魔道士の弟子
@samayouyoroi
第1話 その日常
マチルダは一応ノックして書庫に入った。もちろんこの書庫は誰でも使用していいのでそんな事をする必要はないのだが、なにせ老師がここに根を張ってしまったので事実上の禁室になってしまったのである。もっとも書庫は広く、老師が専有してるのはその極一部だけではあったが。
書庫は窓が大きく複数作られているのでとても明るかった。魔道士の館には書庫というものは幾つもあるもので、この書庫は本来一般的な書籍等を配架する書庫だった。そんな書庫に老師が注目する書籍があったとは。とはいえ相手は魔道士である。その叡智はしばしば常人の理解を超えるのであった。
書架の間を通り奥へと向かう。一瞬、以前ちょっと読んでて途中の巻がなくて読むのを止めた小説の続きを見かけた気がするが、真面目なマチルダはそんな道草をせずにまっすぐ老師の下に向かう。老師は書架の西側の突き当りに居るはずだ。
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老師が専有しているところに着くと先週見た時よりさらに散らかっていた。どこからか引っ張ってきて連結した机の上にはこれまたいつ持ち込んだのか実験用のフラスコやビーカーが並べてあるし、本は戻しもせず積み上がりっぱなしだ。いくつかの本は開きっぱなしだし、もう用が済んで邪魔だと判じられた本は無造作にそこらへんに投げ捨てるように放置されていた。
「参じました。
しかしマチルダは、いやマチルダではなくとも老師のやり方に口を挟む弟子は居ない。魔道士とはその勢力圏内では絶対者である。
「……あー、君か。そうそう君だ。まってたよ」
魔道士アリ・アダは、現在世界に僅か四人しか居ない魔道士の一人であり、その中でも唯一の黒魔道士であり、その研究課題は人類滅亡である。そのためその叡智は全て研究に費やさねばならず、合計三千人以上も居る弟子の名前などいちいち覚えていられないのであった。
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「この前の魚の揚げたのが食べたくてね」
老師は屈託なくそう言った。
「…アクアパッツァでしょうか?」
煮込み料理だけど多分そうだ。
「かな?今日の夕餉はそれでお願いできるかな?」
老師は優しそうに屈託なくそう言った。正確な年齢は存じ上げないがおそらく五十代の半ば程だろう。髪の毛も真っ白だし。しかし研究者特有の若さ、あるいは幼さがにじみ出てるのでその印象は二十代の書生のようにしか見えなかった。髪の毛も白髪というより最初からそういう髪色というほうが適切に思える。髪の色はともかくその量は多くしかも癖毛なのでますます幼く見える。
「承知しました」
マチルダは他にはなにか、とは言わなかった。魔道士の弟子とはいえ実質ただの侍女である。何か難しいことを言われても困るのだ。
「お願いね。……マリアさん」
マチルダです。
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「…老師からなにか言われたのか?」
書庫を出るとロイズが険しい顔でそう訪ねてきた。
「ただのご夕食の注文です」
マチルダが表情を消してそう言うと、ロイズは一瞬疑わしげな顔でじろりと睨んできたが、すぐに納得して口元に冷笑を浮かべると挨拶もせず踵を返した。嫌なやつだ。とはいえ今のマチルダの苦労といえば今のようにたまにロイズから嫌味を言われるくらいしかなく、それ以外では随分とお気楽な職場なのである。
職場。そうマチルダは別に魔法の奥義を極めようと思っているわけではない。あくまで状況でこうなってしまっただけなのである。
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マチルダ・ポートレイムは生まれつき魔力があっただけのごく普通の少女であった。そういう人間はさほど珍しくはない。しかし魔力を持つ者は魔法学校への進学が許され、結果的に賃金や待遇がいい仕事に就業できるものである。その点では彼女は幸運ではあった。十人に一人程度の幸運ではあったが。
魔法学校では通信魔法を専攻した。これまた魔力がある女性の進路としては定番中の定番コースで特筆する事は何もない。敢えて言えばマチルダはまあそこそこには優秀だったかな?という程度である。
単位取得後は当然ながら通信部門での就業先を探したが、その中でもまだベンチャー企業に分類されるキャロライン・ネットワークは一風変わった業態だった。普通通信部門は各商会独自に抱えているものだが、キャロライン・ネットワークは通信術士を派遣する会社だったのである。
通信術士はその業務上の都合で結構な秘匿情報を扱う可能性がある。そのため通信術士の派遣事業などなかなか難しいのであるが、キャロライン・ネットワークは創業者が魔術師であり、必要に応じて顧客立会の下、通信術士に対して
