無責任なひと

大宮聖

駅前

 チャイムがすべての授業の終わったことを示す。帰りの会を終え、皆がぞろぞろと教室から出ていく。緊張が解け、自分でも顔の筋肉が弛緩していくのがわかる。

 気が楽だった――だからといって、何が出来るでもない。皆が家に帰るか、部活に向かう中、おれは六時半まで教室に残って勉強する。おれはどの部活にも入っていない。おれは時間を持て余していた――空虚な感情に埋め尽くされていた。

 リュックに荷物を詰め込む。冷たい布に手が触れる――畳んでいない体操服。

 体育の授業は嫌いだったが、今日は自由時間だったので幾分かましだった。クラスメイトは大喜びで、バスケットボール、バドミントン、バレーボールなど仲がいい人同士で分かれ、思い思いに歓声を上げながら盛り上がっていた。おれは体育館の隅で、空気の入っていないバスケットボールでそれらしい動きをしながら、ひたすら目立たないように時間がたつのを待っていた。

 皆に交じってスポーツがやりたいわけではなかった。運動ができないおれはどこに入っても、足を引っ張って気まずくなるだけなのは分かっていた。今日は自由時間だったからましだった――ひとりぼっちをやり過ごすだけでよかった――が、いつもは二人組を作らなければいけないので、それがとても嫌だった。運動もできない、面白いことも言えないおれと組みたがる人はおらず、結局最後に一人、余っているところを体育の先生に見つかる。

 高羽とだれか組んでやってくれ――先生は大声でそういう。そうしてすでに組んでいる中から困惑した、気まずそうなクラスメイトが無理やり選ばれ、おれと組む。当然、互いの間に会話はない。おれの薄のろな、惨めたらしい動きを不機嫌そうにペアが見つめているのだ。それが何より傷ついたし、嫌だった。

 ここはおれの居場所じゃない、おれの居場所はどこにもない――そんな思いが浮かび上がっては、体温をますます冷ましていった。

 暫くして時計を見る――多分、これで五回目。五時四十五分。おれのぼんやりした脳みそでは、もうそんなに時間がたったという実感を得ることができなかったが、身体にまとわりつく冷気と薄暗くなった空が時計が示す時刻が真実であることを教えてくれた。職員室に行き、鍵を返す。今日も頑張ったなと担任が声をかけてくれる。おれは笑みを浮かべ軽く頭を下げ、鍵をドアの隣にかける。

「失礼しました」

 階段を下りていく。運動場では運動部がまだ活動をしており、夜なのに照明と掛け声も合わさってずいぶんと明るく感じられた。

 わざとらしく廊下、自転車置き場でうろついてみる。何も起きないと諦観し、辛抱がきれれば帰宅する。毎日がその繰り返しだった。

 今日だって、眠りに就くまでのこれからの自分の行動を繊細にイメージすることが出来る。それほど、おれの日常には変化というものが存在しなかった。自転車に鍵を差し、ペダルに力を入れる。運動部の快活な声を背に、おれは走り出した。誰もおれに気づかなかった。

 自転車のペダルをこぐのが怠かった。力を入れてもなかなか進まない。

 退屈な日々をやり過ごしてきた。それでも、その先には何もない。

 昔はそうじゃなかった――少なくとも小学校の頃までは。もう小学校時代のようなささやかだがワクワクする、そんな日々はやってこないのだろうか。二度と戻らないものをうらやみながら、おれは平凡な日々を送っている。薄汚れてさびた思いを抱きながら、今日も、生きている。

 出会いが欲しいのか――頭の中で常日頃反芻し続ける。このわだかまりを世間の誰かに打ち明けてみる、そんな自分を想像する。

「自分で行動しないと、受け身のままでは友達は出来ないよ」そんな言葉が返ってくるだけだろう。その通りなのかも知れない――おれが欲しい答えはそんなものじゃない。そんな言葉を平然と使える者は他人に関心が無いだけだ。無責任なだけだ。

 おれはクラスに友達がいなかった。だからといって別にいじめられているわけでもなかった。ただ、当たり障りのないことを一日のうち数回口にし、クラスの背景として存在しているだけ。

 ふとしたときに誰もそばにいてくれない。

 おれは自分の孤独に目をつぶって毎日を過ごしてきたが、唐突に孤独を自覚し、辛くなることを繰り返していた。友達が欲しい――おれの願望は簡単に表してしまえばこうなるのかもしれないが、本質はそう単純に表せるものでもないような気がしていた。

 自分の願望すらも明確に形にできない。クラスになじめると、なじみたいと心の底から思っているわけではない。おれは自分がクラスメイトと打ち解ける、そんな自分の姿を信じていなかった――信じられなかった。

 おれの奥底には一種の諦めがあった。おれは人と話すすべを持っていなかった。誰かと話しても、こちらから伝えられることが何もないため、そこで会話は途切れてしまう。分かっていた。諦めていた。それでも、こんな毎日は嫌だった。おれの理想とは違っていた。

「高羽くん、ありがとう。優しいね」

 小学生の時に、隣の席に座っている女の子に、かけてもらった言葉。何の脈絡もないのに、ふっと頭に浮かんだ。頭を空っぽにしているときに、度々思い浮かぶ幼き日の思い出。

 あの時のように親しげに誰かと話したのは、中学以降では記憶になかった。

 彼女は給食当番で牛乳を運ぶ係だった。牛乳瓶を纏めた籠は小学生には重いため、二人で運ぶことが義務づけられていた。その日はもう一人の当番の生徒が休んだのだ。彼女一人――それも女の子の力――で運搬するのは困難だ。隣の席になった縁もあってか、おれと彼女はよく喋っていた。だから、本来は当番ではなかったが、おれが一緒に運んであげたのだ。

