第2話 そのローブ
空は青く澄んでいて、もくもくと大きい入道雲が止まったままのような、いや少しずつ動いているような、のどかな様子で空の上をただよっていた。日差しは眩しく木陰から空を見上げると木の枝や幹が逆光で真っ黒に見える。ここノザニアは文字通り北方なので夏は短い。マチルダはその短い夏の恵みを全身に感じていた。あつーい。
マチルダは侍女ではないので洗濯などはしない。が、侍女のような魔法使いではあるので、侍女ではなかなか難しい事をしなくてはいけない時がある。例えばこの館に勤める本物の侍女たちは老師の黒ローブや衣服などをあまり触りたがらない。
「私達にはちょっと……」
主任侍女のハリエットはそう言ってマチルダにローブの虫干しなどを押し付けてくるのであった。これもしょうがない事情がある。
例えばマチルダのローブは本当にただの衣服で魔紋など施されていないが、高位の術を身に着けた者だとローブにもいろいろな魔法を施しているものである。そしてそれは刺繍だったり直接呪文が書いてあったりするもので、つまり扱いが難しい。ましてや老師は黒魔道士である。変なところを触って炎が吹き上がったり、逆に魔紋が消えたりしたら大変な事になる。というのがその理由であった。
もしそんなのあったら私だってわかりませんよ。と反論はしたが、ハリエットは上司ではないがそのようなものである。まあ干すだけだししょうがないか。
かくして通信術しかできない魔法労働者は、その労働力の欠如を埋めるかように老師のローブやら衣服やらを竿にさし、一段落したので木陰で休んでいるのであった。マチルダには老師のローブに描かれている魔紋が具体的にどういうものかまでは判らないが、それが長く虫干ししていいものではない事はわかる。下膠にさらに石膏下地で描かれたロスディア書式の魔紋は乾いた血のような濃い茶色で、ただの
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「今日は魔紋のお勉強かな?」
左側からそういう声が聞こえたがマチルダはそっちを見なかった。兄弟子に対しては不敬な態度であるが、老師のローブの虫干し具合を監視しているという体裁なら言い訳は立つ。見なくていいものは見ない。できれば声も聴きたくないけど。
「いえ、虫干しの具合を見ていました」
マチルダは視線を向けないまま、顔から表情を消して一応は丁寧にそう答えた。派閥違いの兄弟子ロイズは薄く笑ったようだった。そして干してあるローブに目を向けてやや驚いた様子を見せた。魔術師のロイズなら少なくともマチルダよりはローブに描かれた魔紋の意味が分かるのだろう。マチルダの存在など忘れたかのようにローブを凝視している。
「……さすが
この嫌味な兄弟子が素直に驚くところなどあまり見たことがないので、ついマチルダは質問をしてしまった。
「そんなにすごい呪文が描かれているのですか?」
ロイズは驚いたせいか、質問に嫌味を返す事なく説明してくれた。
「……魔紋自体は大したものではない。ただの感染症予防のものだ。しかし……」
こんなに大雑把にこれほどの式を組み込むとは。あの左翼下に描かれているのはデレクのウジル熱に関する仮説の解ではないか?その下のはひょっとして老師の注釈か?くそ、遠くて見えん!
じゃあ近づいてみればいいのに。つまり少しでも遠ざかってくれればいいのに。
しかし妙に生真面目な兄弟子は老師のローブに描かれた魔紋を無断で解析などせず、見える限りの情報で驚嘆したり唸ったりしているだけであった。
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「東方には『猫に
そろそろいっかな、と適当に当たりをつけてローブやら衣服を取り込むマチルダに向かって、木陰から一歩も動かないままロイズはそう声をかけてきた。はい?
「日常的にこれほどの術式を見て何も学ばんか?」
すいませんまず楕円ってなに?
「求めざるは道成らざる也、唯大洋に漂う木端欠の如く。少しは勉強しろ」
そう言ってロイズは踵を返して去っていった。なんか難しい事をいってた気がする。まあ別にどうでもいいけど。というか何しに来たんだろうあの人?
