第3話.竜哭
クルル・リュブルが動いてからは早かった。
彼女の指示であれば、保守派もその通りに動くしかない。俺の提案を断った
俺が進めたい流れに一気にシフトしたため、さっきまで鉛のようだった体が少しだけ軽くなった。
「こいつは黒だな、こいつもだ。こいつらは移動、っと。あとは赤が4、5人か。めんどくせぇ、まとめて詠唱しちまおう」
俺の元に駆け付けたトッド・ゴルディは根っからの合理主義者だ。他のゴルディ家もしかり。ギルド出身というだけあって、最大の利益が得られるのならば信条なんてさておき、の連中だ。
事実、俺よりも圧倒的にゴルディの方が作業が速かった。合理主義だからこそ判断も迅速だ。おまけに消費する魔力を最低限にするよう、呪文も微調整している。
唯一この中でトリアージの経験があるはずなのに、彼の優秀さを目の当たりにして、俺は情けなくて今にも土穴に飛び込みたい気分だ。
「4名!至急、治療を頼む!」
こうしている間にも戦線から新たな負傷兵が運ばれてくる。ただ数時間前とは違い、近くにいた
ほぼ、おおまかの赤に応急処置を施し終えるほどにもなっていた。
次は、待機していた黄と緑の負傷兵だ。
俺たちも気づけば当初の位置とは反対の、戦場に一番近い列へと至っていた。
「っし、エドモント、こっちの黒赤は終わったぞ」
「俺もだ、あと移動を済ませて終わりだ」
(ようやっと、黄に着手できる)
そうして最後の遺体を移動させて、次に治療する負傷兵を探していた時だった。
「おせぇんだよお前らよ!」
すぐ近くで怒鳴る声が聞こえた。
見てみると、右手首に緑の印がつけられた兵士が一人の
周囲の
“
掴まれた
「なんだ?あいつ何かしたんか?」
ゴルディがつぶやく。
そうやって彼らの様子に呆気に取られていると、またふっと、記憶が降ってきた。
『ぐずぐずすんじゃねぇよ!待たせやがって!!』
デジャブではなく、確かな記憶だ。
そうだ。
そういえば、前世にも似たようなことがあった。
あまりに余裕がなかったため、すっかり抜け落ちていたが、これは起こりうる事態だった。
というのも、黄と緑のタグ付けをされた者は治療までまだ猶予があるため、後に回される。ただし、いくら軽傷でも苦痛が伴うものだし、後に回される理由を説明されないことにはとてもじゃないが自分の番まで待っていられないだろう。その上、全体の治療効率を上げるためだと説明されたとしても真に納得しないことには、ああやってヘイトが溜まり、治療者への負の感情が噴出しかねない。
前世でトリアージを施していた当時も、左腕の裂傷を伴った緑のタグ付けの中年男性が待ちかね、怒鳴り声をあげて、若い医師につかみかかっていたのを見たことがある。
あのときは理解ある傷病者の男性が彼を止めていたのだったか。
しかし、今回はそんな協力者はいなさそうだ。
周囲の軽症の負傷兵もその
「なんだあいつ、あんだけ叫べるなら元気じゃねぇか」
ゴルディはあきれたようにぼやいた。
彼の言うとおりだ。ああやって大声で自分の症状を訴えられる者は目立つし、あの勢いに押されて優先的に対応してしまいそうになるが、実際、速やかな救命が必要な人間は、あれほど叫ぶパワーがない。
すると、その兵士の周りにいた兵士も立ち上がり、
「おい、あれやべぇ―」
と、ゴルディが言い出すと同時に、俺は、その
薄緑の癖毛をしたその
彼につかみかかっていた兵士は熊のような体格で、周りの負傷兵と違って、赤い兜を被っていた。見るからに中級以上の兵士だ。
彼も奇妙な偶然か、左腕に数十センチの外傷があり、布で固定されていた。
「今、今治療を行いますので、どうかお治めください!」
俺は二人の間に飛び込んで、兵士に訴えかけた。
藪のように生え広がった髭、岩肌のようなごつごつとした鼻、肉食獣のようにギラギラした目。その兵士は手負いの野獣のように本能に振れきっていて、今にも俺を食らいそうな目つきでこちらを睨んできた。
「なんだァ?俺は今こいつに話してんだよ。こいつずっと俺たちの周りでチンタラしてたからよォ」
「もう、皆さんの治療に当たれますので!ですので、どうか……」
「あぁ?!そもそも“俺たち”を待たすなんてふざけたことしやがって!!」
左頬がごりっとえぐれる感覚がした。兵士の右拳が俺の左頬にめりこんだのだ。その凄まじい衝撃で、俺はそのまま背中から地面に倒れこんだ。ずどんっと背中全体がたたきつけられ、俺の肺は一瞬縮むのをやめた。
「ご、ほっ…!!」
エドモント!と向こうからゴルディが叫ぶ声が聞こえた。
「ったく、
兵士が鎧の肩部にある紋章をこちらに突き付けてきた。脳が振盪して視界がぼやける。ゆらりと、紅い宝玉を頂く山を底から包む竜の手のような物々しい花びらが見えた気がした。
