第5話 約束の場所へ(後編)~この想いが届かなくても~

「この俺はもう死んだことになってるから」


 マツオカの言葉が、明日夏の頭の中で何度もこだましていた。明日夏は全身の震えが止まらないまま、頭を抱えてその場にしゃがみ込んでしまった。


「どうしたの?」

「だって、こうして会うことが出来たのに、どうして死んでるとかそんなふざけたことが言えるの?」

「いや、死んだというのは本当だよ」

「でも、マツオカさんはちゃんと呼吸してるし、ちゃんとおしゃべりもできてるし。どこをどう見たら死んだって言えるのよ? それに、もしマツオカさんが死んでいるのならば、私に今までLINEのメッセージを送ってきたのはどこの誰なのよ?」

「それは……その……」


 マツオカは黙り込み、いきり立つ明日夏から離れていくかのように、海に向かって足早に歩きだした。明日夏は立ち上がると、慌ててマツオカの背中を追いかけた。


「ちょっと待って! マツオカさんは本当に死んでるの? それとも生きてるの? はっきり言ってよ」


 マツオカは何も答えず、波打ち際をゆっくりと歩いていた。打ち寄せる波に足を浸し、ショートパンツを濡らしながらも、立ち止まらずどんどん先へと進んでいった。

 やがてマツオカは遊泳禁止区域に入り、人影のない岩場の陰まで来ると、足元の砂利を片手で掴み、分かってもらえないもどかしい思いをぶつけるかのように、海に向かって思い切り放り投げた。その後も繰り返し砂利を投げつけるマツオカの様子を見て、驚いた明日夏はあわてて駆け寄った。


「ちょっと、どうしたの? 急に」

「だって、俺のことを君に分かってもらうために、どう説明したらいいのかわからなくて。どう話しても誤解されたり、笑われたりしそうで辛くて」

「ごめんね。私、マツオカさんが『死んだ』とか言われて、気が動転しちゃって……決して悪気はなかったから」

「これから俺が話すことは、なかなか信じてもらえない話かもしれないけど……いいか?」

「うん」


 マツオカはようやく落ち着いたようで、砂の上にしゃがみ込むと、胸に手を当てて呼吸を整え、その後ようやく口を開いた。


「俺さ、駅で電車に向かって飛び込もうとした君を助けただろ? 君は軽傷で済んだけど、代わりに僕が電車に接触し、致命的な怪我を負ってしまったんだ」


 マツオカは、明日夏が電車に飛び込み自殺を図った時のことを語りだした。


「俺と君はそれぞれ違う病院に搬送された。俺の怪我は予想以上にひどくてね。医者の必死の治療の甲斐もなく、そのまま死んじまったんだ」

「ウソ……」


 明日夏の目から、とめどなく涙が溢れてきた。


「俺が君を助けた時、君は何度も『このまま死なせて』って連呼していたよね。俺が『どうしてだよ』って聞くと、『この世には絶望しかない、自分は無力だ』ってずっと泣き叫んでいた。俺、電車にぶつかった衝撃で全身に痛みが駆け巡っていたけれど、そんなことより目の前にいる君のことを助けたいと思った。やがて救急車が来てお互い搬送された後も、君がどうなったかずーっと気になっていて、看護婦に何度も君のことを聞きまくっていたよ。でも、いくら聞いても分からないと言われたから、俺、持ってたメモ帳をちぎって俺のLINEのアドレスを書きなぐって、『これをあの子に渡して欲しい』と言って看護婦に手渡したんだ」

「それが、このメモなんだ」


 明日夏は、救出された当時マツオカから渡されたメモ用紙を財布から取り出した。メモをじっくりと見ると、書かれた文字は安定感がなく所々形が崩れており、痛みに耐えながらも必死に書き上げたのが見て取れた。


