最悪


 おれはやってしまった。もうすべてがごめんだった。この苦痛から逃れる方法――何も思い浮かばない。

 皆がおれを責め、詰る――簡単に想像できた。おれはただそれに耐える。発言権など何もない。針の筵のまま、クラスの中で罪人として過ごすしかないのだ。

 目立たず、誰にも迷惑をかけないように縮こまってるのが教室でのおれの立ち位置だったのに――考えれば考えるほどに眩暈がした。この世から消えてしまいたかった。花瓶の掃除なんて、やめておけばよかった。なぜいつもよけいなことをおれはしてしまうのか。

 罪悪感から逃れたかったんだ――声がする。真島に関する負い目から逃れたくて、いいことをしたかったんだ。誰かに褒められたかった。自分の罪を清算したかったんだ。

 ひとつだめになると全てが崩れていく。

 春から記念にクラス全員で綺麗にしてきた花だった。いい先生、和気あいあいとしたクラス――明日もそれは変わらないだろう。おれを除いては。

 一階から高い声が聞こえた。妹とお母さんのはしゃぎ声。どうやらテストの点が良くて褒められているらしかった。たまらず耳を塞いだ。今のおれにとっては全て――とりわけ他人の幸せがノイズだった。


 いつもと変化がないように朝ごはんの食パンを食べ、母に挨拶をして、学校に通う。自転車を進めた。学校につきたくなかった。このまま消えたかった。けれど、どうしようもなかった。

 いつもと同じように駐輪場に自転車を停め、いつもと同じように廊下を歩く。そう、いつもと同じ、同じ――言い聞かせ、自分自身に暗示をかける。自分の足音、靴と廊下が立てる音がやけに大きく聞こえた――焦燥感を募らせ、緊張が高まっていく。

 自分のクラス前に着いた。一呼吸おいて、教室の扉に手をかける。教室の中から聞こえる声。

「まじきもっ! 高羽、教室の花瓶割ったって本当⁉」

「まじまじ」

「わざとじゃね?」

「流石にないやろ。でもあいつ、何考えてるかわからんし、あり得るぞ」

「でもあいつ、誰にもそのこと言ってないやん」

「最低やろほんま。クソ過ぎ」

 足が棒のように動きを無くした。重心を失い、落ちていくような感覚がのしかかり、思わずよろめいた。心がざわめきだす。耐えられない――たまらずおれは引き返し、トイレに向かった。走った。最低やろ――クラスメイトの声がザッピングのように、断片的に、それでいて繰り返し、頭の中を巡る。トイレには誰もいなかった。一番奥の個室に入り、鍵をかける。胸に手を当てて深呼吸をしても、息が整わない。

 やはり、打ち明けておくべきだったのだ――あまりにも遅すぎる、愚かすぎる結論が立ち現れる。おれのせいだ――真島が人を殺したのも、花瓶を割ったのも、全部――

 学校での、最後の居場所までなくしてしまった――全部おれのせいだ。自我を出さず、迷惑をかけず、隅で縮こまっていればそれでよかったのに。それだけがおれがクラスに存在するためのたった一つの術だったのに――それだけしかおれには許されていなかったのに、波風を立ててしまった。

 最悪だった。わかっているのに、苦しさに耐えられそうもなかった。立ち上がれず、何処に行くことも出来ず、おれは蹲った。晴れた日の空を思わせる、軽快な声が入ってきた。

 談笑している男子生徒。知らない声――ほかのクラス。トイレだけではない。個室越しにも、廊下が騒がしくなってきているのがわかる。登校時間が迫っていることがわかる。これ以上ここにいると、教室にますます入りづらくなる。おれを取り巻く空気がますます耐え難いものとなる。

 このまま帰ってしまおうか――頭によぎる思い。出来ない。そんなことをしたらおれはどうすることも出来なくなる。家族に連絡される。事態が大きくなり、いやでもクラスメイトの目に留まる。格好のネタ――おれに対する悪口はさらに苛烈なものとなる。

 腹を抑えながら、立ち上がる。男子生徒の声が聞こえなくなったことを確認し、個室から出る。重い足取りで教室へと向かう。

 無心、無心――そっと教室のドアを開ける。意思とは裏腹にドアは大袈裟な音を立てて擦れる。全身の肌が粟立った。とにかく神経に触った。

 一瞬の、沈黙。おれが教室に入った途端――みながおれが教室に入る姿を認めた瞬間。教室中の視線がおれに集中する。数秒して沈黙は解かれたが、おれの身体の中心の強張りは直らなかった。

 目に入る全ての人間が怖かった。おれはそそくさと自分の席に着き、顔を伏せる――心情を悟られないことに努める。自分の気配がほんの少しでも教室に存在していることに、とてつもない居心地の悪さを覚えた。

「遅刻してないかー」すぐ先生が入ってくる。そしてチャイムが鳴る。心臓が膨張しているのかと錯覚するほど鼓動が暴れ出し、不規則になる。

 朝の会で花瓶の話が取り上げられることはなかった。おれは早く教室に入ってこなかったことを激しく後悔した。先生に誰かがこのことを鍵を受け取る際に伝えているだろう。もしかしたら脚色され、おれがわざと割ったことにされているかもしれない。

 おれの席の前――前田と藪内が喋っている。

「わざとやったんじゃねえの、あいつ」

「そういや、いつもつまんなそうにしてたな」

 おれの話題――一瞬心臓が止まる。昨日感じた吐き気と眩暈がぶり返す。

「腹いせか? 陰キャのくせに怖っ」

「おれ何にもしてないで」

「だよな」

 互いに顔を向けあい、意地の悪い笑みを浮かべている。前田が一瞬後ろを向き、こちらを見た。目が合う。前田の笑みが大きくなる。それから二人の話題は他愛ない雑談――スマホゲームへと移行する。他愛ない雑談――前田と薮内にとってはおれが花瓶を割ったことも同じだ。二人はおれの事なんて知るよしもない。

 いつもつまんなそうにしていた――薮内の言葉。そうじゃない――そうするしか出来ないんだ。そうすることしか許されていないんだ。

 おれに居場所なんてどこにもなかったじゃないか。誰もおれにしゃべらせてくれないじゃないか。おれがすべてを打ち明け、どれだけ許しをこいても誰もおれに見向きもしないだろう。

 おれは透明人間だったんだ。誰にとってもそこにいるだけの風景に過ぎない。風景の中でおれがどんな思いをしているかなんて考えもしないんだ。それなのに、仲間にも入れてくれないのにおれが失敗した時だけ注目し、罪をあげつらうなんてあんまりじゃないか。

 人に伝える言葉をおれは持たない。皆の言うがまま、おれの立ち位置は扇動されていく。ただ、孤独と断絶が大きくなっていく。

 この教室から、運命から逃げたかった。真島のことも何もかも忘れたかった。教室から視線を逃がすように、おれは窓の外に広がる空を見つめる。窓枠に切り取られた、薄青を目いっぱいに湛える大空。逃げ場はどこにもない――少なくとも、おれの手の届くところには。


 

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