第3話 薄幸令嬢、アクアパッツァを食らう

 んふふおいしー!!!

 フォークとナイフを握り締め、ジタバタと床で靴を鳴らす。淡白だと聞いていた白身魚が、こんなにも深い旨味を持ちジューシーだったとは。


 駅長ターナーのおすすめ料理である『しおかぜ』のアクアパッツァに舌鼓を打ち、ユーリは生きていることの素晴らしさをあらためて噛み締めている。

 大袈裟と思うなかれ。

 ユーリはこれまでカビた黒パンと野菜くず、スジ肉ばかりで過ごさねばならなかった。

 それでもなんとか美味しく食べられるように工夫を続けてきたが、なにも考えなくてもただただ美味いというのはそれだけで何物にも代えがたい幸福体験なのである。


「そうかい。アンタがロッシュ先生の……」


「町の皆さま、もうご存じなんですか?」


「いや、聞かされているのは古い付き合いのある口の堅い連中ばかりさ。先生ももう八十は超えているからね。後添えを考えてくれただけでも、あたしらは安心さ」


 八十歳。

 それはもうユーリにしてみれば配偶者というよりは、奉公先の主人といった感覚だ。

 祖父世代とは生まれてこの方会ったことはないし、死別した父だってまだ六十に手が届いたばかりだった。

 ユーリは父の介護生活を思い出し、再びあの戦いが始まるのを予感している。

 しかも今度は言うなれば赤の他人。

 国家の英雄たる魔法使いともなれば、身の引き締まる思いであった。


「アンタも良くしてやんな。救国の英雄なんて世間じゃ言われてるが寂しいもんさ。せめて子供でも出来りゃまた違ってくるんだろうけど……あ、これは聞き流しておくれよ、アンタに無理強いしてんじゃないからね」


「八十歳でお子ですか……お元気なんですね。私、満足させられるかしら」


 口元を手で押さえて「ふむ」と考える。

 あまりにも真剣な表情で、下の話がギリギリ猥談にならない不思議。それがツボに入ったのかイブキ婆さんは大いに笑う。


「かっかっか。面白い娘だ。アンタなら先生とでも大丈夫だよ。少女時代から知ってるあたしが保証する」


 そう太鼓判を押されたユーリは上機嫌でアクアパッツァを平らげた。

 食後のライムを絞ったハーブティがオリーブオイルと金目鯛の脂でギラついた口の中をサッパリとさせてくれる。


「イブキさんはおひとりでこちらを切り盛りされているんですか?」


「そうだよ。普段は夜しか営業しないし、常連か紹介客しか店にゃ入れない。この時間はいつも仕込みに使う。アンタ、破格の待遇だよ。感謝しな」


 厨房からビシッと包丁を突き付けてくる老婆に、ユーリは畏怖を抱きながらも笑顔で返す。

 彼女の『しおかぜ』は本当にこじんまりとしているが、温かみのある素敵な店だ。家庭的という言葉が正解かなのかは分からないが多分そう。

 なぜならユーリの半生において「家庭」とは、牢獄のようなものだったから。


「……先生はこの町でどのようなお仕事をしていらっしゃるのでしょう」


「魔法使いのかい? そうさね……」


 イブキ婆さんは包丁を置くと、エプロンで手を拭って後ろにある大きな木製の箱に触れた。食器棚とも掃除用具入れとも違う異質なデザインだ。


「たとえばコイツだ。冷蔵庫。これは先生の発明品のひとつで、この町ならどの家庭にもある」


「冷蔵庫って……『機械の国』で売ってるすごく高い家電ですよね。一度、都会から商人の方がいらっしゃって見たことがあります。まあうちには電気が通ってなかったんですけど」


