第10話 真希のトラウマ②

 翌日。私は意を決して、家を出た。

 今日は、教室に行くのだ。教室に、行くのだ。

 先生は給食の時間だけでいいと言ってくれた。だけど、私は朝から行くと決めた。朝一に言って、あの男子を……ぶん殴ったら流石にダメなので、文句を言ってやるのだ。よくも私を侮辱してくれたなと。よくも私を傷つけてくれたなと。

 学校に着くと、校門前にのえりーがいた。まだ登校時間には早めなので、生徒はほとんどいない。そうだ、新しい友達ができたという点だけは、あの男子に感謝をしなくちゃなあ。


「おはよー真希っち!」


 のえりーの声は今日も元気で、私はその元気を受け取るように呼応する。


「おはよう、のえりー!」


 私たちは合流して、昇降口に向かう。


「真希っち大丈夫? 昨日寝れた?」


「うーん……ちょっと寝つき悪かったかも。でも眠れたよ」


 私とのえりーはクラスが違うので、各々の下駄箱へと向かった。まあ二列の違いなので、下駄箱一列を挟んで向こう側にのえりーはいる。私は自分の下駄箱の扉を開けた。いつも通り、靴を入れて、上履きを取り出そうと手を入れる。


「……?」


 手に、上履きでない感触が当たるのを感じた。


「なにこれ」


 私は手に触れた薄いそれを取り出した。すでに上履きに履き替えたのえりーがやってくる。


「どうしたの? ……え!?」


 のえりーは私の手にあるものを見て、目を丸くした。


「そそそ、それって!! もしかして!? ラブ――」


 確証はない。ただの真っ白い封筒だし、フィクションとかによくあるハートのシールなど貼られていないのだから。


「いやそんなのマンガだけでしょ!」


 のえりーはマンガみたいにツッコミをして、その封筒をまじまじと見る。


「ていうかラブレターだってマンガの世界だけのものだと思ってた……」


 二人して、下駄箱前で一枚の封筒を見つめる異様な光景がそこにあった。どうするべきか。


「え、ここで開けていいのかな? どっか隠れた方がいいの?」


「ここで開けていいって! ほら! 早くしないとみんな来ちゃうから!」


 のえりーが私の背中をバシバシと叩く。興奮してるな、この子。

 恐る恐る開けると、白いシンプルな便箋――もといルーズリーフの切れ端が入っていた。そこには、上手くも下手でもない文字で、文章がしたためられていた。


「う、うわ」


「えええええ! ちょっと! これって!」


 テンション爆上がりののえりーが、読んでいい!? と何度も聞くので、二人で読むことにした。


『帆波真希さんへ

 突然のお手紙でごめんなさい。どうしても気持ちを伝えたくて書きました。

 帆波さん、あなたのことが好きです。

 周りは帆波さんのことを色々言ってるけど、俺はそんなの関係ないです。

 帆波さんの顔も、声も、もちろん髪も全部含めて、好きです。

 何より、その優しくて強い性格に恋しました。

 お返事、待ってます。』


 読み終えるころ、あれだけ騒がしかったのえりーは静かになっていた。二人して赤らんだ顔を合わせる。


「やっぱりラブレターだ……」


 ひゃああああっと二人で小声の大声で叫ぶ。そして、しばらく地団駄を踏み、そして急に冷静になったのえりーが言った。


「……待って、これ差出人書いてないじゃん」


「……え、あ……ほんとだ」


 一体、誰からの手紙なのだろうか。

 気になる。気になる!

 いやそもそも、本当に私宛? 間違ってない?

 読み直す。

 うん、間違いなく私の名前だ。

 深く、深く深呼吸をする。


「こんなことって、あるんだ……」


 私の心臓は隣に立っているのえりーにも聞こえるのではないかというくらい、高鳴っていた。

 ひとまず私は、手紙を制服のポケットに入れて、深呼吸をする。

 そうだ、優先順位がある。

 まずは教室で、私は私を許さなければならない。

 クラスの男子に一矢報いて、自分は大丈夫だ、と自分に証明しなければならない。


「のえりー、私はまず、やらなきゃ」


 私の目を見たのえりーは、ハートになっていた瞳を真剣な眼差しに戻し、頷いた。


「だね、そうじゃなきゃ、恋愛もなにもない!」


 私たちは、歩みを進める。

 廊下にはもう、少し早めに来ていた生徒たちがだいぶ増えてきていた。

 私は教室に入る。既に生徒が五人ほど来ていた。のえりーは自分の教室に鞄を置いて、走って廊下まで様子を見に来てくれた。

 二人組で駄弁る女子。昨日の宿題にやっと手を付けているであろう男子。読書をしている女子二人。皆、私をチラチラと見ている。私は自分の髪を触り、俯いてしまった。

 ダメだ、怖がるな。

 見た目なんかじゃない。

 私は、私なんだから。

 一歩踏み出す。二歩、三歩……。自分の席に着く。

 まだあの男子は来ていない。

 すると、何か合図があったかのように一気に教室に人が入ってきた。びっくりした。けど、覚えがある。そうだ、部活の朝練が終わる時間である。一か月教室に来なかっただけで、忘れてしまうんだなと私は驚いた。

