12話 バレちゃった僕とバレなかった僕
僕は――――お隣さんに見つかった。
汗はとめどなく出て、あたまのなかは真っ白になって……心臓がばくばくして止まらなくって、僕は、動けない。
……とうとう、やらかした。
今の僕は、半年前からの幼女の外見で。
だぶっとしたズボンとシャツこそ着ているものの、暑いからって疲れているからって、お店で帽子を取ったまんまの……銀色の髪の毛と幼い女の子の顔を、出した状態で。
「……響、くん……よね?」
僕が置かれている状況。
性別が変わって幼くなってなにもかもが変わってしまったっていう、超常で非現実的な、魔法みたいなものがかかった僕。
その銀髪幼女になった僕が、どう見ても買い物をしてきたって格好でカギを開けてドアを開けようとしている姿を……この瞬間を、よりによっていちばん見られてはいけない人に……見られた。
「………………………………」
……言い訳も言い逃れも……もはやできない。
僕は「はい」とも「いいえ」とも言えなくって、振り向くこともドアを開けることもできなくって……ただただ血の気が引ききってイヤな汗かいて寒く感じるのに任せていた。
やばい。
やばいやばいやばいやばい。
汗が、イヤな汗が……体じゅうから吹き出しているのが分かる。
今この場でこの僕のことをどうにかして何かを言って納得させられないとアウトだ。
……この体になってからずーっと、これを避けるためにあれだけ苦労してきたのに。
スカートとかはともかく肌も出さないようにして、じりじりと蒸されつつも帽子とパーカーで深く顔まで隠して、暑さに耐えるようにして夏休みのずっと……ほとんど2ヶ月くらいがんばって来たのに。
家の出入りだって通りに誰もいないタイミングまで待ってからって言うのをもう何ヶ月も意識して努力して来たのに。
閉めきってから久しいカーテンのスキマからじっと見つめ続けるか、あるいは狭い道をうねうねとしながら伺い続けるっていうのを徹底していたのに。
家の前の通りがムダにまっすぐなせいで目の届く範囲に人がいないっていう状況がなかなか見つからなくって、ヘトヘトになるまで「ただの通りがかった男の子ですよ」っていう演技をし続けて。
……その苦労がたったの1回の、ほんのちょっとの油断のせいでぜんぶパアだ。
僕はもうおしまいだ。
だけど早く……「この家のお兄さんに呼ばれてるの?」「何か変なことされてない?」とか詰め寄られる前に……どうにかしてなんとかして元の僕にいたずらとかされているんじゃなくって……つまりは、その、通報しないでほしいって上手に言わないと。
この場で、今のこの瞬間で作り出さないと、僕はパトカーに乗せられて保護されてしまう。
正直に言えば虚言癖な子か頭のおかしい子、はたまたは元の僕をかばっている子、かわいそうな女の子として。
ごまかしてもやっぱり家出とかになるし、学校とかそのほかのすべてが記録にない、「この歳になるまでどこにもお世話になったことがなかった幼女」っていう虐待とか不法滞在とかそういった厄介ごとを抱え込んだ子として。
そうして前の僕はメディアに、どっちのいいわけをしても幼女を拉致監禁していた男として取り上げられて。
20代のひとり暮らし、ひきこもっていた時期のあった現ニート、両親がいないこと、近所を徘徊していた証言、ぬぼっとしたメガネでもやしな男。
格好の餌食になるだろう要素しかない。
どうしよう。
こうならないために僕はがんばって来たのに、崩れるのは一瞬で――――。
「――響くん、お久しぶりね!」
「…………………………は?」
その言葉を僕の頭が処理するまでにたっぷり10秒はかかったって思う。
小さいころから聞き慣れているお隣さんの声が……普通のトーンで降ってくる。
「前は毎日のように顔を合わせていたのにここのところ……そうねぇ春からかしら……しばらく見かけなくなっていたから、近所のみなさんも私も心配していたのよ?」
ネガティブに振り切れたせいか、すんごいスピードで考えていたらしい僕の意識が斜め上方からの声で現実に引き戻される。
お隣さん。
そのお母さん。
お父さんとお母さんと娘さんの家の中で遭遇頻度の最も高い人。
「………………………………」
――小学生女子な見た目の僕が、この家の鍵を持って開けたんだ。
買い物を終えてきた格好で鍵を開けた以上「友だちの家と間違えて来ちゃったんですぅ」っていうのはダメ。
ならどうしたら……そうだ、親戚っていうのなら。
遠縁の親戚……外国で結婚した誰かでもいい、今の僕はその子供。
そういうことにすれば、あるいは。
というかそれしかないな、うん。