まさにロイズの指摘通りに、特に何も考えず状況に流されるまま偉大な魔道士の弟子となりさらに事実上の近侍になったマチルダは、兄弟子の貴重な助言など気にも留めずに衣類を取り込み、暑さの中をだらだらと館に戻るのであった。
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「どうもお手数をおかけしました」
館の裏側に戻るとハリエットが待っててそう言ってくれた。主任侍女とはこの広大な館特有の役割で、本来なら彼女は侍女長と言ったほうがいい。そんな偉い人が待機してくれていたのは、やはりマチルダは一応は主の弟子だからだ。
「いえいえ」
マチルダも笑顔でそう返す。お互い別に手間を惜しんだわけではない。何が起こるか分からないモノに触りたくなかっただけだ。そしてこのローブに描かれている魔紋は危険なものではないという事も伝えた。が、
「……そういうのがいちばん怖いんですよね……」
ハリエットは眉に皺を寄せてそう答えた。理由を聞くと答えは明快だった。
「つまりそれは訳のわからない医薬品の塊という事になります」
ああなるほど。例えば用途も判らない医薬品なんか服用したくはないか。
「前はどうしていたんですか?」
私がこういう立場になったのはつい半年前からだ。それ以前はどうしてたのか。
「前は保健局の人がそういうのをやってくれていました」
保険局は衛生委員のユートン導師の管轄である。じゃあそのまま任せればいいんじゃないんですか?
「……誰が担当かで揉めるらしいんですよね……」
ああなるほど。ハリエットは言葉を濁したが多分その揉め事はハリエットの目の前で何度も起こったのだろう。言われてみれば確かにそうかも。
魔道士の末端の弟子たる「門人」の格付け競争は非常に激しい。この段階で実績を認められないとその上の「徒弟」になれないからである。なので門人たちは少しでも実績か、あるいは箔付けになる事は何でも率先してやりたがる。それがただの虫干しとはいえ老師のローブを触る事ができ、かつ先程のロイズのように魔紋を学ぶ契機となるならそれは我先にやりたがるだろう。もっとも「じゃあ徒弟になるとどんないい事があるの?」というと「門人を指導監督し老師の研究に携わる事ができる」というだけで要はただの出世でしかないのだが。
補足すると、魔道士の弟子が外国──自分が仕える師の勢力圏外──に出れば相応に敬意を払われるが、魔道士の弟子の区分はその魔道士オリジナルなので、仮に徒弟と言ってもそれがどれ程の地位だかは伝わらなかったりする。というより徒弟だろうが名取だろうが印可だろうが要は「魔道士の弟子」という立場に恐れ慄いている訳で、その弟子自身の立場や能力などどうでもいいのだ。
「以前一度、取り合いになって老師のローブが破れた事がありまして」
ひえ。
「それはそれはもう大変なことになりまして」
魔道士の弟子は派閥社会である。魔道士アリ・アダには直弟子たる高弟が四十人程も居てそれぞれに派閥があり、その中にさらに小派閥がある。この問題は導師ユートンの責任であるが、そのユートン派閥内で激烈な小派閥抗争が発生した。最終的にユートンは非と認定した派閥を丸ごと破門し、それを以て老師への詫びとしたという。
「老師はそんなにお怒りになられたのですか?」
あの書生のような老師が怒った顔など見たことがない。
「いえ、老師は事後報告を聞くまで全く存じなかったそうです」
えー、そうしたらユートン導師ちょっと厳しすぎない?と思ったのが顔に出たのか、ハリエットは補足してくれた。
「……老師は大変穏やかな方ですが、やはり『黒』の魔道士ですので……」
……? あーまあ……、そうですよね……?
黒魔道士ねえ。
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どこの誰が言ったのか、或いはいつそういう概念が生まれたのかはよく知らないが、
これは色のイメージ通り、白は善、赤は中立、黒は悪というように解釈される。とはいえ少なくともマチルダは魔法学校の授業でそういう事を教わった記憶はない。いやあったのかな?寝てたか私?オカモト先生の授業はあれホント催眠術だよ。
マチルダが知っているのは、これはローブの色であり、ファッションであり、自身の研究指向を表すためのカラーリングでしかなかった。例えば医療研究に勤しむ人間はなんとなく白系統のローブを着てる程度で、マチルダのようなごく普通の魔法労働者は普段ローブを着ないことが多い。着るとしても男性だとカーキ色とか濃いグレー、女性だとこれまた白系統というのが定番で、赤や黒を着ている人というのはあまり見ない。居ない訳ではないがそれはちょっと
ちなみにキャロライン導師は社長時代は基本的にビジネススーツで、ローブなど客と会う時くらいにしか着ず、それも高価だが装飾の少ない白のローブと決まっていた。魔道士アリ・アダからの招聘以降はずっと黒のローブである。赤が一番似合いそう。
