不意
ダイニングテーブルにリュックを乱雑に置く。それまでとは打って変わって慎重に、書店のロゴが入ったレジ袋をそっと取り出した。ブックカバーがかけられた文庫本を、積み上げる。
今日は眺めるだけのつもりだったが結局、おれは文庫本を三冊買った。およそ一ヶ月分のお小遣いが消えた。おれは常に優柔不断だった。そのため、買った物が高すぎたとか、本当は欲しくなかったんじゃないかと、どうでもいいことを考え引きずることが常だった。しかし、今日は満足感に溢れていた。
「これ、やべーやろ」
ダイニングテーブルに肘を突き、おどけた口調でおれは向かい合わせに座っている妹にキーホルダーを翳した。教科書を広げ、黙々とペンを走らせていた妹――沙紀が顔を上げる。
「何それ」
沙紀が目を丸くする。おれは思わず微笑む。頬の肉が盛り上がる感覚――自分でも笑みが大きくなっていくのを感じる。
「買ったキーホルダー」
「いつの間に」
「今日学校の帰り」
キーホルダー――本屋のすぐそばに合った、文具屋で買った物。何かのアニメキャラクターをデフォルメしたものだが、デザインの崩れ方が半端ではなく、なんとも言えない滑稽な見た目になっていた。かわいいといえばかわいい。たまたま文房具屋に立ち寄り、おれも初めて見つけたものだったのだが、今日は特別に妹に買ってあげようと思ったのだ。
「ええやん」
「あげる」
「まじで。ありがとう」
沙紀が軽くはしゃぎながら、早速筆箱の中にあるシャーペンの先にキーホルダーを取り付ける。
軽快な音と鈍い音が連なる――母がキッチンで野菜を切っている。家族には今日のことは伝えていなかった。言う必要は無いとおれは思っていた。
「今日のご飯なに」
「ハンバーグ」
おれはリビングのドアに手をかけた。自分の部屋に、買ってきた本を早速本棚に並べようと思ったのだ。父はパソコンの前でテレビのリモコンを握っている。この時間帯にはいつもニュースが流れている。父以外は気分によって見たり、見なかったりする。
「後もう少しでご飯ですよ」
「うん」
無造作に伸びてぼさぼさになった髪を指先でいじってみる。そろそろ散髪した方がいいな――そんなことを考える。適当に雑談していると時間はすぐ過ぎた。ほどなくして晩御飯ができたと母から呼びかけがあった。
用意されたハンバーグをを食べた。肉とソースの味が疲労感に包まれた身体に心地よく染み渡った。
いつものように学校から帰り、リュックを放り出して姿勢を崩す。
珍しく父の方がおれより早く帰宅していた。スマートフォンの画面が示す時間――六時半。学校で何があったか聞いてくる母に、当たり障りのない返事をする。大きく息を吐いて、おれは足を軽く組んで座り込んだ。
今日も疲れた。誰とも殆ど喋らない、何のために送っているのかわからない高校生活。別に、誰かに嫌がらせをされたり、いじめられる訳では無い。退屈なだけの、なんてことのない時間――いわゆる鬱状態などとはほど遠い。ただ、集団の中で六時間以上も一人で過ごすのは、ひどく疲れた。昨日買った文庫本を、自分の部屋に取りに行こうと考えた。どの本もまだ一ページすら読んでいなかったことを思い出した。
「買っただけで満足しちゃったらだめじゃんか」
独り言を呟いて、おれはスマートフォンをいじり出す。口のあたりにできる皺から、自分がにやけているのがわかる。趣味のことを考えている間は、日常に漂う孤独感を忘れることができた。誰に繕うわけでもないこの時間こそが、今のおれにとっては何よりも至福だった。
『速報です。先程コンビニに刃物を持って突入し暴れ出した男を逮捕しました。既に三人が刺されて失血死しており、二人が重体で搬送されています』
階段を上がろうとしたおれの足音にニュースキャスターの声が絡まる。母が手を止め、半歩横に動きテレビ画面を凝視している。
「ちょっと! これ結構近くじゃない」
母がニュースに対して素っ頓狂な声を上げる。
「どれ?」
「ほら、このアパート」
「ほんとやね――危ないな」