「弊社としても情報漏洩など看過できませんので」
魔術師にしてオーナー社長のキャロラインは顧客にはそう説明し、
「個人情報なんか観ないわよ馬鹿馬鹿しい」
従業員には投げやりにそう言って一応は双方の理解を得たそうである。
「それにそんな秘匿情報なんかのためにやってるわけじゃないし」
キャロライン社長の目的はあくまで事業家としての収益であり、その狙いはむしろもっと雑多な通信網の提供だった。
通信術士はその商会での正規雇用である場合がほとんどであり、しかもその業務の性質上気安く扱えるものではない。エリートというよりは社外秘資料を扱う煩雑さに似ている。しかし企業運営というものは雑多な情報こそが重要だったりするもので、むしろ正規雇用ではないという立場を押し出して、もっと気楽に通信を活用してもらおうというのがキャロライン社長の事業計画だったのだ。
その事業計画は当たった。大手商会ともなれば支店のさらに出店などという言わば孫に当たる店舗も無数に存在する場合もあるが、そんなところにいちいち正規雇用の通信術士など配属していられない。しかしだからといってそういう店舗とのやり取りが遅延するのは困る。通信術士の対応範囲を店舗からエリアにすると不満が多いし肝心なときに通信ができないという不便もあったりする。キャロライン・ネットワークはそういう状況の解消にうってつけだったのである。
しかしもちろん、キャロライン・ネットワークは賃金は良かったが激務でもあった。なのでキャロライン・ネットワークの通信術士は三年を目処に勤務地を交代する。就業直後から三年は「定職」と呼ばれる勤務体系で、顧客の本社や支店に在籍して経験を積む。次の三年は「どさ回り」と呼ばれる地方店舗のエリア担当である。
そしてマチルダはその「定職」中に今の立場へと転属したのであった。
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「どうしましょう!アダ老師から高弟としての招聘があったわ!」
キャロラインは歓喜極まった口調でそう言った。どうしましょうとは、もちろんそれは迷いではなく嬉しさの表現でしかなかった。
魔道士とは単なる上位の魔法使いではない。政治的には彼個人が独立勢力であり、その存在意義は世界の理を解明する隔世の研究者である。その魔道士からの高弟の誘いとは言ってしまえば国務大臣に招聘されたようなものなのだ。いくら事業が上手く行ってるとはいえ比較にすらならない大躍進だった。
「え、私たちはどうするんですか?」
その時たまたま社に戻っていたマチルダはそう聞いた。別に社長が幸福になるのは構わないしもし会社を解散するにしても多分再就職はどうにかなるけど、どうするつもりなのかは聞いておかなくてはならない。しかし回答は予想外だった。
「私が高弟になるんだから弟子のあんた達だって横滑りに決まってるでしょ!」
え?私たち社長の弟子だったんですか?と言いかけて止めた。
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かくして話はすいすいと進み、打診から三ヶ月後には正式に会社を廃業し、キャロライン「導師」と共に六十五人の従業員もとい弟子たちはここノザニアを訪れた。この地方が魔道士アリ・アダの勢力圏である。キャロラインはアダ老師から風紀委員という役割を与えられた。それは実質このノザニア全域の司法担当と言ってもいい。
「ご期待に添います。
キャロライン導師は感極まりつつも冷静を装ってそう言上したそうである。魔道士は謙遜を好まない。例えばこの場合「ご期待に添うように努力します」とかだと「わざわざ努力を明言するほど怠け者なのか」とか「それは失敗する可能性があるという意味か」と思われる。丁寧かつ敬意を表しつつも断定口調でなくてはならないのだ。
「ああよろしくね」
しかしアダ老師のほうはさほど気にもとめずそう軽く返しただけだったそうだ。
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「
まず最も多い魔法使いとは、文字通り「魔法を使う者」全体を指す言葉で資格ではない。自称で使う事もほとんどない。これは例えば自己紹介をするときに「労働者のマチルダです」とは言わないのと同じような感覚である。現在魔法使いと呼ばれる者は大体の場合で生活のためにその知識を身につけた者であり、仮に魔道士や魔術師の下で弟子となっても基本的にはあくまで従業員である。
魔道士とはそれとは全く異なる存在である。先述の通りその存在は彼個人が独立勢力であり事実上の君主である。この大陸には大小いくつもの国家があるがそのいずれにも臣従しない。それどころかもしその気になれば一夜でその全てを支配する事すら可能であると言われている。そして魔道士はあまり外交をしないのでつまりどことも国交がない。従って諸国は交渉によりその神秘の力を活用したくてもできず、まさに腫物そのものの扱いで無視を決め込むことしかできない。
