全ての授業が終わる。真島と会うまでは退屈でしかなかった授業が今は救いだった。

 休み時間が怖かった。昼休みは図書室に逃げることができたが、授業間の短い休みではそれも叶わなかった。クラスメイトの空気に触れるのが嫌だった。教室内の風景はいつもと変わらないように見えたが、内心おれは怖くてたまらなかった。

 いつものように目立たぬよう努めていた。いつもと違うのは、おれの挙動の一つ一つに、粘ついた視線を感じること。いつもならあり得ない。おれが注目されるのは失敗した時だけ。

 おれは急いで荷物をまとめ、駆け出す。昨日のこともあり、居残りはせず、すぐに帰る予定だった。一刻も早く、帰りたかった。教室の、後ろ側の出口。駆け出した。すぐ横のロッカーでだべっていた男子生徒――新垣が、おれをちらりと見やる。少し前に出て、新垣が足を伸ばす。

 おれの脛に新垣の靴先が当たった――足を変に捻った。床に突っ込むように、顔から転倒する。鈍い音。思わずおれは、ひりつく顔を押さえた。

 背後に感じる無数の気配。恐る恐る振り返った――すぐに後悔した。クラスメイトが集まり、薄ら笑いを浮かべ、おれを見下ろしていた。五人以上、いや、十人ぐらいいる。教室の隅で腕を組んで壁にもたれながら、こちらを見ている女子――清水。詫びも嘲りもない――誰も何も言ってこない。ただ、薄ら笑いがあるだけ。寒気がした。

 おれは音を立てないよう、鼻水をすすった。今度は振り返らずに、教室から早歩きで飛び出した。おれが教室から出たとたん、笑い声が起こる。何も耳に入れたくなかった。

 駐輪場へ向かう。おまえ、花瓶割ったやろ。クラスで一生懸命に育てたのに――誰も直接言ってこなかった。謝罪の場を与えてくれる気などさらさらないのだ。

 自転車かごにリュックを詰める。リュックの横につけていた、カマキリのキーホルダーが割れていた。小学校の時昆虫店に行って、せがんで買ってもらったもの。いつもはお金を出さない父が、珍しくおごってくれたのだ。それからほとんどの時間、リュックに着けていた。とたんに自分でも戸惑うほどの形を失いぐちゃぐちゃになった感情が沸き上がる。

 高ぶり、巡る感情に思考が追いつかず、おれはたまらず顔をしかめた。


 時間割表を見て、眩暈を覚えた。三限目――体育。ただでさえ嫌いだというのに、週に三回もあるのが苦痛でたまらなかった。チャイムが鳴る――すでにクラスの半分が、教室を出ていた。ノートをとるのが遅れていて、着替えるのが遅くなったおれ。机の横にぶら下げている、体育館用のシューズを取り出そうと手を伸ばす――

 何も入っていない。なんで――血の気が引いた。血相を変えておれは自分のロッカーを見る。

 ない。詰め込んでいる教科書を端にずらして奥を覗く。雑に押し込んでいただけの教科書は簡単に倒れ、音を立てて床に散らばった。

 いらつきと焦りを押し殺しながら、教科書をでたらめに詰めなおす。屈み込んで近くの床、机の下を探してみたが、ない。時計を見た。三分前。探している時間はない。遅刻して詰問されるのはごめんだ。

 仕方なく体操服に着替え、おれは空のシューズ袋を抱えて体育館まで走り出した。体育館入り口前にあるすのこ。その周辺に所狭しと運動靴が並べられている。皆、シューズを履いてほとんど整列は終わっていた。仕方なくおれは、靴下のままで小走りで列の中に入る。靴を履いているかどうかなんて、誰も見ていない――

「体育委員前に来て。出席確認するから。忘れ物チェックも」

 全身が緊張で、意志とは関係なく震え出した。周りに悟られぬよう、おれは脇をきつく締めて、体育座りをしながら身体を縮こめる。

「あいつ靴はいてなくね」「マジやん」「ちゃんと先生に言えよ」

 後ろからの囁きが頭を痺れさせる。側頭部をつねられるような痛みが増していく。鋭い視線が、悪意に満ちた囁きが集中する。耐えられない。もう耐えられない。

「すみません……ぼく、体育館シューズ忘れました」

 おれは手を挙げた。立ち上がり、体育教師の稲垣先生にか細い声で名乗り出た。ジャージ姿の、日焼けした精悍な顔つき――おれとは全く違うタイプの人間。正直、見ているだけで苦しくなる。

