余計なこと
全ての授業が終わった。教室はいつも通り、おれ一人。おれ以外の全員は帰るか部活に行くなりして、出て行ってしまった。いつもおれは居残りをして勉強をしているから、先生も何も言わず教室を開けたまま職員室に行ってしまった。いつもは放心と勉強を繰り返して、意義を感じられないまま学校生活を終える。
今――頭に浮かぶのは真島のことばかり。おれは空虚な普通の日常すら失ってしまった。自らのその場の感情で手放した。
おれはおよそ一時間と少し、自分の椅子に座ったまま動かずにいた。時計を見た――午後四時三十二分。教室の入口のすぐ横にある、壁掛け時計から視線を下に移す。
木製の台に乗った、花瓶に生けられた鮮やかな花が視界を占領する。せっかく教室の大切な花なんだから、掃除でもしておいてあげようか――おれは立ち上がり、廊下で雑巾を濡らし、花瓶を台から持ち上げて、丹念に拭いた。
教室の花――学期初めのオリエンテーションで、一年を始める記念として花壇に植えたもの。女子中心に、土を耕すところから始めて丁寧に育てていた。最初は花なんてめんどくせえ、と悪態をついていた男子も、花壇の花がつぼみを作る頃にはちょくちょく話題にするほどには熱中していた。
七月ごろになると、女子だけでなく、男子の中にも朝早くから学校に来て水やりをしている生徒も目立つようになっていた。ようやく花が咲きはしゃいでいるクラスメイトを、少し離れたところでおれはいつも一人で見つめていた。
花瓶の底に汚れが付いていた。おれは汚れを取ろうと、再び花瓶を持ち上げる。
いつの間にかぼやけていた視点が、元に戻った。妙な圧を伴っておれの目の前に立ち現れる花瓶。花が湛えている、目が醒めるような鮮やかな赤や黄色を、正視することにおれは戸惑いを覚えた。自分の心に澱みがあると、美しいものが目に入るだけで苦痛なのだということを、生まれて初めて理解した。
僅かに掌と花瓶がずれた。「あっ」思わず目を閉じる。掌、指先から重さが消えた。
耳を劈くような、甲高い破損音。肩をすくめる。開けた視界に粉々になった花瓶が映っていた。
「あっ、あ……」
「高羽くん……」
女の声が背後から浴びせられた。心臓が止まったような錯覚に襲われた。視線を剥がすように後ろに移す。
短い髪の女――清掃委員の清水。水やりを率先していたのも彼女だった。清水は黙って走り去った。呼び止めることも出来ずに、ただおれは絶望に浸かったまま立ち尽くした。教室の空気はさっきまでの澱みが全く感じられなくなるほどに、冷たかった。
職員室に最低限の挨拶をして鍵を返した。花瓶の破片は掃除した。教室の花瓶、ぼくが割ってしまいました。ごめんなさい――明日皆に知れ渡るというのに、おれはどうしても担任のそのことを言うことが出来なかった。
黙って一人で帰る。空を見上げた。夕日を覆い隠し、緋色を滲ませる雲。自転車のペダルが重かった。最初の信号にたどり着いた頃にはすっかり緋色を黒が浸食してしまっていた。そんな空を見ているとどうしようもなく不安になった。おれの気分も、同じ風景を彩っているように思えた。
晩御飯を食べてから逃げるようにおれは自分の部屋に入り、ドアに持たれながら頭を抱えていた。家族に訝しまれているのかもしれない。今日はいつものような会話を続け、平静を装うことすらできなかった。頭髪を引っ張り、ぐちゃぐちゃにする。毛根に爪を立て、言葉にならない呻きを発する。掌で額に触れる。もう秋が終わり冬の気配がしはじめているというのに、冷や汗に塗れていた。
何で花瓶のことを言わなかったんだ――言葉が渦を巻く。真島のことが頭を埋め尽くす中で、これ以上責められることに耐えられなかった。だから言えなかった。
何より、孤独に気付かれたくなかった。おれは注目され、惨めさを見透かされるのを極端に恐れていた。褒められるようなことならともかく、先生に花瓶を割ったという、負の印象しか与えない失敗をどうしても打ち明けられなかった。それでも、今後のことを考えれば正直に伝えるべきだった。その程度の勇気さえなかった。
黙って帰っても今日だけしか平穏を得られないというのに。束の間を得るために、その後のすべてを犠牲にする。その場の感情で真島の自殺を止めた時からなにもおれは変わっていなかった。
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