魔術師はこの三つの立場で唯一公に認められた存在である。これは大体の国で資格試験がありその合格者がそう呼ばれる。資格としては「魔法労働の指導監督者」というもので、魔法技術の認定試験というよりは管理職の資格試験という方が適切である。もちろん「導師」キャロラインも元々そういう立場であった。
しかし、「
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弟子の区分はそれぞれの師の下で独自に定義される。例えばキャロライン・ネットワーク時代は部長とか課長とか一般職とかであったらしい。そう言われたクルガン部長は少し驚いた様子で「え?ああ、はい」と返事をしていたが。
そしてアダ老師の下ではもっと細分化されている。まずその最高位は高弟であり、これはキャロラインを含めて四十人程いるらしい。そして高弟の中でも序列はある。老師が魔道士になる前から弟子であった者は「直参」と呼ばれ、キャロラインのように外部から招聘された者は「外様」と呼ばれる。さらにそれぞれの年次や評価によって序列は変わるが基本的には「直参高弟」が弟子の最上位だ。
しかし直参高弟ともなるとあまりそういう序列争いには関与しない。彼らは魔道士と同じくそういう世情から離れた存在なので組織力学にはあまり興味がない。直参高弟たちの興味は老師の支援としての自身の派生研究、または老師の研究の継承である。それには手足となる人手は必要だが基本的に研究が最優先事項なのだ。
だがキャロラインのような外様高弟は研究者として招聘されたわけではなく、支配者としての魔道士を補助する役割なので、現実の組織内での影響力、ひいては後継者が選抜された場合に「
そしてキャロラインにはライバルがいる。その高弟ユートンはキャロラインと似た経歴の持ち主で、しかも弟子になった時期も近く、女同士ともなれば意識しないわけがない。さらにキャロラインが風紀委員であるようにユートンは衛生委員であった。
そしてマチルダがキャロライン派閥の末端の弟子であるように、ユートン派閥の末端の弟子にはロイズという嫌な兄弟子がいるのであった。
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ロイズはユートンが経営していた物流会社で就業後わずか二年で魔術師の資格を得た新進気鋭の若手だったらしい。詳しくは知らない。知りたくもない。
マチルダが知っているのは、魔道士の末端の弟子は本当に泡沫のように序列が入れ替わるという事であった。それはもう頻繁に。意識するのが馬鹿馬鹿しいくらいに。
大体にして正確には序列ですらない。マチルダやロイズのような若手は二千人程も居てその全てが「門人」という扱いである。それより細かい区分はない。しかしだからこそ人は差別化を図るものなのか、例えば何かの論文や研究成果が上位の弟子に認められたとか、上位の弟子からお褒めの言葉を頂いたとか、そんな程度でも彼や彼女は羨望や嫉妬の対象となる。それが何となく序列のようになっているのだ。
なので、あろうことか老師と直接会話して用を言付かるなどとなればその羨望や焦りは半端なものではない。実際には周知の通り、通信術しかできない若いマチルダは他にやれることがなく、あるきっかけで老師の身の回りの世話係になっただけなのに。
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ほとんどの弟子にとって老師──魔道士──とは神に等しい存在である。その声を直接聞く事などないし、その御姿など見た事もない。というよりその魔道士の弟子であるにも関わらず、その魔道士の勢力圏で生活しているにも関わらず、場合によってはその広大すぎる館で寝起きしているにも関わらず、普段その存在は意識すらしない。
なので、たまたま入った部屋で見慣れない白髪の男が腹を減らしていたので簡単なサンドウィッチを作ってあげたら随分と気に入られた、などという初対面はマチルダに驚きより呆れの感情をもたらした。
「君はずいぶんと料理がうまいんだねえ!」
それパンにバター塗ってハムとレタスを挟んだだけですけどね。あトマト忘れた。
かくして鶴の一声でマチルダは老師直属の侍女ような立場になり、以来なんとなく上級侍女のような、いやそうでもないような、とにかく特殊な立場となり、そろそろキャロライン・ネットワークから数えて三年だしここらへんで一旦退職、いや退弟子?退門?しようかな、という考えも改めてこの館で働き続けているのであった。
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「鯛なんて仕入れてないよ。今から漁港に行ってもないんじゃないか?」
