第11話 161日目
一六一日目
昨日は過去を思い出してばかりだった。疲れた。
でも、これも思い出せた。私は、変わったのだ。変わったことを身をもって誇示し、生きている。あの頃誓った復讐は、現在進行形で果たせている。あの頃のクラスメイトとは、以来一度も会っていないけれど、今の姿を見たらきっと悔しがるに違いない。
それなのに、どうして、どうして過去のことを思い出すと胸が痛いのだろう。呼吸が荒くなるのだろう。心が乱れるのだろう。もう私は変わって、復讐はきっと果たされていて、決別したはずなのに。何が私を痛みつけているのだろう。
ただ、それでも、誰かに笑われてる気がして外出できなくなったり、自分の姿が半永久的に残るのが恐ろしくて写真に映れなかったり、美しい人を見て嫉妬に悶えたりすることはなくなった。今は幸せだ。イケメンの恋人がいて、気の置けない親友がいて、私を可愛いと言ってくれる群衆がいる。それで十分だ。十分なのだ。
自分にそう言い聞かせ、私は鏡の前に立つ。縮毛矯正で真っ直ぐになった髪。スキンケアでニキビひとつない肌。歯科矯正のおかげで並びのいい歯。顔の素材はもともと悪くないから、ちゃんとメイクを怠らなければ、誰も文句のない美人になれる。
今日も大学の講義だ。出かけよう。外に出て、私は私の美しさを見てもらおう。みんなに肯定してもらおう。私は、変わったのだと。
*
大学はいつも通りだ。敷地内はどこも学生だらけで、私をチラチラと見てくる。一番目立つところにあるキッチンカーはケバブを売っていた。そして、あの忌まわしいメッセージを送ってきた奴をブロックした私にも、いつも通りがやってくる。私はあんなイタズラに負けない。
だが、それでも神様とやらは、私をいじめ倒したいみたいだった。今日、雅人と会った私はそれを悟り、内心絶望した。
「おはよう、真希ちゃん」
流石の雅人も少し声色が暗い。それもそうである。雅人の右目が、昨日までと全く変わってしまっているのだ。雅人は少し間を置いて、泣きべそかいている子どもみたいな口調で言う。
「ねえええどうしよう!? ものもらいかな? もしかして目が見えなくなっちゃうかも……!?」
私は人目を憚らず抱き着こうとしてくる雅人を制止しながら、彼の右目をじっくりと見た。その瞬間、ぞわりと背中に冷たいものが走る。
その目は、腫れているとか、外的損傷による変化とかには全く思えなかった。まるで、全く別人の右目がそこに貼り付いているような、歪な感じ。ただし、全く違う目という感じではない。なんとなく、左目に似てはいるものの、でもやっぱりよく見ると全く違う。とてもじゃないが、左右の目のバランスが普通じゃない。
「……ねえ、雅人。今日は講義休んで一緒に病院行こ」
嫌な予感がして仕方がなかった。具体的にはそれが何か言葉にはできない。ただ、何かマズいことが起きている気がする。その予感が外れていてほしくて、それがただの一過性の病気であってほしくて、私は提案した。
「え、いいの? 真希ちゃんは講義出なよ」
雅人はそう言うと分かっていた。でも、関係ない。
「いいの。今日は私も雅人も一度くらい休んで大丈夫な講義でしょ」
今日は残り二コマ残っていたが、どちらもまだ私たちは一度も休んでいない。むしろ今日はチャンスだ。……と、いうのは建前で、本当は今すぐに確認しに行きたい。雅人の身に何が起きているのか。私のこの予感は一体何なのか。
「……ありがとう、真希ちゃん」
……別に。
「お礼とか言われることじゃない」
*
大学近くの一番大きな病院。ここなら、何かあってもすぐに精密な検査も受けられるはずだ。真っ白い外壁を見上げ、私たちは肩を並べて入り口近くに立っていた。
「……眼科でいいのかなあ?」
雅人が上を向いて口をだらしなく開けたまま言う。私は私でスマホを取り出し、下を向いたまま言う。
「待って、今調べるから」
沈黙。
看護師や患者たちが行き交う中、私たちだけ時間が止まっているみたいだった。
結果、私たちは二人で眼科の受付へと向かった。割とすんなりと待合室に通される。平日の昼間といこともあってか、私たち以外はほとんど高齢者ばかりだった。病院のにおいとおばあちゃんの家のにおいが混ざった独特な空間の中、私の頭の中は不安の渦がぐるぐると回っていた。考えすぎかもしれない。そうだったらいい、そうだったら。
ふと雅人を見ると、何を考えているか分からない顔で、待合室の壁に付いているミュートのテレビの字幕を目で追っていた。右目はやっぱり雅人のものとは思えない。一体、なんなんだろう。
「海原さん。海原雅人さん。診察室へどうぞ」
看護師の落ち着いた声が待合室に響く。私はビクッとして、診察室の扉を見ると、扉から顔を覗かせる看護師と目が合った。すぐに逸らした。
ソファから立ち上がるとき、
「一人で大丈夫だよ?」
「やだ。保護者がいるでしょ」
「俺、小学生?」