なので魔道士アリ・アダが黒魔道士と聞いても最初は「なんか面倒そうな人だな」と思っただけであった。まあ当時は単なる転属先の社長くらいの認識だったが。
そういう事情があるのでハリエットの言葉が少しピンとこなかった。偏見や先入観としては判るが、魔道士の館で侍女の取りまとめの一人として働いているハリエットがああいう感覚をもっているのは意外だった。
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衣類はそのまま洗濯物としてハリエットの下で働く侍女に渡し、ローブだけ丁寧に畳んで三階へ向かう。老師は先日までの書庫での用は済んだらしく、今は元の研究室に戻っていた。それはいいのだがこの広い館ではそこまでの移動に時間がかかる。
マチルダは王宮とか王城などに行った事がないので比較のしようがないが、どうもこの館はそんじょそこらの王宮より広い気がする。大体にして階段が長すぎる。なだらかなのはいいのだが40段くらいないこれ?しかも一段一段が非常に奥行きがある。一段上がって次の一段までに三歩分くらいの奥行きがあるのだ。
ようやく二階への階段を登りきり、階段のすぐ横にある椅子に腰掛けた。ちょっと休憩。この椅子は本当にこういう用途のためにあるので遠慮はいらない。そうして休憩がてら少し周りを観察した。
建築様式そのものは一階と変わらないが一階とは雰囲気が違う。それもそのはずで、二階は徒弟以上の弟子の研究室や私室がある階層なのだ。一階は若い門人の生活の場でもあるのでもっと雑多な用途の空間もあるが、この階層からはまさに「世界の理を解明すべき隔世の研究者」の助手たるものの研究機関なのである。たまに黒ローブの人影が目の前を通り過ぎるがマチルダに全く関心を払う様子はない。まあ量販店の白ローブにたすき掛けしてる若い女と言えば誰だか判るのかも知れないが。
よっこらせ。
マチルダは休憩を終えて立ち上がった。マチルダも別に白ローブにこだわっている訳ではなく、キャロライン導師ように黒ローブにしようかなと思わないでもない。しかしローブの色を咎められた事はないし、第一ここノザニアには庶民の味方タンサラスは出店していないのである。マチルダにとってローブとは制服というより白衣とかエプロンに近いもので、大枚をはたいたりスリーサイズを計られたり材質だの紋様オプションだの仕上がりは三週間後などというものではないのであった。
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さて三階へ続く階段である。これも広さや奥行きは二階への階段と何も変わるものではない。違うのは認証があることであった。
階段の手すりに彫られた小さなガーゴイルがゆっくりと動いてマチルダの方を向く。その目が数回緑色に点滅して元の位置に戻った。これで認証完了である。不思議な事にこのガーゴイルはここだけではなく数段ごとに設置されている。しかしマチルダが知る限りこういう風に動くのはこの最初のガーゴイルだけであった。マチルダが特別扱いされているのか、はたまた他のガーゴイルはただの飾りなのかは判らない。どちらにしても仮に侵入者がいてもここまで辿り着けない気がするけど。
長い長い階段を時間をかけて登りきり、今度は休憩せずにまっすぐ老師の研究室へと向かう。これがまた遠いんだ。いや遠いというのは少し違うのかな。
老師の研究室そのものは近い。階段を上がって中央大回廊のつきあたりである。しかしこの研究室はこの広大な館の三階北側部分が全てそうなので、その中でさらに「今現在老師が居るところ」を探すのが大変なのである。そして老師はこの研究室の仮眠室で寝起きしていることも多いが、別にある本当の私室や書斎に居る時もある。
そしてそんなに広大な研究室を老師一人で使っているわけではなく、老師の本当の弟子、つまり「直参高弟」たちがさらに自分たちの弟子や孫弟子と共に日夜研究に勤しんでおられるのである。その全てが本来ならマチルダやロイドなどでは声もかけられない程の上位のお弟子さまなのだ。怖いこわい。
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一応研究室の扉をノックするがもちろん反応なんてあるはずがない。ここまで来れる人間ならもういちいちそんな事はせずに勝手に出入りするからである。それでも一応は間を置いて扉を開こうとしたら、内側から開いて何人かの研究員兼上位弟子が何かを議論しながら出てきた。その中の一人が一瞬だけマチルダを見たが、声すらかけずに仲間との議論を再開しつつ去っていった。別にそんな事をする必要はないのだが、マチルダは開いた扉が閉じる前に身体を滑り込ませた。