本物の上級使用人である料理長のマリオは困惑しつつそう言った。困ったなあ。
「老師だったらなんか適当なの出してもわからないんじゃないか?」
マリオはあくまで雇われ料理人なのでそういう適当で適切な判断ができる。しかし曲がりなりにも弟子であるマチルダはそれには同意できなかった。
「鯛さえ仕入れれば調理はしてもらえますか?」
ないものはしょうがないが調理そのものはしてもらわなくては困る。
「まああればね」
マリオも長年の勤めで魔道士の弟子たちの都合はわかる。怒られるわけではないが、弟子たちにとって魔道士に言われた事を実行できないなどあってはならない。
そしてマチルダも鯛の仕入れをマリオたち料理人に頼る事はできないと判っていた。彼らは今この館に寝起きしている多くの弟子たちのために夕食を作っている真っ最中なのだ。それはもう大変な仕事で、忙しい時など怒鳴られる事すらある。
かくしてマチルダは調理室を出て今度は御者と相談するために厩舎に向かった。
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「市場との往復だけなら充分間に合うが…」
御者モーリスは料理長マリオと同じ事を心配した。そろそろ昼下がりだ。鯛どころか市場はもう終わっている時間である。
「とりあえず馬車を出してもらうことはできますか?」
マチルダもこりゃ無理かなと思いつつもそうお願いした。モーリスはそれは問題ないが、と前置きして意見を述べた。
「それよりエフォニオ港に連絡して鯛を探しておいてもらったらどうだ?」
君も通信術士なんだろう?とモーリスは付け加えた。ああそういえばそうだった。
「すぐに水晶玉をもってきます!」
大慌てで自室に取って返す。これまでは言わば連絡係だったので自分じゃどうしようもないとのんびり構えていたが、俄に重要な役目が降って湧いたのである。自室に戻ってもうずっと開けてなかった魔導器専用の鞄を開ける。そこにはもう一年以上触っていなかった水晶玉が絹に包まれていて、絹をめくると静かに輝いていた。うわ久しぶりだ。やばいちゃんと通信できるかな?一応マニュアルもってこ。
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習うより慣れろという言葉通り、
……ブーン…… ……ブーン……
水晶玉が輝きを増し通信相手を探し始めた。エフォニオ港はここから南なので力波範囲を南方に向ける。通信相手が決まってるなら後は相手が出るの待つだけなのだが今回はそういう訳は行かない。キャロライン・ネットワーク時代なら五回もコールして出なかったら「居ませんね」で終わりだったけど。お願い、誰か出てー。
──だれかな?──
何十コールもした後で俄に反応があった。しかもその声には聞き覚えがある!
「クルガン部長ですか!?マチルダです!マチルダ・ポートレイムです!」
思わず昔の役職で呼んでしまった。今はエフォニオ市の司法局長官だか何だかというお偉い立場のはずだ。
「おおポートレイムくんか。久しいな。どうした?」
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「顔見知りの料理店を当たってみるよ」
クルガン部長改めクルガン長官は事情を聞くと鷹揚にそう応えてくれた。昔から優しくて頼りになる上司だった。その大柄な体格、でっぷりと出た腹、自身も魔術師資格を持っているのに何故か年下のキャロラインの下で働き、しかもその気まぐれさに振り回されまくっていたクルガンはある意味で謎の人だったが、その謎を探られる事はなく、見た目の印象で「熊さん部長」と呼ばれつつも愛され頼られる人だった。
「ありがとうございます!」
マチルダは万感の思いを込めて元上司に感謝を申し上げた。
「話がついたみたいだな」
御者席からモーリスもそう言ってくれた。
「ええなんとかなりそうです。モーリスさんもありがとうございます!」
マチルダは感激の余韻を引きずったままモーリスにも少し大げさに感謝した。
「まったく、晩飯ひとつで大騒ぎだな」
モーリスは苦笑だか皮肉だかを込めてそう言った。御者であるモーリスも上級使用人だが主人たる老師に対する敬意は料理長のマリオよりさらに低い。なぜなら老師はほとんど館から出ないし、外出する事があっても馬車など使わない。
「今年一番の大仕事が鯛の運搬とはね」
モーリスは皮肉っぽくそう言った。この館での御者の役割は高弟を含む上位弟子たちの送迎であり、それは重要任務なのであくまで皮肉を効かした冗談だが。
「老師にも馬車の利用をお勧めしましょうか?」
マチルダもちょっと悪戯っぽくそう言ったが
「冗談だよ。緊張してヘマやらかしたら大変な事になっちまう」
モーリスも冗談めかしてそう返してきた。
