11.朝のひばり/ひだまりの降るところ


 ひとしきり吐き戻して、喉の震えも、耐えがたい吐き気もおさまって。


 持ってきてもらった水で口の中をゆすぎ、どろどろの顔も洗って――そんな風にし終えたころには、どくどくうるさかった心臓も、苦しかった呼吸も、落ち着きを取り戻していました。


「もう平気か?」


「ぅん……」


 ぐず、と胃酸混じりのはなすすって。

 こくん、と子供みたいに頷くしかできないわたしでした。


 泣いたばかりなせいか、まだ頭の芯が痺れたみたいにじりじりと鳴っていました。恥ずかしくて、情けなくて、彼の目をまともに見られません。


「ごめ……なさい。シオンくん。その……服、汚して」


 謝る声は次第にちいさくなって、蚊が鳴くみたいにかすれてしまいます。

 彼は「ああ」と笑って、


「構うこたない。どうせおんなじのいっぱい持ってるんだから」


「そ……かな……」


 後ろめたさは消えることなく、ずっと根深く胸の中に張りついたままでしたけど。それでもシオンくんの言いようがおかしくて、わたしはちょっとだけ笑えてしまいました。


 ちいさく笑って、けれどすぐにずぅんと胸が重たくなってしまいます。

 なぜなら、


「フリス?」


「……あの。シオンくん。あの」


 顔を上げようとした瞬間、わたしが吐いたものでべったり汚れた彼の服の胸元が目に飛び込んできて、うっと胸が詰まってしまいます。

 後ろめたさで血の気が引いて、目の前がまっくらになりそうでした。


 ええ、そうなのです。これだけ面倒をかけておきながら。

 なのに、わたしはなおこのうえ、シオンくんにお願いをしなくてはいけなかったのです。


「お願い……こんなことの後、だし……図々しいし、だめだと、思う。けど。でも」


「何?」


「…………お店」


 自分で自分が恥ずかしくなってしまうくらいか細くて頼りない声で、わたしは『お願い』を言います。


「おみせ、今日のお店、昼まで……昼まででいいから、お願い……したくて」


「店? 店番ってことだよな」


 こくり。応える代わりに、大きく頷きます。


「見ら、れ……たく、ないの。顔。わたし」


 激しく泣きじゃくったせいで、目のまわりが熱を持っていました。今のわたしは目元がはれぼったくなって、とてもひどい顔をしていることでしょう。


 もちろん、白粉おしろいを使ったお化粧なりでごまかすことはできますが、わたしのそれは所詮つけ焼き刃です。日頃お化粧に縁のない男のひとたちの目ならうまくごまかせるかもしれませんが、同性のひと達の目まで騙せるなんて楽観はとてもできません。