だってひとり暮らしの成年男性の家に女児がいるだなんて……これが未成年誘拐じゃないシチュエーションなんてそれくらいしか思い浮かばないしな。
このご時世、成人している男の元に未成年の少女が来ている時点で怪しまれないはずがないんだ。
「……ふぅっ」
息を吐いて幼女モードに切り替え。
今まで、買い物のときとかにおまけしてもらうためだとか演技の練習のためだとかで、少女とか幼児とかのフリというものをそこそこ練習してきた。
やったら恥ずかしくなるからその日は寝るまで悶えることになっていたけど、やらないよりはマシだろう。
今社会的に死ぬのと、今を乗り切って夜に悶え死にそうになるのとどっちがいいかなんて、悶え死にそうになれるという状況を得られるか否かなんて考えるまでもない。
今夜安心してお酒を呑めるかどうかの瀬戸際なんだ、がんばるしかない。
「ふ――……」
さらに息をおなかの底まで吐き出してぱっと吸い込むと同時に、表情筋を覚えている形に整えて喉の中の形も意識して顔は活発系幼女に、声も女性受けしやすい高いものでリアクションをゆりかみたいに活発に、大げさなくらいにする。
「僕……あ、いや、私、は…………」
よく考えたら銀髪僕っ娘洋ロリなんて属性過多すぎる。
まずは「私」で普通の女の子らしく。
驚いた感じの顔をしているお隣さんの奥さん……娘さんのお姉さんとよくまちがわれている、まだまだ若い同世代の人の顔を見あげる。
「?」
なんだか変だな。
「………………あら、響くん、………………◆◆◆◆◆◆?」
「◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆」
――頭がちりちりする。
……なに?
この緊張感。
これはまるでお昼に、あのご老人たちとの会話でふと訪れたようなあの変な感覚。
いや、違う……その直前に僕は、コレとよく似た感覚を――――――――――――――――。
「……まぁ! まぁまぁ響くん! ずいぶんと『かわいらしくなっちゃって』!」
「え?」
ほっぺたに両手を当ててあらあらなんて言っているお姉さんもとい奥さんを見返しつつ……僕の背中を、冷たい汗がつつーっと下る。
――なんでこの人は、僕を。
銀髪幼女になっていて前の面影のかけらもなくって……まだ僕が僕だって言っていないのに、今の僕に向かって、「響」っていう前の僕の名前として……「僕」として認識しているんだ?
聞き慣れたはずの声が聞き慣れた感じの世間話をしてきている。
「この春はぜんぜん見なくってみんな心配していたんだけどね。 でも夏休み前からかしら? あぁ、もう学生さん……じゃないから梅雨が明けたくらいって言ったほうがいいのかな? 暑くなってきたころからお出かけが多くなっていたものねっ」
「ええと……」
「あ、そうそう、みんなで話していたのよ。 響くん、昔から冬はよく見かけるけど夏はめったに見なかったのに今年は逆なんだ、珍しいねーって」
「飛川さん……その。 「僕」が「響」だと――分かるんですか?」
さっきとはまた違う感じの汗がとっくに冷たくなってきた背筋をまたつつーっと流れ、ぱんつに吸い込まれる。
彼女は、お隣さんは、奥さんは、僕のこと。
こんなに姿が変わっているのに僕のことを、……そういえば、はじめっから。
腰まで広がって狭まってそれからぶわっと広がって見えていたはずの、色の長い髪の毛を見てからずーっと「僕」のことを――「響くん」って、呼んできた。
身長も体重もぐっと小さくなっていてとっても苦労している、別人の顔になっているこのミニマムを。
「いやぁね、ボケにはまだ早いわよ! うちのおばあちゃんじゃないんだから!」
「あ、はい。 飛川さんは娘さんがいるようには見えないくらいにはお若いですけど」
久しぶりにお隣さんの名字を口にした気がする。
多分僕が今の僕になってからは初めてだもんな。
「あらやだ響くんったら!! いっつも上手なんだから!」
「いえ、本当ですから」
まだ40にもなっていないはずだしな、たしか。
僕のいなくなってしまった母さんの代わりをしなきゃって変な義務感があるらしく、事あるごとにお母さん風を吹かせてくるし母親のように接してくるけど……いや、僕としては近所のお姉さんって意識しか未だに持てない。
よそ行きの格好をすれば普通の大学生にしか見えないし。
お化粧控えめでこれだもんなぁ。
「……えっと、それで。 僕を「響」だと分かったのは」
