第11話 薄幸令嬢、求婚される

 唐突な暴君の来訪に、誰もが固まっている。

 しかしそれは比喩でもなんでもなく本当に身体が動かないのだ。


 誰一人としてこの場から逃さぬように、ロッシュが彼らの肉体に拘束の魔法を掛けている。意識はあるのに指一本動かせないという状況。その恐怖たるや如何ばかりのものか。


「あ、あう……さ、サラザールさま……」


 こと剣に手を掛けていた護衛たちへの仕打ちはむごい。

 肺の機能を一時的に低下させ、気を失うギリギリのところで窒息するのを回避させられている。喉をかきむしろうとも、息を吸い込もうとも、酸素が思うように身体を巡らないのだ。他人に呼吸をコントロールされている、苦しいどころの騒ぎではない。


「先生……ご容赦を……」


 ユーリは怒りの業火に身を焼いている夫の背中へ優しく語り掛ける。

 彼は振り返ることすらせず、ただ術を解くことでそれに応えた。


 一斉に戒めから解放されたサラザールの家来たちは、ちからなくその場へと倒れ込む。ただひとりいまだ身動きが封じられている彼らの主は、目にいっぱいの涙を溜めて、おのれの無力さに打ちひしがれている。


「ひ、卑怯だぞ魔法使いめ! そうやってユーリも手込めにしたのだろう! 本当に彼女を愛しているのなら、正々堂々と戦ってボクから奪うがいい!」


 するとロッシュ。

 まるで絶対零度の冥府から舞い戻って来たかのような冷たい声で。


「……どこぞの貴族か領主のご令息とお見受けするが、けいのいう正々堂々とは多勢を頼りに白昼婦女子を恫喝することか?」


「そ、それはっ……」


「それから『奪え』といったな。奪うとは所有が明らかなものを奪取する行為だが、私が兄から何かを奪う意味などあるのか?」


「ぐ……」


「そして何より腹立たしいのは……我が妻をであるかのように愚弄したな。彼女の人生は彼女自身のものだ。身の程を知れ、この痴れ者が!」


 ロッシュの一喝に周囲の空気が震える。

 その場にいた者の多くが身を縮こまらせて恐怖におののいている中、大したものでサラザールだけはそれでも怯まなかった。

 ぽっちゃりとした顔を鼻水とよだれ、そして涙でずくずくにしながら最後までロッシュに食い下がる。


「い、嫌だ! ユーリはボクのものだ! 彼女じゃなくちゃ……ユーリじゃなくちゃ……」


「まだいうかこの小僧。いっそ領地ごと消し飛ば――」


 珍しく頭に血がのぼっているロッシュの背中を、ユーリがそっと触れた。

 その瞬間にすべての魔法を解き「プイっ」と顔を背ける夫の姿に、ユーリは可愛らしさを感じて噴き出しそうになる。

 一週間ぶりの彼の香りはひどく懐かしく、とても安心する。

 だから――。

 すべてを終わらせることに決めた。サラザールの心をここで折る。


「サラザールさま……どうして私などにそこまで執着なさいますか。あなたほどのお方ならばいくらでも良縁がございましょう」


「ユーリ! やっとしゃべってくれたね、ユーリ! もっと近くへ!」


 魔法による戒めは解かれたものの、身体が本能でロッシュに怯えているので立つこともおぼつかない。まるでイモムシのように、あごを使って這ってくる。

 それをまた野良犬たちに威嚇されて「ひぃぃ」と情けない悲鳴をあげた。


「私は継母ははの道具でした。利害が絡むとなれば好きでもない男にも抱かれます。貴族の子弟ともあろうお方がそんなことも分からずにどうしますか」


 ユーリはきっぱりと言ってみせた。

 貴族に臆することも、憐れみを買うような弱弱しさもなく。ただただ毅然とした態度で、自らのを肯定する。


 強いなきみは――。

 となりに居るロッシュがふと漏らした言葉が耳を撫でた。甘美な声色に不覚にも身体が熱くなる。こんな状況なのに。


「……違う」


「サラザールさま?」


「違う!」


 完全復活したサラザールは立ち上がると、生まれたての小鹿のように膝をプルプルとさせ、人相が変わってしまうほどにユーリたちを睨んできた。

 愛しさが憎さに変った瞬間である。


「ユーリだけだ、ユーリだけがボクをひとりの人間として見れくれた。ボクはお世辞にも器量がいいとは言えないし、性格もこんなだ。だから敵も多い。寄ってくるのは伯爵の息子としての地位と金目当ての下衆ばかり……でもユーリ、きみと一緒に居るときだけは安心できたんだ……きみの胸に抱かれているときだけは……」


「サラザールさま……」


「ユーリ! ボクは認めないぞ! その男は、きみのとなりに相応しくない!」


「サラザール・コントラトン、駄々をこねるのもいい加減に――」


 さすがに堪忍袋の緒が切れたユーリが一歩踏み出そうとすると、ロッシュは片手でその動きを制してため息をついた。


「本当はもっと厳かな雰囲気でやりたかったのだがな……」


 そういってユーリの眼前に跪いた。

 硬い石橋の上、ズボンが汚れてしまうことも厭わずに。

 ロッシュは懐から小さな箱を取り出した。真っ白なベルベットに覆われたリングケース。開くと中には、シンプルにデザインされたピンクゴールドの指輪が眠っている。


「ユーリ。順番が逆になってしまったが、私の気持ちと共にこれを受け取って欲しい。きみを愛している。結婚しよう。私と夫婦めおとになってくれ」


 ユーリは買い物かごを地面へと取り落とし、口元を覆う。

 とめどなく溢れる涙に、声を詰まらせた。

 嬉しかった。

 こんな気持ちになったのは生涯で初めてのことだ。

 なんて素敵な求婚をされてしまったのだろう。


「は、い。喜んで……先生、お慕い申しております……」


 世界が輝いて見えた。

 この町に来て、最初にロッシュと出会った場所でまさかのプロポーズ。こんなロマンチックなことがあっていいのだろうか。

 ユーリはいま、生まれて初めての恋をしている――。


「あ、あ、あ、ああ、あ、あ――」


 一方、サラザールは固まってしまっていた。

 もちろん魔法のちからなどではない。

 自らのドグマが生み出した高純度の矛盾によって、精神にバグが発生したのだ。ひとはそれを失恋という。彼は大人への第一歩をようやく踏み出したのである。


 やがて正気を取り戻した彼はすべて理解した。ユーリはもう違う誰かになってしまった。自分の妄想が生み出した完璧な女だったはずの彼女はもうこの世に居ない――いや、そんな人物はもとより存在しなかったと気が付いたのだ。


「……帰るぞ」


 サラザールは家来たちを引き連れて、来た道を引き返していく。

 その時、ちらと振り返ってみた。

 ユーリとロッシュは仲睦まじく、誓いのキスをしている。まるで自分なぞ最初からその場に居なかったみたいに。

 取り返しの付かない失敗をしてひとは成長する。

 かつて少年だった心にそう刻み付けたサラザール・コントラトンは、その日のうちに領地へと帰っていった。


 水平線へと沈む夕日を背景に、ふたりは永遠の愛を誓う。そして結婚初日に交わしたあの時の会話をもう一度繰り返した。


「おかえりなさいませ。先生」


「ただいま、ユーリ」



(つづく)

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