「先生の冷蔵庫はその電気がいらない。わたしにゃ魔法の説明なんか出来ないけど、氷売りから買った氷塊がこの箱の中なら一ヶ月は保つ」


「お魚の町にぴったりの発明品ですね」


 思わずじゅるりと生唾を呑む。

 これから始まる海鮮生活に否が応でもテンションの上がるユーリだった。


「ほかにも魔法の研究やなんかをして、いまでも年に数回は王都に行ってるみたいだね」


「王都に……大変なお仕事なんですね。お忙しいとは聞いてましたけど」


「アンタ、ほんとになにも知らないんだね」


「……この結婚は『王命』ですので、私などが疑問を抱くこと自体、不敬ですし」


 テーブルの下でキュッと握り締めた拳を、イブキ婆さんは見逃さなかった。

 ユーリが謙虚であればあるほど、その向こう側にある理不尽の巨大さを感じざるを得ない。何十年と客商売をやってきた勘と年の功が、彼女の並々ならぬ覚悟を察する。


「じゃあ前のカミさんのことも聞いてないんだね」


「カミ――前妻さまのことでしょうか。はい。流行り病で亡くなったとしか。おそらく実母ははとおなじ病かと」


「アンタのお袋さんもかい。あの頃はたくさんの無辜の民が死んだ。先生ンとこも一緒さね。それで先生は……最愛のひとと友人ともを失った。詳しく話そうか?」


 しかしユーリは静かに横へと首を振る。


「ご本人に直接伺います。もしかしたら知られたくないかも知れないし」


「アンタは本当によく気が利くオンナだよ」


「そんな……ただひとの顔色を窺って、いつもビクビクしているだけですよ」


 自分で自分の肩を抱き、ぶるるるっと身体を震わせるマネをする。

 冗談めかしているものの、それが彼女の本音だ。


 だがしかし、イブキ婆さんにとっては違う意見のようだった。


「アンタ、市場で声を掛けてきたとき、このあたしに『奥さま』って言ったろ。普通はババアか婆さんさ。良くてお婆ちゃんだね。それから客であるあたしになるべく恥をかかせないよう、八百屋の坊主を叱った。それでもまあ優しかったがね。おかげで誰も傷つかず、八方丸く収まっちまった」


「あれは……お節介が過ぎました。いままで褒められたことなんか一度もないの……いつもうるさいって……お継母かあさまからはお叱りをうけてばかりで……」


 なぜか突然、屈辱に耐えた半生が思い返され、泣きたくもないのに涙があふれた。

 実母を失い、幸せな少女時代を失い、父を失った。

 継母と義妹には虫けらのように扱われ、最後には生まれた家まで追い出された。


 それは今年十六歳になった義妹が、公爵家の三男坊と婚約をしたからだ。

 末席とはいえ、いやしくも国王陛下の外戚ともなろう者の義姉がいつまでも未婚では恰好がつかぬ。どこかにいい縁談でもないかと申し上げたところ、かつて国を救った英雄の後添えを探しているという。

 しかし人付き合いが悪く、曰く変人らしい。

 なればこそ人生の酸いも甘いも嚙み分けた(ユーリの場合、甘みはないが)義姉などはいかがですか。とうは立っておりますが、まだまだ女盛りでございます――。


 公爵家の放蕩息子がついに腰を落ち着けるともなれば、国王としてはこれを聞き入れる以外の選択肢はない。

 それにかねてより棚上げしていたロッシュ・スカヤの後継問題が前に進むとあっては、一石二鳥どころの話ではなかった。

 国王はさっそく玉璽押印付きの婚姻命令書なるものをしたため、ユーリは魔法使いの後添えとなることが決まった――。


「おやおや。これから花嫁になろうって娘が、そんな泣き方するもんかね。どうせ泣くならうれし泣きだ。幸せにおなり、ユーリ」


 いつの間にか厨房から出てきていたイブキ婆さんは、泣き崩れるユーリを胸に抱いてやった。手を拭いたエプロンがちょっと生臭い。

 しかしそれはユーリが久しぶりに嗅いだ「母」の匂いだった。



(つづく)

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