透明街の人喰い獏

葉里ノイ

1-多角形


 ――ねぇ知ってる?

 誰もいない街の誰も来ない店に、夢を食べるばくがいるんだって。

 食べさせてくれるお礼に、何でも願い事を一つ叶えてくれるって――。


 忘れ物を取りに放課後の教室へ戻ってきた萌果もかは出入口に立ち、隅でひそひそと囁かれるそんな噂が耳に入り興味深く身を乗り出した。

「その獏って、何処にいるの?」

 西日の差す教室に残る女生徒の輪に問い掛けると、女生徒達は顔を見合わせた。

「……え? 何処って言われると……」

「誰も知らないよね? だって誰もいないんだよ」

「手紙を出せばお迎えが来るらしいけど……」

 はっきりとした答えは得られないが、とにかく『手紙』を出せば良いらしい。

「本当にいるの?」

「さあ……? でもいたらいいよね。何でも願いを叶えてくれるんだから」

 忘れ物を取り、教えてくれた女生徒に手を振って萌果は赤く染まる教室を出た。自分ではどうしようもない願いなら、頼るのも良いかもしれない。左手首に巻いたシュシュを握り、萌果は高揚した。

 何処に手紙を出せば良いのかわからなかったが、とりあえず願い事を書いた手紙は用意した。とりあえず近くの小さな神社に足を運んでみた。願いを叶えると言えば真っ先に浮かぶのは神様だ。神様への願いをこっそりと聞いていて助けてくれる存在なのかもしれない。食べられる夢は、寝ている時に見るあの夢のことだろう。いつも違う夢を見るのにどれを食べるのか。そんな形のない空想の産物なんて、幾らでも食べて良い。

 手紙を手に、御賽銭も入れて手を合わせて目を閉じる。

鷹木たかぎ君と付き合えますように!)

 数秒間目を閉じていたが、何も起こらなかった。目を開けて辺りを見渡してみるが、誰もいなかった。遠くで鴉の鳴き声が聞こえるだけだった。

「あれぇ? 神社じゃない……?」

 暫く待ってみるが、やはり誰も来なかった。首を傾げつつ、仕方がないので家に帰ることにする。

 願いを想う強さが足りなかったのかもしれない。常に願う気持ちを持たなければと、萌果は遣る気を出した。

(色んな占いも御呪おまじないもやったけど、効果なかった。だったらもう頼っていいよね!)

 家に着くまでも、帰って御飯を食べる間も携帯端末やテレビを見ている間も、思い出しては願ってみた。夜に小腹が空いてコンビニにちょっと出掛けてみる時も、忘れないように願ってみた。

 その帰り道にひっそりと立つポストが目に入り、ふと思い出して持って出ていた手紙を取り出して目を落とす。手紙と言うなら、ポストに入れる物ではないだろうかとふと思う。住所はわからず書けないので、『獏さまへ』とだけ書いた手紙だ。

 誰とも擦れ違わない夜道の陰に立つポストへ、物は試しと手紙を入れてみた。かこんと音を立てて呑み込まれ、しんと沈黙が流れた。何も起こらない。

(駄目かぁ……もう一度手紙書かないと)

 気持ちを切り換え、再び願いを想う。常に鷹木君のことを考えているような気持ちになり、嬉しくなってスキップもしてしまう。


「お迎えに上がりました」


 暗い夜道にぽつんと傘を差した女性が立っていた。目の前にいるのに、話し掛けられるまでいることに気付かなかった。

「……!」

 街灯から少し離れているのではっきりとは見えないが、雨も降っていないのに差している傘には明かりの灯らない小さな電球がぶら下がっていた。

「えっと……もしかして、獏……?」

 鼓動が速くなっていく。願い続けたおかげで届いたのだろうか。見た目は普通の人間の女性のように見える。

「私は違いますが、そこに連れて行くことはできます」

「!」

 きっと女生徒が言っていた『お迎え』だ。それ以外に考えられなかった。

 萌果は女性に駆け寄る。少し背が高い人だ。灰色の傘に灰色の長い髪。灰色のロングスカートにエプロンを纏っている。

「連れて行ってください! 私、鷹木君とっ……」

 つい、と人差し指を唇に当てられ言葉を止められた。

「願い事は獏にどうぞ」

 萌果は興奮する心臓を抑えながら、こくこくと頷いた。

 灰色の女性がくるりと傘を回すと、一瞬にして景色が変わった。少し霧の出ているそこは、煉瓦の壁が続いていて日本ではないようだった。辺りを見回しても誰もいなかった。きっとここが誰もいない街なのだと確信する。

