第4話

 夏季休暇というのは、あくまでも形式上のスケジュールに過ぎない。

 そんなことは社会人になってからの2年間で学んでいたはずなのに、今年は完全に油断していた。夏休み5日目の今日、僕はスーツを着ていた。

 原因は、春先まで関わっていたプロジェクトのトラブルだった。僕が関わったのはシステムの開発までで、保守を引き継いだ後輩から泣きのチャットが届いているのに気づいたのは、この日の朝だった。

 どうせなんの用事もなかった僕は、すぐにスーツに着替えて、後輩が働く現場まで駆けつけていた。


「すいません。お休みなのに呼び出しちゃったりして」


 後輩の吉岡が常駐する現場近くの定食屋で、僕たちは向かい合って座っていた。

 トラブルと思われたのはシステムの仕様が原因で、あっさりと解決して今はほっとした空気になっていた。


「全然。むしろ引き継ぎが甘かった僕の責任だと思うし」

「いやいや、ちゃんと資料確認してなかった自分が悪いんすよ」


 僕たちはしばらく「いやいや」と譲り合った後、吉岡が「そういや」と話題を変えた。


「青木さん、今日は予定とかなかったんすか?」

「あったらわざわざ来ないよ」

「確かに、青木さんって休みの日もずっと家でパソコンと向かい合ってそうっすよね」


 こういうことを嫌味じゃなくて言えるあたりが吉岡のすごいところだ。いかにもプログラマの集まりみたいなうちの会社で、吉岡は貴重な存在だった。


「別にパソコンと向き合うのが好きなわけじゃないけどさ……」


 どうせやることもなくて、結局パソコンをいじってばかりなことは否定できない。

 すぐ真横に設置された大きな窓からは、外の景色がよく見えた。メラメラという音が聞こえてきそうなほどの眩しい日差しがアスファルトに照りつけている。そんな中を、スーツケースを引いた子供連れの家族が通り過ぎて行く。両親の間を歩く男の子のはしゃぐ声が窓越しに聞こえてきそうなほどだった。

 それなのに、今僕の目の前に座っているのは、エアコンの効いた店内で涼しそうにしているスーツ姿の同僚の男だ。


「いつから夏ってこんなつまらなくなったんだろうな」


 自然と、そんな言葉が口から溢れていた。

 吉岡は意外そうに目を丸くした。


「青木さんって、そういうこと言う人だったんすね」

「ごめん、変なこと訊いた」

「いや。分りますよ、言いたいこと。真面目な話、夏休みがなくなってからっすかね」


 言葉通り、真面目な調子で返ってきたから驚いた。


「吉岡って、今でも『夏イエーイ』みたいなタイプかと思ってた……」

「なんすかそれ。そりゃ、今でも夏は好きな季節ですよ。けど、なんていうんですかね……」


 吉岡は視線を窓の方に移した。そこに、さっきの親子はもういない。

 途切れた言葉の先を吉岡は続ける。


「もう特別感はないっすよね。毎日毎日クソ暑い中、早く秋になれって思いながらシャツを汗で濡らしながら出社してますもん」


 吉岡は水の入ったグラスを持ち上げると、手持ち無沙汰そうにそれを眺めた。カラン、と手の中で揺らすと、底に溜まった結露がテーブルに垂れた。

 テーブルに落ちたその水滴から、僕は目を離せなかった。


 ◇


 僕のお婆ちゃんの家は、福島県にある。

 お盆の時期には必ず遊びに行っていて、それが僕の毎年の楽しみだった。

 そこに住んでいるのは、お母さんの方のお婆ちゃんとおじいちゃんだ。お父さんの方のお婆ちゃんの家は神奈川にあるから、あんまり特別感がない。もちろん、どっちのおじいちゃんお婆ちゃんのことも好きなんだけど。

 福島のお婆ちゃんの家は、たくさんの自然に囲まれている。お盆に集まる時はいつもいとこたちも一緒で、みんなで毎年少しずつ家の周りの探検を続けている。

 この日も、いとこの優花と大樹と一緒に近所を散策していた。近くのお家はどれも大きくて、少し歩けば山があったり川があったり、僕の家の周りとは全然違う。お婆ちゃんの家の近くの風景は、ただ歩いてるだけでもワクワクする。