 わたしが激しく泣いたことは、すぐに気付かれてしまうでしょう。

 シオンくんのほっぺたについた傷だって、そんな都合よく見逃してなんかもらえないでしょう。


 つまりそこに現れるのは、泣きはらしたお嫁さんと、お嫁さんに引っかかれた旦那さん。


 悪い想像につなげるのは、とてもわかりやすくて、容易なことでしょう。


 わたし一人のことなら、べつにどうでもいいんです。今更です。

 だって、わたしは薄暗いお店にひとりぼっちで籠っているような暗くて変な子で、だから悪く思われるとかそんなのは、本当に今更のことで。


 でも、シオンくんは違います。そうじゃありません。

 わたしはどうでもいいけど、わたしのせいでシオンくんが悪く思われるのは嫌です。それだけは、だめです。


 ――だめ、なんです。ぜったい。

 ぜったいに、だめ……なんです。それだけは。


「昼までと言わず、今日は一日休みな。すぐに切れそうな品もないし、店番だけなら一日くらい俺でも回せるからさ」


「っ、でも……そんな」


「自覚ないんだろうけど、顔色だいぶんよくないぞ」


 弾かれたように顔を上げる私のおでこに、ぺちんとてのひらが叩きました。

 半ば反射で「ぁいた」と呻いてしまうわたしに、シオンくんは笑みを含んだ声で、


「昨日の夜はしすぎたせいで起きてこれないんです――とでも言っとけば、みんな笑いながら納得するさ。この引っかき傷だって、うっかり爪を立てられたせいだってね」


「……うぅ」


 とっくに痛みの引いた額を両手でおさえながら。

 こんな時だというのにうっかり夜を想像してしまい、顔が熱くなっるのを感じてしまいます。


 クスクスと邪気のない笑いを零しながら、お店の支度のために部屋を出ていこうとするシオンくん。

 わたしは我知らず、その背中を「あの」と呼び留めてしまっていました。


「ごめん……あり、がと……」


「うん?」


「……迷惑、かけて。いっぱい……いっぱい迷惑、ばっかり」


 ――ああ、情けない。


 そこまで言うつもりなんかなかったはずなのに。自己嫌悪が溢れてしまって、言葉が止まりませんでした。

 シオンくんはわたしの方を振り返ったまま、静かにたたずんでいましたが――ふと天井を仰ぐようにして、それからちいさく笑ったみたいでした。


「昔さ。熱を出して倒れた時に、フリスに看病してもらったことあったよな」


「……え?」


 訳が分からず、わたしは混乱してしまいます。


「あっ、た……っけ? そんなこと」


「あったよ。まだ俺達が師匠のところにいた頃に。俺がまだ師匠のところへ預けられたばかりの頃に」


 そう言われて、大慌てで脳裏の棚をひっくり返して――だいぶん空回りした末に、ようやくひとつだけ思い当たる記憶を見つけました。


 寒い、冬のことだったと思います。わたしがお師匠さまのところへ預けられて、その後すぐにシオンくんもお師匠さまのところに来て――それからまだ、あまり経ってなかったくらいの頃、だったような……。


「え。でも……でも、そんな……そんな昔の、こと」


「べつにその時のことだけじゃなくてさ。俺はフリスにしてもらったこと、他にもたくさん覚えてるよ」


 天井から滑らせた視線がわたしの顔を捉えて、くすぐったいような笑みを口の端に広げました。


「ほら、その顔。フリスは自分がして貰ったことは覚えてるくせに、自分のしたことはろくに覚えてやしないんだから」


「そんなこと――」


「あるよ。だからそのぶん俺がフリスにしてもらったことを覚えてるし、ついでに言わせてもらえば、迷惑かけられた覚えはそれほどないし」


 ……それは、ちょっと。

 それはぜったい、シオンくんが都合よく忘れてくれてたり、棚上げしてくれてたりするだけです。さすがにわたしも、渋い顔になってしまいます。


「とにかく店のことは何とかしとくから、フリスはゆっくり休みな」


「ん……」


 ひらひらと後ろ手に手を振って部屋を出る彼を、わたしも手を振って見送ります。

 ぱたん、と静かに扉が閉じて彼の背中が見えなくなると、わたしはベッドにぽすんと横になりました。

 天井を仰ぎ、静かに、長く息をつきます。横になった途端急に眠気で頭が濁りはじめて――やっぱりシオンくんが言ったとおり、わたしは自分で自覚していた以上に疲弊していたのかもしれません。


(あの……夢)


 あの『夢』の中で、わたしの意識は完全に彼女と『同調』していました。

 夢の中のこと、他者の記憶のこととはいえ――つまり、あの時わたしが体験したのは、彼女がひとたびその身に受けた、本物の『死』だったのだということです。


 正しく今のわたしは、一度死んで、そして生き返ったようなものなのでしょう。


(でも――)


 どうして、わたしだったのでしょう。

 いえ――違います。そうじゃありません。


 ――


 わたしの魔女の『目』で、彼女という存在を捉えたから。

 それが彼女とわたしを繋ぐ見えざる糸、縁を繋いだのは分かります。


 けれど、それでもわからないのです。どうして今、わたしのところへ現れたのか。

 だって、彼女がわたしの想像しているとおりのひとだったなら、彼女が亡くなったのはもう二年も前のことなのです。


 お店へいらっしゃったあの時も、彼女は一度もわたしの方を見ませんでした。お店に訪れた彼女は、わたしの存在をのです。


 ゆえに、記憶の夢を見せた『繋がり』は、わたしからの一方的なもの。彼女は自分が見える『誰か』を探して現れたのではなく、当の彼女はわたしの存在など今も知ることなくいるはずです。


 では――いったい何が、彼女をわたしへ引き寄せたのでしょうか。あるいは、わたし達のお店へ。


(何が……)


 ――そうして思考を進める間に、意識が眠りの領域へ沈んでゆこうとしているのを自覚していました。

 重たくなった瞼が閉じて、目の前がとろとろととろけてゆくのが分かります。


 眠りに落ちる寸前――麻のように千々にほどける意識の只中にぷかりと浮かび上がったのは、『彼女』の夢の光景でした。


 彼女が最後に手にしていた――あの、古い古い魔女の香袋サシェ


(ああ……)


 そうか――きっと、そういうことだった。


 ぷつりと意識が途絶える寸前、答えを掴んだ手ごたえがありました。


 そのまま、墜落するように意識が落ちて。

 今度は夢さえ見ずに、深く深く眠っていました。

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