第1話 第一の恋人・ジョスリーヌ6
ファヴィーヌはいよいよ当惑している。
「馬車でひいた? ほんとなの? あなた」
マルティンは答えない。かわりに、ワレスが続ける。
「証拠に、今夜、夜会に来たとき、彼はいつものプロパージュ家の家紋入り馬車を使っていなかった。人をひいたのだから、馬車にも損傷があったのだろう。修復に出したからだ」
「……」
急にファヴィーヌも黙りこむ。なぜなのか、その理由もわかっていた。
「そう。今夜の夜会に、マルティンも来てたんだよ。集まる人々のなかで、一人逆に帰っていく彼をおれは見た。ファヴィーヌ。あんただって気づいてたんだろ? おれたちのあとから、やってきたのが自分の夫だって。今夜のバッティング事件。あんたとジョスが鉢合わせしただけじゃない。じつは、あんたにとっては二重のバッティングが起こってた。だから、まだしも傷が浅いほうのジョスにつっかかっていくことで、あんたはあの場をごまかそうとした」
ファヴィーヌも沈黙のまま、うなだれる。夫と愛人のいたばさみにされたのだ。それはいくら派手好きな貴婦人でも困るだろう。
このままほっとけば、この夫婦の仲は壊れてしまう。おたがいにとても深刻な勘違いをしている。
「ファヴィーヌ。あんたはマルティンがペトロニーユと浮気してると思ってたんだろ? そんなウワサが一人歩きしていたからな。だが、ペトロニーユの恋人はサージェントだ。舞踏会にやってきたマルティンを見て、てっきり自分にナイショで愛人と遊びにきたんだと思っただろうが、それは違う」
「でも、マルティンは今日、従兄弟の結婚祝いに行くと言ってたのよ。それは疑うでしょう?」
「だから、その従兄弟というのが、ペトロニーユだよ。性別を男と言ってたのは自分たちがウワサになってる自覚があったからかもしれないな。ほんとは従姉妹なんだ」
「じゃあ、わたしの誤解だったと?」
「完全にぬれぎぬだな。マルティンはただ従姉妹が身分違いの恋愛で悩んでいたから、相談に乗っていただけだ」
ファヴィーヌがうるんだ瞳で夫を見つめる。だが、マルティンはまだスッキリしない顔つきだ。それはそうだろう。彼がサージェントをひいたのは、事実なのだから。
「ところで、ファヴィーヌ。今度はあんたのほうから、夫に謝らなければならないんじゃないか? マルティンは妻のあんたが夫ではない相手をともなって夜会に来ていることを知り、動揺して逃げかえった。前々から、あんたが浮気してるって疑ってたからだろう。今夜、その相手の顔を初めておがんだんだ。つまり、おれを」
マルティンはうなるようにつぶやく。
「ファヴィーヌがラ・ベル侯爵のお気に入りのジゴロとよく歩いてるって。金髪の美青年だと聞いた」
頭をかかえて、ずいぶん苦悩している。それはただ、愛する妻に愛人がいたと知ったからではない。自分の犯した罪に打ちひしがれている。マルティンは基本的に良心的なのだとわかる。
「そう。金髪の。でも、相手の顔を知らなかった。だから、どういういきさつかまでは知らないが、サージェントを見て、彼がファヴィーヌの浮気相手だと思ったんだろう? たぶん、ペトロニーユの相談役になっているとき、ひんぱんに出入りするサージェントを見かけたからなんだろうが。彼をつけていくと、ラ・ベル侯爵邸へもよく行くしな。もしかしたら、サージェントのやつ、ジョスにもっとも溺愛されてるのは自分だ、なんて自慢くらいはしてたかもしれない」
神妙な顔でマルティンは聞いているが、反論はしない。したくてもできないのだ。何しろ、それが真実だから。
「サージェントがそうだと勘違いした彼は、死んでくれと願って、わざと馬車でひいたんだ」
ファヴィーヌがおどろきの目で夫を見つめる。マルティンは頭をかかえたまま泣きだした。
「すまない。ほんとに、どうかしてたんだ。ファヴィーヌを失いたくなくて……」
「あなた……」
ファヴィーヌは感動している。もともと情熱的な女だから、愛されている感覚が道徳感や世の良識より、はるかに重要だ。自分のために夫が間男を殺してでも……というシチュエーションは、ファヴィーヌにとっては天の福音だったろう。
「というわけだ。まちがって殺されかけたサージェントには、屋敷街に快適な住居をプレゼントするべきだと思う」
「ええ。約束するわ」と言って、ファヴィーヌはマルティンの肩を抱き、二人で出ていこうとする。だが、出入口のところでふりかえり、一人で戻ってきた。涙をためた目でワレスを見る。
「ワレス。ジョアンがいなくなったあとのツラい思いを忘れられたのは、あなたのおかげよ。ありがとう。そして、さよなら」
ファヴィーヌは決心したらしい。ワレスとの別れを。
ワレスとファヴィーヌの関係はただの愛人というよりは、彼女が罪の重さに耐えかねたとき、「大丈夫。大丈夫」とささやいてくれる天使の人形みたいなものだった。
彼女の前夫はヒドイ男だった。浮気ではない本気の恋をして、でもプロパージュ侯爵のままでいたいので離婚はしないと言ったのだ。だから、心はもうここにないけど、ほんとに好きな女とは別れるので、まだ君の夫でいさせてくれと嘆願した。そんなの、恋にしか生きられないファヴィーヌがゆるすわけがない。だから……。
「ファヴィーヌ。おれがゆるす。幸せになってくれ。それが、おれの願いだ」
ファヴィーヌのおもてに浮かんだ笑みは透きとおるようで、ワレスにはまぶしく感じられた。
*
その夜、ワレスはひさしぶりにラ・ベル侯爵邸ですごした。ジョスリーヌはやけにワレスの髪をいじってくる。
「なんだよ。ガキみたいに甘やかしたいのか?」
「ファヴィーヌと続いてたのはゆるせないけど、別れたからよしとするわ」
「あんたのとなりが一番、落ちつく」
「嘘ばっかり。近ごろ、よりつきもしなかったじゃない?」
「サージェントにあんたをとられたと思ってたんだ」
ジョスリーヌは瞬間、息をのんだ。それから、いっそうワレスの金髪をなでまわした。子猫の背中をなでるように、優しく、飽きもせず……。
了
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