第9話 真希のトラウマ①
私が三年間通っていた中学は、田舎の比較的大きな学校だった。一学年、一クラス三十人ちょっとが四クラス。少子化が叫ばれる昨今では珍しい。まあ、周りに他の学校が少なく、その地域の子供たちが集まっているだけで、地域自体は寂れたものだったけど。
人数の多い学校は、教師の目も届きにくい。
中学二年の秋。
始まりは、些細なものだった。
中学の休み時間は、各授業時間の間に十分間設けられている。給食の直後には二十分の昼休みがあった。その三時間目終わりの十分休み。直前の授業は社会科の授業で、グループワークが執り行われていた。ゆえにお喋りが盛り上がったまま授業を終えたのでクラスはいつもより騒がしく、特に男子はくだらない話題で盛り上がっていた。
何の話をしていたのかは分からない。
私の知らぬところで、その火種は既に燻っていた。
「帆波の髪の毛って、陰毛みてえだよな!」
声のよく通る男子の一声だった。多分、クラス全員に聞こえていたと思う。
私は当時、酷い縮毛で、扇子のように広がる髪を無理矢理後ろに結んでいた。別に気にしていなかった。けれど。
一瞬、教室の音がなくなったかと思った。そして、別の男子が口を開く。
「ホントだ! ちん毛じゃん! 帆波ちん毛!」
それを合図に、周りがどっと笑い出す。私は、何が起きているのか分からなかった。何か言おうとしていた気がする。けど、何を言えばいいのか分からなかった。
「ちょっと男子、やめなって」
そんな女子のお決まりの注意がチラホラ聞こえる。どこまで真剣に止めていたのか分からないけど、そんな言葉で男子たちは止まらなかった。
「ぎゃはは! ほら見る? 俺のとまったく同じ!」
最初に言い出した男子が、他の男子にズボンとパンツを引っ張って見せている。「やめろよ汚え」と見せられた男子は笑っている。
「真希ちゃんが可哀想でしょー」
己の正義感を振りかざしたいだけの学級員の女の子がそんなことを言っていた。
――私、今可哀想なの?
周囲を見渡す。笑う男子。注意する女子。少し離れたところで口を押さえ、肩を震わせる女子。素知らぬふりしてこちらをチラチラと見る男子。何かあったのかと教室に入ってくる野次馬。事情を知らず困惑する男女。先生はいない。
「――え、真希ちゃん……?」
気づけば、涙がボロボロと零れていた。顔が熱くなり、足が震える。
「なに? 陰毛ちゃん泣いちゃった?」
もう誰の声か分からない、男子の声が鮮明に聞こえる。
さっきまで妙に冷静に状況を見ていた頭が、急にダムが決壊したみたいにこんがらがって、何も考えられなくなる。
私はついにその場に崩れ落ちた。嗚咽が止まらず、ただ笑い続ける男子と、心配する女子、野次馬、その全ての声がごちゃ混ぜになって頭に流れ込む。
「ごめんって陰毛ちゃん~」
「だから! やめてってば! 泣いちゃってるでしょ!」
学級員の女の子が、坊主頭の男子に言う。
その横顔が少し嬉しそうなのを私は見逃さなかった。彼女がその男子を好きなのはみんな知っていた。
私が冷静になったのは、保健室のベッドの上だった。
四方を壁とカーテンで仕切られた白い空間で、私はただ、ついさっき起こった出来事について考えていた。泣き腫らした目がまだ熱を帯びているのを感じ、私は私が悲しんでいることを強く自覚した。
陰毛、という言葉は保健の授業で習ったばかりだったと思う。思春期になると男女共に陰部に生える、毛。私も既に生えているし、母親や父親、修学旅行で友人にも生えているのを見た。……たしかに、皆縮れていて、まるで私の髪の毛のようだった。自分のものなのに、まるで汚物を触るかのように恐る恐る髪を触る。固く、縮れた、言うことの聞かない毛束。段々、頭にも陰毛が生えているのだと思えてきて、また涙が出そうになった。
今まで一切気にしていなかったのに、一度気になり出すともう、どうしようもない気持ちになる。
ダメだ。ダメだダメだ。
