第4話 薄幸令嬢、先生と呼ぶ
なにか買い物をしていける場所はないかとイブキ婆さんに尋ね、ユーリは『しおかぜ』をあとにした。
駅前の市場では買い物どころではなくなってしまったので、このままでは嫁ぎ先に手ブラで向かいことになる。
せめて今晩の食事だけでもどうにかしようと、ユーリはたくさんの小売店が軒を連ねる商店街へとやってきた。
最初は魚をと思ったのだが、この町で暮らす人々の舌にかなう料理などまだ出来ないだろうし食べ飽きてもいるかもしれない。
どうせなら自分が得意な肉料理をお出ししようと相成った。
トランクの中には亡くなった父の秘蔵のボトルが一本。当たり年とされた十年物の赤ワインである。元気になったら一緒に飲もうと言っていたのに――。
「いい景色……」
紙の買い物袋を片手に抱き、坂を上った先にある橋を渡る。
小川のせせらぎが耳にも心地よく、どこからか香ってくる草花の匂いがひどくユーリを落ち着かせた。
悲しくて泣くのはさっきので最後だ。
この町で生きてゆく。
ユーリはそう心に誓った。
見下ろす港町を一望し、きっとうまくいくと信じて。
「さて、と。そろそろ行きますか――」
メモに書かれたラクガキのような地図を信じるならば、嫁ぎ先のロッシュ・スカヤ邸はもう間もなくのはずである。
素晴らしい風景に後ろ髪をひかれながら、ユーリは橋を渡り切る。
「え……」
そこでユーリは信じられないものを見た。
ほうきに乗ったローブ姿の青年が、宙に浮かんでいるのである。白い髪に青い瞳、黒尽くしの恰好をした血色の悪い魔法使い。
間違いなくそれは自分の戸籍上の旦那さまだ。
初めて会ったが、一目見てそう理解した。ずっと年寄りだと思い込んでいたが。
「ユーリ・カナデイン……さん、かな」
見た目にそぐわない低い声。それでいて安心できる声色だった。
ユーリはトランクを石橋に一旦置くと紙袋は片手に抱いたまま、スカートをつまんで
「お初にお目に掛かります、ロッシュ・スカヤ閣下。故ルードビヒ・カナデインが長女、ユーリでございます。不束者ではございますが、生涯を賭して、あなたさまをお支えしたく存じます。願わくば、どうかおそばに」
ロッシュは彼女の挨拶が終わると地面へと降り、ほうきをどこかの空へと飛ばしてしまった。
あまりにも非現実的で珍しい光景にユーリが気を取られていると「イブキの店で借りてきたんだよ」とロッシュは答えた。
「汽車の時間を間違えてしまって迎えに行けず申し訳ない。ずいぶんと心細い思いをさせたことだろう。私の第一印象は最悪だな」
長いまつげを伏して気落ちするロッシュに「そんなことはない」とユーリが言い切る。
「そんなことないですよ。町のひとたちはみんないいひとばかりでした。一瞬たりとも心細さを感じたことはありません。それに――」
ユーリは屈託ない笑顔をロッシュに向けて言うのである。
「ちゃんと迎えにきてくださって嬉しいです。夢だったんです、こういうの」
「そ――」
ロッシュはユーリの笑顔に一瞬言葉を詰まらせた。
それは良かった――の一言を言うのに、それから数十秒が経過する。真っ白い素肌が紅潮してゆくのは、中天の太陽に焼かれているからなのだろうか。
「ともかくロッシュ・スカヤだ。あなたの夫ということになる。お互い『王命』ということで是非もなかったと思うが、よろしく頼む。アレはむかしからそういうひとの気持ちが分からないところがある」
「アレと仰いますのは……もしかして国王陛下?」
「ああ。アレとは学生時代からの腐れ縁でね――あ、いや、こんなところで話し込むのもなんだから、道々歩きながら話そう」
そういうとロッシュは、ユーリのトランクを持つ。
