第9話 女の試練、男の試練4

 

 生理が始まってから三日目。

 ようやく鎮痛剤を飲まなくても大丈夫になった。

 二日目もなかなか薬が効かず、仕事を休んでしまったのでだいぶん痛みがマシになった今日はやっと出勤することができた。

 しかしやはり体がだるく、慣れない仕事ということもあって普段とは違う疲労感がどっしりと体の奥に居座っている気がする。

 疲労でぼんやりしていたので、いつも通り自分の家の方に向かおうとしていて、慌てて方向転換する。

「ただいまぁー」

 柴村さんの家に帰ると、うまそうな甘辛い匂いがして腹の虫が鳴る。

 リビングに繋がるドアを潜ると、より強く甘辛い匂いがして空腹がこれでもかと刺激されまくった。

「おかえりー。晩御飯カレイの煮付けにしたんだけど食べられそう?」

「わー! うま……おいしそう!! 食べ、ます!」

 ついつい反射でいつもの雑な言葉遣いになりそうなのを何とか軌道修正する。

 お母さんが少し怪訝そうな表情を浮かべているが、ニコニコと笑って誤魔化した。

「体の方はどう? 落ち着いた?」

「うん。色々とありがとう」

「なぁに、急にお礼なんか言っちゃって」

 お母さんは照れくさそうに笑いながらカレイの煮付けを皿に移す。

 いや、鎮痛剤で大体の痛みは抑え込まれたが、体験したことのない痛みに絶望していた。

 お母さんが「入れるならお風呂入って体温めなさい」とか「薬飲んで一眠りすれば多少良くなるからさっさと寝ちゃいなさい」とか「夕飯はおうどんかにゅうめんにしておくわね」とか先回りして色々と世話を焼いてくれたおかげで事なきを得た。

 うちの母さんもだが、体調不良の時の母親の機動力本当すげぇ。

「ご飯は自分で好きな量よそいなさいね」

「うぃーっす」

 気をつけているつもりだが、気を抜くとついついいつもの自分の口調が出てくるので、慌ててなんでもなかった様に誤魔化す。

 手を洗ってご飯を盛るのだが、これまた量に悩んだ。

 いつもの自分なら迷いなく大盛りにするところだが、ここ数日柴村さんの体で過ごしてみて気付いたが、入る量が思ったよりも少ない。

 いつも食べている量の半分くらいで腹が膨れるので、最初はショックを受けたがしばらくして今は柴村さんの体だからだ、と気付いて胸を撫で下ろした。

 母さんや環の食事量を見ていてそれで足りるのかと思っていたが、全然足りる。

 これだけでお腹いっぱいになるのだから、量が食べられるよりも質が高くて少ないものを食べたいと言う女性心理をやっと理解した。

 空腹度合い的には山盛りしにしたい気持ちを抑えに抑え、常識的なご飯の量を茶碗によそう。

 ご飯をよそっていると玄関からガチャガチャと鍵を開ける音がした。

「あら。おかえり」

「ただいま」

 作業服姿のお兄さんがリビングに入ってくる。確か工務店勤務らしい。

「ご飯は?」

「食べる。着替えてくる」

 お兄さんは最低限のことしか喋らない。

 寡黙で体格もでっかくて岩みたいで、めちゃくちゃかっこいい。

 着替えてきたお兄さんは派手な絵柄のアニメのTシャツを着ていた。好きなものがよく分かっていい。

 お兄さんが自分の分のご飯をよそうと、一度冷蔵庫に寄ってから席に着いた。

 お兄さんの席にはビールのロング缶が置かれている。

 仕事終わりはやっぱりビールですよね! 分かる!

 バタバタしていたり体調不良もあって数日飲めていなかったが、今日は慣れない仕事をして久しぶりに疲れたので俺もビール飲みたくなってきた。

「……どうした」

 俺があまりにもビールが飲みたすぎてお兄さんをじっと見つめ過ぎていたようで、お兄さんがやりにくそうにこちらに問いかけてきた。

「え!? あ、いやー、おっ……私もビール飲んでみたいかな~って」

「えっ」

 俺の言葉にお母さんが驚いた声を上げ、お兄さんはこちらを観察するようにじっと俺を見つめていた。

「あんたがお酒飲むなんて、なんか嫌な事でもあったの?」

 お母さんが心配そうに問いかけてきた。

 どうやら柴村さんはあまりお酒を飲まないらしい。当たり前だが交流のあった高校時代はお互いお酒は飲めなかったので知らなかった。

「えっと、お、お兄ちゃんが美味しそうに飲んでたから飲んでみたいなぁって」

 まさか今は中身が別人ですとは言えないので、苦し紛れの理由を答える。

「お兄ちゃん分けてあげたら?」

 お母さんが心配そうにお兄さんに提案すると、お兄さんはお母さんの提案に頷いて新しいコップを取りに行ってくれた。そして自分の飲んでいた間からビールを注いで渡してくれる。心配しているのか、心なしか量が少なめな気がした。

 いや、ロング缶一本くらいは平気で空けられます、と声を大にして言いたかったが、お母さんとお兄さんの親切心を無碍にする事もできず、大人しくビールの入ったコップを受け取る。

 久しぶりのビールに喉が鳴る。

 酒がないと生きて行けないわけではないが、夕飯には毎日一本は開けていたし、飲み会は誘われたら行く。

 ここまで酒を飲まなかったのは久しぶりだ。

「いただきます!」

 俺がビールを飲む様子を、お母さんとお兄さんが固唾を飲んで見守っている。

 コップを傾けてビールの匂いが鼻の奥に抜けた瞬間、少しだけ違和感がした。

 久しぶりに飲むからか? と少し疑問に思いながらもビールを一気に喉へ流し込む。

「ぷはぁ!」

 一気にビールを飲み干し、口から鼻へ抜けるアルコールの香りと、喉を通っていく感覚に満足感を得る。

「だ、大丈夫?」

 お母さんが恐る恐るこちらの顔色を伺ってくる。

「え? はい」

 おかわりはやはりダメだろうか? などと考えていると、なんだか頭がくらくらしてきた。

「はれ?」

 全身がふわふわしてきて、呂律が回らなくなってくる。視界がグラグラしてきたかと思うと、やがて世界がぐるぐる回る。体の内側の温度が急上昇し、心臓がドコドコと暴れ始める。

 いろんな感覚がごちゃ混ぜになって、気持ち悪い。

 ついには平衡感覚と意識がなくなり、机に突っ伏してしまった。

「結子―!」

 遠のく意識の中、お母さんの声が響いた。

 


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