こんなことでへこたれるな。私は、大丈夫。
教室へ戻ろう。きっと委員長とか、気の強い女の子たちが男子をきつくしかりつけてくれてるはずだ。今、何時か分からないけど、とりあえず給食を食べて午後の授業を受けないと。
そう決意し、私は恐る恐るではあるが、給食の時間中の教室に戻った。
髪を軽く押さえながら、自分の席に向かう。みんながこっちを見ている気がした。みんなが、髪を見ている気がした。でも、誰も何も言わなかった。先生がいるからかもしれない。けれど、私は少しだけ安堵していた。
私が六人が寄せ合わせた机の自分の席に着くと、一瞬静かになっていた教室が、再び騒がしくなる。いつも通りの給食。隣の席の女の子が小声で一言「おかえり」と声を掛けてくれた。私は「ああ、大丈夫だ」と思って、目の前のわかめご飯を口に運んだ。
束の間、だった。
私は美味しく給食を食べていたはずだった。
なのに。
私の後ろ、背中合わせに座っている男子が急に振り向いて、私の肩を叩いた。
先程、最初に声を上げた、発端の男子だった。
彼は、教室の喧騒に紛れて、私にだけ聞こえるようにこう言った。
「陰毛ちゃん、遅かったな。頭のチン毛絡まっちゃってた?」
その気持ちの悪いにやけ声に、私は虫酸が走った。全身の毛穴が逆立ち、筋肉が固まる。
「あ、あ……」
枯れたと思っていた涙が、再び視界を歪ませる。
「真希ちゃん?」
隣の女の子が私の異変に気付く。
さっきまで美味しく食べていたはずの給食が、逆流しようと胃の中を暴れ始める。私は半ば反射的に動いた腕で口を覆い、その場から逃げるみたいに走って教室を出た。
教室から一番近い女子トイレの個室に駆け込み、すでに喉元まで来ていたものを一気に吐き出す。酸味と塩味が口いっぱいに広がって、それがまた吐き気を促す。もう悲しみなのか、嘔吐のせいなのかも分からない涙と鼻水で顔がぐしゃぐしゃだ。
最悪。
最悪。
最悪。
最悪、最悪。
最悪、最悪、最悪、最悪。
もう、教室には戻れない。
トイレットペーパーをぐるぐると多めに巻き取り、涙とぐしゃぐしゃの口元を拭う。ティッシュペーパーと違って、強く擦ると少し痛い。もう一度巻き取った紙で鼻をかみ、それをを便器に投げ込んで、水を流した。
涙も鼻水も枯れるまで、トイレの個室から出ないことにした。
昼休みになって、周りが騒がしくなる。トイレに入ってくる女子たちの会話に私の名前がないか、敏感になってしまう。笑い声が、私に向けられているような気がしてしまう。人生で一番長い昼休みに思えた。涙も鼻水もとっくに止まっているのに、結局個室から出られたのは、五時間目が始まってしばらく経ってからだった。
誰もいないトイレの洗面台で口をゆすぐ。顔を上げると、そこにはボロ雑巾みたいな髪の自分がいた。今朝、家で歯を磨いているときはなにも思わなかったその髪が、今はどうしても忌まわしくて、両手でそれを掴み力いっぱい引っ張った。
けれど、毛根が痛むだけで、髪の毛はどうにもならなかった。胸の痛みの方がよっぽど痛い。
私は誰にも会わないように保健室に向かった。なんとなく、保健室の先生は私のことを嗤わないと思ったから。でも別に、保健室の先生は私の心を癒すような言葉は掛けてくれなかった。それもそうである。だって私は何にも話さなかったのだから。保健室の先生は嗤わないと思ったけど、嗤わないと信じることはできなかった。言えなかった。言いたくなかった。
それからしばらく、私は教室に行けなかった。親を心配させたくなくて、学校には行っていたけど、一日中保健室で過ごした。それでもそんな鬱々とした毎日はずっと続くことはなかった。いや、案外すぐにその日は訪れた。
私が保健室登校を始めて一週間が経った日。保健室で自習をしていると、突然扉がガラガラッと勢いよく開いた。
「こんにちは! 帆波真希ちゃん、いるー?」
