第6話 女の試練、男の試練1
翌朝、時間に余裕を持って起き、身支度を整える。
昨日の吉鷹晶からの電話でブラジャー問題の話があったが、私は朝に髭を剃るという初体験をしている。
吉鷹晶はそこまで毛深くはないが、やはり朝起きると少し髭が生えていた。
髭剃りの経験は無いが、顔剃りの経験ならあるし、一応眉毛だって定期的に整えているので、まだ対応可能な案件である。
そしていつもならカジュアルな服装で出勤するのだが、今日はスーツに袖を通す。ネクタイの結び方が分からなくてググったけど、なんとか体裁を整える事ができたと思う。
リビングに降りるとお母さんが用意してくれた。お父さんはスーツ姿で新聞を読んでいる。
「おはよー。調子はどう?」
「あー、うん。昨日よりはマシ」
「働き盛りだからってあんまり無理はするなよ~。体あってこそだからな」
「うん」
昨日から思っていたが、家族もテレビドラマから出て来たかのような良い人たちである。どっかでカメラ回ってる? とすら思う。
吉鷹家の朝食は和食派らしい。脂の乗った焼き鮭の香りが空腹を刺激する。
「いただきます」
手を合わせてまず味噌汁に手を付けた。出汁が効いてて美味しい。
朝ごはんを食べてほっこりしていると、吉鷹妹こと環ちゃんが起きてやって来た。
「おはよー……」
美人は美人に変わりないが、普段はコンタクトなのか黒縁メガネをかけ、長い髪は無造作にまとめ上げられている。すっぴんでも肌はツヤツヤで思わず見とれてしまいそうになった。
昨日は鉄壁美人だったが、美人のゆるりとした姿はそれはそれでかわいい。
「環は今日休み?」
「そう~。お陰で昨日兄貴が買って来てくれた同人誌夜通しで全部読めた~……」
お母さんに問われて、環ちゃんは答えながらも眠たそうな目で幸せそうに笑っている。
昨日購入していた同人誌はそもそもが結構な量で、小説もあったので読むのには大分時間がかかっただろう。
私も昨日吉鷹晶に持って帰ってもらった同人誌を早く読みたい……と自宅の同人誌へと想いを馳せた。
***
女って大変だ。
母や妹と一緒に住んでいるので何と無く察する場面はあるが、見ているのと経験するのとでは全く違う。
まず、体力の差を感じた。
いつもの自分の体なら、なんて事ない荷物でもすぐに腕が疲れる。それに夕方になるとなんとなく足もだる重い。
自分が送っていた日常生活とはかなりの違いを感じる。
男の自分よりも力や体力がないという事は理解していたつもりだったが、まさかここまでとは思わなかった。
季節は秋に入り始めていて確かに寒いが、柴村さんの体に入れ替わった今は段違いに感じる。指先や足元が冷えて寒いし、寒さ知らずの自分の体とは全然違う。
母や妹が夏の冷房下でも膝掛けや羽織ものをしていたことを思い出した。
ブラジャーだって人生で初めて付けたが、正直息が詰まる。聞けば外出時には必ず付けているとのことなので、息苦しく無いのかと心配になった。
そして次は化粧だ。柴村さんにはしなくても良いとは言われたが、そうもいかないだろう。今日は許してもらうにしても、できる限り身なりは整えてあげたい。
妹の環が百貨店の化粧品売り場で勤めていて、化粧をせずに外に出るのは無理、と言っていたので、女性にとって化粧をせずに外に出るのはあまりしたいことでは無いと感じている。
今日は時間もないのでマスクで誤魔化した。出勤するバスの中で化粧について軽く調べてみるが、聞きなれない単語ばかりでちんぷんかんぷんだった。
目の際に線を引く行為とか、いつ瞬きをすれば良いのだろうか。というか、まつげの間を埋める様に、とか書いているが、ペン先が目を突いたりしないのかハラハラしてしまう。
柴村さんの仕事は高校の事務ということで朝はかなり早い。
朝早いのにきちんと準備をして毎日会社に行っているとか本当すごいな。
いつもよりも早起きなのと化粧の仕方を調べていたせいで少しうとうとしてしまったが、最寄りのバス停で乗り過ごす事なくなんとか降りれた。
「おはようございまーす」
事前に聞いていた事務室に向かう。部屋に入って一番手前の席が柴村さんの席らしい。柴村さんは俺と違って大人しそうなので、柴村さんを意識して挨拶してみる。
すでに出勤していた人達から挨拶が返ってきた。
当たり前だが、職場が違うと雰囲気がガラリと違う。
