2-迷い子
誰もいない街の静かな店の中で、甘い香りが漂っていた。
灰色の長い髪に灰色のロングスカートの女性は黙々とオーブンから鉄板を取り出す。貝殻の形をした狐色のマドレーヌが整然と並んでいる。横に置いたバスケットの中には既にマドレーヌが山となっていた。
その甘い香りを否応無く嗅ぎながら、黒い服に黒いバクの面を付けた獏は古書を両手に棚に並べ替える。どの順に並べるとより美しいか考える。
「焼き過ぎたので、どうぞ」
「だろうね」
棚の間から動物面の顔を出し、狭い通路から奥へ行く。皿に盛られたマドレーヌの山が見えた。
「クラゲさんも店を出せそうだよね」
焼きたてのマドレーヌを一つ抓んで齧る。店に並んでいてもおかしくない出来だ。
「誰がこんな所まで買いに来るんですか? 道楽ですか?」
「んん」
喉に詰まりそうになった。こんな所に店を構えている獏が目の前にいるのだが、見えていないのだろうか。
「こんなにあるし、少し持って散歩でもしてみようかな」
「お一人でですか?」
「うん。クラゲさんまだ焼くでしょ? 焼きだしたら止まらない」
「……わかりました。では常夜燈を忘れずに」
細長い硝子の筒に、細かく砕いた二種類の
暗い街には霧が掛かり、光に照らされぼんやりと広がる。
誰もいない煉瓦の街並みを一人でとぼとぼと歩く。所々に街灯はあるが、路地は暗く手に持った常夜燈で照らしても奥まで見えない。
この誰からも見えない誰もいない街に、獏は先程のマドレーヌ焼き人形――もとい灰色海月と二人で棲んでいる。
星の無い夜道を目的もなく歩いていると、ふと何処からか啜り泣く声が聞こえた。誰もいないはずの街に通常人の声が聞こえることはない。
「まさか……幽霊?」
きょろきょろと見渡すがそれらしい者は見当たらない。尤も霧の中ではあまり遠くまでは見通せないが。幽霊などという存在にも会ったことはない。
常夜燈を掲げ、声の方向を探る。どうやら黒い路地の中のようだ。
声が壁に反響するが、何とか声の出所に辿り着いた。小さな階段の下で幼い少女が泣いている。周囲も確認してみるが、他には誰もいない。
獏は少女の前に跪き、小首を傾げた。
「どうしたの?」
「!」
顔を上げた少女は、獏の面を見て跳ね上がった。同時に一瞬泣き声が止む。
「ふっ……ぇ、おばけええええええ!」
「え?」
余計に泣いてしまった。暗闇で獏の面を被った知らない人に声を掛けられれば誰でも逃げ出したくなる。
「だ、大丈夫だよ。ほら、美味しいマドレーヌをあげよう」
灰色海月の焼いたマドレーヌを袋から取り出すと、ふわりと甘い香りが漂った。再び少女が泣き止む。
「まどれーぬ」
舌足らずな声で繰り返す。小さな手で受け取り、齧り付いた。
「おいひい」
「それは良かった」
これで警戒心は解いてくれただろうかと、獏も少女の隣に腰掛ける。
おそらく幽霊などではなく生きている人間の少女だ。外の人間は灰色海月が連れてこない限りこの街に来ることはできないが、稀に世界の境界が曖昧な者が迷い込むことはある。
「こんな所で何してるの?」
少女はマドレーヌを口に運びながら、また泣きそうになる。
「おうち……わからない……」
「迷子……かな? 子供は境界が曖昧で迷い込みやすいって聞いたことあるけど……」
「ぱぱ……まま……」
「見つけられて良かったよ。クラゲさんに外に出してもらおう。僕じゃ出してあげられないから」
立ち上がって手を差し伸べると、少女は片手にマドレーヌを握ったまま獏の手を取った。
霧の夜道を辿り、店に戻る。ドアを開けると、先程とは違う甘い香りが鼻腔をついた。
奥の台所へ行くと、少し黒いマドレーヌが積まれていた。
「お帰りなさい……ませ。そちらの方は?」
トングで鉄板からバスケットにマドレーヌを移していた灰色海月は振り向いて目を瞬いた。
「迷子みたいだ。外に帰してあげてくれるかな?」
