第15話 息苦しい一日

 5月も下旬に近づき、教室の中は心なしか元気がない。

 これは、期末テストが近づいているからだろう。真面目な生徒からすれば、今まで順調だった道に立ちはだかる、最初の関門と言えるかもしれないし……

 そこまで真面目じゃない生徒にとっては、ただただ気が滅入る障害物でしかない。


 昼休み、俺と机を囲んで昼食をとる友人はというと……相川は普段通りだけど、新田は事あるごとに期末テストについて「あ~イヤだ~」とかブツクサ言っている。

 そんな新田から見ても、今の俺は……「大丈夫か」と聞かれるぐらいには、だいぶ参っていた。

「やっぱ、期末テストか?」との問いに、俺はたいぶ逡巡しゅんじゅんした後、「かもな」と返した。


 実を言うと、期末テストも悩みの種の一つではある。

 この学校の教育システムにおいて、各種テストの結果は保護者の方にも連絡が行く。正確に言えば、保護者であれば専用のサイトから閲覧できるとか、そういう話を聞いた。

 となれば……みっともない点数を取れば、会社の人たちが心配して、俺に連絡を取りかねない。いい点数を取って褒められるのも、逆に煩わしい。

 実際、赤点はないだろうけど、全部平均以上を取れるかというと、とてもそんな自信はない。だから、テストの悩みは、実はそれほどでもない。


 実は、もっと強い悩みの種がある。

 事が起きたのは昨日のことだ。休日ということで外に出たところ、俺の前を歩く女性がハンカチを落とした。

 そこはかとなく嫌な予感がしたんだけど、拾って手渡してみると、やや大げさに感じられる感謝の後、「お茶の一杯でも」とのお誘いを受けて――

 確定・・したわけじゃないけど、俺は丁重に断った。

 休日、学校の外でも、直接的なアプローチを仕掛けられるようになってしまったのかもしれない。

 あるいは、単なる偶然でも、こうして陰謀論みたいに考えてしまうようになってしまったのかもしれない。


 ともあれ、そういうことがあったんだけど、相談に乗ってもらうのも、二人の飯がマズくなるだけかと思う。

 悩みの種うんぬんはともかくとして、実際に朝から体調不良気味で、食事があまり喉を通らない。買ってきたパンも、なんだかだいぶ重い食事に見える。


「……新田」


「なんだ?」


「あげる」


 食が進まない俺は、重い手つきで新田の方へ、未開封の商品をスライドさせた。


「もらっとくけど……本当に大丈夫か?」


「まあ……たぶん」


「早退でもするか?」


 心配そうに聞いてくる相川に、俺は少し考えてから首を横に振った。


「そこまでのもんじゃない、たぶん」


「そうか」


 早退したら早退したで、会社の耳に入るんじゃないかって気がする。

 こういう悩みやストレスも、ひっくるめてすべてが体調不良の原因になっているんだとすれば……本当、どうしようもないな。


 味気ない昼食が終わり、5限目。早退はしないと言った俺だけど――

 授業が始まって少しすると、その日一番の波に襲われた。全身が重いし、イヤな汗がする。今すぐ吐きそうというほどの切羽詰まった感はないけど、胸元辺りに不快感が意地悪く留まっている。息苦しい。

