように。そんな戯言は雨と共に流れていく。思うだけなら自由なんだと言い聞かせた。
夜になって、酒を切らしていることに気付いた。外はまだ雨だ。足音を消してくれる。
男は布団から立ち上がり、小銭を握り締めた。机上の茶封筒を見下ろし、何となくポケットに捻じ込む。これももう何度目かわからない。外へ出る度に茶封筒をポケットに入れる。そして帰ってきて、ポケットから取り出して机上に放る。
酒を買って夜道をふらふらと帰り道、ふと建物の陰にポストが立っていることに気付いた。物陰にひっそりと景色に溶け込んでいるので、今まで気付かなかった。
ポケットから茶封筒を引き抜き、ぼんやりと見下ろす。獏なんて現実的ではないものがいるはずなんてない。そう思いながら、ただ何となく、机上にいつまでも戯言を置いておくのも虚しいので、ポストの中に捨てた。
家に帰ってすぐに、買ってきた酒の缶を開ける。酒は嫌なことを忘れさせてくれる。勢いよく大きく一口飲み、窓の外を見た。
「!?」
微かな外の光にぼんやりと、見知らぬ女が傘を差して立っていた。いつの間に中に入ってきたのか、いつからそこにいたのか、雨の音に消されたのか全く気付かなかった。
「お迎えに上がりました」
女は静かに灰色の傘を畳んで男を見る。長い髪が美しい女だった。
最初に、この女は死神なのだと思った。男を殺しに来たのだと。そういうお迎えなのだと思った。それも良いと思った。こんな綺麗な女性に殺されるのなら、それも良いと。
「願い事があるんですよね?」
女が差し出すぐしゃりと潰れた茶封筒に見覚えがあった。先程ポストに捨てた物だ。
「それは……ってことは、お前が獏か!?」
「私は違います。獏の許へ案内する者です」
獏ではない。だがそこに案内するということは、獏は存在するのか。願いが叶うのか。
そうだ、願いに『綺麗なお嫁さん』と書いた。この子がそうなのか。きっとそうだ。泣きそうになったが、酒を呷って飲み干した。
「嬉しいなぁァ」
男は立ち上がり、女の腕を掴んだ。
「?」
女は理解が及んでいないのか手を振り払わない。抵抗しないと言うことは受け入れてくれている。そう思った。
灰色の服を掴むと、漸く女は声を上げた。
「離してください」
照れているのだと思った。恥じらっているのだと。
灰色の服を引き、床に押し倒す。持っていた灰色の傘が床に投げ出される。少し服が破れ、女は軽く頭を打ったが、伸し掛かる男を睨んだ。
「離してください」
乱暴に触れようとする手を払い除けながら起き上がろうとするが、男の力に勝てず身動ぎすらできなかった。
「…………っ!」
床に伸ばした腕を押さえつけると、女は頭を振りながら必死に身を捩ろうとする。
「そんなに恥ずかしがらなくても、すぐに気持ち良くなるからなぁァ」
足はがりがりと床に踵を掻くだけで、力が入らない。起き上がるために必要な力を掛けられない。
一度破れた服は簡単にその続きに裂けてしまう。男の下卑た笑いが不快で、女は奥歯を噛んだ。男が何をしたいのかはよくわからない。手に凶器など殺傷力のある物は持っていない。目的がわからない焦燥に、女は混乱した。
このまま一人の力では男の力には勝てず、かと言って都合良く誰かが家に入ってくるとは思えなかった。
屈辱だった。だがこれ以上の最良の判断ができなかった。理解の及ばない行動から、解放してほしかった。女は震える指先を必死に精一杯の力を籠めて伸ばし、爪先が床に落ちた傘の柄に触れる。微かでも触れたことに、唇が震えそうなほど安心した。
触れた指先に呼応するように、傘に下げた小さな電球が独りでに仄かに光を帯びる。それだけで充分だった。
「――っ!」
男の背後に忽然と棒を振り上げる黒い影が現れる。そいつはその棒で思い切り男の側頭部を殴り飛ばした。
「がっ!?」
男は纏めたゴミ袋に突っ込み、壁まで転がった。
相貌にふざけた動物の面を被り、黒い外套が翻る。棒には先端に透明な硝子のような塊が付いていた。
忽然と現れたそいつはぱちりと黒い外套を脱ぎ、女の体を起こして羽織らせた。面の所為で顔は見えないが、体の線は細い。
「……破れてるね。これを着て」
女に怪我がないか男に背を向けて確認をし、女は小さく首を振った。伏せた睫毛を上げ、視線が動物面の背後に固定され微かに目を見開く。
背後で男が空の酒瓶を振り下ろすのと、動物面が振り向かずに片腕を上げたのは同時だった。重い音が響き、腕に当たった瓶の欠片が散った。腕に血が伝い、袖を濡らす。
「ぁ……」
女は小さく声を上げ息を呑んだ。
破片の刺さった腕を下ろして動物面は立ち上がり、瓶の口を握る背後の男の腹を蹴り飛ばした。再びゴミ袋を突き飛ばして壁に叩きつけられる。
動物面はくるりと棒を回し、ゴミを蹴って男の前へ立つ。面の奥の目を細め、軽蔑するように睨め下ろした。下ろした指先に赤い滴が伝う。
「何をしてるのかな? 君は」
「お前は……」
「人間は欲に塗れた生き物だ。それは理解してる。けどそれを制御できなければ、人間じゃない。只の獣だ」
「女か? 脱がせばわかるか?」
「酔ってるの? 反省してないんだね」