 そして。


「あれ? 陰毛ちゃんじゃん! 久々に見た」


 その声は、例の男子。


「ちょっと山本。一か月も休んでたんだよ? 気遣いなって」


 女子の声。

 休んでないし。

 あとあの男子、山本って名前だったんだ。


「……あの」


 手汗がすごいことになっている。

 膝が、震えている。


「あ?」


 言わなきゃ。ふざけんなって。

 言わなきゃ。私は、そんなことじゃ傷つかないって。

 言わなきゃ。言わなきゃ……。


「わた――」


 言おうと立ち上がったそのとき、私の後ろを通りがかった男子に、ぶつかってしまった。


「あッ」


 私は体勢を崩し、転んでしまった。お尻から思いっきり床に叩きつけられ、ジーンと痛みが走る。

 その姿を、皆が見ていた。

 きっと顔が赤くなっている。けれど関係ない。私は堂々と、言わないといけない。立ち上がり、再び相手と向き合おうとしたそのとき。

 私のポケットから、一枚の封筒が落ちた。

 それは私が気付いたときには既に床を滑って手の届かぬ方へと行ってしまっていた。


「ああっ」


 私はその封筒を追って中腰のまま数歩進む。もう少しで届く、というところで、私の視界から封筒は取り上げられた。


「なにこれぇ」


 それは、クラスのゴシップ好きの女子だった。まずい。彼女は、絶対に見る。そして絶対に、みんなに広める。取り戻さないと。


「ええ! もしかして、ラブレター?」


 その声はとても大きく、もしかしたら隣のクラスまで届いていたかもしれない。

 のえりーが教室の入り口で焦っているのが視界の隅に映る。


「帆波さん、これ誰に!? それとも誰から!? どこで!?」


 私が手を伸ばして奪い取ろうとするのをのらりくらりと交わしながら、ゴシップ好きの女子は言う。


「いいからッ……返して……ッ」


 運動不足の私は、テニス部の彼女に全く敵わなかった。私があたふたしているうちに、いつの間にか封筒は開かれており、今にも目を通されそうで、私はそれをもうほとんど諦観していた。


「うわ! ホントにラブレターじゃん! すご!」


 彼女のその声を聞いた背の高い男子が、まるでおもちゃを見つけた子供のような顔で寄ってくる。


「マジ!? 見せろよ!」


 彼女は何の抵抗もなく、男子に手紙を受け渡した。

 やめて。

 本当に、やめてほしい。


「どれどれ……『帆波真希さんへ』! うわあホントに陰毛ちゃんへじゃん!」


 背の高い男子はわざとらしく顔を歪ませ、続きを読んでいく。それは小学生の下手くそな音読のようで、無駄にはきはきとした声色が場を煽った。


「『お返事、待ってます』……だってさ!」


 読み終わるころには、教室のほぼ全員が注目していた。誰も興味があるからか、勇気がないからか、止めることはなかった。それどころか、笑い声すら聞こえてくる。

 私は恥ずかしくて、悔しくて、泣きそうだった。だけど、堪えた。私は。私は、変わったんだから。


「きっも! 陰毛ちゃんに告るとか異常性癖だろ!」


 心が抉られるのを感じる。


「やッやめて……!」


 もう何に対しての「やめて」なのか自分でも分からない。目の前のことで必死で、後先など分からない。


「ねえ」


 そのときだった。

 教室の入口。野次馬で埋め尽くされたそこから、甲高く力強い声が聞こえた。が、姿が見えない。


「やめなって」


 人と人との間を掻き分けて姿を現したのは、他の生徒より頭一つ小さい、のえりーだった。威嚇をする小動物のような顔つきで、言う。


「それ、書いた人の気持ち考えられないわけ? あんたたち、目の前の真希っちだけ傷つければ気が済むのかもしれないけどさあ、書いた人もいるってこと、忘れちゃだめだよ?」


 そこ声は朗々としており、誰もが聞いていた。

 ああ、私が言いたかったことはこれかもしれない。私が傷つけられるのは分かっていた。覚悟してきた。もう、三度目だから、慣れなくても、知っている痛みだった。だけど、手紙をくれた人に罪はない。それを、のえりーは言語化してくれた。

 私は胸の中が絶望と希望の渦で、泥水みたいに混沌としている中、ただただ見つめる先に、のえりーが眩しかった。


「は?」


 その低音は、のえりーの声に突如として覆いかぶさる。

 私の心臓は、すでに乱れていたのに、追い打ちを掛けられるように飛び上がる。

 その声は、すべての発端の男子だった。狐のような目をぎろりとのえりーに向け、言う。笑い混じりの声で、言う。


「そんなの、いたずらに決まってるじゃん」


 ――は?