「そうだ、この紙だよ。病院の垣根を越えて君に引き渡されたのは。本当に奇跡的だよな。あの看護婦さんには、今でもすごく感謝しているよ」

「でもさ、マツオカさんはもう死んじゃってるはずなのに、どうして私とメッセージのやり取りを続けていられるの?」

「それは……俺にも分からない。死んだはずなのに、もうこの世にはいないはずなのに、俺の手元にはなぜかスマホがあった。そしてスマホをいじっていたら、なぜか君へのLINEだけが通じたんだよね」

「死後の世界でもLINEって通じるの?」

「それがすごく不思議なことに、通じたんだよ。おそらく、俺が死んだ後も君のことをずっと心配していたから、ひょっとしたら神様が粋な計らいでもしてくれたのかな」


 話の上辺だけをたどれば、マツオカの話はあまりにも現実味に乏しい物だった。しかし明日夏には、マツオカは起きたことをありのままを話してくれているという不思議な実感があった。マツオカは、自分の話を信じてくれないかもしれないと思いつつも、それでもなお真剣に明日夏に語り掛けていた。その真摯な姿は、いつもLINEを通していつも明日夏の背中を後押ししてくれたマツオカと重なった。

 マツオカは、尚も言葉を続けた。


「お盆になって、実家では俺のために迎え火を焚いてくれたんだけど、俺は遠くからその火を見ているうちに、火の放つ明かりに吸い寄せられて、いつのまにかこの世に戻っていたんだ。そして俺は二本足を地に付けて立っている自分に驚いたよ。『あれ?俺の体、元通りになってる、ちゃんと地に足がついてる』って。でもさ、俺は目の前で燃え盛る送り火を見ながら思ったんだ。この火が俺に命を与えてくれたんだと。そして、火が消えた時、俺はまたこの世から去らなくちゃいけないんだろうなって。俺がお盆が終わる今日までに会いたいって言うメッセージを送ったのは、そういう意味だよ」

「そうか。だから私に会いたいって言ってきたんだね。でも、こんな遠い場所へ今日までに来てくれだなんて、私にはちょっと無理難題だったかもね」

「まあ、そのことは悪かったと思ってるよ。でも、俺は君に会いたい一心だったからさ」


 太陽は徐々に真南から西へと傾き始めていた。マツオカは青空に強烈に輝く太陽を見ながら大きなため息をついた。


「はあ……せっかく君に会えたのに、もうすぐ今日という日が終わっちまうんだな」

「そうだね。太陽のいじわるって言いたくなるよね」


 明日夏は、自分の顔をマツオカの頬に寄せた。


「ねえ、しばらくこうしていたいけど、いいかな?」

「ああ。いいよ」


 燦々と照り付ける太陽の下、誰もいない岩陰で、二人は体を寄せ合い、手を握りあっていた。


「マツオカさん」

「何だい?」

「温かい、というか熱い」

「な、何がだよ」

「マツオカさんの身体も、言葉も、そして私への気持ちもね」

「う、うるさい。すごく照れるんだけどさ」

「ねえマツオカさん。あの鐘を鳴らした時の私の願い、いつかきっと叶うと信じてるからね」

「どうして? 俺はもうこの世には……」

「この世もあの世も関係ないよ。私はマツオカさんが好きなんだもん」


 マツオカは明日夏の言葉に顔を赤らめたが、明日夏はずっと微笑んだままマツオカの顔を見つめていた。そして、マツオカの頬にそっと口づけた。


「あ、明日夏さん……!?」

「私をここまでずっと支えてくれたことへの、ささやかなお礼だよ」

「お礼なんていらねえよ。俺はただ、君のことがずっと……ん……」


 マツオカが話している最中にも関わらず、明日夏はマツオカの唇に自分の唇とそっと重ね合わせた。波の音が響く中、二人は互いの腕を絡め、時折ついばむような音を立てながら深く口づけあっていた。