「ん? 高羽何言った?」

 稲垣先生の表情が険しくなる。

「シューズ忘れました」

 僅かに声を張り上げる。

「忘れたんなら先言えや」

 おれの声を打ち消すような、厳かな注意が浴びせられる。口調の厳しさと裏腹に、無造作な響きだった。肌がひりついた。

「すみません」

「しょうがないから、やれる範囲でやれ」

「はい」

 再び顔細い声を絞り出し、おれは頭を下げた。列の一番後ろにいる薮内と下川がおれの方に向きながら、目を細めて歯を見せていた。憎しみはわかなかった。ただ、切実に、今すぐ消えてしまいたかった。


 体育の授業はいつもと同じだった。二人組を作り、バドミントンでラリーを行う。おれと組んだ中島は、他の二人組とずっとだべって試合をしていた。先生が見回りに来た時に、気づかれたらまずいとおれは中島の方に近づいたが、中島はおれを一瞥しただけで何も声をかけなかった。そのままおれがいないかのように試合を続け、汗まみれになり、三人で肩を叩きあいながら笑顔を見せていた。

 おれは中島に何も言うことができなかった。

 今までは気まずい空気が流れながらも、組んでもらって体育の時間をやり過ごすことができた。今日は相手にすらしてもらえくなっていた。

 片付けとあいさつが終わり、クラスメイトはまとまって教室に向かう。人はほとんどいなくなり、すでに体育館は騒がしさを失っていた。

「次は忘れんなよ」

「はい」

 稲垣先生がおれに声をかけ、体育用の職員室に戻っていく。おれは何も入っていないシューズ袋を揺らし、体育館を出る。

 すのこに残っている靴はおれのものだけだった。いつものように一人で教室へ向かう。一人ぼっちなのはいつものことだが、今日は特別に堪えた。泣きたかった。どうしておれはこうなのかという悔しさだけが巡っていく。

「マジでやったん」

「うん。運動場の隅のとこに捨ててきた」

「ちょっと酷くない?」

「で、あいつどうやったん? 男子しかわからんから教えて教えて」

 甲高い笑い声が連なる。唾を勢い良く呑み込んで噎せた。悪い予感が現実味を帯びていく。体育館シューズ――いたずらで取られ、隠されていた。でも、そんなこと。

「おれ割と最後までおったけど――あいつ、めっちゃびびってなかった?」

「わかる。すぐ気づけよ。察し悪すぎ」

「どんだけ嫌われてると思ってんの」

 楽し気に男子が女子に話して聞かせる。おれがいかに惨めな生き物なのかということを。女子が嬌声を上げはやし立てる。

「でもあいつ、いつも一人でうろうろしてるだけやん。友達いないから」

「ぶっちゃけ、シューズあってもなくても変わらんやろ。誰とも組めんのやから」

「それなのに、めっちゃ泣きそうな声で先生に忘れたこと言ったんマジうけたわ」

「あそこほんまキモかった。名乗り出てもお前の場合変わらんし」

 身体の芯が氷に置き換わったように冷たくなった。おまえの場合変わらない、誰とも組めない――おれが一番気にして、恐れていること。言葉はどこまでも鋭利だった。それでいて、恐ろしいほど正確におれという人間を丸裸にしていた。

 もはやきっかけは何だっていいのだ。些細なミスを悪意が塗りつぶしていく。おれはどこにもいられなくなる。また、おれは教室に戻らず――戻れず、トイレに行く。手前の個室で鍵を閉める。

 これは罰なのか。全ておれのせいなのか。真島さんをどん底に落としたからか。それならそうと誰かに教えて欲しかった。止めどなく浴び去られる悪意に、明確な理由を見つけたかった。そうでなければ耐えられなかった。

 身体の奥底を押しつぶしてしまうような、腹痛。腹を押さえて身体をくの字に曲げた。痛みと共に襲ってくる頭痛と悪寒。

 寒気だけしか、今のおれを抱きしめてくれなかった。


 

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