 そんな俺の窮状に、お隣さんが気づいた。そっと身を寄せ、「大丈夫?」と耳打ちしてくる。


 お隣のこの子、月島さんは、ふとした拍子に俺に構ってくれて割と仲良くなった方だと思う。少なくとも、クラスの女子の中では、一番気兼ねなく付き合える。

 しかし、普段は明るい彼女も、今の顔はかなり心配そうだ。大丈夫かどうかの問いかけに、俺は首を横に振るのも縦に振るのも決めかねていた。頭がうまく働かない。

 結局、月島さんが最初に判断を下した。


「先生!」


「何かね」


 今は日本史の授業、教科担は豊かな白髪が特徴の、いかにも紳士然として落ち着きのある先生だ。

 明らかにベテラン教育者らしき先生は、月島さんの一言で多くを察したようだ。こちらへと先生が近寄ってくると、教室がしんと静まり返る。


「継森君か。歩けるかね?」


「……付き添いがあれば、どうにか」


「まずは保健室で診てもらいなさい。それ以上の判断は、先生に任せればよろしい」


 心配そうではあるけど、全く動じない先生の態度に、見ていて気は楽になった。

 それでも、具合が悪いのはそのままだったけど。

「私も行きましょうか?」と、第一発見者の月島さんが言ってくれたけど、別方向から声が上がる。


「わ、私が行きます! 保健委員ですからっ!」


 そう言って立ち上がったのは、背が高くてメガネの子で――確か、金原さん。生徒会長の妹さんだっけか?

 なんだか頭がボンヤリする中、俺の周りで話は進んでいく。


「ふむ。では二人で一緒に連れて行くとしよう」


「は、はい!」


 だいぶ緊張した感じの保健委員が応じ、二人に両脇から抱えられ、俺は教室を後にした。

 体がかなり重い。ひとりで歩けないというほどじゃないけど……それも強がりでしかないかもしれない。お二人の支えが心強くある。

 この保健委員の子は、あまり目立たない感じだけど……いざという時に、ああやって自分から声をあげたわけで、責任感のある子なんだろう。

 それと、女子としては相当な長身なおかげで、肩を借りるのが楽だった。金原さんの方は、俺という重荷に苦労しているようではあったけど。


 保健室に着くと、中には年若い女性の先生と、別クラスの女子が二人ほどいらっしゃった。来客の入室に先生の顔がきゅっと引き締まる。


「お手数ですが、ベッドの方までお願いします。腰掛けられるように運んでいただければ」


「わかりました」


 手短で淡々としたやり取りの後、先客の二人とすれ違い、頼りない足取りで近くのベッドへ。腰掛けるだけでも妙な安心感を覚えつつ、俺はここまで運んでくれたお二人に頭を下げた。


「ありがとうございました」


「授業は気にせず、まずはゆっくりしていきなさい」


 いつもよりも柔らかな感じで仰った後、先生は金原さんを連れて退室していった。


 二人を見送った後、保健の先生の介添で、ゆっくりとベッドに身を倒していく。

 俺を寝かせた後、ベッド近くに小さなイスを引き寄せ、先生が腰掛けた。


「声を出すのは平気? 苦しければ首だけ動かしてくれればいいからね」


「話す程度なら」


 それから先生の問診を受け、答えられる範囲で答えていく。


「――聞いた感じ、低血糖っぽいかな」


「低血糖、ですか」


「食事抜いて、その上で何かスポーツしたとか、そういう心当たりはないかな?」


 言われてみれば、昨日からずっと気が滅入って食欲が起きず、今日は午前中に体育があった。その時点では大丈夫たったんだけど……

 俺がそう思ってただけで、体はそうでもなかったってことか。


「無理なダイエットとかで、こういう症状が出る子がたまにいてね。勉強やらお家の用事で忙しくて、食事や生活のバランスを崩してるって子もね」


 そう言いつつ、先生が戸棚へ歩いていって何かを取り出した。小皿にザラ~っと音を立てて広がる、白く小さな円柱状の物体。

 ブドウ糖のラムネだそうだ。


「まずは適量摂取して様子を見ようか。スポドリもあるから、飲みたければ遠慮なく言ってね」


「ありがとうございます」


 寝ながら小さくうなずく俺に、先生がニヤリ。


「フフッ、授業中にこういうの食べるのが、いっちばん旨いんだよな~。罪の味っていうのかな?」


 気さくなお姉さんといった感じの先生は、「何かあったら、すぐ言ってね」と言って、自分の机の方へと戻っていった。

 所見では、そこまで深刻なものじゃないと判断したんだろう。先生の様子にこちらも少し安心を覚え、ラムネを口に含んだ。


 思っていたよりもずっと甘い。

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