父と母がテレビの画面を顔に皺を寄せながら見つめ、喋っている。聞き流していた、ありふれたニュース――おれは吸い寄せられるようにテレビの画面を見つめる。
『真嶋毅容疑者は午後六時頃に商店街の近くのコンビニに押し入り、五人を刃物で刺したとみられています。その中で蓼沼恵美子さん、大津孝さん――そして横山和宏さんの三人が亡くなりました。現場の状況から、亡くなった三人のうち、蓼沼さんはほぼ即死だったと見られています』
カメラのフラッシュが執拗に追う、連行される容疑者の顔――眼鏡をかけた、痩せこけた男。見覚えがある。それもごく最近。これは……。思い出されるのは駅ビルでのこと。昨日。駅ビル。会った男性。
「え……」
呼吸の仕方を失ったかのように、息が止まった。一日分の時間が経ち、おれは駅前での出来事など今の今まですっかり忘れてしまっていた。
画面の中の容疑者――真島――おれが自殺を止めた男。何で、あの人が画面に映っている? 視界が白く明滅する。状況が理解できず、信じられず、おれはパニックになっていた。
テロップを見直す――コンビニに刃物持った男押し入り三人死亡。途端に全身が震え出す。意思とは関係なく足が笑う。三人が包丁で刺され死亡。二人が重傷。三人が死んだ? 誰が。いや、関係ない。誰が殺した? 真島容疑者……。覚束なかった情報が全て繋がる。
おれが助けた男――人殺し。明滅が消える。一瞬、目の前にあるもの全てが輪郭を失い、真っ暗になる。直後絶え間ない不快感が押し寄せる。おれが自殺を止めたあの人が、三人を殺した……。
『死刑になりたかった。死のうとしても死ねなかったから死刑になるために殺した。二人以上殺せば死刑になると思った――真島容疑者は連行の際そう供述していました。警察は事件の全容の解明を急いでいます』
「何これ……おれの……嘘だ……」
滑稽なほど、震えた声――本当にこの声は、おれのものなのか信じられなくなるほどだった。ニュースキャスターの淡々とした口調――心がちぎれそうだった。
「ひどい奴だ。甘えてるんだよ」
「本当。自分が苦しいからって、コンビニにいた人たちは無関係じゃない。勝手すぎ」
父と母がそれぞれ思いを口にする。厳しい言葉、厳しい声色――おれの足は固まる。立ち尽くしたまま動けない。足の痺れが永遠にも思えるほど断続的になる。
甘えている――疲弊しきったあの顔が浮かんでは纏わりつく。
そうは見えなかった。それをわかっていておれは無責任な言葉を投げかけ、追いつめた。死刑になりたかった、死ねなかった、勝手すぎ――画面の中のテロップが頭の中でぐるぐると回る。頭が揺さぶられる。吐き気がする。
頭をかき回す言葉は男の悲鳴のように思えた。言葉はただ痛みとしておれを襲う。それはただの暴力だった。暴力的なまでの不快さを伴っておれの奥深くを蹂躙した。脳髄が締め付けられているかのように頭が痛み、立っていられなくなった。リビングのLEDライトの明かりが目に入ることすら耐えがたかった。
おれはマットから足を剥がすように進んで、入口側のドアを開ける。
「あ、トイレ?」
おれは答えることも出来ずに、口を押さえ、吐き気を堪えながら這いずるようにトイレに入る。鍵をかけ、便器に跪くような体制になった。途端に限界が来た。おれは便器に顔を突っ込み、吐いた。吐き終わる前にすかさずレバーを回す。便器が音を立てて渦を作る。そこにまた、吐瀉物を口から落とす。とにかく気分が悪かった。おれの頭の中も渦巻いていた。
おれが助けた男――さっきおれは真島のことを頭の中でそう形容した。ただの思い込みだった。おれの自己満足でしかなかった。真島は救われてなんかいなかった。死のうと振り絞った最後の力もおれに砕かれ、絶望の底で、三人を殺した……。
また、視界がぐらついた。輪郭を失った世界が回転し、脳味噌を揺さぶった。その中でおれはただ、吐き気だけを感じていた。
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