「だって私、響くんがちっちゃいころからよく……そうね、中学生と高校生のときなんかは夫の見送りのときとかに毎朝のように会っていたじゃない? 見間違えたりなんてしないわ、たったの何ヶ月くらい会わなかっただけで。 『ちょっと変わっただけじゃない』」
「…………そう、ですか」
……こっそりと手をにぎにぎしてみる。
うん。
爪は薄いしちっこい、節くれがなくなっていてぷにぷにしているまんまるい幼女チックな今の僕の手だ。
はじめのころに考えていたような「僕の認識だけがおかしくなっていて周りは至って正常」だっていう仮定は成り立たないだろう。
だって体の感覚……五感のすべてがこの具合で、事実として時間あたりの移動可能距離とか体力とか食欲とか視線の低さとかその他もろもろ今の姿でしか有り得ない状態なんだ。
さんざんに苦労してきた幼女のデメリットを惜しげもなく体験してきたはずだ。
あと食費が半分とか「おつかい偉いねぇ」っておまけしてくれることがあるとか子ども料金とかの数少ないメリットも。
そのうえ半年近く付き合ってきたあの子たち……内のふたりはひと月だけだけど、でもそれだけずっと顔をつきあわせていたあの子たちの反応も、大人の男に対するものじゃなかった。
どう見たって小学生でしかない、否定したかった幼い子どもの見た目の……女の子を相手にするものだった。
だからこそあの子たちをはじめとして出会った人たちのみんながみんな「幼女だって思い込んでいるおかしな男」を哀れんでいるからそういう対応をしているんだっていう可能性はない。
週に何回もおんなじファミレスとか中学生の女の子の家とかに……若く見られたりしたって大学生の男が加わっているなんて絶対にひと悶着起きるはずだ。
僕が本当に幼女になってるって思ったからこそ僕は僕の認識と意識と五感と……「僕自身」を信用することができて、魔法さんの機嫌を損ねないようにすることでなんとか平穏に過ごせていたのに。
見上げると口元の緩みきった飛川さんの顔。
お隣さんは……姿の変わった今の僕を、前の……これまでの僕だって認識している?
性別が変わって人種が変わって色素が変わって年齢も顔も変わっているのに?
おかしい。
おかしすぎる。
「……この夏はお洗濯をするのも早くにしていてねぇ。 だからだと思うんだけど響くんが朝早くからお出かけするのをよくベランダから見かけたのよ」
そうか、上から見られていたのか……朝早くたってそもそも日の出の早い夏だ、みんなだって早く行動しているよな。
「今年は……見るたびに毎回暑そうな格好よね? 運動とか外でする趣味とか新しくはじめたりしたのかしら?」
「……まぁ、そんな感じ、です」
「まぁ! よかったわっ!」
ぽんと両手を合わせる奥さん。
「響くんって、いつも……もう何年も朝晩のジョギングとかサイクリングとかしていたし、よくお出かけとかもしていたじゃない? それなのにこの春からいきなり姿が見えなくなって」
指をくるくるとしている奥さん。
「いつものようにご旅行とか思索の旅みたいなものとかに行っているのかとも思ったけど、お家にはいるようだし……ひとり暮らしだしスーパーでも見かけなくなったから、きちんと食べているのかって、ご近所さんたちが心配していたのよ?」
奥さんを見上げる。
いつものようなぽやんとした顔が、やっぱり女性らしい体つきのせいでお胸のすぐ上に乗っかっている。
でもそこまで話が伝わっているんだ、もしかしたら今の僕のことも誰かに見られていて知られていたかも……いやいや、現に飛川さんはほんとうに今の僕を見て「以前の僕」だって認識しているんだ。
それなら。
……ものすごく恥ずかしいし間違ってたら人生の汚点になるけど今はそんなこと言ってる場合じゃない。
実験のため、さっきのおねだりポージングをふたたび。
こびっこびな、だけどガワのおかげであざとさがかけらも感じられない、幼女チックなスマイルで、声も「女の子A」とかになれそうなくらいのに調節して。
「すみません飛川さん。 実は僕、見ての通りにこの春から……、その。 イメチェン、してみたんです。 こんな風にガラッと変えて。 ……似合っていますか?」
いちいち語尾を上げてみる。
喉が痛い。
ほっぺたの筋肉がひくひくする。
それにこれ、知り合いにするってやっぱりものすっごく恥ずかしい。
顔が熱くなってるのが分かるけどなりふり構ってる場合じゃないんだ。
「まぁかわいいいっ!? 響くん、とってもかわいらしいわっ!! もちろん似合っているわよ!」
……どうやら本心から言ってるらしくって、かがりに引っ張られていった猫カフェにいる女の人みたいに顔がとろけきっている。
ということはつまり僕のことを、ほんとうに女の子って見えて?
