14.魔女はひとり銀月の下、祝福あれと夜に詠う
夜の森――その奥まったところに、頭上の枝がぽっかりと開けて、白々とした月明りの差し込む空間があります。
まるで劇場のステージに明かりが降るようなそこは、森に住まう誰かのためにあつらえたみたいな、天然の舞台です。
けれど、魔法の技を深く修めた者にとって、ここはただそれだけの場所ではありません。
大地の霊脈――《龍脈》が幾重にも交わり、強い魔力を宿した土地。
魔術士達の間では、霊穴――あるいは《龍穴》と呼ばれる、見えざる魔力の泉。一種の霊地です。
強い魔力を宿した霊地はその魔力を養分として霊草や霊木が育ち、のみならず、魔術儀式に適した土地ともなります。
魔術儀式。あるいは《儀式魔術》。
土地や道具、魔法陣の力を借りて、通常の魔術の範疇では行使し得ない大きな力を振るうための術式です。
荷物運びと道中の護衛のために来てもらったパペットくんを伴って、その夜のわたしは、そこにいました。
ラウグライン大森林の外縁近くに位置するその場所、わたしが知る《龍穴》のひとつです。
裾の長い
月明りが差し込むその場所に魔法陣を描き、朝露を清めた水を小瓶に詰めたものへわたしの魔力を込め、瓶の口から振りまきます。
杖の先端で線を掘っただけの魔法陣がぼぅっと青褪めた光を放ち、舞台を月色に照らしだしました。
わたしの傍ら――敷布をかけた小ぶりの台座には、火を焚いたちいさな香炉。
これらの道具はすべて、今は少し離れたところで待ってくれているパペットくんに運んでもらったものでした。
あと、魔法陣を書いてくれたのもパペットくんです。その……硬い地面にしっかりした線を引くのが、わたしの腕力だと難しかったせいなんですけれど。
「………………ふぅ」
支度は整いました。
腰に巻いたポーチから、
「――
「地は龍脈と共にその果てまで・天は蒼穹を越えて
「風を束ねる旅人・女に恋を与える矢・
――掴んだ。
杖を掲げる右手に、求めるものと『繋がった』という確信を握りました。
「我が右手には杖・我が左手には香・我が前には冥府の舞台在り。ネフィリールしろしめす
やがて、白々と月色に輝く魔法陣の中心に。茫漠として現れる、霞のような人影がありました。
やがてわたしの
『夢』の、彼女でした。
その姿を目の当たりにした瞬間、喉のあたりにぐっと重たいものが詰まって、息が止まりそうになりました。
「……死の国を統べる貴女・暖かなる安息の影・夜の女神ネフィリールに今ひとたび
――この儀式は彼女のためのもの。
自らの死に気づかぬままこの世へとどまってしまった彼女を――寄る辺なく
彼女をいざなうことは叶いました。あとは死者の旅路に繋がる『門』を開き、送り出してさえあげれば、儀式は終わりです――本来なら。
でも、まだです。
まだ終わりではありません。彼女のために、わたしには探さなくてはいけないひとがいる――いるのです。もうひとりだけ。
「我が前に冥府の住人在り。かの右手は我が右手・かの左手は我が左手――《魔女》の瞳はかの瞳になりかわり、かの手に連なる
『彼女』が愛した『彼』を。
あの日、彼女と諸共に
何一つ救いにはならないかもしれないけれど、せめて最後のわだかまりを解いて――ふたりで旅立ってほしい。
「冒険の守護神セイディ・愛の守護神シェトレイエ――恋を燃やす口づけ・まばゆき
儀式は続きます。
香りが薄くなってきた香炉へ
わたしは内心、焦りを覚え始めていました。
記憶の『夢』で見たもうひとりの冒険者。彼女が愛した男性――わたしが詠唱し、構成する儀式は、その彼をここへ呼ぶためのものでしたが。
最初の『彼女』の時と違い、彼の存在を『掴んだ』手ごたえが、一向に伝わってないのです。