「付いて来てください」

 女性の持つ傘にぶら下がっている小さな電球に明かりが灯っていた。その明かりを見失わないように霧の中を萌果は付いていく。

 程なくして立ち止まった目の前にあったのは、明かりの灯る小さな店だった。夜の暗さと霧の霞みで看板の文字はよく見えなかった。

 女性が傘を畳んでドアを開けるので、後に続く。

 中は薄暗く、誰もいなかった。瓦落多がらくたの並んだ棚が左右に広がり、通路は狭い。奥まで行くと、瓦落多の置かれた机が一脚あった。

 女性は小さなベルを取り出し、ちりちりと鳴らす。そのまましんと待つ。

 やがて暗い棚の間から、黒い動物の面を付けた人間が顔を出した。

「ひっ」

 薄暗さと予想外の姿が出てきたので、萌果の心臓は止まりそうになった。動物面は手に持っていた瓦落多を棚に置き、通路に出る。黒い外套が翻る。

「ごめん、驚かせて」

 萌果は口をぱくぱくと傍らの灰色の女性に何かを訴えようとするが、上手く言葉にできなかった。代わりに女性が汲み取り説明をしてくれる。

「あれが獏です」

「……ゆっ、夢をあげる代わりに願い事を叶えてくれるっ……人ですか!?」

 面を被った人間はゆっくりと通路を歩き、萌果の傍らを抜けて机の向こう側へ立ち、考えるように顎に手を当てた。

「夢……か」

 ごそごそとポケットから鉄屑を抓み出し、面のそこだけ露わになっている口元へ運ぶ。ぽりぽりと食べ出した。それを萌果はぽかんと見詰めることしかできなかった。いや鉄屑に似せた食べられる御菓子なのだろうと無理矢理自分を納得させる。

「僕はもう夢は食べないからね。夢は飽きた」

「それ……お菓子ですよね? 何の……」

「お菓子だよ」

 その言葉に安心した。人間が鉄屑なんて食べるはずがない。食べたら口の中が血だらけになってしまう。

「鉄屑って言う」

 何の冗談なのか理解できなかった。頭がおかしくなりそうだった。なので、そのことにはもう触れないことにした。本題はそれではないのだ。

「夢を食べないって……」

 それは話が違う。夢をあげる代わりに願いを叶えてもらえるという話だったではないか。

 その疑問には灰色の女性が答えた。

「この獏は謹慎中なのです。飽きたと言ってますが、本当は食べさせてもらえないだけです」

「クラゲさん」

「夢を食べない獏は、動物園にいるバク科バク属の只のバクです」

「辛辣」

 動物のバクの面を被っているのは皮肉なのか罰ゲームなのか、萌果は眉を寄せ、心配になりながらハラハラと獏を見た。

「ああ、この灰色被りの人は、灰色海月はいいろクラゲさん。僕の助手……みたいなものかな?」

「え、えっと……夢を食べないってことは、願い事も叶えてもらえないってことですか……?」

 灰色海月は棚の奥へ消え、ティーセットを持って戻ってくる。

「願い事があるなら叶えてあげるよ。叶えられる願いならね。代価が夢じゃないってだけ」

 カップにとぽぽと注がれる紅茶の良い香りが漂う。

「夢じゃない代価って……何ですか?」

 ごくりと唾を呑み、置かれた紅茶に口を付ける。緊張で乾いた喉に紅茶が染みる。

 獏もカップを手に取り、紅茶を飲もうとして面にカップが当たった。

「ちょっと、この鼻やっぱり邪魔なんだけど」

「只のバク科バク属のマレーバクが自身の鼻に文句を言わないでください。その鼻切ったら只の豚ですよ」

「辛辣……獏と豚の交わる所って哺乳綱がやっとだよね? ……おっと、僕が食べたいのは夢じゃなくて、心だよ」

「頭に入ってこないんですけど……」

 鼻を避けながらカップを潜らせて紅茶を飲む獏の姿は不安にしかならなかった。だが鉄屑を食べるような人が只の人間であるはずがない。そんなの只の変態だ。人間ではない存在ではないと、説明がつかない。