紙袋も持とうかと、ジェスチャーで伝えたが、それは大丈夫とユーリも言葉を使わずに受け答えをした。
お互いに年齢ということで言えば、さほど若くもない。
初対面ではあるが、すでに熟年夫婦のようなやり取りが自然と出来てゆく。
「イブキさんから八十過ぎだとお伺いしてたので、びっくりしました」
「ああ。魔法使いは歳を取らないからね。イブキも出会ったときは少女だったが、いまとなっては私よりも大人になってしまった」
「アクアパッツァが絶品でした。今度、お魚料理を教えてくれるそうです」
「彼女に気に入られるとは相当なものだよ。駅前の市場でもその話題で持ち切りだった」
「あはは……お恥ずかしい……」
石橋から続く小道は次第に樹々の陰へと覆われてゆく。
森や林という規模ではないが、なだらかに上ってゆく丘陵地に白樺やブナといった並木が等間隔で植わっていた。
小鳥のさえずり、木陰に昼寝をする野良猫たち。
みな、ロッシュの帰りを待ちわびていたかのようである。
「閣下はこの場所でもう何年もおひとりでお住まいだったんですね」
梢の向こうに見えてきた古びた屋敷は、明らかに町はずれに建てられている。
それを寂しいと思うかどうかは本人次第であるが「人嫌いで変わり者」という風聞が独り歩きするのも無理からんことだとユーリは感じた。
「ここが我が家だ。さあ入って――と、そのまえに」
ロッシュは扉の鍵を開けると、ユーリに振り返って言う。
「家に入ったらもう『閣下』呼びは止めて欲しい。これからは夫婦なのだから」
「ではなんとお呼びいたしましょう?」
戸惑いつつも嬉しく思うユーリの頬は、自然とニヤついてしまう。
これからは夫婦――なんと甘美な響きであろうか。その内実が『王命』による仕方のないものであろうとも、この御仁とならばやっていけるという根拠のない自信が彼女にはあった。
「なんとでも呼んでもらってもいいが、そうだな。旦那さまとか、ご主人さまも気恥ずかしいものがある」
「では、町のひとたちとおなじく『先生』とお呼びしてよろしいですか?」
「きみがそれでいいのなら」
「ありがとうございます! 町のひとたちが誇らしげにそう呼んでいらっしゃるのがとても羨ましかったのでうれしい」
「では――」
「あ、ちょっと待ってください」
ユーリはロッシュを押し退けて先に屋敷へ入ると、軽く身支度を整えたあとに飛び切りの笑顔でこう言った。
「おかえりなさいませ。先生」
その時のロッシュの顔は忘れがたいものがあった。
目元にうっすらと溜まるものを堪え、唇をキュッと真一文字に結んで。
「ただいま、ユーリ」
今度はユーリが感動する番だった。
何年ぶりに聞いた言葉だったであろうか。自分の名前のまえに「ただいま」という単語。帰ってきたのはきっとロッシュ本人だけではない。
それはユーリにとって久しぶりの「家族」の帰還を意味していた。
今晩はお肉料理ですよ――。
その会話を最後に、ロッシュは自室へと閉じこもってしまった。
ベッドに置いてあるまくらへと頭を突っ込み、防音の魔法をかけて「あああああああ!」と叫んでいる。
「くそっ! レオニダスめ!」
レオニダスというのは、この国の王の名前である。
不敬にもロッシュは国家で最も敬うべき相手を「アレ」だの「くそ」だの、あまつさえ本名を呼びつけにしたりする。
「なにがとうの立った三十路オンナだ! あんな、あんな――」
むくりと起き上がった彼の顔はニヤけていた。そこに救国の英雄の面影など微塵もなく、ただただ激しい情動に揺れる一個のオスの姿である。
「あんな魅力的な
前妻を亡くしてから二十年足らず。
齢八十を過ぎてなお、心に
(つづく)
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