第8話 聖堂の天使4
ワレサは天使なんて信じていなかった。誰かが自分を助けてくれたのだと、ひとめで見ぬいた。
祭壇のわきにある階段から二階へあがる。パイプオルガンの椅子の下をのぞくと、壁龕に安置されていた彫像がペダルの上に載せてある。それがペダルをふみっぱなしの状態にしている。鍵盤の上にも小さな置物が。ワレサが彫像を持ちあげると音はやんだ。
今度は肝心の天使だ。彫像を置いて走っていくのだが、当然、そこには誰もいなくなっていた。足跡や落とし物もない。今のままだと、こつぜんと消えたように見えるのだが?
そもそも、オルガンに仕掛けがあったにしても、あの場所からこの窓辺まで、誰にも目撃されず走って移動するのは人間には不可能だ。たとえ、なんらかの方法で姿を隠したとしても、オルガンの音がしてから天使が姿を現すまで、ほんの数瞬しかあいだがなかった。
あきらめて、ワレサは一階へおりていった。ちょうどそこへ、外からルーシサスが入ってくる。
「そこに誰かいるの?」
「ルーシィ」
「ワレサ。なんで、こんなとこにいるの?」
「おまえこそ」
「僕は熱がさがったから、もう授業に出られるよ」
「……」
抱きよせて、ひたいに手をあてる。たしかに平熱になっている。しかし、息を切らしたルーシサスを見て、ワレサは勘づいた。
「バカだな。おまえはムチャしたら、すぐ倒れるんだから。走りまわったり、重いもの持ったらダメだって、いつも言ってるだろ?」
「えっ? 何?」
とぼけているルーシサスの天使のようにあどけないおもてをのぞきこむ。
「さっきの天使、おまえだろう? マントをひろげて立ってれば、逆光で翼みたいに見えた」
ルーシサスはワレサのおもてを見つめたまま答えない。やがて、両手をワレサの首にまわし、くちづけてきた。
「僕は君のものだけど、ねえ、ワレサ。君も僕のものだ。ほかの誰にも渡さないよ」
涙ぐんで見あげてくる。そのキャンディのような甘さに、ワレサは酔った。
愛してるとは言わないけれど、胸の奥でくすぶる思いが言葉にしてほしそうにあえいでいる。
その感覚を抑えつけるために、やや乱暴にルーシサスの細い腰を抱きしめる。
「おまえが裏切ったら、ゆるさないからな」
「うん」
すると、そのときだ。
二人の頭上で鐘が鳴った。
時告げの鐘? いや、それにしては時刻が中途半端だ。まだ授業は終わっていないはず。どこかの貴族がアレイラ神殿で結婚式でもあげているのか? それとも、デリサデーラ神殿で葬儀でも?
ルーシサスにはどっちでもよかったようだ。
「天使が祝福してるよ」
「……バカバカしい」
とはいえ、こんなぐうぜんがあるのだろうか?
見計らったようなタイミング。それだけで奇跡のような?
幸福な季節にいるのだと、そのときは気づけなかった。人は失って初めて悟るものだから……。
*
デリサデーラ神殿から鐘の音が聞こえてきた。亡きルーシサスのために鳴らされる追悼の鐘。
今はもういない天使。
「あのとき、愛してると言えばよかった」
今となっては言いたくても言えない。伝えられない。
その苦しみだけが重く増していく。
だが、ジェイムズは断言した。
「ルーシィは知ってたよ」
「そうかな?」
「そうさ」
あの聖堂で、あれほどの独占欲をルーシサスが見せてくるなんて思ってもみなかった。
あれが愛でなくて、なんだというのか?
ムリをしたせいで、けっきょく、その夜も寝込んでしまったが、熱に浮かされながらも満足そうな顔をしていた。
「だって、天使が祝福したんだろう?」というジェイムズの顔を、ワレスはまじまじと見つめた。
「……あのとき、鐘を鳴らしたの、おまえか?」
「えっ? なんのことだい? わからないなぁ」
「聖堂で鐘が鳴ったのを知ってるのは、おれとルーシサスだけなんだ。敷地内のどこかの神殿で鳴ったにしては、やけに音が近かった。あれは聖堂の鐘だった。聖堂には生徒しか入れない」
「ああ……」
「おまえが鳴らしたんだろう?」
「えーと……」
「聖堂は薄暗いから、誰かがこっそり入口側の階段をあがっても、祭壇の近くにいるおれたちにはわからなかっただろうしな」
問いつめられて、ジェイムズはしかたなさそうに白状した。
「だって、授業が始まったのに君が帰ってこないから。そしたら、ルーシィが一人で聖堂に入っていくのを見て。ほっとけないだろう?」
「なるほどね。それでわかったよ。ルーシィが一人でやったにしては、オルガンから入口側の窓までは遠いんだ。オルガンの音がしてから、天使が現れるまでに、ほとんど時間がなかった。ルーシサスの足じゃ、あんなに早く走れない。オルガンを鳴らしたのも、おまえだったんだ」
「君が困ってたみたいだったから」
「ルーシィは気づいてなかったよな?」
「急にオルガンが鳴ったから、それにあわせて立ちあがったんだと思う。わけはわかってなかっただろうね」
「……」
ワレスはリアリストだ。天使なんて信じてないし、ジンクスはそのていどのものだと知っている。しかし、この数年間、心のどこかで、あの鐘があのタイミングで鳴ったことこそ、天使の祝福と言える奇跡だと思っていた。そう思っていたかった。
まさか、これが真相だったとは。
「……」
無言でジェイムズをにらんでいると、彼はバツが悪そうな顔をする。
「怒ったのかい?」
しかし、なぜだろう?
腹の底から笑いの発作がこみあげてくるのは?
「別に、怒ってないよ」
少なくとも、あのころもジェイムズはいたし、今もとなりにいる。
世をすねて、友達なんて誰もいないと信じていたワレスを気にかけていた人が、たった一人だけど存在していた。
「……ジェイムズ。ひさしぶりに釣りに行くか」
「よし。行こう」
デリサデーラ神殿の鐘が鳴る。
それはまるで天使の祝福にも似て——
了
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