うちの職場は男ばっかりで暑苦しいが、柴村さんの職場は男女比が半々で、淡々としている様に感じた。すごく静かだ。
いや、学校の事務室がうちの職場の様になってたら暑苦しいな、と自分の通っていた学校の事務室の様子を思い出す。
仕事に手を抜くつもりは全く無いが、自分が机に座っての事務作業がそもそもあまり向いていない事は分かっている。
寝て醜態を晒す様な事はするまい、と心に固く誓った。
その日の仕事内容は柴村さんから簡単に説明された文章が送られてきていたので、特に問題なく進められた。
不安に思っていた睡魔も慣れない職場での緊張からか、来る暇もなかった。
しかし、本当に大変だったのはこれからだった。
異変を感じたのは昼前だ。
なんか、下っ腹に違和感というか、なんとなく痛い気がする。
「すんません、ちょっとトイレに行ってきます」
隣の席の女性に声を掛けてから離席する。
朝は柴村さんのお母さんが用意してくれていたホットケーキだった。それとヨーグルト。特に腹を壊しそうなものではなかったのだが、体が入れ替わった関係で何か異変が生じているのかもしれない。
授業中で静まり返った廊下を小走りで駆け抜ける。
個室トイレに入ってズボンを下ろした時、俺は情けなくも絶叫しそうになった。
***
「つ、疲れた……」
予想していた通り、吉鷹くんの仕事はめちゃくちゃ精神を削られた。
事務の仕事も完全に自分のペースでできるわけではないが、営業の仕事は次元が違う。
それに、瞬発的に人の話したことを理解して返事をしなければならないことが苦痛でしかない。
しかも知らない商品について。
一応吉鷹晶に事前情報をもらっていたが、とてもじゃないが情報の全部は覚えられないし、プロの様に応えることはできない。
だってまごうことなき素人だし。
しどろもどろ応える私もとい吉鷹晶の姿に、お客さんは怪訝そうにしていた。
今日はなんとか誤魔化したが、(誤魔化せたと思いたい)これが一ヶ月も続けられるのか、初日から不安しかない。
「おい、吉鷹、お前大丈夫か?」
隣の席の人が話しかけてくれる。
確か、美山さん。
吉鷹晶に負けず劣らずの爽やかイケメンである。筋肉が付きやすいのか、それとも筋トレがご趣味なのか、とにかく筋肉がすごくて特にスーツの胸元がぱちんぱちんだ。ちょっとした拍子でボタンが弾け飛ばないか心配になる。
美山さんはものすごく心配そうにしているが、標準装備なのかどうか知らないが、少し掠れたウィスパーボイスがとんでもなく色っぽい。男だが、色っぽいのである。
こんなの目の当たりにされちゃ二次元に封じ込めし私の腐女子が騒ぎ始めるだろ。なんでよりにもよって吉鷹晶と美山さんを隣の席にしちゃったんだよ。やめてくれ。まだ現実で人権を失いたくない。
「なんか今日様子がおかしいし、いつものお前らしくない。体調悪いんじゃないのか?」
同僚に対する普通の気遣いだとは分かるが、どうやっても怪しく感じてしまう私はどうかしている。
あれだ、男と女がいれば必ず恋に発展すると思ってる中学校二年生のポンコツな恋の方程式的な。
見目のいい男がいれば何かが始まってしまうと仮定してしまう私の腐女子方程式も大概ポンコツだが。
「あー……ちょっと疲れてて……」
そろそろこれしか言えないのかと怒られそうだが、これしか言えない。だって実際疲れてるし。いっそのことインフルエンザとかに罹って堂々と出勤停止になりたいくらいだ。
しかし悲しい哉。元気だと罪悪感がすごくてズル休みなんてできない。
「あんまり無理するなよ」
これ以上突っ込んで聞いても仕方ないと思ったのか、美山さんは眉間にシワを寄せながらも引いてくれた。
はぁ、と小さくため息をついていたら、胸ポケットに入れていたスマホが震えている。
発信者は「吉鷹晶」だ。
「……もしもし」
席を立ち、人気のないところを探しながら声をひそめて電話に出る。
『やばい』
予想以上に深刻な吉鷹晶の声に息が止まる。
「何があったんですか」
人気のない廊下で立ち止まって問いかけると、電話の向こうの吉鷹晶は絞り出す様な声音でとある事実を告げる。
『もしかしてこれって生理か……?』
吉鷹晶の言葉に、全身の血の気が引いた。
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