いやでもお隣さんはずっと僕のことを男だって知ってたはずで。
「あの、でも飛川さん。 飛川さんは『僕が男』だっていうのはご存じ◇◇◇◇◇◇◇◆◆◆◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◆◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◆◆◆◇◇◇――――――――っ!?」
僕が、その言葉を発した瞬間。
また、あのヘンな感覚。
それと同時に奥さんの、とろけて娘さんそっくりになっていたはずの顔からいきなり一切の表情がなくなって両腕もすとんと落ち、その勢いで肩にかけていた髪の毛もずり落ちて。
そしてさっきまで僕の髪の毛を、顔をしげしげと観察していた彼女の大きな瞳はさらに大きく見開いていて揺れていて――「僕」ではない「僕」を見ているかのようにどこか遠くを見ていて。
光を写さなくなった瞳は、がらんどうになっていた。
――なにも見ていないみたいなのに、しっかりと見てしまうとさっきまではあんなに輝いていた目を濁らせて僕を見透かすようで僕が見透かしてしまいそうな、そんな目が光を反射しないで向いている。
表情がない。
焦点も合っていない。
そもそもとして僕を見ていない。
僕と話しているということを……意識していない。
これはまるで、俗に言う「取り憑かれてる」ってやつみたいで――――。
「………………………………あらあらあらだって響くんは男の子でちっちゃいころはあんなにかわいくてでも立派に大きくなってお隣でよく家に来てもらって勉強をそういえばうちが越してくる前からだったからよくお世話になっていてでもやっぱり人気なのよねイケメンで美少女でお年寄りの方たちからは受けがよくってまるでお人形さんみたいで娘も小さいときにはよく大きくなったらあらでも女の子同士になっちゃうのねいえでも………………っ、けほっけほっ」
最後の方になるとあまりにも苦しそうに息を最後まで吐き出すようにしてぶつぶつとだんだんと大きな声になってきて、聞いているだけでつらいようなつぶやきから会話になってきて。
人って意外と息継ぎってのをしてる。
それが、今のこの人からは一切ない。
「あの」
心配になってきたから恐ろしい速さで回っている口を止めようと試みる。
目をのぞき込むとなんだか僕までおかしくなっちゃいそう。
そんな気がするから、視線はそらして。
けど、止まらない。
「そういえばあと少しで中学生あらもうとっくになったんだったわねなら高校生いえ大学生よねだって成人式だしあらあらでもそれはうちの子がまだ小学生だったころのことだからだってあの子ったら昔はお兄ちゃんお兄ちゃんって懐いていたのになんだか恥ずかしがっていたんだものこれが年ごろってやつなのねってお父さんが落ち込んでいたのをよく覚えてあらそういえばもう卒業したんでしたっけそれなら卒業式はどうしたんだったかしら」
いつものようにほっぺたに片手を当てて考えている……いつものクセ。
だけど今はずーっとひとりで話し続けていて、たぶん自制が効かなくなっていて、だからぜえぜえと言いながら呼吸を整える間もなく続けている。
ぽたぽた垂れている汗は、きっと暑さのせいだけじゃなくって。
「お母さんの代わりにきっとどなたかがあぁたしか親戚のお名前を忘れてしまったわねでもきっと響くんにあとで聞けばあら女の子なんだから響くんはおかしいわよねそういえばなら響ちゃんかしらいえでもやっぱり響くんよねみんなもそう呼んでいるんだしだって響くんだものね響くん響ちゃんんんどっちだったっけねぇひびきくんかなそれともひびきちゃんかな?」
「飛川さん、すみません。 聞いてください」
声をかけるとぴたっと話すのを止めて僕に意識を向けているのがわかる。
当然視線は合わせないから予想でしかないけど。
でも止めないとなんだか危なさそうだし。
あと声がとってもつらそうで。
話している内容は支離滅裂……いや、今と昔の記憶がごっちゃになっている?