「はい。わかりました」
トングを置き、少女に向き直って一礼をする。
「その、くろいのは?」
少女は興味深そうに背伸びをして黒いマドレーヌを指差す。
「これはチョコレート味のマドレーヌです」
「そうだ。たくさんあるし、持って帰ってもらおうか。クラゲさん焼く専門で殆ど食べないし」
「そうですね」
プレーンとチョコレート味のマドレーヌを大きな袋に詰め、少女に渡す。少女は嬉しそうに目を輝かせた。
「あいがと!」
「では行ってまいります」
頭を下げ、灰色海月は少女の手を引いて店を出る。獏は残って軽く手を振り、台所を一瞥した。あれだけ持って行ってもらったのに、まだバスケットには山ができている。暇潰しなのだが、食べきるのが困難な量だ。この街の中は時間が止まっているので、賞味期限などはなくて助かる。
チョコレート味のマドレーヌを抓んでいると、灰色海月が帰ってきた。
「おかえ……り?」
咥えていたマドレーヌが落ちそうになる。灰色海月の手には少女の手が繋がれたままだった。
「どうしたの?」
「どうやら場所が存在しないようです」
「存在しない……?」
「この方に帰る場所を聞いて記憶から辿ろうとしたんですが、その場所が無いようです」
「子供だからね……記憶が曖昧になってるか……。でもここに来るすぐ前の記憶を忘れるかな……あ」
マドレーヌを食べながら考えていると、一つの可能性にぶつかった。
「ねえ君。君はいつからここにいるの?」
少女はきょとんとし、困ったように眉根を下げた。
「わからない……」
「……うん。とりあえず座って」
椅子を出し座ってもらうが、少々面倒なことになったかもしれない。
獏はちょいちょいと灰色海月を手招いて呼ぶ。灰色海月はすぐに獏の傍らに身を寄せ耳を傾けた。
「この子、随分前からここにいるんだと思う。この街は時間が止まってるから、その中に入ったこの子も歳を取ってないけど。時が経つと外の世界は景色が目紛しく変わるからね」
「成程です」
「もしくは、この子がここに迷い込んだ直後にこの子のいた場所が何らかの原因で無くなったか。どっちの可能性が高いと思う?」
「難しい質問です。景色が変わる程となると、貴方がこの街に来るより前からここにいることになります。かと言ってすぐに居場所が消し飛んだと考えるのも……」
「そうだね。街の景色って何年くらいで変わると思う?」
「思い当たる付近に行ってみましょうか?」
「思考を放棄しないでよ。時間が経ってるなら行方不明扱いになってるだろうし」
「情報が少ないので、聞き出してみてはどうでしょう」
「……うーん。それがいいのかな」
獏が椅子に座ると、灰色海月も台所へ行き、マドレーヌが詰まったバスケットとミルクを注いだカップを持ってきた。
「普通のミルクです」
少女の前にカップを置く。わざわざ『普通の』なんて付けると余計に怪しいではないかと思う。願い事の代価を払わせる刻印のための飲み物ではない申告だというのはわかるが、そんなことを言われたら普通は警戒する。相手が幼い少女で良かった。
大人しく差し出されたミルクを飲む少女に、獏は頬杖を突きながら話し掛けてみる。
「君がいた場所の話が聞きたいんだけど、君が好きなテレビは何かな?」
灰色海月は心中成程と思った。好きなテレビ番組を聞くことで、放送されていた年代が特定されるだろう。
「てれびって、なに?」
「あれ?」
そう上手くはいかないようだ。言葉を知らないのか家にテレビが無いのか、まさか無い時代なのか。
服装も上から下まで確認してみるが、テレビの無い時代ではないと思う。
「ここはお菓子やさん?」
今度は少女から話し掛けてきたので、話に乗ることにする。何か情報が聞けるかもしれない。
「ここは古物店だよ。古い物を売ってるんだ」
「ふーん」