冒険の神――即ち冒険者の守護神でもある風神セイディ。
男の胸に女への熱情を与えるとされる女神――女を恋の矢で射貫くセイディの対として、その妻であるともされる愛の女神シェトレイエ。
死者の安息を司る
わたしの呼びかけは、わたしの儀式は、彼のもとまで届いていない。
(だとしたら――だとしたら、どうするの? どの
戦の炎神イグナトゥス……それとも、繁栄の海神ポルダート? でも、
それとも、彼はもう正しく死者の国へと旅立ってしまったのでしょうか。一人で。
――いいえ。だとしても、ここにいる彼女の縁とネフィリールの加護を頼りに、僅かの間なりとも彼を呼び寄せることはできるはずです。男女の愛を司る二柱の名を挙げたのは、その形式を整えるためだったというのに。
不意に、暗い予感が脳裏をよぎりました。
彼の心は――もしかして、完全に彼女から離れてしまったのではないか。
あの『夢』で見た、喧嘩の一件で。二人で追っていたと信じていた夢よりも、女性として子供を産みたいという
「そんなの、あんまりだ」と憤慨する感情の声と、「けれど、先に裏切ったのは彼女だ」と指摘する理性の声が、ぐちゃぐちゃに入り混じって頭の中を荒れ狂います。「根拠のない空想だ」と冷水を注ぐ理性の声に向けて、「他に何が考えられるの!?」と喚き散らす感情の声が押し寄せます。
(――落ち着いて! 落ち着け、わたし! ちゃんと考えて!)
魔法陣の中心に、ぽつんと佇む彼女の姿が見えました。
どうにもならなければ、儀式の座組を変えて、せめて彼女ひとりだけでも
ひとりでの旅は寂しいかもしれないけれど――ああ、だからこそ呼んであげたいのです。叶うなら。
死者の国までの遠い旅路を、二人で歩いていってほしいのに――
(……二人?)
ああ。
閃きました。ひとつだけ――もうひとつだけ。悪い可能性の真逆。祈り縋るような可能性を。
「風神セイディ・愛神シェトレイエ――男女の恋情・男女の愛欲を盤上に転がす
儀式の構成から、セイディとシェトレイエの
代わりに、同じく
「天秤の柱に我は立つ。天秤の右腕に
比翼の絆を言祝ぐ
――ああ。
ああ――ああ!
――掴んだ!
そうだったんだ――ああ、そういうことだったんだ。
なんてことだろう、わたしは本当にどうしようもない。心配性で不安ばっかりの、疑りやのバカな娘だった。
彼も、彼女と同じだった。
いつかは、彼女と結ばれて――家庭を持って、共に暮らす日を想っていた。
いつかは、彼女の望みと同じに、ふたりの子供がいる未来を思い描いていた。ただ、そこに至るまでに見ていた道程が、違っていたというだけ。
彼の夢想は、未来は、冒険者としての大望――二人で見てきた夢の先にあった。
冒険者として大功を得て、彼女に何不自由ない暮らしを用意できるように。
いつか生まれる新しい家族が、立派な父親だといつだって胸を張って誇りに思えるような、ただそれだけで人生を越えてゆく支えになれるような、ひとかどの男であれるように。
子供を産んで、それで幸福な幕引きになど、なりはしないから。
その先へ。さらにその先まで。願わくば少しでも穏やかに護られる、長く安穏たる道を敷いてやりたいと――彼は。
――ああ、だからこそ。
男女の恋情と愛欲を司る
だから、夫婦の絆と婚姻を祝福する夫婦神の
そして、ふたりの夢に手をかけるための――きっと、これが最後のチャンスだろうと、胸の奥に熾火のような野心を燃やしながら。
その夢の、これより臨む挑戦に、その寸前で冷や水をかけてしまったのが、一緒に同じ夢を見ていると信じていた片割れ――彼女のことばだったのです。
「――呼び声に応ずるならば・
もしかしたら、いつかは話し合い、分かりあうことができたのでしょうか。