だって僕の呼び方とか母さんたちのこととかわけわからないことになってきているしな。
でも大きめの声で話しかけた僕の呼びかけには反応する、と。
注意を向けている様子ではある。
だったら。
「飛川さん。 ……僕、このとおり遠出をしてきたところで」
くるっと回ってみる。
あいかわらず目を合わせてはいないけどどうやら僕のことを見てはいるらしい。
だってわざと傾けた髪の毛とかに注目しているし、手に取ってみれば手のひらを見ているみたいだし。
女の人ってアクセサリー、アクセだっけ……それ1個にも敏感に反応する生き物だからかな。
完全におかしくなったわけじゃないみたい……なら。
「今日はもう、とっても疲れているんです。 また……今度でも良いでしょうか。 ほら、買ってきた食材、冷蔵庫。 入れないと大変ですし」
僕の髪の毛のふわっとした先を眺める形で口も目も空いたままで静止することしばし。
……緊張感がすごい。
なんというか全身に力が入りっぱなしって感じだ。
僕も、目の前でおかしなことになっている奥さんも。
と、体の力が抜けたようになったと思ったら急にしゃきっとして、いつのまにか悪くなっていたらしい顔色も一気に明るくなってきて……顔に笑顔が戻ってくる。
最後に焦点が僕と、僕の目とぴったりと合ってやっと普段通りになる彼女。
そんな彼女のひたいにはびっしょりとした汗。
それを今になって気がついたように拭っている。
ごしごしと……くしくしって感じの仕草もやっぱりお姉さんってしか見えないな。
経産婦なお姉さん……おっとお隣さんな奥さんが目をこすりつつ苦笑している。
「あらいやだ。 響くん、ごめんなさい? こんなに話し込んじゃってたみたいで」
きょろきょろと門の外のほうを見回す、いつもどおりに戻ったように見えるお隣さん。
この人が……最後のほうはそこそこに大きな声でひたすらに話していて、途中で盛大に苦しい感じのセキとかもしていたっていうのに、通りがかっていたはずの誰ひとり声すらかけてこないなんて。
「私ったらおしゃべりに夢中になって気がつかなくって。 響くんは長話嫌いなのに、それにそんなに重そうな荷物ですものね、疲れているのに引き留めちゃってごめんなさい」
「い、いえ」
……普通の、慣れているこの人の話し方に戻っている。
「でも私、響くんの元気な顔、久しぶりに見ることができてほんとうに安心したわ! 響くんが元気だって、心配されているご近所の方たちとか娘や夫にも伝えておくわね?」
「え、えぇ……ありがとうございます」
とっさにあいまいな返事を口にしてから「なに伝えるんだろ」って思った。
「とにかく『響くんがかわいくなっている』の、ばっちり伝えておくわね? それじゃまたねっ」
「え、あの」
普段通りのせわしなさでさっさかと行っちゃった。
やっぱり女の人って人の話、聞かないよな。
ぶるっと身震いしてぐっしょりと汗をかいていたのを思い出した僕。
ずっと立っていたのと緊張の走る場面をくぐり抜けたのと今日の疲れのみんなが……どっと押し寄せてくる。
いつものように腕を上げてドアノブをひねってやっとのことでドアを開けて、買ってきたものやらリュックやらをずりずりと家の中へ引き込む。
脚を見る。
がくがく震えている。
よく見れば手の指先までが真っ赤になって震えている。
「………………………………」
今のもきっと、魔法さん……の仕業なんだろうなぁ。
髪の毛だとかハサミだとかそんな僕だけに起きるようなことじゃなくってとうとう……とうとう周りの人へも……僕の思い込みとかそういうのじゃなくって目に見える形で、現実に影響を及ぼすものになっちゃってるんだ。
一体いつからなんだろうな。
……多分気がつかなかっただけで、たまたま運良くこうならなかっただけで。
きっと、あの朝からずっとなんだろうな。
だって見知らぬ女の子になっちゃってるんだもんな。
「ぅぁ――……」
こういうときくらいは肉体年齢と性別相応の声くらい出しても……良いよね。
◇
この魔法さんが起こしている事態を整理し直しだ。
まずはひとつめ。
この体について。
会ったこともない少女または幼女……いややっぱり少女の体になったことが発端だけど、これについては夏休みとかにアルバムとか古い写真とか手紙とかを総当たりしてみたけど、親戚の誰にも、そこに写っていた知り合いの誰にも似ていないことが確認できている。
……この体の幼女との入れ替わりだったっていう可能性は今のところは除外しておく。
考えはするけど無駄だしな……世界中のローカルニュースまで回る体力ないもん。