あまり興味がなさそうだったが、立ち上がって棚を見上げる。古い歪な瓶や器、木の軸のペン、小さな木の引き出しに壊れた何かの部品が積まれている。子供が喜びそうな玩具は無い。
くすんだ地球儀をくるくると回しながら、少女はきょろきょろと見渡す。
「あとは、願い事を叶えたりもする店だよ」
「願いごと、かなえてくれるの?」
「そうだよ。勿論代価は必要だけど」
「じゃあね、ぱぱとままに会いたい!」
「そうだね。元の場所に帰りたいよね。何処にいるかわかればね」
「うん! おうちの中! がーって、わーって」
「あー……うん。そうだね。ちょっと待ってね」
何を言っているのかわからなかった。人差し指と親指で輪を作り、少女に向ける。これで何を言っているのかわかるわけではないが、心の動きがわかる。薄らと思考が覗ける。
指の輪を覗きながら、獏は目を見張ってしまった。
結論から言うと、少女の願いは叶えられない。帰ってもぱぱとままには会えない。
「……ちょっと外に出ようか」
きょとんとする少女を促し、店の外へ出す。獏の後を追い、灰色海月も外へ出て、灰色の傘を開く。傘に下げられた小さな電球が光る。
「クラゲさん。少し目を瞑ってほしいんだけど」
「駄目です」
「少しも?」
「何を企んでるんですか? ゴミ虫に成り下がる気ですか?」
「虫!? 動物ですらないけど!」
「動物園に売り飛ばしますよ」
「考え直してくれてありがたいけど売らないで。ちょっとだけ力を使ってもいい?」
「……この街の中ではそれは制限されてませんが、余計なことをすれば厳しい罰が与えられます」
「それは大丈夫。良い夢を見せてあげたいだけだから」
「夢を食べる獏が夢を見せるとは、自給自足でもするつもりですか」
「食べないけどね。夢は」
獏は懐から透明な石の付いた短い棒を取り出して引き伸ばした。長い杖となった石を少女に向ける。
「さあ眠れ。幸せな夢を見せてあげよう」
つい、と杖を回すと、少女の瞼は途端に重く、ふわりと浮くように倒れ込んだ。少女は強制的に夢の世界へと誘われる。
「杖を使うのは久し振りだな」
「様になってます。子供が木の枝を振り回してるようで微笑ましいです」
「それどういう様なの?」
自由に力を使用することを制限されているのだが、この杖を媒介とすることでのみ使用が可能だ。全ての力が使えるわけではないが、この街の外では制限の首輪の所為で杖も使えないので、これでもまだ良い方だと言える。元々の全開の状態だと杖など無くとも力を使えるのだが。
「どうやらこの子は後者みたいだ。ぱぱとままには二度と会えない。この子を正確に元いた場所に戻すとなると、潰れた家の下だ」
少女の記憶の中の場所は潰れる前の家だ。潰れた後では無事な家に戻れるはずもなく、場所が存在しないことになってしまう。
「では……戻すことは、死なせると言うことですか」
「位置をずらすことはできるけど、ぱぱとままのいない世界を生きるのと、同じ死の世界に逝かせてあげるのと、どっちが良いと思う?」
家が潰れる瞬間にこの透明な街に迷い込んでしまった少女は、通常ならその家と共に潰れる運命だった。こんな小さな少女にどうしたいか選択を迫っても答えなんて出せない。
「考える時間も兼ねて眠らせたけど、究極の選択だよね」
「……難しいですね」
「会いたいと言ってるんだから会わせてあげる方がいいんだろうけど」
「直接訊いてみてはどうでしょうか?」
いない世界で生きるか、いる世界に死ぬか。残酷な二択だ。
「じゃあ目覚めさせるけど、手に負えなくなったらクラゲさんがあやしてよ」
「その時は獏様が犬のように這いずり回ってペロペロと慰めてあげては?」
「急に様付けなんて何を言うのかと思ったら辛辣」
杖をくるりと回し、光る石を少女に向ける。
「美味しそう……」
「夢は食べてはいけません。待てをしてください」
「犬扱い……」
少女は瞼を開放され、身を起こす。覚醒しきっていない目でぼんやりと辺りを見回す。