「じゃあもう一度言うね。僕が欲しいのは心だよ」

「心って……」

「夢を見るのは脳だけど、見せるのは心だと思うんだよね。夢を感じることのできる複雑怪奇な心のなんて美味なことか……と気付いたんだ」

「夢を食べさせてもらえないだけですが」

「でも大丈夫、安心して。心を全て食べてしまうわけじゃないから。そんなことをしたら君は廃人になってしまうからね。ほんの少しだけ、心の柔らかい美味な部分を貰うだけ」

「要は雑食の獏です」

「ま、まあ、そう言ってくれてもいいけどね……」

 助手に圧されている獏を見ていると、本当に不安しかなかった。

「本当に、願い事……」

「クラゲさんの所為で疑われてるんだけど。とりあえず話を聞くだけならタダだから、叶えられるか判断してみようか」

 古い革張りの椅子に腰掛け、萌果も灰色海月が置いた椅子に恐る恐る座る。

「あの……学校の同じクラスに好きな人がいて……その人と付き合えたらいいなって……」

 もじもじと頬を赤らめつつ手首のシュシュを弄りながら、爪先に視線を落としてやっと言った。人に言ったのは初めてだった。今し方会ったばかりの他人に言うだけなのに凄くどきどきした。

「成程、恋愛か。じゃあ告白したらいいんじゃない?」

「でぇあ!?」

 身も蓋もないことを言い出した。それができるなら疾うにやっている。

「いっ、言えないから困ってるんです! できれば、鷹木君から告白してほしいなって……」

「ああ……そういう。何かアプローチしてみたの?」

「恋愛運の上がるラッキーアイテムを持ってみたり、消しゴムに好きな人の名前を書いて使ってみたりしました!」

「小学生がやってそうな御呪いだね」

「高校生です!」

「ああ、それは失礼。何でその人のことを好きになったの?」

「この人本当に大丈夫ですか!? クラゲさん!」

 不安が頂点に達し、傍らに控える灰色海月を振り返った。彼女はまじまじと獏を見てから、こくりと小さく頷いた。

「頭は大丈夫じゃないです」

「大丈夫じゃなかった!」

「ですが、願いを叶える力はあります」

「……あるんだ」

 落ち着いた雰囲気の灰色海月が言うなら、少しだけ信じてみることにした。どんな占いも御呪いも効かなかったのだ、縋るものがもう一つ増えるだけだ。それが本当は効かないことだとしても、縋ることしかできない。