どうしてよりにもよってこの姿とこの顔とこの髪の毛になったのかは今でも不明なまま。
不明だけど、ほぼ100%僕に縁のある人じゃないってわかったという収穫もある。
……春までの僕の体とこの子が入れ替わってるとかいう可能性は、僕ひとりじゃ調べることもできない以上考えてもしょうがない。
ふたつめ。
見た目を変えられないことについて。
これは髪の毛を切ったときだけに起きるってはっきりしてる。
10回以上いろいろ試したからな、これだけは確実だ。
髪の毛を切って良いのは、前と横は3センチ、後ろは5センチまで。
たしか人って1ヶ月で1センチ髪の毛伸びるって言うし、普通の散髪の範囲なら魔法さんも良いよって言ってるんだろう。
夏休み、かがりのお守りもとい勉強会でお邪魔してたときに襲われてリボンとかゴムとかで髪の毛を結わえられたり編まれたりしたし、カチューシャとかその他もろもろをつけられたこともあった。
あの子って本当にかわいいに夢中だよなぁ……。
とにかくそういうので見た目を変えられたりしてもなんにもなかったから、その程度じゃ魔法さんの逆鱗に触れたりはしない様子。
みっつめ。
さっきのだ。
あれは……あの魔法は、あの魔法さんが起こした何かは、僕を見た人の認識を操っている……そういうものだって推測できる。
だってお隣さん、飛川さんは言っていた。
この姿の僕を外から見かけたときから僕なんだって……思い込んでいるって。
そんなの、このちっこい女の子を見て僕だって思うはずがないのに。
……この銀色のまつげと薄い色の瞳な顔を見ても「僕」を「僕」だって、理解していた。
お隣さんは前の僕と明らかに違う今の僕を疑いもせずに同一人物だって認識して……そのまま前の僕と話すように今の僕と話していたんだ。
あれが魔法さんのせいでって以外に何があるんだ。
あのときの彼女はまるで操られているって言うか夢遊病みたいになってたって言うか半分寝ている感じっていうかお酒で頭がマヒしているっていうか、それのひどい状態になっていて……目は明らかにおかしくって表情もなくなって立っているのがやっとって感じになっていて……思考は乱されて混乱していた。
まるで真逆のことを一気に左右から同時に言われたような……思考自体は正常なまま情報を処理できない感じ?
そういう矛盾した考えがとめどなく頭の中で広がって口から吐き出されていたようなわけ分かんない感じになってた気がする。
しかもあそこまで大変なことになっていたのに通行人の誰ひとりとして奥さんの様子に気がつかなかった。
最後の方はきっと道にまで声届いていたはずなのに。
話を切り上げようってして話題を変えたとたんに、急に……何ごともなかったかのように元どおり。
あの「ふと話しすぎたのに気がついた」って感じを見るに、意識がおかしくなっていたことについて自身でおかしいのに気がついているっていう自覚はなさそうだった。
……さっきの魔法さんの仕業。
他の人に気がつかせないようにするっていう働きもある…………っていうこと?
魔法さんは同時にいくつもの魔法を扱うらしい。
ひとつは今の僕と前の僕をおなじ存在だって認識させる力。
もうひとつは前の僕を思い出そうとするときに前の僕の、のっぺりしていた僕の姿を思い出させないようにする力。
あとはおかしな状況だって……たぶん僕以外に気がつかせないって言う力。
さっきの魔法が働いているのはハサミさんほどじゃなくてもすぐにわかりそう。
だって表情も目も明らかに変わるし話すのも止まらなくなるしな。
だけどこれは……もしかすると。
「ふぁ……」
心持ち多めにぎりぎりまで注いでこくんと一口。
のどの奥にまで染みわたるおいしいアルコール。
この瞬間だけは至福だ。
シャツ1枚の女の子がお酒で恍惚としてるって言うとんでもなく危ない絵面だけど。
お酒に支えられた僕は決心する。
……明日、外に出て確かめよう。
最初はこわごわ、だんだん慣れてきて忘れかけていたところにこれだもん。
この魔法ってのはたぶん、きっかけがないと気づくことすらできないもの。
だったら今、もしかしたらっていうのも確かめておかないと危ないんだ。
これがもし……もし、あの子たちと一緒のときに気がつかないで起きちゃったら……僕はどうしたらいいのか、もうわからないもん。
「こくこくこく……」
……お酒。
今夜はちょっぴり苦い気がする。
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