 おばあちゃんの家から離れて山の麓の近くまで来た時、急に大樹が「あ、あそこ!」と、指を差しながら叫んだ。


「え、どこどこ?」


 興味津々で優花が指の先を追った。


「ほら、あの茂み。絶対いま動いたって!」


 大樹は「急ぐぞ」と山の方に向かって走り出す。大樹は僕たち三人の中で一番の年上だ。それに続くように優花も走り出して、僕も慌てて「待ってよ」と追いかける。

 だけど、活発な二人の足には追いつけない。僕はあっという間に二人の姿を見失ってしまった。


(どうしよう。ここまでの道もちゃんと覚えていないのに)


 僕は途方に暮れて、大樹と優花の名前を呼びながら辺りをさまよう。二人は山の中に入ったみたいだけど、深くまで行ったならいよいよ追いつけなくなってしまう。

 僕は半分泣きそうになりながら、山の麓の目の前で足を止めた。目の前のこの山は、たくさんの木が集まって不気味に佇んでいる。


(やっぱり、もう帰ろうかな……)


 そう思って、山から背を向けようとした時だった。


「なにメソメソしてるの?」


 そう言って声をかけてきたのは奈津希さんだった。

 見慣れた顔に、僕は少しほっとした。


「だって、大樹も優花も勝手にどんどん進んじゃうから……」

「そんなの青木くんがどんくさいからでしょ」

「そんなこと言われたって……」


 そもそも体育の授業だってみんなの足を引っ張ってばっかりなのに。年上の大樹と優花に、僕がついて行けるはずがないんだ。

 奈津希さんは大げさにため息を吐いてみせた。


「言い訳なんかしてるから二人に置いていかれるんでしょ。ほら、さっさと行く」


 奈津希さんは無理やり僕の手を引いて、山の中へ向かって歩き出す。二人を探しに行かなきゃいけないのは分かっているけど、一人では絶対に怖くて入れない場所だった。

 それでも、奈津希さんが一緒にいてくれるなら……。

 僕は手を引かれるまま、けもの道をかき分けて山の中に入っていく。一歩中に踏み入れると、周りの温度が少し下がったような感覚がした。

 右を見ても左を見ても、空を見上げてみても視界いっぱいが木々で埋め尽くされている。


「わぁ……」


 僕は思わずため息を漏らしていた。

 外から見た山は真っ黒な大きな塊みたいだと思っていたけど、中から見る景色は印象とまるで違う。

 葉と葉の隙間から木漏れ日が差し込んで、光と影で幻想的な空間が広がっていた。


 ◇


 気づけば足を止めていた。

 灼熱の太陽が照りつける中、僕は歩道の真ん中に立っていた。直前の記憶が少し曖昧だ。一瞬、意識を失っていたのかもしれない。

 目の前の景色が、曖昧にゆらゆらと揺れている。蜃気楼なのか、僕が目眩を起こしているだけなのかは分からない。

 落ち着いて、ここまでのことを思い出す。吉岡の現場を手伝い終わって自宅に帰る途中、最寄駅を降りてからの道を歩いているはずだった。


(熱中症にでもなりかけてたかな)


 ほんのさっきまで、なにか懐かしい記憶が頭をよぎっていた気がする。それはまるで走馬灯のように。

 記憶を手繰り寄せる。

 そうだ。頭をよぎったのは、毎年お盆の頃に遊びに行っていたお婆ちゃんの家。最近では少し遠ざかってしまっているけど、今でも大好きな場所だった。

 お盆に帰省をすると、いつも顔を合わせるいとこの大樹と優花。歳も上で活発な2人に、僕はいつも置いていかれていた。

 だけど、僕がまだ小学校の低学年くらい頃、一度だけそんな2人に追いつけたことがあった。

 お婆ちゃんの家の周りを探索している途中、大樹と優花は、なにか生き物の影を見つけて山の中に消えていった。その頃の僕にとって山はとても怖い場所で、2人を追いかけて行くことなんてできるはずがなかった。

 そんな僕の手を引いて連れていってくれたのは奈津希さんだった。手を引かれるままに山の中を歩き回って、ついには二人に追いつくことができたんだ。

 思い出したのは、そんな古い思い出だ。その懐かしさに少しだけ胸が痛んで、それから一つの違和感を抱いた。


 ……奈津希さん?


 暑さで頭がうまく働かない。どうして奈津希さんが福島の家に現れるんだろう。親戚でもない人間が、あの集まりの中にいるはずがないのに。少し考えてみても、それらしい理由は浮かばない。

 頭がぼうっとしている。今は家に急がないと。

 僕は一度考えるのをやめて、家までの道のりを急いだ。

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