幕間・鈍感国王、もやもやする

「あれ。おひとりでのお戻りですか」

 アリアとの温室時間を終えて秘密の私室に戻ると、ステファノにそう言われた。

 彼は乳兄弟で、今は俺専用の侍従だ。公私に渡って支えてもらっている。俺がアリアに名乗った偽名も、こいつのもの。気のおけない、唯一の友人だ。

 なのに、何気ないその一言が異様に俺を苛つかせた。


「まさかアリアさんに断られたとか?」

「いや。だが契約料を払うことになった。まずは俺側の条件なんかを書面にして提示しなくちゃならない」

「へえ。しっかりしたお嬢さんだ。安心ですね」

 にこりとするステファノ。

 それがまた、癇に障った。


 ステファノが俺のジュストコールを脱がせて、変わりに本来のものを着せる。脱いだそれは彼が着て、入れ替わりは終了だ。


「なにがそんなに不満なんですか」とステファノ。

 笑顔が憎たらしいが、こいつに隠し事が成功したことはない。

「……なんだろうな」

 自分でもよくわからない。

「想定と違ったからでしょう」とステファノがしたり顔で言う。「あなたは彼女のような境遇では、一時的でも王妃になれるなんて幸運かつ光栄なことだから、断るはずがないと言っていたじゃないですか」

「……」


 確かに言った。そう確信していた。

 アリアに会うまでランドリーメイドなんて存在すら知らなかったが、日毎に荒れが酷くなっていく手を見れば過酷な仕事なのだと容易にわかった。それに比べ王妃はどうだ。多少のストレスがあるかもしれないが、手がひび割れて血がにじむようなことは起こらない。昼食だって、好きな料理を食べ放題だ。


「それにあなたはモテますからね。常日頃から、自分を断る女なんていないと思っている。なのに彼女はあなたの提案を、契約料まで持ち出して、冷静に『仕事』として受けた」


 ……そうだ。契約料だなんて考えは俺にはまったくなかった。

 アリアは、たとえ期間限定でも、俺の妻の座を喜ぶと信じていた。


 ステファノが俺のクラバットを直し、

「よし。『国王陛下』のできあがり。政務に戻りますよ」

 と言った。


 父上の急死によって予定外に早く得た王位は、重すぎた。未熟な俺は国政を担うだけで精一杯なのに、貴族や母たちとの軋轢や政争も対応しなくてはならない。神経はすり減っていく一方で、その過酷な状況でひと息つくために見つけたのがあの廃温室だった。

 そこにアリアが入りこんでいるのを見たときは怒りが沸いたが、話してみれば楽しくて、いい気分転換になった。

 今ではどれほど忙しかろうが、ストレス軽減のためにアリアに会う時間を確保している。


 ステファノに促されて、秘密の私室を出る。

 廃温室に行きやすいよう用意した、王宮の地階の端にある小さな部屋だ。誰が覗いても国王が使っているとは思わないはず。わずかな調度品は粗末なものだ。


「この部屋はもう必要ありませんね。片付けましょう」

「明日はまだ使う」

「ならば、それ以降で」

 廊下を進む足が止まった。

「どうしました?」ステファノが訊く。


 アリアを王妃にしようと考えついたときに、廃温室にはもう行かないと、俺がステファノに言ったのだ。

 どうしてだ?

 あそこでのひとときは、彼女に会う前からの息抜きだ。これからだって必要なはず。それなのに俺は両者を結びつけて考えていた。


 アリアの屈託ない笑顔が思い浮かぶ。

 なんの腹積もりも駆け引きもおもねりもない。

 だから信用できる令嬢だと思った。仮の妃にちょうどいい。


 ーーけれどあの笑顔を、今日は会ったときにしか見ていない。


 俺が名乗り、期限付き結婚の話を持ち出したら、彼女の顔も態度もなにもかもが、よそよそしくなった。

 そうだ、俺はそれが腹立たしかったのだ。


「なにか心配なことでも?」とステファノ。「大丈夫ですよ。契約書を望む令嬢なら、期限がきたらすみやかに離婚してくれるでしょう」

 幼馴染の友人を見る。

 彼は『どうした?』とでも言うように首をかしげた。


 それに俺は、契約料を払わなければ、彼女に助けてもらえない相手だったらしい。

 そのことに打撃を受けているのだと、ようやく気がついた。


 胸が苦しい。

「……俺は間違ったのかもしれない」

 無様にも、声が震えた。

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