10.朝のひばり/軋む夢から醒めて


「……ぁああああああぁあああぁぁぁぁ―――――――――――――!!!」


 慟哭が耳を塞いでいました。

 誰の? わかりません。知れるはずがないのです、そんなもの。


 だっては死んでしまった

 死んでしまった。

 終わってしまった。終わってしまった。あんなに呆気なく。やりたいことも言いたかったこともまだいくらでもあったのに、なのに、



「――ス、フリス! 目を覚ま――」



 目の前が真っ白にふさがれている。

 強い力がの身体を揺さぶっている。


 ああ、きっとあの魔獣だ。尾の先にふたつめの頭を持ち、毒の息で肉を熔かす双頭の蛇竜――双頭蛇竜アンフィスバエナ

 あの丸太のような腕であたしわたしの身体をぐちゃぐちゃにする。あたしわたしをばりばりと食べようとしている。あたしわたしも、あいつも。



「――を、覚――、……っちを見ろ、フリ――! くそ……!」



 ああ――どうしてもっと早く逃げなかった! もう取り返しがつかない 死んじゃった! 死んじゃった! 死んじゃった!

 あたしわたしも!

 あいつシオンくんも!


「っ、あああああぁあぁ、っ、が……

 ああぁ、がああああああぁぁああ――――――――――――――――!!!」


 何で。何で何で何で何で何で!? 何でこんなことになっちゃったの!?

 わたし幸せだったのに。他になんにもいらないくらい幸せだったのに! なのに何で!? 何で!!



「――フリス、! !!」



 ──ごつん!


「……ぁ?」


 目の前は涙で塞がれていました。

 耳は慟哭に塞がれていました。


 ……誰の?

 その慟哭は――耳を塞ぐ泣き声は、わたしの。


「……ぇ……ぁ、れ? いたい……」


 おでこがじんじんしていました。


 ほっぺたを両手で掴んで。目の前で荒い息をつく男のひとがいました。

 涙で目の前は滲んでいて、今にもくっつきそうなくらい近くのそれが誰の顔なんて、確かに見えるはずもありませんでしたけれど。

 でも、怖くはありませんでした。だって、


「し……お、……くん……?」


「ああ」


 ようやく安堵で緩んだ、その声を知っています。

 そのてのひらを知っています。


「しおん、く……」


「ああ」


 まだ、都合のいい夢を見ているのではないかと心のどこかで疑っていました。

 ぐすっ、と啜り上げて、わたしは震える声で何度も呼びかけます──そうしていないと、今にもしゃぼん玉が弾けるみたいに、目の前のなにもかもが消えてしまいそうな気がして。


「生、き……て……?」


「生きてるよ、当たり前だろ。ちゃんとここにいるよ」


 ──そうして。

 ようやく、涙が止まって。

 目の前が、ようやく少しだけはっきりしてきて。


 そこにはベッドで横になったわたしに覆いかぶさって、両手でほっぺたを掴んでいる――シオンくんの顔が。すぐ、目の前にありました。


 熱をはかるときみたいにぴったりくっついた額。

左目を隠す長い髪と、傷みを堪えるみたいにすがめた右目が、焦点を合わせられずゆらゆらとぼやけてしまうくらい、すぐ近くにありました。


 最初の一瞬、かぁっと顔に熱が昇って――直後、昇った血の気が急落しました。


「シオン、く……顔」


 シオンくんの左のほっぺた……髪の隙間から、爪で引っ掻いたみたいな傷がついているのが見てとれたからです。

 少し遅れて、自分の右手の指先にじんじんとした痺れ――指を強くぶつけたときみたいな痛みの熱があるのに気づきます。


「ごめ、それ……! わ、わたし」


「たいしたことない。髪で隠れる」


 ――きっと、わたしはひどく暴れたのでしょう。


 かすみのように拡散していた理性と意識がようやく確かな形になって、わたしはついさっきまで見ていたものがすべて『夢』だったのだと、完全に理解しました。


 静かになったわたしが落ちつくまで十分に待って、シオンくんはわたしの頬から手をはなして、ベッドを降りました。

 のろのろと体を起こしたわたしは、泣きぬれた顔を拭って傍らの彼を伺いました。


 ほっぺたに、わたしが引っ掻いた傷。でもそれ以外は傷ひとつないみたいでした。

 もう寝間着から着替えを済ませていて、それで「ああ、わたしが起こしてしまったんじゃないんだ」とちょっとだけほっとして――それからすぐに、そんなつまらない安堵で心を軽くしてしまう自分が嫌になりました。


 今度は、自分の身体を見下ろします。ぺたぺたとてのひらで体のあちこちを触って、どこも、何も傷ついてなんかないことを――そんな風にして、確かめずにはいられませんでした。


「何を見たんだ?」


「何、を……わたし……」


 ──何もできずに、殺されてしまう夢。

 肉を焼く毒息ブレスに熔かされて、死んでしまう夢。


 そう、あれはぜんぶ夢でした。ぜんぶぜんぶ悪い夢でした。

 けれど、それは、ただわたし一人が勝手に見ていただけの夢ではありません。あれは、


「ゆめ……」


 それは、わたしだけの夢ではなく、


「女の、ひと……あの、女のひと、の…………」


「昨日来たっていう、女の客のことか? それは」


「………………ぅ」


 きゅっと唇を噛んで、俯いてしまいます。

 答えようとした途端にさっきまでの夢がいっぺんに目の前へ蘇り、わたしは激しい吐き気を覚えて体をくの字に折ってしまいます。


「フリス!?」


 倒れ込みそうになったわたしの体を、シオンくんが受け止めて、支えてくれました。

 けれど、そうしたことにお礼を言ったりする余裕もないくらい――わたしはその胸の中で、ぜいぜいと激しい喘鳴に背中を震わせて。

 そして、



「ぅ……ぐ、お……ぉえぇええぇ、ぇぇ……!」



 ──ああ。やっちゃった。


 胃の中のものが、喉を逆流してきました。

 と言っても、昨日の夜に食べたものはもうとっくに消化されてたみたいで――吐き戻したものは、酸っぱい胃液ばかり。


 それでも、えずく喉を逆流するもののせいで、息ができないのが苦しくて。

 流れ込んだ胃液でつんと鼻の奥が焼ける感覚と、鼻先を掠める吐瀉物のにおいに、涙が滲んで。


 わたしは他にどうしようもなくシオンくんの胸で抱きかかえられながら、涎混じりの胃液を吐きつづけました。

 喉を逆流する吐き気がおさまって、背中の震えが止まるまで。


(ああ……)


 ――よかった。よかった。

 こんなみっともない有様を晒しながら、なのに心からそう思い、安堵してしまう自分が嫌でした。


 ああ、だってあの夢は、わたしでない誰かので。

 それはあのひとの――あの冒険者の女性の身の上に、かつて、確かに起こったことで。


 なのに、その痛ましい夢がことに、わたしは心から――と、思ってしまったのですから。


 自己嫌悪に胸を締め付けられながら。わたしは涙と涎と胃酸混じりの鼻水と、自分の口から吐いたものとで顔をぐしゃぐしゃにして、えずきつづけました。


 そんなみっともない女の身体を支えながら、シオンくんは何を言うこともなく――震えるわたしの背中を、さすり続けてくれていました。


 ……………………………。

 …………………………………。


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