研究室の内部は相変わらずの様相だった。絨毯など敷かれておらず、大理石だかなんだかよく判らない白いつるつるの床、少し奥には超巨大なビーカーだかフラスコだかのようななにかが無数に設置されている。そこには何かが入れられているようだが何が入れられているのかは判別できない。そしてそこから伸びた無数のホース。研究室内は一部中二階のような構造になっていて、その狭い二階の部分から巨大なビーカーに対して何かをしているようだった。なにをしてるのか全くわからないが。
皆様お忙しいらしく、ある方は座って本を読みつつ何か数式を書いているし、またある方は恐らく自分の弟子に向かって少し厳しい口調で何かを話している。せかせかとあっちに行ったりこっちに来たりと移動している方も多く、さてどちら様に声をおかけしようかな、と思っていたら比較的若い男性が緩やかな歩調で扉に近づいてきた。なんとなくだがこれから休憩を取られるような気がして声をかけた。
「英邁なる我が兄弟子にお尋ねしたく」
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「……あー、君か。今日はどうしたんだい?」
魔道士アリ・アダは鷹揚にそう声をかけてくれた。ちなみにほぼ毎日会っている。
「
マチルダは礼節通りに一礼してからローブを差し出した。が、
「ああ、ありがとう。でもクローゼットに入れてほしかったな」
老師はそう言って苦笑した。でも実はそれはこちらが苦笑する話である。
この研究室は老師の叡智の結晶ではあるが、それでも大人数の弟子と共に過ごす共有空間である。しかし老師のクローゼットとはつまり私的空間であり、それはまさに魔道士の深淵そのものである。ここと違って何が起こるか本当に判らないのだ。そんなところにただの通信術士などとても入っていけない。
「……老師の私的空間に黙って立ち入るなどおそれ多く……」
マチルダは事実の聞こえのいい部分だけを言った。
「別に変なものはないよ?……マルタさん」
マチルダです。
「そうそう。少し拷問された
傍にいた中年の男性が笑いながらそう言った。
「あとはちょっとした呪物だけだし心配はないわよ」
老師より少し年嵩に見える女性も笑いながらそう言った。
「ゾルタン、ダリラ、君たちはひどい誤解をしているよ!」
老師は少し大仰に二人の弟子に苦情を言った。
「あの悪霊はとっくに用が済んで浄化したし呪物だってもう封印してあるよ!」
ああ本当だったんですね。
「噂のサンドウィッチさんね。初めまして。ダリラです」
そう言ってダリラという女性は一礼してくれた。うわわ。
「マチルダ・ポートレイムと申します!」
弟子社会では上位の弟子が下位の弟子に対して先に名前を名乗るなどまずないことだ。どうしていいか判らないのでとりあえず一礼して名を名乗るマチルダだった。
「ゾルタンだ。直参の末席を汚している」
そう言ってゾルタンという中年男性はなんと握手をしてくれた。うわわわ。
「マチルダ・ポートレイムと申します!」
もうどうしていいか判らないので全く同じ名乗りをあげる事しかできなかった。
「ねえルーシア、ちょっといい?」
ダリラはそう言って中年の女性を呼んだ。
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「こっちよ」
結局、老師の私室に案内してくれたのはルーシアという女性のさらに弟子らしい女性だった。マチルダよりは年上だがそれほど上という訳ではない。しかし先ほどのゾルタンやダリラと違って全くお愛想はないし名前も名乗ってくれなかった。まあこれが普通なのだが。
その女性は老師の私室前に着くとまず
周到に準備を整えて入室した老師の私室は広かった。部屋としては
応接の左側にはやや狭い出入り口が開いており、その向こうに衝立が見える。多分トイレか浴室だろう。右側には
正面はさらに広かった。正面にはこれまたマチルダのベッドくらいはありそうな巨大なデスクが設置されており予想外にちゃんと片付けられていた。そしてその背後にはテラスに続く窓があるようだったが今はカーテンで覆われている。正面の左側は衝立で仕切られた場所がありそこには老師のベッドが設置されているようだった。右側には書架があるがこれは意外な事にさほど大きくはない。それでも四架連結で本や何やらが詰まっているし、その近くには地図入れがいくつか設置されていた。
しかしそれらの間取りや家具より遥かに目を引く異様なものが部屋の中央に居た。
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それは一目で人工物とはわかる。人型でもある。しかし人形とは言い難いものであった。研究室の床とはまた違う白いつるつるの素材に覆われており、衣服のようなものは身につけていない。脚はゆるく湾曲していてやや太い。腕もあるが手に相当する部分は三つの
──ドチラサマデスカ──
それはそう聞いてきた。というよりそう聞こえる音を発した。それに対してここまでマチルダを連れてきてくれた女性弟子が応えた。
