12.此処に至るまでのすべて/それは、かつて確かにあったこと


 次に目が覚めたとき、外はすっかり日が傾いていました。


 茜色の夕日が深く窓辺に差し込んで、ひだまりの外に深い暗がりを作っていました。


 目を覚ましたわたしは、鏡台の鏡で目元がはれぼったくなくなっているのを確かめてから着替えを済ませ、簡単に髪をくしけずるだけで身支度を切り上げて部屋を出ました。


 工房からお店に入ると、外に出していた立て看板を持ったシオンくんが、ちょうど表の入り口から入ってきたところでした。


 店じまいの支度です。

 結果的にではありますが、今日はほんとうに丸一日シオンくんに頼りきりになってしまいました。


「お……おは、よぅ」


「おはよう。よく眠れた?」


「ぐっすり……。ぁ、あの、わたしも何か」


「そう? じゃあ、帳簿の検算頼んでいいかな」


「うん、っ……」


 こくこくと何度も頷いて、カウンターの上に出してあった帳簿をめくり、数字を確認してゆきます。

 きっとそうだろうと始める前から確信していましたが、帳簿は四分の一銀硬貨一枚分の狂いもありません。


 ほう――と息をついて帳簿を閉じたのと同じタイミングで、閉店作業を終えたシオンくんがやってきました。


「シオンくん。その……すこし、いい?」


 その一言だけで、察するものはあったのでしょう。

 気楽げな表情をすぅっと消して、こちらを見つめる――そんな彼を見つめ返して、わたしは言いました。


「昨日、の……お客さんのこと」


 彼女が何者で、どうしてわたし達のお店を訪ったのか。

 そして、


「ぜんぶ、分かったと思う」


 ――彼女のために。わたしがこの先、何をしてあげられるのかも。



 今から二年ほど前のことになります。

 トスカの町に接するラウグライン大森林へ、危険な魔物が逃げ込むという事件がありました。


 発端は、トスカの町の近く――近隣随一の大都市コートフェルの南門に程近い川沿いの道で横転していた一台の大型馬車でした。

 その馬車は、国法において違法とされている、魔獣の密輸を行っていました。その護送中にあろうことか脱走を許してしまった危険な魔獣が、森の中へと逃げ込んでしまったのです。


 件の馬車が運んでいたのは、《双頭蛇竜アンフィスバエナ》。

 蛇ならば尾の先となるところに二つめの頭を持ち、胴に一対の前肢を生やした、双頭の蛇竜です。


 《諸王立冒険者連盟機構》による認定脅威度Aランク。『討伐依頼の有無によらず討伐証明のみによって報奨が支払われ、発見報告だけでも報酬を用意する』――裏を返せば、迅速な発見と討伐が推奨される、それほどに危険な魔物だということです。


 性格は総じて獰猛どうもう・狂暴。肉食性で、仕留めた獲物の内臓を食糧とします。

 知性はあまり高くないそうですが、竜種だけに鱗も肉も硬く、動きも俊敏――生半可な戦士や冒険者では、真っ当に立ち会うことさえ難しい難敵です。


 しかも、この魔物の脅威は、その高い身体能力のみには留まりません。

 《双頭蛇竜アンフィスバエナ》を認定脅威度Aランクたらしめる最大の脅威。それは、その双頭から吐き出す毒のブレスなのです。


 その毒息は、肉を溶かす腐食毒。

 対毒防御なしにまともに浴びようものなら、まず無事では済みません。


 救いと言うべきはその生息域の狭さで、双頭蛇竜アンフィスバエナは《多島海アースシー》でも南端に近い辺境の無人島群、それも迷宮の深層だけにしか生息していない魔物です。

 ルクテシア島内では通常まず目にする機会はありません。そう、ないはずだったのです。普通ならば。『密輸』なんて悪いことをするひとがいなければ。


 双頭蛇竜アンフィスバエナ――檻に閉じ込められていた雌雄しゆう一対の蛇竜は脱走から二日後に無事討伐され、ラウグライン大森林がおそろしい魔物の隠れ潜む危険領域となってしまう危機は、からくも回避されました。


 すべてが上手くいったからこそ、過去のこととして語られていますが――おりしも春、繁殖期にあった双頭蛇竜アンフィスバエナの雌は、その腹に備えた育児嚢いくじのうに生まれたての幼体を抱えていました。