「……入学式の時、学校で迷子になって、それを助けてくれたんです……」

「ああ……何かよくある感じの」

 ポケットから鉄屑を抓み、ぽりぽりと食べる。

「話、聞く気あります?」

「あるよ」

 獏は人差し指と親指で輪を作り、萌果をその輪から覗く。茶化しているのではないかと萌果は眉を顰める。

「――うん。いいよ。その願い、叶えてあげる」

「えっ、本当に!?」

「心は成功報酬として貰うからね」

「わっ……! 明日から恋人なんだ……!」

「明日はちょっと早いかな」

「明後日かぁ……」

「いや早くない? なるべく早く頑張ってみるけど」

 先程まであれほど不安そうにしていたのに急に目を輝かせる。現金な人間だと獏は思った。

「クラゲさん、彼女を送ってあげて」

「はい」

 灰色海月は一礼し、萌果を促した。浮かれる萌果は目に見えるようにハートを散らしながら店を出て行った。その姿を獏はぽつんと見送る。

 カチャカチャと萌果に使ったカップを奥に引き、獏は自分の紅茶を飲み干す。おやつの鉄屑にも飽きてきた。

 棚に並ぶ瓦落多の列を並び替え、一歩引いて全体を見る。そんな作業をしていると、ドアの開く気配と再びちりちりとベルの音がした。

 獏が棚から顔を出すと、先程とは違う少女と目が合い、少女はびくりと肩が跳ねた。

「あっ、あ、あの……ここは……?」

「ようこそ。ここは僕の古物店だよ。良かったら見ていってね」

 少女はきょとんとした後、助けを求めるように灰色海月を見上げた。

「ここを古物店だと認識してやってくる人はいないでしょう。精々、瓦落多店です」

「辛辣」

「願いを叶える獏の店で間違いはありませんが」

 最後に添えられた一言で、ほっと安堵したようだった。置かれた椅子に腰掛ける。

「あのっ! 私のお願い、聞いてもらえますか?」

「願いの代価は夢じゃなくて心なんだけど、それはいいかな?」

「心……?」

「そう。全部じゃなくて、ほんの少しだけだけど」

「少しって……何処を取るんですか……?」

「ああ君は少し頭のいい子だね」

「?」

「希望に添えるかはわからないけど、できるだけ聞いてみようかな。君の嬉しい感情、不安な気持ち、悲しい出来事、楽しい思い出。何でも一つ、願いと引き替えに」

「取られたら、無くなるってことですか?」

「気持ちなら無くなるけど、また芽生えるかもしれない。でも記憶だったら二度と思い出せない」

 少女の前に紅茶の入ったカップが置かれる。契約者を逃がさないための刻印の紅茶を。

「じゃあ! 思い出したくもない三和みわ萌果の記憶を食べて! 私の彼氏に色目を使う三和萌果を、彼に近付かないようにして!」

 泣きそうな顔で叫ぶ少女を見ながら紅茶を飲み、獏は頷く。

「わかった。君の希望は最大限考慮して聞くよ。とりあえず落ち着いて、紅茶も美味しいよ」

 少女は肩で息をしながら、勧められた紅茶を飲む。茶葉には詳しくないが、言う通り美味しい紅茶だった。

「三和萌果は最初から鷹木君のこと目を付けてて、私の彼氏になっても付き纏って本当に困ってたんです。獏の噂を聞いた時は半信半疑だったけど、藁にも縋る思いで……」

 願いが叶えられそうで安心したのか訥々と語り始める。獏は少女の気が済むまで話を聞いた。

 やがて満足したのか自ら立ち上がり、少女は頭を下げた。

 二人目の少女を見送り、その背に指で作った輪を向ける。そして獏は紅茶の残りをゆっくりと飲んだ。

 カップを片付けていると、灰色海月が今度は一人で戻ってきた。

「ご苦労様。また誰か連れて来たらどうしようかと思ったよ」

「その時はまた飲んでもらいます」

「その時はトイレに行かせてほしいけどね……でも僕まで紅茶を飲み干す必要なくない?」

「相手の警戒心を解くためと、勿体ないです」

「それはそうなんだけど……」

「只の豚になりたいんですか」

「せめて獏を留めておいてよ」

 客人用の椅子を奥へ仕舞い、漸く椅子に腰掛け一息吐く。

「二人の願い事が矛盾してましたが、大丈夫ですか?」

「大丈夫でしょ。まずは先着順だから、最初の子の願いから叶えるけど。願いは未来永劫だって条件もないし」

「そんなことばかりしていたら、いつか刺されますね」

「クラゲさんに?」

 ふふと笑い、机に転がる歪んだ古いビー玉を指で弾く。

「けど依頼を受けないと外にも出られないんだから、依頼は受けないと」

「そうですね。それもこれも後先考えずに無差別に夢を食べたからですが。自業自得です」

「耳が痛いね。甘い物を食べたら辛い物が欲しくなるし、辛い物を食べれば甘い物が欲しくなるのと同じだよ。悪夢ばかりじゃ飽きるでしょ」

「それで良い夢も食べては世話がないですね。先程の方達の心には何が見えましたか?」

 奥の流し台でカップを洗いながら灰色海月は憂えるように問う。

「もう一人来るかと思ったんだけど、外に出るついでに僕が直接行ってやろうか」

「殊勝ですね。一人では出歩けない癖に」

「外に出たらプランクトン買ってあげるから」

「いりません。海月扱いしないでください」

「頼れるのは君だけなんだから」

「それは……わかってます」

 灰色の睫毛を伏せ、蛇口を閉める。こんな誰もいない街に閉じ込められて自由を奪われているのに、何故こうも軽々しいのか。灰色海月は獏の監視役としてここにいるが、頭が大丈夫ではない獏の考えていることは未だに理解できない。