「カザミよ」
その返答に沈黙が訪れる。それの頭部の黒いガラスの中で赤と緑の光が点滅した。
──ドチラサマデスカ──
それは再びそう問うてきた。どうやらその質問はマチルダに向けられたものであるらしい。カザミと名乗った女性弟子はそうと気がついてマチルダに顔を向けた。
「名前なんだっけ?」
カザミは自分の見落としに気がついたような声音でそう聞いてきた。
「マチルダです」
マチルダは即答した。
「この娘はマチルダ、私の妹弟子よ」
カザミがそういうとそれの頭部で再び赤と緑の光が点滅して緑で止まった。
──ヨウコソ。カザミ、マチルダ──
つまりこれは階段にあったガーゴイルの進化版であるらしい。そうして改めて観察すると随分とユーモラスな見た目だった。無機質すぎてかえってかわいいというか。
──ドウイッタゴヨウデショウカ──
それがそう言うとカザミは再びマチルダに目を向けた。そう、カザミはこの瞬間までマチルダの名前も知らないどころか、マチルダが何の用事でここまで来たのかを全く知らなかったのである。
「あなた何しにきたんだっけ?」
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「どうもありがとうございました」
老師の私室を出るとマチルダはカザミにそう言って一礼した。しかしカザミはそれに軽く会釈をすると何も言わず研究室のほうに去っていった。
ローブを収納するために訪れたと言うと、それはローブを受け取ってアリガトウと音を発して奥へ向かってそのまま戻らなかった。というよりローブを渡してそれが歩きだすと、カザミがもう出ようと言いだし二人は退出したのである。
とにもかくにも、なんだかよく判らない奇妙な小冒険は終わったのであった。
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「両兄にお会いしたの」
キャロラインはワインを一口飲んでからマチルダの言葉を反芻した。ここは一階にある応接室のひとつで上位の弟子なら遠慮せずに使える部屋である。
「ゾルタン様もダリラ様も直参高弟の筆頭格、というよりは」
なんと元々は老師の兄弟弟子に当たる方だったとのことだ。
「後継者に選ばれたのはアダ老師だけど契を交わし直して直参になられたのよ」
そういうものなんだ。魔道士になるためにはそれはそれは過酷な試練に合格しないとダメだと聞いたことがあるけどそういうのもあるんですね。
「………」
キャロラインはワインを口に含む事でマチルダの独り言のような質問をかわした。この子は老師のあの天真爛漫なところに懐いている。それにより自分も雑談の体裁でいろいろと情報を得ることができているのだ。意味もなく怖がらせる必要はない。
「それにしてもルーシアともカザミともゲンナイとも会うなんて良かったわね」
お二人ともほとんど会話してませんけどね。ん?ゲンナイ?だれでしたっけ?
「老師の部屋にいた
へえあれゲンナイっていうんだ。発音しづら。
「あれもガーゴイルの一種なのですか?」
マチルダは思ったことを聞いてみた。
「ではないけど、あんたにとってはそれでいいかもね」
なんかバカにされたような気がする。
ゲンナイという自動人形はこの館の防衛システムの統括である。ゲンナイ自体に攻撃能力はないが、ゲンナイが相手を排除対象者と見做した場合、この館にある全ての防衛機構を起動することができるのだ。
そして「防衛システムの統括が自動人形である必要はあるのか?」という問いがあるとすれば、その答えは「ない」としか言いいようがない。これは老師を含む何人かの直参高弟による余興であり、そしてゲンナイというよりこの自動人形はまだ完璧に完成しているわけではない。実際に過去に何度か誤作動を起こして怪我人がでているのだ。なのでそれを知っていたカザミは可能な限りの防衛手段を準備して万が一に備えていたのであった。
そして魔道士アリ・アダは組みあがった自動人形を手元に置き、新しい趣味のひとつとして雑多な用事ができるようにカスタマイズしているのであった。魔道士アリ・アダの私室は前述のように極めて危険な状態になることもままあるので、恐怖心を持たず、悪霊に取り憑かれる事もなく、万が一あったら破壊すればそれで済む自動人形はなかなか便利な存在なのであった。
「まあまた老師の私室に行くことがあればもう顔パスよ」
キャロラインはそう言って笑った。もし万が一誤作動が起きたらカザミのように自衛手段を持たないマチルダはまず助からないだろうが、その懸念を言えば老師や直参高弟たちの技術を疑う事になる。まあ即死でなければ老師なりダリラ様が何とかしてくれるだろうし、この子は微妙に運がいいから大丈夫。多分。
魔道士の弟子 @samayouyoroi @samayouyoroi
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