 早急な掃滅がかなわなかった場合、ラウグライン大森林そのものが彼ら『親子』の狩場とされ、取り返しのつかない被害を積み重ねることとなっていたかもしれません。


 その危険性を察したトリンデン公爵家――コートフェルの執政官でもある貴族さまが、事件の一報を知ると同時に即日討伐のおふれを出すほどの。

 これは、それほどに脅威的な事態だったのです。


 ですが、不幸中の幸いと言うべきでしょうか。脱走から二日で討伐が完遂されたこともあり、近隣の町村やそこで暮らす人々が魔獣の被害に遭うことはありませんでした。

 そして、そのせいもあってでしょう。事件はその恐ろしさと裏腹にあっという間に風化してしまい、今では人の口にのぼるのもまれなほどです。


 けれど――まったく犠牲がなかったわけではありません。


 大型馬車の護衛としてついていた男女一組の冒険者が、脱走した魔獣の顎にかけられていたのです。


 ふたりの冒険者の亡骸は、同じく惨殺された馬たちのそれと同様に――双頭蛇竜アンフィスバエナの毒息で全身の肌と肉を溶かされ、柔らかい内臓を貪り食われていたと聞いています。


「……あの時の冒険者? フリスが見たっていう、女の客が?」


「うん」


 呻くシオンくんに、こくりとひとつ頷いて応じます。


 どうしてそんなに当時のことを知っているのか、と思われましたか?

 それはわたし達が、件の事件に関わった当事者だったからです。


 シオンくんとわたしは、森に逃げ込んだ双頭蛇竜アンフィスバエナを討伐した冒険者です。

 そしてそれは、わたし達にとっての第二の冒険――四年に渡って一線を退いていたシオンくんがふたたび冒険者として旅立ち、後に《王権守護者》の二つ名を戴くに至るまでの冒険、そのはじまりでもありました。


 その……正確に言うと、当時の討伐に関わったのはわたし達だけではなくて、他にもビアンカさん達やユイリィちゃんがそうだったのですけれど。すみません。

 そのあたりを詳しくきちんと話しはじめると、現状の本題からどんどん外れていってしまうので、今日のところはこれくらいで……また、いずれの機会があれば、そのときにきちんとお話しさせてください。すみません。


「……あの客がフリスの言うとおりのものだとしても、だ。だとしたら、何で今になって急に姿を見せたんだ?」


 シオンくんは疑問を露に考え込みます。


「あの事件は二年も前のことだ。同じ幽霊として現れるとしても、もっとずっと以前から」


「うん。そう……


 彼女は、未だ怨霊ゴーストと呼びうる存在ではありません。ただの霊です。

 二年もそんな状態でいられたのは、きっと自分が死んでしまったことにまだ気づいていないから。


 彼女に死の自覚はありません。だから、自分が周りの誰にも見えていないことにも気づいていないし、死後の自分を見つけてくれる『誰か』なんて興味もないのです。


 あの事件の後、わたしはシオンくんやビアンカさん達と一緒に二度目の冒険へと旅立ちましたが――それでも事件が解決してからしばらくの間は、旅立ち前にすませておかなければいけない仕事や、冒険の支度のために、トスカに留まっていました。

 わたしが冒険に出てこのお店にいなかった間は、シオンくんとわたしのお師匠さま――わたしにとっては魔女術のお師匠さまであるひとが、このお店を預かっていてくれました。


 お師匠さまは魔女術も修めていますから霊の気配は当然わかりますし、その気になれば霊の姿を捉えることもできます。もし彼女が一度でもこのお店に足を運んでいたら、わたしとお師匠さまのどちらかがその姿に気づいて、然るべき形で、もっと早くに彼女と対峙していたでしょう。


 だから、彼女が、ほんとうにただの偶然。彼女はただ、このお店に用があっただけなのです。


 わたしはカウンターから出て、商品棚の前へと向かいました。


 病気に効くお薬や、ケガの時に使う軟膏。便利な附術工芸品アーティファクト。そんなものがずらりと並ぶ棚の中にひとつだけ、わたしとシオンくんでお店を再開してからはじめて、ここに並んだものがあります。


 わたしはその前で足を止め、『それ』を手に取りました。


「――香袋サシェ


 魔女の香袋サシェ

 女の子のための、恋のおまじない。

 以前わたしがこのお店をやっていた頃にも、お師匠さまにお店を預かっていただいていた頃にも、この棚に並ぶことなくあったもの。


 魔女の香袋サシェは『おまじない』ではありますが、けれど血族の血を通していにしえから連綿と伝えられてきた、紛れなき魔女術ウィッカンのひとつ。魔女術工芸品ウィッチクラフトのひとつです。

 それらはすべて、その効果ごとに使う花や薬草ハーブ、香油の種類、袋に縫い付ける刺繍まで、事細ことこまかに決まっています。


 夢の中で見た彼女の香袋サシェは古ぼけて擦り切れ、香りもとうに消えていたでしょうが――それがどんなおまじないを込めたものだったか、わたしにはわかります。


「『素敵な恋に出会う、おまじない』――」


 彼女が、生まれ育った村から持ち出して――ずっと捨てられずにいたもの。


 古ぼけて擦り切れた香袋の、それでもきっとどこかで忘れられずにいた懐かしい香りが、彼女をここへと招いたのです。

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