「じゃあ少し寝てから行こうか。向こうも今は夜だし」

「はい」

 誰にも見えない透明な誰もいないこの街は常時夜だ。どれだけ外の時間が進んでも空は黒く、そして霧が掛かっている。もし迷い込めば自力で出ることはできない。

 通常誰も来ることのない街の中で来ない客を待ち続ける店に棲む獏は、灰色海月がいないとこの街から出ることができない。閉じ込められた獏の監視を言い付かっているが、端から見れば助手に見えるだろう。罪を償うための善行で、灰色海月同伴で街の外に出ることを許されている。獏の行っていることが果たして善行と言えるものなのかは灰色海月にはわからなかったが。

 二階で仮眠を取った後、獏は欠伸をしながら一階に下りる。いつでも獏の面を付けているが、寝る時は外している。起きるとまた付ける。

 店内に足を下ろすと、灰色海月は首輪を持って立っていた。冷たい金属の首輪に短い鎖が付いている。これを首に付けないと街の外に行くことはできない。外套の襟を開け、灰色海月に首輪を付けられ、慣れない冷たい感触に爪を立てる。重くて肩が凝りそうだ。

「行こうか」

「お伴します」

 店の外に出、灰色海月は灰色の傘を開いてくるりと回した。

 瞬きの一瞬で景色は一変し、夜から明るい昼間になる。眩しさに面の奥で目を細める。

「対象の学校の敷地内です。何処に行きますか?」

「やっぱりまずはモテ男君でしょ。どんな顔してるのか拝みに行こう」

「でしたらこの時間は授業中ですね」

「接触は難しいかな」

 人差し指と親指を繋げて作った輪を覗きながら、空高く上げる。聳え立つ校舎の壁を見上げて目を細める。

「クラゲさんは下で待っててよ」

「はい」

 明るい昼間に黒い服は目立つが、壁から生える突起に足を掛け、跳んで上階へ上がる。一瞬窓に何か見えるかもしれないが、生徒は皆授業に集中していることだろう。

 目的の階に辿り着き、窓越しに生徒と目が合った。

「あ」

 一度身を引いて柱の陰に身を隠す。勢いよく窓を開ける音がした。

「窓の外に人が!」

「え!?」

「誰か落ちたの!?」

「いや跳び上がってきた」

「どういうこと!?」

 一頻り騒ぐが、地面を見下ろしても誰もいない。獏は静かになるまで待つことにした。だが再び顔を出せばまた騒がれるだろう。紙切れに文字を起こし、呼び出すことにした。

 静かになった所で、柱の陰から丸めた紙切れを対象の机に放る。窓際の席ならば窓越しに話せないかと思ったのだが、大騒ぎになってしまった。怪しいかもしれないが、校舎裏に来てくれることを祈る。

 再び壁を伝って地面に下り、灰色海月と合流する。授業が終わるまではまだ時間があるが、校舎裏で待つことにした。

 すっぽりと日陰になる校舎裏は少し肌寒いが眩しくなくて良い。

 壁に背を預けて待っていると、呼び出した生徒が辺りを見回しながら角から現れた。獏の面と目が合い、踵を返す。

「ちょっ、ちょっと待って!」

「さっきの不審者じゃねーか!」

「不審は認めるけど違うから!」

「何が違うんだよ!」

「とりあえず話を聞いて!」

 逃げる男子生徒を追う獏より先に灰色海月は傘を閉じて地面に姿勢を低くし滑るように走った。生徒の前に回り、傘を開いてくるりと回す。

「待ってください。話を聞いてください」

 音もなくくるりと舞った灰色の髪がゆっくりと下りる。まるでこの女性の周囲だけ重力が弱いように。その不思議な姿に見蕩れてしまい、男子生徒はぴたりと足を止めてしまった。

