3話・貧乏令嬢、溺愛演技の覚悟をする
皇后陛下と宰相閣下が渋々ながらも退散すると、ようやく国王は私から離れた。一歩の距離だけ。そして、
「咄嗟に書類を隠すとは。機転が利くな」と嬉しそうな顔をする。
「ええ。危うく最初から失敗するところでしたね」と返すステファノ。「だから、あなたが迎えに行くのはやめなさいと言ったのに。ひとの忠告を聞かないから」
「俺が約束したのだから、俺が迎えに行くに決まっている」
「陛下!」
和やかな会話に割って入る。私は怒っているのだ。
「フィネル!」とムッとした顔で陛下に訂正される。
でも知らない。
「白い結婚のお約束のはずです!」
「そうだが?」
「頬にキスしたではありませんか!」
この男――じゃなかった、陛下は皇后陛下たちの前で、当然のように二度もしたのだ!
「は……?」と陛下とステファノが声を揃えた。
「キスは入らないだろ」と陛下。「頬だし」
「私もその認識ですが」とステファノまで言う。
おや? まさかの二対一?
「相思相愛設定でキス無しは、無理がありますよ」とステファノ。
……そうなの? あれ?
「でもアリアさんは嫌なのですね」彼は優しく微笑む。「我々の確認不足です。契約料上乗せで我慢していただけないでしょうか」
「令嬢たちは俺が手にキスするだけで、卒倒しそうなほど喜ぶんだぞ」
と、不満げに国王陛下が私を睨んだ。
ふたりの顔を交互に見る。
「手はともかくとして、顔にするのは一般的に普通のことなのですか? 私は母に気軽にそういうことをしてくる男性には注意なさいと教わったのですが。社交界に出たこともなければ恋人同士の知り合いもいたことがないから、実際にはどちらが正しいのかわかりません」
「なるほど。――それはお母様が概ね正しいです」とステファノ。「マナーとして良くありませんしね。ただ、最近の若い貴族ならば、普通です」
そうなんだ。ならば仕方ないか。
「わかりました。一般的である以上は我慢しますし、上乗せは結構です」
「待てアリア」陛下が最上級に不機嫌な顔をしている。「俺のキスが嫌なのか」
「むしろ、どうしてそんなに受け入れられる自信があるのかが不思議です。本物の恋人でもないのに」
陛下が怯んだのが、目に見えてわかった。
「失礼な言い方でしたら申し訳ありません」
頭を下げ、その拍子に踏みつけている書類の端が目に入った。
「アリアさん」
ステファノの声に目を上げる。
「確認が遅くなってしまったのですが、恋人はいらっしゃらないですよね?」
「はい」
「思いを寄せる相手は?」
「いませんが」
「良かった!」
陛下がふらふらしながら私から離れ、倒れ込むかのように椅子に腰を落とした。
「どうしましたか?」
「ショックを受けているのですよ」と苦笑しているステファノが、陛下に代わって答えた。「今まで女性に拒まれたことがありませんからね」
先ほども、令嬢は喜びすぎて卒倒するとか言っていたものね。
なぜかモヤモヤしながら、かがんで契約書を拾う。ちょっと足跡がついてしまったけれど、破れてはいない。問題はないだろう。
立ち上がり陛下に向けて、『それではサインをします』と言おうとしたのだけど、できなかった。
またしても、ひどい形相で私を睨んでいたのだ。
「アリア!」不機嫌の極地のような声。
「はい」
「君は温室に半年もなぜ来ていたんだ」
どうして急にそんな質問を? とはいえ陛下の疑問にはきちんと答えなければいけない。
「休憩です。先輩メイドたちはみんないい人だけど、話が合わないので」
……って、これは彼がステファノだったときにも伝えたはずだな。それから――。
「フットマンのステファノさんと話すのは楽しかったですし」
そう伝えたら、胸がキュッと痛んだ。もうあの日々は戻って来ないし、ステファノは幻になってしまった。眼の前にいるのは尊大で、私を利用しようとしている雇い主だ。
「なのに俺にキスされるのは嫌なのか」と陛下。
「それとこれとは別だと思うのですが。でもご心配なさらないでください。これだけの契約料をいただくのですから、きちんと演じます」
「きちんと……」と陛下が呟く。
「お任せください。腹はくくりましたから!」
「ああ、うん、そうか。くくらねば、ダメか……」陛下は僅かな間、口を閉じた。それからおもむろに手を上げ、私を指さした。「よし、アリアは腹をくくったのだな! 俺は全力で行くぞ!」
「はい!」
気合を入れて返事をする。
自分でやると決めたのだから。余計なことは考えないで、頑張るのみ。
それに、陛下がラリベルテの姫君と結婚できるようになるまで、国益に反する婚姻から彼を守る。こう考えると、ものすごい重大な任務だもの。
取り戻せない楽しみのことは、忘れてしまうのが一番なのだ。
◇◇
国王の急な婚約、しかも相手は借金まみれの伯爵家の娘でランドリーメイド――というのは王宮を混乱させた。
ただ、私が思っていたよりはずっと軽く済んだ。
先代国王が愛人が七人、つまみ食いは多数、死亡したのは寵姫の閨で、という相当な好色漢だったようで、そのおかげで『やっぱり息子も女に対してアホだったか』と考えられたためらしい。
陛下はやたらと、『父と違って、交際した相手も愛人もゼロだ!』と私に主張していたけれど、本当なのかはわからない。それに事実がどうあれ、契約履行に影響はないし……。
とにかくも私の生活は一変した。王妃になるための教育を受け、ボロボロの身体を美しくするためのお手入れを施され、陛下のエスコートで社交界デビューをし、あらゆる階層の人たちから羨望嫉妬憤激といった激しい感情を浴びせられた。
そして疾風怒濤の一ヶ月を経て、結婚。
皇后陛下と宰相閣下は最後まで反対していたけれど、フィネル陛下はそれをねじ伏せた。邪魔をするなら幽閉も辞さないと暴君ぶりを発揮しつつ、両陣営に与さない貴族を抱き込んでの結果だ。
私は期間限定の王妃となった。
世間には、国王が理性を吹き飛ばすほど溺愛している妃、と認識されている。
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