二年前のあの時に――あんな終わりを迎えることなくいられたら。
「――手を取りて繋ぐならば・
鳴り響く祝福は鐘の
月光の差す舞台。ふたりは今、そこにいました。
どんな顔をしているのかまではわかりませんでした。魔法陣より昇る青褪めた輝きが、二人の表情に深く影を作っていたせいで。
けれど、手を取り合って向かい合う二人の間には――きっと、最期の瞬間に抱いていたわだかまりは、もうないはずです。
「ゆえにその意/その心在るならば、誓いのことばを
此処に、誓いのことばあるならば! いざや、その唇にくちづけを――!」
一時――ふたりの姿が重なり、ひとつに溶けあうさまを見ました。
抱き合い、口付けを交わす男女の影が、夕暮の差すところで重なり伸びるように。
(ああ――)
――よかった。
儀式の前から、儀式の間も、ずぅっと胸のどこかでちりちりと疼いていた――ひとりでいるとその存在を意識せずにはいられなかった不安が、ようやっと解けてゆくのを感じました。
これは、ふたりのための結婚式です。祝福された比翼連理の絆を抱いて、ふたりを送り出すための。
ええ、ちゃんとわかっています――何一つ、取り返しなんてつきはしません。
救いになんてなりはしないでしょう。慰めにさえならないかもしれません。
けれど、この儀式が――この儀式を選んだことは間違いではなかった。それだけは、ようやく信じられました。
「――夜天の女神・安息の担い手。死神ネフィリール、どうか門を開き給え」
やがて、互いの腕を解いて離れた二人の前に、冥府の国への門が現れました。
ネフィリールが管理するとされる死の世界――地の底ともこの世ならざる異界ともいわれるその場所へ、死者を導く旅立ちの門です。
ふたりは既に、なにもかも分かっていたのでしょう。一度、お互いの顔を見つめてから、手を繋いで歩き出しました。
「あなたの国へ、旅人が
ふたりは歩みを進め、門の先へ――そのさらに先へと進んで。
――門は、その姿を消しました。
ふたりをその先へといざない、まるでそこにあったことさえ一時の幻であったかのように。
己が死さえ気づけぬままにたゆたっていた魂は、ようやく進むべき先へと向かったのです。
――この儀式は、きっとそれだけのこと。
そこに在った光景に、どれほど多くの意味と輝きを、見出すことができたとしても。
「……さようなら……」
――もう、二年も前のことです。
おそるべき魔物が脱走し、ラウグライン大森林へ逃げ込むという事件がありました。
わずか二日で討伐を見た事件は、その重大さと裏腹にあっという間に風化してしまい、今では人の口にのぼることも
事件の恐ろしさも。魔獣の脅威も。何もかもが常ののどかな日々に押し流されて、遠く彼方へ忘れ去られてしまったかのよう。
そこに確かにあった犠牲も。
道半ばにしてその未来を摘み取られてしまったひとたちの存在も、諸共にして。
「その旅立ちに多くの祝福あれ。その絆に
葬送のことばと共に小瓶の朝露を散らし、香炉に
どうか、その道行きが穏やかなものでありますように。
ふたりの歩みが、迷い留まることなく続きますように。
わたしは忘れない、だなんて、えらそうなことは言えません。たとえ忘れられなくともやがては記憶の彼方に
でも、だからこそ今は祈ります。ふたりの旅路が続いてゆきますように。
また喧嘩をしたって、きっと大丈夫です。今度は、話し合ってわかりあうための時間は――きっと、いくらでもあるのですから。
「どうか――」
その祝福が。
いつまでもいつまでも、ふたりを繋いでくれますように。
………………………。
……………………………。
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