第2話 笑顔の裏にあるもの

 八月十四日。

 明日夏は金子の経営するコンビニエンスストアの店員として働き始めた。

 長く明るい茶色の髪をポニーテールにし、店の制服の下には、横に大きな裂け目があるブーツカットのジーンズを穿いて、金子と一緒に早速パンと弁当の補充を行った。裂け目からまるで誘惑するかのようにちらりと見える脚に、明日夏の隣で作業する金子は思わず赤面してしまった。


「あのさ、もっと露出の少ない洋服はないのか」

「あとはショートパンツとワンピースしかないんですよ。もう一本ジーンズがあったけど、旅行中にボロボロに敗れたから短くカットしてショートパンツにしちゃったし。私の手持ちの中ではこれが一番まともなんですよ」

「そ、そうなんだ。じゃあ、出来るだけレジの中に居てくれよ。この店はトラックの運ちゃんが多く来るから、そんな恰好じゃ発情した彼らにさらわれちまうぞ」

「アハハハ、ナンパですか? 別にいいですよ。運ちゃんならば、そのまま約束の場所まで連れてってもらおうかな」


 明日夏は白い歯を出しながら金子の忠告を笑い飛ばしていた。

 金子はため息をつきながら、弁当を一つ一つ棚の上に並べていた。


「あ、お客さんが来ましたよ。いらっしゃいませー!」


 明日夏は補充作業を半端にしたまま一目散にレジに走り、作業衣姿の男性の持ってきた雑誌や弁当を精算していた。


「これからお仕事ですかぁ?」

「ま、まあね。お盆だけど運送の仕事だからなかなか休めなくてね」

「がんばってくださいね。おしぼり付けておきますから。これで顔を拭いて気を引き締めてくださいねっ」

「わ、気が利くなあ、姉さん。ありがとね」


 明日夏はレジ袋を男性に手渡すと、「がんばってくださいね。私もがんばります」と小声でささやき、目配せした。

 男性は顔を赤らめながら、そそくさと店の外へと歩いていった。そして店の外で煙草を吸っていた同僚の目の前で勝ち誇った顔をしながらガッツポーズを見せていた。

 やがて、男性の同僚たちも次々と店内に入ってきた。そして何食わぬ顔で缶コーヒーや雑誌を買い、明日夏の元へと持ち込んだ。


「はーい、ありがとうございます。この缶コーヒー、すごく美味しいですよね。豆の香りが濃い上にミルクがちょっぴり入っていて、苦くてもゴクゴク飲めちゃうんですよね」

「でしょ? だからオレ、これが好きなんですよ」


 同僚の男性はデレデレしながら明日夏から手渡されたコーヒー缶を何度も手で撫でていた。

 客が客を呼び、噂が噂を呼び、ほんのわずかな時間のうちに金子のコンビニエンスストアには所狭しと客が押し寄せていた。明日夏のいるレジへと続く列は、店の最後尾のドリンク売り場の所まで続いていた。あまりの人気ぶりに驚いた金子は、隣のレジに立って「次のお客さん、こちらへどうぞ」と叫んで列を分散させようとしたものの、客は「俺はあんたじゃなく、そこのお姉さんにレジを打ってもらいたいの」と捨て台詞を吐いて、明日夏のいるレジの列へと並び直してしまった。

 金子の心配をよそに、明日夏は続々と押し寄せる客に動じることもなく、客の持ち込む商品を褒め、元気の無さそうな客には励ましの言葉をかけ、おまけに「一緒に写ってもらえませんか」とカメラを持参した客には、嫌がることなく笑顔で一緒に写真に収まる……など、至れり尽くせりの応対で客達を感動させていた。その過熱ぶりは、まるでアイドルの握手会を見ているようであった。

 金子は店長でありながら何もできず、ため息をつきながら一人で棚への商品補充を続けていた。


「こんにちは。お久しぶりです」


 金子は背後から聞こえた声に気づいて振り向くと、顔にニキビの跡が残るTシャツにショートパンツ姿の男性が、上から見下ろすような姿勢で立っていた。その隣には、小さな子どもを抱きかかえた黒ずくめの服装の女性の姿があった。


「あれ、君は確か……」

「はい。以前奈緒さんのことでこちらにお邪魔した藤田健太郎ふじたけんたろうです」

「思い出した! 久しぶりだね」

「あれから結婚して、子どもが生まれました。しばらくコロナ禍で帰省できなかったんですけど、今年は本当に久しぶりに帰ってきました」

「そうか……君もついに父親になったのか」

「あ、妻は奈緒さんの同級生なんですよ。紹介します、妻のみゆきと、息子の健瑠たけるです」

「こんにちは、みゆきです。高校の時からこの店によく来てましたよ。部活帰りはいつもここでおやつ買って帰ってましたから」


 みゆきは目を大きく見開き、髪の毛をだらりと下げながら深々と御辞儀した。


「ところで店長、今日はものすごく混んでますよね。いつもはもっと閑散としてるのに。いつからこんな人気店になったんですか?」


 健太郎はどこまでも長く続く列を見ながら尋ねると、金子は人差し指で行列の先を指さした。そこには、ポニーテールを揺らしながらお客さんと楽しそうに話しながらレジを打つ明日夏の姿があった。