動物面は男の股間にブーツの踵を押し当てる。不敵に口の端を歪めた。
「潰そうか?」
「!」
危機を感じ、男はすぐに身を捩った。伸ばされた動物面の足を掴み、引っ張る。
体勢を崩した動物面の脚に掴み掛かり、服を掴んだ。
「女だ!」
動物面は棒の先端で再び男の側頭部を殴る。男の力が一瞬弱まると同時に足を捻って回し、男の顔面を蹴り飛ばした。
「視界が狭くて動きにくいな」
動物面はふざけた面を徐ろに外し、がらんと床に落とす。
「おお……!」
男は何故か歓喜の表情を見せる。
「初めまして。僕は願いを叶える獏だよ」
「じゃあやっぱり俺の……!」
「僕が顔を見せるってことは、君は死ぬってことだけど」
「は……?」
「最近雨が多いから、祈願でもしようかな?」
「?」
獏はとんと床を蹴り、男の顎に膝を叩きつけた。がくんと男の頭が揺れる。
縋るように伸ばされる腕を踏み、ゴミ袋に埋もれた縄が視界に入る。
「いい物見つけた」
拾い上げるとその縄は片側が輪になっていた。
「へぇ。不本意だけど僕は君の願いを叶えることになるのか」
「願い……? 俺の願いは……」
「安心してよ。願いを叶えても君から代価は貰わない。だって見境無く襲うような、そんな穢らわしい人間の口に付けたくないからね」
獏は布団からシーツを剥がして男に放り、天井の梁に縄を投げて通した。そして男の首に優しく縄を掛けた。
「なっ、何をするんだ!」
獏はくるりと杖を回し、手を伸ばしてカンと梁を叩いた。透明な石が光り、梁は縄を巻き上げる。
「っ!」
くん、と男の首が持ち上がり、ぶらりと梁にぶら下がった。
「――できた。大きなてるてる坊主だ」
男は暫くは縄に必死に指を掛けて床から離れた足をばたばたと泳がせていたが、次第に大人しくなってゆく。
「首を吊ると大層醜くなるらしいね。僕は優しいからね。そこまで恥をかかせないよ」
とんとんと杖を振り、感覚を確かめる。その口元に微笑みはない。
男には悠長に獏の言葉に耳を傾ける余裕などなかった。息が通ることができず、水面に顔を伸ばそうとするように藻掻くしかできない。
「知ってる? てるてる坊主の歌ってね、最後は首を――」
「っ!」
――チョンと切るぞ。
光の尾を引く杖を喉元で一閃、声も上げられない男の体はぼとりと床に落ちた。
ふらふらと揺れる軽くなった頭を感情の籠もらない月のような金色の双眸で一瞥し、獏は床に転がる面を拾った。髪を払って面を元のように被り、黙って見ていた女の前に跪く。
「クラゲさんも護身術でも覚えた方がいいのかな。海月の毒で刺せない?」
「……依頼者なので」
羽織った外套をぎゅっと掴み、灰色の海月は睫毛を伏せた。
「こういう時は抵抗していいよ。こんな人間を依頼者なんて思わないから。クラゲさんに危害を加えてくるような奴はこっちから願い下げだよ」
ぽんぽんと灰色の頭を軽く撫で、落ちている傘を拾う。
「でも呼んでもらえて良かった」
微笑む獏を見上げて、灰色海月は再び目を伏せる。
「首輪も付けずに一人であの街を出るのは……」
「無理矢理出口を抉じ開けたから体に負荷が掛かって痺れるけど、大丈夫だよ。……まあ、早く帰る方がいいとは思うけど」
灰色海月の手を取って立ち上がらせる。
「ごめんね、怖い思いをしたのに。お願いできるかな?」
重そうに頭を揺らす獏に、灰色海月はこくりと頷く。
「はい」
灰色の傘を開いてくるりと回し、姿を消す。
刹那に切り替わった景色の中で獏は石畳に膝を突いた。
「! 大丈夫ですか?」
「少し眩暈がしただけ……」
頭を押さえる獏に灰色海月も心配そうに身を屈める。誰もいない霧の掛かる煉瓦の街で蹲る獏の背を摩る。腕にも傷を負っているのだ、早く手当てをしなければならない。
「……すみません」
「謝らなくていいよ」
「すみません」
「何で謝るかな」
「腑甲斐ないからです。私が先に刺していれば良かったです」
「海月は水中の生物だから、陸地では上手く動けないかもしれない。でも逃げるための小さな抵抗くらいにはなるから、さっきは刺せるか訊いたけど」
獏はゆっくりと立ち上がり、足の感覚を確かめる。
「頼ってくれるのは嬉しいことだからね」
灰色海月は外套を握り締め、小さく首を頷けた。
「じゃあ帰ろうか」
「杖は殴る物ではないです」
「……あ。そこ?」
「壊れたらどうするんですか。力の使えない獏は動物園のバク科バク属のバクと同じです」
「あー。でも思ったより丈夫だよね。頭と杖どっちが割れるかなって思ったけど」
「そんな力で殴ったんですか。頭大丈夫ですか」
「わあ辛辣。でも杖は代わりを用意できるけど、クラゲさんの代わりはいないから」
杖を短く畳みながら、獏は微笑む。
灰色海月は海の底のような双眸を街灯に揺らめかせ、獏に頭を下げた。
「……ありがとうございます。急いで服も繕って外套をお返しします」
「うん。待ってるね」
二人の棲む店に着き、誰もいない店のドアを開ける。
誰もいない夜の街に再び静寂が下りた。
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