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「夕餉のご用意ができました」
マチルダは書庫に入り老師にそう告げるとぐぅという腹の音が聞こえた。
「ああもう夕餉か。今日のメニューなにかな?」
もちろん相手は常人の理解を超えた魔道士である。その緻密な頭脳がフル回転してそんな小さな事など忘れ去っているのか、あるいは濃縮された研究の中で時間間隔が狂い、アクアパッツァは先月の夕餉のメニューだったと認識しているのかも知れない。決して健忘症ではないはずである。決して。
老師はしばらく何かを待つ様子だったが、それはここに供じられるものではないという事にようやく気がついてよろよろと立ち上がった。立ち上がった事でかなりの汗臭さが漂ってきた。後でお風呂にも入って頂かないと。
老師を食堂に誘うと芳醇な香りが漂ってきた。それは老師に小さな感嘆をもたらした。そうだ今日は魚の揚げものだ!という小声が聞こえた。違いますけどね。
「毎日だと多すぎるけど僕これ好きなんだよね」
まるで子供のように喜色を浮かべて着席する偉大な黒魔道士だった。
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「君も相伴しないか?」
老師はそう言ってマチルダに着席するように促した。これは断るほうが無礼なので謹んで一礼して着座する。傍から見れば驚嘆の絵図であるが、素朴な好意と、単純にこんなに一人で食べきれないと思ったからだろう。ではお言葉に甘えて。
老師はアクアパッツァを頬張りながら研究の事を口にした。とは言えそれは超高位の古代魔法言語だったり数式の一部なのでマチルダには何が何だかさっぱり判らない。ふと、前から気になっていた疑問を投げかけてみようと思った。
「老師、質問があるのですが…」
マチルダはまずそう質問の許可を求めた。老師はうん?と言って先を促した。
「老師は人類を滅亡させるおつもりなのですか?」
その質問に魔道士アリ・アダはきょとんとした顔になり、そしてしばらく考え、
「…まあ、その必要があれば、かなあ…?」
と宣った。
良かった。少なくとも積極的に人類を滅ぼそうと思ってる訳じゃないらしい。
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「あんた本当に馬鹿ねえ!」
久々に会った導師キャロラインはその話を聞いて大笑いした。
「人類滅亡の研究なんて何千年前からあると思ってるのよ!」
そう言ってキャロラインは爆笑し続けた。
そもそも遡れば2800年前にその研究が提唱され、それから程なく現代ではサリンと呼ばれる毒物による最初の論文が発表された。それ以降は人類滅亡研究は一大ブームとなり何百何千という研究論文が先を競って発表されたという。そして600年前にはついに宇宙空間からの核兵器による攻撃技術論が発表され、それが究極の破壊兵器と認定され一旦はこの研究ブームに終止符が打たれたという。この時に発表された核兵器は実際に配備され、今も黒魔道士による利用が可能であるそうだ。しかし近年、この兵器、ひいてはこの論文は適切ではないという指摘がなされた。
「この研究の主題はあくまで『人類滅亡』であり、核兵器は全生物を殺傷、あるいはこの惑星の循環性を破壊するものなので要件を満たしていない」
つまり「人類滅亡」の研究なのだから、人類のみを滅亡させるものでなければ主旨に合致していないという指摘である。
この指摘を受けて黒魔道士達は納得とともに奮起した。確かその通りだ。ならば我こそが数千年に渡るこの研究に解をもたらしてみせる!
そうしてここ百年程の間にまた人類滅亡研究は再燃した。しかしこれこそ極めて難しい研究課題である。核兵器がダメだと言ってもウィルスも毒物も同様に難しい。しかし以降の黒魔道士たちはまさに「世界の理を解明すべき隔世の研究者」たる矜持と、パズルを読み解く子供の集中力を以てこの研究に邁進しているのであった。
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「……ダメなんですかね?それ」
マチルダはようやく爆笑が収まったキャロラインにそう聞いてみた。
「ダメなんでしょうね、どうでもいいと思うけど」
魔術師であり元経営者であるキャロラインはそういう点は極めて現実的である。もし仮に人類のみを滅亡させる兵器があったとしてそれをどうやって実証するのか。人類全員死んでる筈なのだからどっちでも一緒ではないかと思っている。
「まあ、
そう言ってキャロラインは笑った。偽悪的な笑いではなかった。魔道士アリ・アダの高弟という立場だからこそこの地域の支配者の一人となれた事への心からの感謝であった。その叡智が向かう先は自分如きの凡百が口を出す事ではなかった。
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