「あの子……バイトさんですか?」

「そうだ。昨日大きなリュックを背負って突然この店にやってきてさ。ヒッチハイクしてるけどお金が無くなったから、バイトさせてくれって頼みこまれてね」

「へえ、こんなに混んでるのにすっごく楽しそうに仕事してますよね」

「そうなんだよ。でもな、ある程度稼いだらここを出てまた旅を続けるんだって」


 金子は口元を手で押さえながら、みゆきと健太郎の耳元でささやいた。


「ふーん。勿体ないなあ。ずっといてくれたら、きっとこの店を建て替える位稼げるかもしれないのにね」


 そう言いながらみゆきは抱いていた健瑠を床に下ろすと、健瑠はあまりにも混みあう店内に居心地の悪さを感じたのか、その場にしゃがみ込んで突然泣き出してしまった。


「あらら、ごめんね健瑠。周りに人がいーっぱいいて居心地悪いのね。今度お客さんが少ない時にまた来ようね」


 金子は顔をしかめながら「すまない」と言って深々と頭を下げた。健太郎は首を横に振り、にこやかな表情で金子の肩に手を置いた。


「いいんですよ。それよりも店長、僕、あの子の顔がちょっと気になってて」

「……君も、そう感じるのか?」

「はい。横顔とか笑った時の顔とか、奈緒によく似てるなあって」

「え? 奈緒ちゃんに似てる? どれどれ……」


 みゆきは健瑠を抱きながらレジに近づき、棚に隠れながら明日夏の顔を覗くと、驚きのあまり両手を口に当てながら健太郎の元へと駆け戻ってきた。


「やだ、怖い位奈緒ちゃんに似てる。お盆だから、この世に降りてきたのかしら?」

「その可能性も考えたんだ。昨日迎え火を焚いた後に、あの子が姿を現したからね」

「でも、もうこの世に思い残すことがないから戻らないって言ってたはず」

「どうだろうね。あ、そう言えば、これから好きな人に会いに行くっていってたよ」

「え、どういうこと? 奈緒ちゃんはこの僕のことが好きだったんじゃ……。まさか、僕に隠れて浮気してたのか?」


 健太郎がそう言うと、みゆきは呆れ顔で横から健太郎の背中を思い切りつねった。


「イテテテ……何するんだよ」

「そんな言い方をしたら、奈緒ちゃんが可哀想だよ。友達として、今の言葉は許せないからね」


 みゆきに睨みつけられると、健太郎はそれ以上何も言えなかった。二人に挟まれた健瑠は、我慢も限界なのか、顔を真っ赤にして泣き崩れていた。


「あ、ごめんね健瑠。じゃあ店長さん、また今度」

「ありがとう。二人とも幸せにね」


 二人は健瑠の両手を引きながら、長蛇の列の脇を申し訳なさそうに通り抜けていった。

 やがて夕方になると、徐々に列に並ぶ人の数も減り、金子も明日夏もやっと一息つくことができた。

 窓から夕陽が差し込む中、いくら数えても数えきれない位の万札や千円札を手にしながら感動にふけっていた金子をよそに、明日夏は一人奥の部屋でスマートフォンをじっくり凝視していた。


「どうしたの? お相手の方と連絡を取ってるの?」


 亮子が尋ねると、明日夏は顔を上げて大きく頷いた。


「旦那から聞いたけど、彼氏とはまだ会ったことがないんだって? 本当に大丈夫なの? 最近、インターネットで出会った人に乱暴されたり殺されたりした事件も起きてるから、私、ちょっと心配なのよね」

「それは大丈夫です。なぜなら、私にとってマツオカさんは命の恩人だから」

「命の……恩人?」

「そうです。この人が居なかったら、私、今頃生きてなかったかもしれない」


 そう言うと、明日夏は再びスマートフォンに顔を向けていた。亮子は意味深な明日夏の言葉に首をひねり、諦めきれない様子で再度言葉をかけた。


「ねえ、恩人ってどういうこと? もし明日夏さんが差支えなければ、私にそっと教えてくれるかな?」

「……彼、私を助けてくれたんですよ。私、数年前に自殺未遂したんです。駅のホームから電車に飛び込もうとして」

「えっ?」

「この人、その後私に何も言わずにどこかに行ってしまったの。LINEのIDと『何かあったらここに連絡しろよ』って書いた紙だけ残してね」


 明日夏はいつものような溌剌とした笑顔から、どこか陰鬱とした表情に変わっていた。そして、椅子から立ち上がると「ごめんなさい、今日はもう上がらせてもらいます。おつかれさまでした」と言って深々と頭を下げ、そのまま二階へ続く階段を足早に駆け上がって行ってしまった。

 亮子はあっけにとられた様子で、レジ台にいる金子の方を振り向いた。


「あなた……今の話」

「ああ、聞いてたよ」

「私、明日夏さんにどう接して、何を言ってあげたらいいか……」

「まあ、彼女なりに色々あったんだろ。でも、普通に接してあげたらいい。昔、奈緒がここに家出してきた時のようにね」


 金子は亮子の言葉に対してそう告げると、レジに肘をついてしばらく店内を見渡していた。つい先ほどまで足の踏み場もない程入り込んでいた客の姿はなく、田んぼからの蛙の声と、店の駐車場で花火に興じる子ども達の歓声だけが窓ガラスの向こうから聞こえてきた。

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