 どうってこと無い、学校の中の一場面。誰もが同じような経験を、当たり前のように持っているだろう。それでも、なぜだか焼き付いて離れなかった。おれは昔から引っ込み思案で、他人に話しかけることが出来なかった。

 彼女はそんなおれに、初めて人と話すことを楽しいと思わせてくれた。おれのような人間でも、些細なことでなら誰かの助けになれる。それを教えてくれたからなのかもしれない。

 今のおれの日々が空疎であればあるほど、思い出の中のおれと彼女は輝いて見えた。彼女と同じクラスになったのは結局小学校三年と四年の二年間だけで、その後は会っていない。

 重心を後ろに傾けながら、気の抜けたような体制で自転車を走らせる。地下道から出て、信号のところへ行く。赤信号を見上げ、立ち止まる。

「どうせなら本屋よってくか」

 おれは方向転換し、反対側の青信号を確認して、道路を渡った。学生、中年、カップル、老人、自転車、徒歩、車椅子――人込みをすり抜けて自転車を走らせる。薄暗い中に現れる、長方形の、大きなビルに見下ろされる。街灯が点々と光を灯している。街灯がなければ、ほとんど真っ暗になるだろうことは想像がついた。学校から最も近い駅――といっても、おれは電車に乗ったことなんかないので、駅自体のことは何も知らない。利用するのはもっぱら駅ビル、それも三階にある本屋だった。駅の脇にある駐車場に自転車を止めた。自転車は駐輪場所からはみ出しているものも多く、どかさないと自分の自転車を止められなかった。

「めっちゃ邪魔やん――ほかの人のことを考えろよ」

 ぶつくさと毒づきながら、おれは自転車をわずかに持ち上げ、自転車をずらすことでできた僅かな隙間に押し入れる。腕に力が入り、身体に熱がこもっていく。汗が腕に沿って垂れ落ちる。不快な感触。そのまま自転車に鍵をかけ、階段を上がる。

 距離にして数メートル上がっただけなのに、息がかなり上がった。寒くなり始めている時期だからとはいえ、少し、着混みすぎたかもしれない。ハンカチも何も持っていないので、掌でしか汗を拭えない。

 自動ドアの周りにはクリーム色のベランダが広がっており、申し訳程度のベンチと花壇が存在している。駅ビルのベランダには灯がなく、にどんな花が咲いているのかはわからない。もしかしたら、今は何も植えていないのかもしれない。

 視界の隅が人影を捉える。コートを着た中年男――柵にもたれ掛かり、頬杖をついて駅ビルの下にいる人並みを見下ろしている。おれは男を横目で見ながら、店内に入ろうとした。自動ドアが開き、店内のBGMが顔にかかるのを認識した瞬間――

 男が柵に足をかけ、身を乗り出した。血の気が引いた。咄嗟におれは男の元へ駆け出す。男が完全に空へ身体を投げ出す前に、腕をつかみ引っ張った。そして男を背中から抱え込んだ。

「何するんだ――やめろ。放っておいてくれ!」

 男は唸り、おれの腕の中でもがいた。あまりの力に、足がもつれ、男とおれが揺れた。

「すいません。でも自殺はいけません!」

 腕に力を込めながらおれは叫ぶように口にした。

「関係ないだろきみには」

「とにかくだめです!」

 おれは震える腕にありったけの力を込めた――腕が軋み、千切れそうだった。それでも力を込め続ける――不意に抵抗がなくなった。

 反動でおれはバランスを崩し、倒れた。背中をしたたかに打ち付けた。衝撃でほんの僅かな時間、呼吸が止まった。勢いあまって男がのしかかってきて倒れた。おれは立ち上がり、男の腕を握りしめた――男を柵から引き離した。運動も何もしていないおれの、貧弱な身体が悲鳴を上げた。

「自殺はだめです。そんなことしてもどうにもなりませんよ」

 毒気を抜かれたように立ち尽くす男に対して、おれは一息にまくし立てた。

「それに、こんなところで自殺したら、下にいる人に迷惑が掛かります。一生のトラウマになるかもしれないんですよ」

 男はへたり込み、虚ろな視線でこちらを見上げた。よく見ると、男はかなり痩せていた。暴れるときの力が凄かったので、その差におれは拍子抜けした思いだった。

「生きていればいいことがあるなんて、ぼくには言えないですけど。もう少し頑張ってみましょうよ」

 おれは控えめに笑って見せた。男は頷き、その場を去った。

 もっと別の言葉をかけるつもりだったが、口から出てきたのは誰かが既に口走っていたような、おれ自身が入り込んでいないくだらない台詞だった。自分の言葉に納得していないおれだったが、彼が自殺をやめてくれたなら良かった、と思った。

 おれはすぐに建物に入らずに、階段を降りてみた。

 道路越しに、商店街を見つめた。駅ビル前の人はまばらだったが、対岸の商店街は人で溢れている。商店街からは駅ビルの柵しか見えない。商店街でごった返すの人々の生気――風に乗って、僅かにこちらにも流れてくる。

 その光景は一週間前に来たときと、全く変わっていなかった。六時を過ぎており、既に冷え込んでいるはずだったが、不思議と寒さは感じなかった。


 

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