 ★★★★


 次第に西の空が赤くなり始めた頃、いつまでも帰ってこない明日夏のことが心配になった金子は、波打ち際を右往左往していた。

 奈緒の苦い経験が頭から離れない金子は、明日夏が悪い男に連れていかれてしまったのではないかと、時間が経つにつれて徐々に心配が募っていった。

 辺りを探し回るだけでなく、海水浴場の監視員や通りすがりのカップルに聞き込みをしたものの、有力な情報はなかなか得られなかった。


「ちくしょう……俺、今まで一体何やってたんだよ。たとえ嫌がられても、明日夏さんの後をついていくべきだったんだ」


 金子は片手で髪の毛を思い切りかき乱し、その場にうなだれてしまった。


「店長、ただいま」


 その時突然、明るく弾むような若い女性の声が、金子の真後ろから聞こえてきた。

 金子はくしゃくしゃにした髪の毛を振り乱しながら、後ろをそっと振り向いた。


「明日夏さん?」

「そうですよ。さ、帰りましょ。日が暮れてきたし、いつまでも奥さん一人にお店を任せておけないでしょ?」

「あ、ああ……というか、マツオカさんには会えたのかい?」

「はい、会えましたよ」

「何もされなかったのか? いつまでも帰ってこないから、ずっと心配で心配でさ……」

「アハハハ、確かにちょっと遅くなっちゃいましたね。だって、彼とは会えるのはこれがもう最後かもしれないから、本当に名残惜しくて」

「どういうことなんだい?」

「さ、行きましょ」

「おい、ちょっと!」


 明日夏は金子のワゴンに乗ると、早速マツオカのことを話し出した。

 マツオカに助けられ、マツオカの言葉に支えられてここまで生きて来られたこと、そして今日、マツオカに出逢い、マツオカへの気持ちを伝えたこと……。

 マツオカについて語る時の明日夏の横顔は、充実感に満ちていた。

 太陽が沈み、辺りが暗闇に包まれた頃、金子の経営するコンビニエンスストアの看板が見えてきた。店の入口には、妻の亮子が焚いた送り火の炎が風にゆらめいていた。


「さ、着いたよ。今日は一日疲れただろ? 昨日まで使ってた部屋が空いてるから、戻ってゆっくり休めよ」


 すると明日夏は何も言わずに突然車から降り、一目散に駐車場に停まっていた大型トラックに向かって駆け出した。しばらくすると明日夏は再び金子の元に戻り、深々と頭を下げた。


「すみません、私、これからあのトラックに乗せてもらって、東京に帰ります」

「え、今から帰るのか? 疲れたんだからゆっくり休んでいけよ」

「いいえ。ここまで長旅で親も心配してるみたいだから、早く東京に戻りたいんです。店長には本当に感謝しています。私を守ろうとする店長の気持ち、本当に嬉しかったです」

「……」


 その時、明日夏が乗って帰ろうとしているトラックがけたたましいクラクションを鳴らした。


「あ、そろそろ出発するみたい。ごめんなさい、これで……」

「ちょっと待てよ、忘れ物がある」


 金子は大急ぎで店内に入り、数分と経たないうちに、小さな紙袋と着物を手に明日夏の元へと戻ってきた。


「これ、バイト代だよ。ほんの数日だけど、店を盛り立ててくれて本当にありがとう。そして、これも君にあげるよ」

「これって……奈緒さんって言う人が着ていた浴衣でしょ?」

「そうだ、奈緒との思い出の浴衣だからこそ、君に着てもらいたいと思ってね」


 金子はそう言って微笑むと、明日夏は金子から渡された浴衣を両手で抱きしめた。


「ありがとう。ずっと大事にしますね」

「それじゃ、行ってらっしゃい。これからも辛いことがあるだろうけど、笑顔を忘れず元気に生きていくんだぞ」

「うん。店長もずっと元気でね。またいつか、会いに来たらよろしくね」

「ああ、その時はまたこの店を盛り上げてくれよ」


 明日夏は大きく両手を振って、トラックの助手席に乗り込んでいった。

 金子は目を潤ませながら、手を振り返した。


「はあ、いっちまったか……」


 トラックが視界から完全に見えなくなると、金子は大きなため息をついた。そして、風に揺らめきながら徐々に勢いを失っていく送り火に向かって「またいつでも戻っておいで、奈緒」と、微笑みながら呟いた。

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