(あれは国王軍のパレードで見た―)
兵士は癖毛の
すると、ちりんと鈴の音が聴こえるとともに、紫色の外套が目に飛び込んできた。
「どうか、憤懣を治めていただけませんか。上級の回復魔法の他、
戦場と対照的な凪いだ声がその背姿越しに聞こえた。
「あぁ?!なんだお前!!」
「どうか、どうか。『お治めください』」
俺は駆け付けたゴルディに起こされてゆっくりと立ち上がる。紫色の外套の上には
しん、と急にその場が静まり返った。
あの烈火が刹那のうちに消失したのだ。
今一体何が起きたのか、わからなかった。
俺は様子が見えるように頭を横にずらして、兵士たちに何があったか確かめる。
(えっ)
俺は目を見開いた。
その兵士は時を止められたかのように静止していたのだ。
いや、本当に止められているのかもしれない。まるで剥製のようだ。
しかし、どういうことだ。詠唱する様子は一切なかった。何かしらの術式を展開したとしても早すぎる。正に魔法だ。
「大丈夫?」
凪いた声が俺に降りかかる。その響きで殴られた左頬がひりひりした。
「ノール・クリプキだ。クルルから聞いたよ。君が負傷兵の順位付けを提案したダヴァン・エドモントだよね?彼らは僕が対応しておくから、引き続きの治療をよろしく頼むよ。……あ、君もご苦労様。あともうちょっとだからお願いね」
クリプキは脇で固まっていた癖毛の
(クリプキ……?兄貴がなんか言ってたな……なんだったか……)
クリプキという名を聞いて、何か記憶を手繰り寄せそうな気がしたが、ゴルディが「行くぞ」と促してきたため、俺はクリプキに礼を述べ、負傷兵の治療へ戻ることにした。
―それから、現場にいる負傷兵をあらかた捌き終えた俺たちはクルル・リュブルの指示の下、新しく運ばれる負傷兵の対応にあたっていた。
気づけば、夕暮れ時に近づいていた。戦火と“
途中、スックとも連絡がついた。彼は他の同胞たちとともに急変した負傷兵の治療に尽力しているようだった。
戦線側の地平線を眺め見ると、変わらず攻撃魔法の衝撃波とドレク・ゴーンの豪炎が空に向かって弾けている。
戦況はなかなかこちらまで届かなかった。どちらが優勢なのか、いつ戦が終わるのか。1時間ほど前にクルルから「戦力が拮抗している」と聞いたのみだった。
だから新たな負傷兵が運ばれる程度で推し量るしかなかった。
「少し、余裕が出てきたな」
ゴルディがつぶやいた。
彼の言う通り、少しずつ、確実に、新しい負傷兵が来るペースが落ちていた。
もしかして、こちらの軍が有利なのか?
疲労がかなりたまっていたし、脳が自然といいように事態を解釈してもしかたがなかった。
新たな負傷兵が運ばれなくなったら、次は重症の負傷兵のフォローに移る。
護符の効力は落ちてないか、他に変化はないか見て回る。
ただ、それもそこまで手間はかからなかった。何重に渡るチェックの甲斐あって、負傷兵たちの容態は今のところ安定している。
「新たな死亡者もかなり減っているな。これで生きてる兵士は全員王都に戻れるだろう」
俺たちは大きく息を吐いた。
まだ地平線は明るいが、ようやく、一息がつけそうだ。
「危なかった……あとは勝利を祈るのみだ」
「だな」
と、俺たち含めた
わずかに地響きがした。
「……なんだ?」
地平線の轟音。何かしらの攻撃にしてはやや弱く、奇妙な感じだ。
ふと、地平線を見た。
地平線の戦火—より手前に光。
多数の小さな光がこちらに向かってくる。
(なんだ?)
他の
頭上を何匹かの“
と考えていた矢先、“
すぐに『異常事態』の文字が脳内で点滅した。
「敵、襲……?!!」
徐々にその姿が明らかになってくる。光の正体は炎で、周囲に砂埃が舞う。
地響きの元は竜人の乗る戦車だったのだ。
豪炎をまといながら、大量の竜人たちがこちらに向かっている。
『……総員、
“
俺とゴルディは腰に提げた袋から杖を取り出し、宙に魔法陣を描き、
近くにいた
グオオオ、と竜人たちの雄叫びが聞こえてきた。
同じ人間とは思えない、荒々しい振動だ。
竜人たちのスピードはすさまじいもので、地平線から発ち、10分とも経たないうちに姿が見えるほどの距離にまで近づいていた。
もう俺たちの策は一つしかなかった。
負傷兵の保護。そして、防御のみ。
あと強いて言うなら、なけなしの
竜人たちが鱗に覆われた腕を天に突きあげているのが見えた。
その手には禍々しい流線を伴った剣。
そこには、前世の記憶など通用しない。
なんなら現世で培った知識も通用しない。
ただ、放出する魔力が揺らがないように、足に力を込めるしかできなかった。
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