「ここに来たってことは、話を聞いてくれるってことだよね?」

「……本物か?」

「残念ながら見せられる証拠はないけど、願いは叶えられる本物の獏だよ」

「代償に人を喰うって奴だろ」

 獏は面の奥で目を丸くする。

「成程。そういう風に伝わってる噂もあるのか」

「どうなんだよ」

「そっちの方が正確かもしれないね」

「!」

 ふふと獏は笑う。

 男子生徒は一歩後退るが、後ろには灰色海月がいる。

「ああ大丈夫、警戒しないで。君には訊きたいことがあって来ただけだから」

「訊きたいこと……?」


「うん。君は、君のカノジョと三和萌果、どっちが好き?」


「は……」

 意味深な質問に生徒は眉を寄せた。そんな質問、普通なら絶対カノジョと答えるはずだ。だがそれは――できなかった。

「嫌な……質問だな」

 獏は指で輪を作り、生徒に突き出して覗く。

「何でもお見通しってことか?」

「何でもではないけどね」

「お前、何でも願いを叶えられるって本当か?」

 獏はくすくすと笑って灰色海月に向かって手を差し伸べる。その手にはいつの間にかティーカップが抓まれていて、何処から取り出したのか灰色海月がティーポットから紅茶を注ぐ。

「本当だよ。君も何か願いがあるのかな? お近付きの印に」

「それ紅茶か? 俺は紅茶は嫌いだ」

「…………」

 これには獏の動きもぴたりと止まる。

「……クラゲさん。何なら出せる?」

「白湯なら」

 新しいカップに白湯を注いで差し出す。

「お近付きの印に」

「白湯飲めって?」

「紅茶が嫌いだなんて言われたのは初めてだよ」

「いきなり白湯渡されたのも初めてだ」

「まあまあ、気を取り直して。君の願いを聞こうじゃないか」

 ぐいぐいと押し付けられるので白湯の入ったカップを受け取って見下ろす。本当に白湯だった。

「胡散臭ぇけど、話すくらいいいか……」

 カップを片手に獏は耳を傾ける。依頼が込み合ってくるが、楽しくなりそうだ。

「俺はカノジョと別れたい。別れさせてほしい」

「それは三和萌果を選ぶと言うこと?」

「そうじゃねぇ。カノジョと別れたいだけだ。あんな頭のおかしい女……」

「じゃあそう言えばいいんじゃない? 別れてくださいって」

「それができたら疾っくにやってんだよ! そんなことしたら、何されるか……」

「人間には女々しい男がモテるの? クラゲさん」

「わかりません」

「お前らは何も知らねぇからそんなこと言えんだよ!」

 白湯の入ったカップを振り上げようとするので、獏は慌てて話を合わせる。カップの予備はあるが、簡単に割らないでほしい。

「例えば、何があったの? 頭のおかしい話を聞かせてよ」

「他の女子と話をするなってのは言われた。けど学校の中で何も遣り取りすんなって、無理あるだろ」

「僕は学校に行ってないからわからないけど、同じ空間に男女がいる以上、何らかの遣り取りは発生するのかな」

「おう。それで少し事務的な遣り取りをしただけで……」

 ガチガチと歯を震わせながら、落ち着こうとして白湯を一気に飲んだ。

「深くは聞かないけど、トラウマだったわけだ」

「ああ……だからどう別れるかばっかり考えてた。その時に獏の噂は聞いた。眉唾物だと思ったけどな」

「こんな不審者にも縋りたいくらい追い詰められてるってわけだね。結論から言うと、遺恨無く別れさせることはできるよ」

「マジか! 助かる! ……けど、喰われる……んだよな……?」

 眉を寄せて不信感を露わにするので、獏も紅茶を飲みながら頭を傾ける。

「ばりばりむしゃむしゃと食べるわけじゃないよ。君の心をほんの少し食べるだけ」

「心臓……?」

「いや比喩でもなくて。気持ちや感情、思い出など、ほんの少し消えるだけ。痛みはないよ」

「じゃあもうすっかりトラウマだから、カノジョのことを忘れさせてくれ」

「別れさせて、忘れさせる。都合良く綺麗に纏まったね」

 カップを灰色海月へ返し、口元に笑みを浮かべる。

「できるよ。それでいいんだね?」

「ああ、頼む」

「じゃあまずは、何も言わなくていいから三和萌果にこれを渡して。後は君は流れに身を任せるだけでいい」

 それだけ言って獏は灰色海月の手を取り、とんとんと壁を蹴って校舎の一番上まで跳んでいった。

「すげぇ……」

 人間業ではない身体能力に、漸く普通の人間ではないと理解できた。鷹木は受け取った小さな紙袋を見下ろす。中に何か入っているが、テープで口が閉じられている。このまま渡せば良いと言うことか。何も言わなくて良いなら、女子と喋るなという制約も破ることにはならないはずだ。これを三和萌果に渡すだけでカノジョと別れられるなら、安いことだ。獏が最初に何やら言っていた気がするが忘れた。