「あれ……ぱぱとままは……?」
獏は少女の前に跪き、杖を下ろす。
「君に訊きたいことがある。たった一度しかない選択だ。よく考えてほしい」
少女はきょとんとしながら獏の面を見詰める。
「君は生きたい? それとも死にたい?」
直球すぎる質問だった。物の分別もどれほどついているのかわからない幼い少女にする問いではない。
少女はぼんやりとしたまま首を傾げる。まあ当然の反応だろう。獏は面で顔は見えないが口元に微笑みを湛える。
「ぱぱとままに会えないまま生きるのと……会えるかもしれない死なら、どちらを選ぶ?」
死後の世界は獏にもわからない。眠ることには変わりないが、脳が映像を垂れ流す夢と無である昏い死は異なる物だ。
「ぱぱとままに会いたい!」
「それが死でも?」
それがよく考えた結果の言葉なのか衝動的なのかは獏の知る所ではないが、それが今の少女の精一杯の気持ちだろう。今はこれ以上の返事は聞けそうにない。
「クラゲさん。後は頼めるかな?」
「はい」
獏は立ち上がり、くるりと杖を回して高く掲げ、少女に石の先を向けた。
「願わくば、醒めない夢を見続けられるように」
少女の額にこつんと石を当てる。
「代価じゃないけど――恐怖する心を」
石は光り、それを確認し灰色海月は傘をくるりと回す。二人の姿は霧のように消える。
死に対する恐怖を食べることが、せめて苦しまずに逝けるだろうという餞だった。そして会いたいと願う少女のために幸せな夢を見せた。
杖を畳み、獏は店の中に戻る。疲れたように椅子に腰掛け、短く畳んだ杖の先を空のカップに当てた。カップに霧のように心が注がれる。
杖を懐に仕舞い、カップに口を付ける。
「……あまり美味しいものではないね」
まだよく死を理解していないだろう少女の恐怖の心はまだ柔らかく解れておらず、形の無い固い物だった。口直しにマドレーヌを一口齧る。人間の生み出した食べ物の方が美味だ。
暫くの後に灰色海月は店に戻ってくる。その傍らにはもう少女はいなかった。
「ご苦労様」
マドレーヌを口に放り込みながら労う。
灰色海月は無言で獏の許へ歩み寄り、しゃがみ込んだ。
「辛い役をさせてしまってごめんね」
俯く灰色の頭を撫でてやる。一番近くで人の死を見ることはとても辛いことだろう。依頼がなければ街の外に出ることも許されない獏にはできないことだが、見送りくらい代わってやりたかった。
「……大丈夫です」
倒壊の原因まではわからないが、ぐしゃりと潰れた家の下敷きに生きた少女を置いてくるのは、それを見詰めるのは、平常ではいられないだろう。海月にも心はある。
「泣いてもいいんだよ」
「海月は泣きません」
「こんな時だけ海月を前面に出さなくても」
「バク科バク属の只のマレーバクの前で弱味は見せません」
「……それだけ言えるなら大丈夫かな?」
撫でることを嫌がらないので参っていることは確かなはずなのだが、素直ではない。
「偶には僕が紅茶を淹れてあげよう」
頭から手が離れたことを名残惜しそうに、灰色海月は立ち上がる獏を目で追う。
台所で棚から茶葉の入った缶を選び、マドレーヌを避けながらティーポットを置く。
しゃがんだままの灰色海月の前に紅茶を淹れたカップを差し出すと、彼女は黙って受け取って口を付けた。
「……温度も蒸らしも足りません」
「あれ?」
「ですが……誰かに淹れてもらった紅茶は美味しいです」
安心したように睫毛を伏せる灰色海月の頭をもう一度撫でてやる。
「よしよし。弱ってるクラゲさんはしおらしくて可愛いね」
「刺しますよ。バク科バク属のバク如きが」
「急に辛辣」
椅子に座り、獏はマドレーヌを齧る。ともあれいつもの灰色海月に戻って良かった。
いつものように、再び誰もいない街に静寂が訪れる。
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