「わっかんねえの? 差出人も書いてないし、文章もそんなにわざとらしいのにさあ。な? みんな」


 教室が騒めき出した。

 え? いたずら? 一体誰の……?

 いや、嘘。嘘だ。そんなわけ、ない。


「おもしれえなあ、こんなの信じるなんてさ」


 手紙をひらひらとさせながら、男子は私を見下し、笑う。嗤う。


「ち、ちが――」


「なんで? 根拠は?」


 根拠。

 根拠は、ない。差出人は書いていない。名乗り出てもいない。証言もない。

 なにも、ない。

 ――ああ、また。


「ほらね。ニセモノ。残念でしたあ、陰毛ちゃん勘違い乙」


 男子は言って、手紙を真っ二つに破いた。


「お前みたいなブスのこと好きになるやつなんていねえよ」


 そして、私の心も真っ二つに破かれたのだった。

 その後、教室は他のクラスの誰かが転校するとか、そんな別の話にいつの間にか変わっていた。私はただただ破れた手紙を持って立ち尽くすしかなかった。



 翌日。保健室。

 悔しかった。悔しくて悔しくて死にそうだった。


「真希っち、いつまでそうしてるつもり?」


 のえりーの声。昨日は一時間目が始まる前に私は保健室へと逃げ込み、そして放課後になるまで、ずっとベッドの中に蹲っていた。今日は学校に来るか迷ったけど、のえりーに会いたかったから、保健室には来ることにした。最初について来てくれたときと、昨日一日は、のえりーも色々と声を掛けてくれたが、流石に一日経った今日になると心配を通り越して少し呆れていた。


「そりゃあ私には想像もつかないような悲しみかもしれないけどさ……いつまでもそうやってても何にもならないでしょ~? 力になりたくても、どうすればいいの? ベッドに入り込んで襲えば慰められる?」


「変態」


 のえりーの下ネタが理解できてしまう自分が悔しい。


「ツッコめるならそこそこ回復してみてえですな」


 まあ、そう。そうだ。そりゃあ丸一日以上一人で亀の物真似をしていれば、少しは情緒も落ち着く。それでも。

 それでも、胸の嫌な騒めきは収まらないし、食欲はない。


「ね、真希っち。何が悔しい?」


 のえりーの問いに、私は反射的に答えを探す。

 なんだろう。


「何を言われて一番、悔しかった?」


 言い方を変えて、のえりーは再び問うた。その答えは――簡単だった。


「ブスって言われたこと」


「それだけ?」


「陰毛ちゃん」


「あとは?」


「その二つが、一番」


 空調の音が、無駄に大きく聞こえる。保健室の先生は、私たちの会話を聞かないふりをしていた。


「じゃあさ、見返してやろう」


 のえりーの声が、掛け布団越しにもはっきり聞こえりくらい、張り上がる。


「見返す……?」


 私は、布団の隙間から顔だけ出して、のえりーを見上げた。その小さな体躯は堂々たる姿勢で、背中から光を浴びていた。


「そう! ブスってんならさ、めちゃくちゃ可愛くなってやろうよ!」


 可愛く……?


「そう! 女には、メイクとか、ヘアサロンとか、ネイルとか、洋服とか、色んな武器があるはずじゃん!」


 パッと見、七割少年ののえりーから、似合わない単語が次々飛び出してくる。


「要はあいつら、真希っちの見た目が気に入らないんでしょ? だったら、あいつらが惚れちゃうくらい可愛くなってさ、見返してやろうよ!」


 キラキラした瞳に、私は吸い込まれそうになる。

 そうだ。そうだよ。中身だけ変わったつもりじゃ、ダメなんだ。目に見えて、変わったんだっていう証明を周りに振り撒いて、堂々と生きなきゃ。


「……うん。ありがとうのえりー。私、変わる。変わってやる」


 私は掛け布団からのそのそと這い出る。そのとき、のえりーが掛け布団を掴んで、一気に引きはがした。布団は宙に舞い、埃が光をきらきらと反射させ、神秘的に見えた。すっかりしわになった制服のスカートが露わになった私は、それでも気にせず勢いよくベッドから飛び降りて、のえりーの元へ駆け寄る。

 掛け布団は綺麗にベッドに着地し、二度目の埃を巻き上げる。


「へっくし」


 私は耐え切れず、くしゃみをした。


「ぶえっくしょん!」


 それより大きな声で、のえりーもくしゃみをした。

 そして、私たちは顔を合わせて笑った。

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