 屋上まで駆け上がった獏は柵に腕を載せ下界を見下ろす。

「撥条は巻き上げたから、あとはどうなるか見物かな」

 指で輪を作り、依頼人を探す。

「クラゲさんはどうなると思う?」

「どうなるにしろ、一人勝ちするように巻いてますよね」

「ふふ。先着だからね」

 空は厚い雲が覆い始め、太陽を隠してくれてありがたい。



 教室に戻ろうとした鷹木は廊下で三和萌果の姿を見つけた。念のためきょろきょろと確認するが、カノジョの姿はない。獏から渡された紙袋を渡すには良い機会だ。これを渡せば、渡すだけで、後は自然とカノジョと別れることができる。まるで魔法のような話だが、あんな身体能力の生き物が存在するなら、奇跡でもあるような気がする。

 鷹木は萌果に歩み寄り、萌果も気付いて足を止めた。何も言わずただ小さな紙袋を差し出すと萌果は鷹木の顔と紙袋を交互に見、そわそわと落ち着かない様子で受け取った。小首を傾ぐので、中に何が入っているのか見当はついていないだろう。

 萌果は焦れったそうにテープを剥がし、紙袋の中を覗き込む。鷹木からは死角になって中身は見えなかったが、萌果は驚いたように頬を赤らめ、大事そうに紙袋を抱き締めた。そして鷹木に抱きついた。