といういつもみたいなやり取りをして、少しだけ心が落ち着いた。
扉を開ける。中は普通の診察室で、これまた普通の先生が普通に座っていた。
「どうぞ、座って」
四十代後半くらいだろうか。男の先生は、フチのないメガネをかけていて、いかにも頭の良さそうな人だった。
「失礼します」
雅人は先生の前の椅子。私は助手? みたいな看護師さんに椅子を出してもらい、そこに座った。
「ご姉弟?」
「いえ、恋人で」
私が答えると、へえ? と先生は低く唸った。
「で、海原さん。右目が変とのことですが、どんな感じですか?」
自分の中で緊張が走る。
「あ、えっと。なんていうか」
雅人は何と言ったらいいのか分からない、という風に分かりやすく困惑している。見かねた先生が、雅人の右目をじっと見てから、口を開いた。
「見た感じ、何か問題がある感じではなさそうですけどね」
……え。
いや、明らかに問題はある。だって、右目が昨日までとは明らかに違う。バランスだっておかしい。なんで、なんでこの先生は普通でいられるんだ。
……違う。そうだ。この先生は昨日までの雅人は知らない。先生にとっては、ただ目のバランスが悪いだけの人なのだ。そんなこと、他人に指摘などできない。
「あ、あの」
私は耐え切れずに口を開いた。
「これ、見てくれませんか?」
私はスマホの写真フォルダから、つい最近の雅人の写真を先生に見せる。
「三週間くらい前の写真なんですけど、明らかに目がおかしいというか」
画面を見ながら説明をする。
そして、顔を上げると、先生は固まってしまっていた。顎に手を添え、目を見開いている。
「……これ、本当に同一人物?」
「は、はい」
「俺です」
私と雅人がそれぞれ肯定する。
「た、たしかに右目と……あれ? 右耳もなんか違うような?」
伊達に診察をしていない。先生の観察眼で、雅人の耳の変化が、やはり私の勘違いでないことが証明された。それは、私にとって、雅人にとって恐ろしい事実であることは間違いなかった。
「先生、これってどういうことか分かりますか?」
それでも私は、諦めずに聞いた。
「私は眼科医ですから、一旦耳のことは置いておきます。目についてですが……正直、分かりません。とりあえず、精密に検査してみましょう」
それからいくつかの検査について私たちは説明を受け、診察室を出た。そして、三つほどの検査が終わったころには、すっかり空は赤く染まっていた。
「検査の結果ですが……至って健康な目でした。ただ、左右で視力に少しですが差があります。気になったのはそれだけなので、これと言って問題はなさそうですね……お時間いただいたのに残念です」
先生は、淡々と、しかし少し悔しそうに言った。
私の胸はぞわぞわしていた。何も分からなかったからだ。私の期待していたことは何も起こらず、嫌な予感だけが当たってく。胃が痛い。雅人も、同じだろうか。
「よかった。問題ないんだ」
……よかった?
「なんで? よくないでしょ」
「え?」
「だってさ、顔が変わっちゃったんだよ? 自分の顔が!」
私は場所を忘れて大声を出す。
「ちょっと彼女さん」
先生に言われ、声のトーンを落とす。でも、言いたいことが口から零れる。
「私は、怖いよ。雅人が雅人じゃなくなるみたいで。せっかくイケメンだったのに、こんなんになっちゃって。……足、耳、目、これからまたどこか変わっちゃうかもしれないんだよ?」
拳を強く握りしめる。
ああ、これ、泣きそう、かも。
「雅人、雅人は怖くないの?」
膝の上の拳を見ながら、私は涙を堪えていた。
「……怖くない、わけじゃない」
「でしょッ」
「でも、見た目が変わっても、俺は俺でしょ?」
私は、何も言えなかった。
ただ、そのとき涙を溜めていた目が決壊して、ボロボロと零れた。これが何の涙かは分からない。ただ、今は泣いて喚きたかった。
*
帰り道。もうすっかり日は沈み、街灯が道を等間隔で照らしている。
私たちのこの先も、こんな風に暗くても見えやすければいいのに。なんて、考える。
「ごめん私、あんなところで大泣きして」
肩を落とす私の背中に、雅人は手をそっと当てた。
ひとまず雑菌などが入らないように、ということで雅人は右目に眼帯を着けてもらった。また、よく分からない目薬も処方されたけれど、先生曰く気休め程度らしい。でも、それでもよかった。そんな藁にも縋りたいと思った。
帰りの電車で、雅人は私に言った。
「真希ちゃん。俺、変わらないから。何があっても、真希ちゃんが好きな俺で居続けるから」
陽が沈んだ直後の電車はほぼ満員で、私は雅人の顔が見えなかった。でも、「うん」と頷く。頷いた、けど。
私が好きな雅人って、どんなだろう。と思った。
もしも雅人の外側が全て変わってしまっても、私は雅人を好きと言えるのか。……自信が、持てない。
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