彼女は小学生みたいに小柄で、小動物みたいな顔で、それでもどこに隠しているのだろうというようなエネルギーを放っていた。髪はショートカットで、もしかしたら男子に間違われそうなほどである。
「あら、牧野さん」
保健室の先生が優しい声色で彼女を出迎える。
「また怪我? それともどこか悪い?」
「そぉ見えますかね先生~?」
「見えないわね、すっごく元気そう。あ、帆波さん。こちら牧野恵理さん。一組の子よ」
これが、私とのえりーの出会いだった。
時間は昼休みだった。一体何をしに来たのだろうと思っていると、のえりーはおもむろに私の手を掴み、目の前にいるのに酷く大きな声で言った。
「よろしくね、真希っち! 私のことはのえりーって呼んで?」
「あ、よ、よろしく……」
目の前の太陽みたいに眩しい笑顔が、私の真っ黒に染まった心を照らし出してしまうようで、私は目を逸らした。
「で、牧野さんは帆波さんになんの用があって来たのかな?」
先生がのえりーの椅子を出してきながら言う。その椅子にぴょんと座ったのえりーは、にっこりと笑顔を作って、言った。
「真希っちと、友達になりに来たの!」
私はきっと、間抜けな顔をしていたと思う。
*
中学生なんて単純なものだ。毎日、昼休みと放課後、合計一時間くらいだろうか。なんでもない話をしているだけで、案外打ち解けてしまう。いや、もしかしたら私だからかもしれない。もともと人付き合いは好きだったし、何よりのえりーと喋っているときは髪のことを忘れられた。
のえりーは時折、授業で習ったことを教えてくれた。教え方は拙かったし、自分でも理解できていなくて保健室の先生に助けを求めてばっかりだったけど、嬉しかった。他にも、昨日見たテレビの話。今日の朝食の話。好きな本の話。たらればの話。
思えば、あの頃の私は物事を複雑に考えすぎていたような気がする。未熟な精神と未熟な頭で、たった一つの願いを、自分でも見つけられないくらい入り組んだ奥底に隠してしまったかのように。
私は、ただ一つ。
自分の見た目に自信を持ちたかっただけなんだ。
*
「そういえば、なんで真希っちって保健室登校なの?」
それは唐突だった。私が保健室登校を始めて一か月。のえりーと話すようになって三週間。一度も事情っを聞かれなかったので、すでに知っているのだと思い込んでいたのだが、違ったようである。保健室に先生はいない。職員室に用事があると言っていた。
私は下唇を噛んだ。
ずっと口を噤んできたから、もうなんで話したくないのかもよく分からない。のえりーが私を無垢な瞳で見つめる。その瞳は、とても奥深くまで続いているように思えた。
「真希っち。私、何を聞いても真希っちの味方だよ」
初めて聞く声色だった。のえりーもこんな声を出すんだと、私はのんきに考えていた。
ああ、この子になら、話せるかも。
この子なら、嗤わないと信じられるかも。
私は、ずっと噤んできた口を開いた。
「なにそれ! 酷いね!」
それは至極真っ当で、そして嘘偽りない意見だった。その意見が、私は嬉しかった。クラスの女子の、どこか薄っぺらかったり、同調圧力っぽかったり、下心を感じたりする言葉とは比べ物にならない安心感が、そこには存在した。
……ああ、今の私にはこれが、これが必要だったんだ。
「うん! 酷いでしょ!」
私は笑いながら声を張り上げた。
「そんなやつさ、ぶん殴ってやればいいよ! こう、顔面をスパーン!って!」
のえりーが右手を前に突き出して言う。
すごいな、のえりーは。
「……そうだね! ぶん殴ってやる!」
すると、のえりーの拳はゆっくりと私の目の前にやってきて、そこからぴょんと飛び出てきた人差し指が私の鼻を弾く。
「じゃあ、明日は教室、行かなきゃね」
のえりーは優しく笑った。
私は一瞬、固まってしまったけど、その笑顔を見て、力強く頷いた。
「うん」
その日は一段と、夕焼けが綺麗に感じた。
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