「――え?」

「嬉しい! 同じ気持ちだったなんて!」

「え? ちょ……何?」

 どうなっているのかわからず鷹木の頭の中は疑問符で一杯になった。

「もうずっと考えるだけで胸が張り裂けそうで夜も眠れなくて、でももうそんな日も終わるんだね!」

 嬉しそうにぴょんぴょんと何度も抱きついていると、手首のシュシュが少しずれて下から怪我でもしたのか傷が覗く。その視線に気付き、萌果は恥ずかしそうに手首を押さえた。

「あ……でももう隠すことないのかな。私のこと何でも知ってほしいし……。眠れない時はこうすると、落ち着くんだよ」

 にっこりと笑顔でシュシュをずらして見せる。手首の外側に無数の切傷が刻まれていた。鷹木はぞくりと背筋が冷たくなるのを感じた。純粋な笑顔も狂的に見えた。


「鷹木君、何してるの……?」


 その声にハッと振り返る。教室から出てきたカノジョがじっとこちらを見ていた。

「えっ、いや、これは……!」

「三和萌果……私の彼氏に何してるの?」

「残念でしたー! 鷹木君は私の彼氏になったの!」

「は?」

 チキチキと音がする。カノジョの手にはカッターナイフが握られていた。

「許さない許さない許さない許さない」

 ナイフを振り翳し萌果に振り下ろす。

「ひっ!」

 足が縺れて萌果は尻餅を突くが、何とかすぐに起き上がる。逃げなければナイフに刺される。

 足が縺れながらも呑気に談笑する生徒を押し退けて廊下を走り、階段の上で腕を掴まれた。

「あっ……」

「捕まえた」

 ナイフを避けるため身を捩ると、腕を引く形になりカノジョは階段を踏み外した。

「きゃああああああ!」

 何処かの誰かの悲鳴が上がった。階段から転がり落ちたカノジョは動かなくなった。

「私、悪くないもん……この人が! 襲ってきたから!」

 萌果は近くまで様子を見に来ていた鷹木の許へ駆け寄り、腕に抱きついた。

「おい誰か先生! 救急車!」

 廊下にいた生徒達は硬直して動けなくなっていたり、恐る恐る動かないカノジョに近付いて様子を窺ったりする。

「ね、ねえ、怖いよ鷹木君……帰ろ」

「お……おう……」

 その場から離れたい気持ちは同じだった。鷹木は無意識に頷いていた。

 カノジョがその後どうなったのかはわからない。救急車のサイレンの音は聞こえた。

「ねえ鷹木君……私、逮捕されちゃうのかな……鷹木君と離れ離れになっちゃうのかな……」

「…………」

「そんなの嫌だよ! ねえ鷹木君! ずっと一緒にいて」

「え……」

 ぼんやりとしていた鷹木は萌果に手を引かれたことに気付くのが遅れた。

「ずっと一緒だよ――」

 純粋な笑顔で、走る車の前に躍り出た。気付いた時にはもう避けられない距離だった。



「…………」

 輪にしていた指を離し、動物面は遠くの空を見る。

「人間は本当に愚かだね」

 柵を背に振り向き、獏は屋上の出入口に目を遣る。

「これで君の願い事も達成かな?」

 ドアを背に立つ少年は目を伏せて逸らす。

「虐めの主犯格に報復」

「殺せとは言ってない……」

「たぶん死んでないでしょ。三和萌果の手首の傷は死ぬためのものじゃないし、死に対する抵抗はあるよ。死んだら僕が食べられないし」

「…………」

「カノジョさんは三和萌果を忘れて、モテ男君はカノジョさんを忘れる。三和萌果は――どうしようかな。甘酸っぱい恋心でも食べてしまおうか」

「それだと別れるという願いが達成されないのでは?」

「三和萌果に関する記憶を全て食べるから大丈夫だよ。そもそもの始まりが三和萌果を出し抜くために付き合ったみたいだからね」

「ということは、何故付き合っているのかわからない……自然消滅と言うことですか」

「そうなるね」

 指で輪を作り、獏は少年に向ける。

「君から戴く心も、好きな女の子への恋心でいいかな?」

「…………」

 少年は慌てたように首を振る。

「もう少し考えたい」

「慎重だね、君は。とても柔らかそうで美味しそうなのに」

 柔らかい即ち、押せば簡単に形を変えてしまいそうな弱くて脆い部分だ。弱さを食べるのだから、弱点がなくなって良いと思うのだが、人間はなかなかそれを離そうとしない。

「何かを渡してたみたいだけど、あれは何を渡してたの?」

 話を逸らそうとしているのか少年は目を合わせずに問う。

「紙袋のこと? あれの中身は消しゴムだよ。三和萌果の名前を書いた消しゴム。三和萌果から聞いた御呪い。好きな人の名前を書くっていうね」

「じゃあ両想いだって勘違いしたのか……」

「勘違いでも脳は信じたでしょ?」

「それ願いを叶えたことになるの?」

「叶ったかどうかは主観的なことだから。叶ったと思ったら、叶ったことになる」

「それに則ると、叶ってないと思えば叶ったことにならないわけか」

「ん?」

「叶ってなければ、心を渡す必要はない」

「それは痛い所を突いてくるね……。でも脳は騙せない。君は叶ったと思ってしまった」

 柵から身を起こし、獏は少年に歩み寄る。少年は一歩後退るが、閉めたドアが背に当たる。

「君からはその憂慮の気持ちを戴こうかな?」

 少年の顎に指を掛け顔を近付け――面の鼻が当たった。

「……やっぱり邪魔だよねこの鼻?」

「豚になりたいんですか」

「豚にも失礼だからね、それ」

 背後から辛辣な言葉が投げられつつも獏は考える。身動きが制限されている現在は力も制限されているため、直接吸い上げることしかできない。

 考えた結果、少年の双眸を片手で塞いだ。もう片方で面を取り、口から直接心を食べ――

「がっ」

 思い切り頭突きをされた。がらんと面が手から落ち、慌てて手で顔を覆う。

「酷くない!? 石頭!」

「……もう行ってしまいましたが」

「これだから起きてる人間から食べるのは嫌なんだ!」

 手探りで面を探し、急いで装着する。

「刻印されているので追えますが、追いますか?」

「……いや、いい。頭がじんじんする。先に意識の無い人間から食べる」

「夢も心も食べられない獏はバク科バク属のマレーバク以下ですよ」

「返す言葉がない……」

「格好つけて鉄屑を食べてないで、草でも食べてください」

「うぐ……」

 よろよろと立ち上がり、力の乏しい獏は壁に手を突く。

「首輪さえなければ……」

「自身の暴食の結果なので自業自得です」

 灰色海月は獏の手を取り、くるりと灰色の傘を回した。代価の食事のため、契約者が運ばれた病院へ移動する。

 ――先着順に。

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