第4話 トイレ

 あ、もう限界…。


 僕はできるだけそっと起き上がって、足音をたてないようにそろりそろりと移動した。足が湿っているから、フローリングの床にペタペタと足が張り付いてしまった。剝がすたびにメリ、メリッと音がする。とても無音とは言い難い。


 ドアのところで振り返って女の子を見ると、ぐっすり眠っているのか、まったく動く気配がない。顔が横を向いているから、正直言って起きているかどうかは見えない。でも、寝ていると確信できるくらいに静かだった。


 さっき着ていた洋服は布団の足元にこんもりと積んであって、下はパンツしか履いていなかった。華奢というよりは白くてぽってりとした足が布団の上に投げ出されていた。カップルの休日ってこんなかんじなのかな。自分にとって未知の世界が目の前に広がっている。未防備に投げ出された足が自分に対する信頼を物語っていた。


 そして、上半身はキャミソール姿だ。そのことにも気が付かなかった。いつの間にかシャワーを浴びていたようで、濡れた髪が背中について、その薄い生地をびっしょりと濡らしていた。あんなに薄着でよく風邪を引かないなと思う。タオルケットを掛けてあげたい。そしたら、優しいと思ってもらえるかもしれない。僕は彼女が動き出すんじゃないかと心配で、しばらくその姿を見下ろしていた。


 さっきまでそんな恰好で隣にいたなんて…。知ってたらもっとじっくり観察しとくんだった。さっきは顔がドアップ過ぎて、何を着ているかなんて見る余裕がなかったし…。もう一回戻って隣に寝てみたい。でも、そうする勇気がなかった。目が覚めた時、僕は何て言ったらいいんだろう。謝る?思わず、「ごめん」って言ってしまいそうだ。


 勝手にこの子が脱いだんだし、僕は何も後ろめたいことはない。

 そもそも論だけど。この人誰なんだろう。

 何でここに?

 もしかして、僕に気があるとか…。

 僕も一応は◎◎大だし…。

 バイト先の年上の人から顔がかわいいと言われたこともある。

 モテそうとか、彼女いないなんてもったいないというのも何度も言われた。

 それなのに、誰も告って来ないしお世辞かもしれない。

 でも、どこから入ったんだろう。

 普通、初対面の人の部屋に入って勝手に寝るってあり得ない。

 しかも、僕人畜無害そうに見えても一応男だし…』


 しかし、取り敢えずトイレにはいかなくては…。もう、尿意を感じる余裕すらないのだが。同じ場所にずっと立っているから、足の裏がぴったりとフローリングの床に張り付いていた。足をメリメリっと剥がす。


 次の難関は、ドアを開ける時の開閉音だ。

 でも、音もなく開けるなんて絶対無理だ。


 もし、女の子が目を覚ましたら取りあえず外に逃げようか。この状況にはとてもじゃないけど耐えられそうになかった。やる気満々で僕の部屋に来ているはずだけど、僕には心の準備ができていない。今まで女の子と手もつないだことがないんだから、いきなりそういうことになっても恥をかいて終わるだけのような気がする…。


 しかも、僕はちょっとその子が好きになっていた。がっかりされたくない。嫌われたくない。事前にわかってたらリサーチしとくのに。いきなりは無理だ。心臓がバクバクする。


 ここは穏便にお引き取りいただきたいところだけど、帰らなかったらどうしよう。もう、会えないなんて思いたくない。その子もそう思って僕の所に来たなんて…そんなはずないか。


 もし、追い出したらもう来てくれないだろうなぁ…。また、お隣さんに会いにくるかな。そうだとしても、パパ活なわけだし。好きな子が壁一つ隔てて、別の男と合体してるなんて気が狂いそうなシチュエーションだ。


 さっき、廊下で会った時のことを思い出した。甘えた舌ったらずな感じの喋り方。ビスクドールのように透き通るような透明感のある肌。艶のある唇。その様子を脳内で忠実に再現できる。


 隣のおじさんなんかとどうして?たった三万でパパ活?あのかわいさだったら、キャバクラとかでもっともらえるんじゃないかなぁ…。


 本当は嫌々やってるんだろうし、あの人よりは僕の方がいいだろう。まだ若いし、あの人ほどキモくない。


 僕はそう思いながら、ずっとトイレに座っていた。とてもじゃないけど、出られる感じではない。


 トイレを流すか迷う。トイレの流水音で目を覚ますかもしれない。前に友達を読んだ時に、トイレを流す音が部屋の方まで聞こえていた。


 しかし、トイレを流さないで出てしまったら、後でその子がトイレを使う時に、「流してない」ということに気が付くわけで。もともと魅力のない人間がそんな粗相をしたら、ますます幻滅させてしまうに違いない。自分の排泄物でもやっぱり臭い。


 どのくらい経ったかわからない程、僕はずっとトイレに籠っていた。

 そして、最終的に流さないで部屋に戻ることにした。今思うとその判断はおかしかったのだが。もし、トイレを貸すようなシチュエーションになったら、先回りして流しに来ようと思っていた。


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